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n(えぬ)週遅れの映画評〈10〉『ミセス・ハリス、パリへ行く』──すべてをひとつに、縫い上げて。|すぱんくtheはにー

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※本記事には『ミセス・ハリス、パリへ行く』(2022)の結末についての情報が含まれます。

文:すぱんくtheはにー

 「n(えぬ)週遅れの映画評」もついに10回目……ということで、noteからの転載ではなく書き下ろしのスペシャル回です!

 何がスペシャルなのかというと、これ、普段はあまり取り上げないタイプの作品なんですよね。いつもならどこのシネコンでもやってるような邦画とか、劇場アニメの話をすることが多いんだけど、今回の『ミセス・ハリス、パリへ行く』はいわゆる「単館系の洋画」なんです。こういうのもできるんですよ!

 あらすじをざっくり話すと、1957年のイギリスでハウスキーパーをしている初老の女性ハリスがある日、仕事先で一着のドレスに心を奪われる。それがあの「ディオール」──クリスチャン・ディオールのオートクチュールだったのね。

 1957年といえば第二次世界大戦が終結してからまだ10年ちょっとで、当時のヨーロッパの階級格差はいまよりだいぶ大きい。だから労働者階級のハリスにとってディオールの服なんて本来、まったく縁のない代物だった。それでも彼女は必死にお金を貯めて、パリにあるディオールの店を訪ねて憧れのドレスを手に入れようとする。最初は門前払いに近い扱いを受けるんだけど、真摯にドレスを愛する彼女の姿に感化された従業員たちのはからいで「ヴィーナス」と名づけられたドレスを手にすることになる……っていうお話。

 これだけだとまぁ、ほっこりキラキラ系の作品に思えるじゃない? もちろんそういう側面もあるんだけど、それを当時のフランス社会の情勢と流行の思想、そしてそこから導き出されるハイブランドの変化のきざしとうまく組み合わせることで、めちゃくちゃ骨太の作品に仕上がってるんですよ!

目次

「いまは労働者が王様」

 ハリスが貯めたお金を持ってようやく花の都パリに到着すると、なんか様子がおかしい。想像してたようなきらびやかな世界じゃなくて、すっげー不穏な空気なんですよ、街全体が。薄暗いし、デモとかやってるし、街中ゴミだらけだし……。というのもハリスがやってきたとき、フランスでは大規模なデモとストライキが行われていたんですね。「労働者の権利を認めろー!」「認めろー!」って感じで。

 それを横目に見ながらハリスはまず教会に向かう。ドレスの代金で貯金を使い果たしちゃうから、ホテルに泊まるお金なんてないわけですよ。それで教会にいた浮浪者から「いま街はストライキの真っ最中だよ」って教えてもらうんですけど、そのときに語られる「いまは労働者が王様さ」っていう言葉。これがね、この作品を見るうえでめちゃくちゃ重要な意味を持ってるので、覚えておいてください。いいですか? 「いまは労働者が王様」なんです。

パリに到着したハリス
©2022 Universal Studios

 そんなこんなでハリスがディオールの本店に行くと、そこではお得意様に向けた新作の発表会が行われている。ハリスは正直にいって、見るからに貧しい格好をしてるわけですよ。小綺麗ではあるけど労働者階級だからね、それは仕方ないんですけど……。まぁその時点でディオールとしては「勘違いしたバカにはさっさとお引き取り願おう」みたいな対応になるわけですよ。いわゆる「服を買いに行く服がない」ってやつ。

 でもね、そこでハリスは「こっちはカネもっとんじゃい!」って鞄から札束を出す。その額480ポンド、ちなみに1950年代の480ポンドはいまの日本円に換算して約250万円。それを目にしたディオールの経理主任は次の瞬間、手のひらを返して「ようこそ、マダム」なんて言いながら彼女を迎え入れる。やはりカネ……カネはすべてを解決する……。

 それというのも、当時のディオールに限らず、フランスの高級衣料品の顧客は元貴族とか豪商とかが中心なんですね。そしてそこでの取引には、信用を前提とした古い慣習がいまだに残っている。つまりは「納得できるものが納品されたときに支払う」スタイルなんです。オートクチュールのドレスなんて細部の直しを含めて数カ月、実際に着るときまで店舗預かりでもう数カ月、さらには「私が支払わないとでも?」みたいな圧をかけられて先延ばしにされてもう数カ月。下手すると1年近くは代金が回収できない。その結果、キャッシュフローが最悪な状態になってるわけですよ。

 そこに札束キャッシュをポンされたら、そりゃ「マジで助かる」ってなりますよね。

 それで、その様子をうかがっていた針子さんたちは「普通のおばあちゃんがディオールのドレスを買いにきた!」ってめちゃくちゃテンション上がるんです。ハイブランドの裁縫職だから給料はそんなに悪くはないけど、それでも「自分たちが作ったものを買うことができない」という構造のなかで働いているわけで、そのことに対する不満は当然ある。

 そんなところに、自分たちと変わらないかちょっと貧しいくらいの身なりの人が「それでもドレスが欲しい」って果敢にやってくる。それは彼女たちにとってものすごく感動的であると同時に、希望でもあるわけです。

 これまでは金持ちと元貴族のものだったディオール、それを普通のおばあちゃんが買いにくる。これって、さっき言った「いまは労働者が王様」っていう言葉を端的にあらわしてるのよ。つまりは目の前で「革命」が起きてるんだから、そりゃ同じ労働者の針子さんたちはテンションブチ上がりなわけ。

ドレスの採寸をするハリス
©2022 Universal Studios

 ここで当時のフランスの状況を簡単に解説しておくと、第二次世界大戦が終結して1946年に第四共和制が成立するんだけど、これがすごく不安定で戦後復興がなかなか進まない。独立しようとする植民地に軍事介入まで始めちゃったから国民の不満はどんどん高まって、ついに1958年に軍部のクーデターが起こる。それがきっかけになって第二次大戦の英雄シャルル・ド・ゴールが実権を握ると、圧倒的な支持を得て第五共和政をスタートさせるのね。ド・ゴールは新憲法で権限が大幅に強化された大統領に就任し、あたかも「王様」のように独自路線を強力に推し進めていく……10年後に五月革命が起こるまでは。

 だからその直前の1957年というのは、人々の政治不信がある意味ピークに達していて、デモやらなんやらでめちゃくちゃ殺伐としてる。でもこれは逆にいえば、ド・ゴールという新たな王様に回収されていく前の、普通の人たちがみずから立ち上がろうとする時代でもあった。そういう意味でもたしかに「労働者が王様」だったんです。

「ヴィーナス」から「誘惑」へ

 ハリスは持ち前の朗らかさと、いかにもイギリス人らしいシニカルさで「愛されおばあちゃん」的な人気者になっていく。そうしてついに「ヴィーナス」が完成し、彼女に手渡される……わけなんですが。そのドレスを持ってイギリスに帰った夜、女優を目指してる知り合いの女の子が着るものがなくて困っているのを見て、ハリスは自分のドレスを貸すんですよ。まだ自分は袖を通してもいないのに。

 そうしたらちょっとしたトラブルがあって、ドレスの一部が燃えて焼け焦げてしまう。女の子には怪我はなかったんだけど、苦労して手に入れたドレスがダメになってしまって、ハリスはずいぶんと落ち込むわけですよ。そりゃそうだわな。

 それでヘコみまくってフテ寝してるところに、パリから荷物が届く。不審に思いながら大きな箱を開けると、なんとそこにはディオールのオートクチュールドレスが入っている。

 ハリスのドレスが燃えてしまったことは新聞でも報じられて、パリのディオールの人たちに伝わってたのね。それから、彼女が買って帰ったのは「ヴィーナス」だったんだけど、実はいちばん気に入っていたのは「誘惑(テンプテーション)」っていうドレスだったんですよ。でも「誘惑」はとある社長夫人が先に購入してたから、ハリスは諦めるしかなかった。ところが、その社長が労働者のデモとストライキで退陣させられて、そのあおりで夫人のドレスもキャンセルされる。

 そういう紆余曲折と、ハリスがディオールの大きな転換のきっかけになったことへのお礼もあって、その「誘惑」が届けられたわけです。

「誘惑」を着用するモデル
©2022 Universal Studios

 いや、ここがね、めっちゃ良くて! さっきも言ったとおり、第二次大戦後の1957年って貴族の時代が完全に終わって「いまは労働者が王様」なわけですよ。そして「ヴィーナス」といえば愛と美の “女神” で、さらにフランスをはじめヨーロッパの王侯貴族の権力を保証していたのは神、つまりは「王権神授説」だった。王の権力は神から授けられたものだ、っていうやつね。そして貴族はその王に任命されるから、まぁその延長上にある。もちろん、ギリシャ神話の神とキリスト教の神は全然違うんだけど、とにかく人間を超えた存在、超越的な何かに支えられてたわけで、そういう意味で「ヴィーナス」は旧時代を象徴している。

 そのドレスが燃える。つまりは戦争を想起させる炎によって失われてしまう。それに代わって登場するのが「誘惑」なんですよ。どこか俗っぽい印象を与える「誘惑」という名前は、いまや神ではなく “人間” が主人公になったことを示している。つまりは戦争を挟んで人々の意識が変わり、そして世界史の主役も代わったことをドレスの名前であらわしてるんです。

 さらにドレスのデザインにも、この変化がちゃんと反映されてるんですよね。ディオールが戦後すぐの1947年に発表したコレクションは「ニュールック」って呼ばれて、なだらかな肩のラインと細く絞ったウエスト、それに大きく広がるロングスカートが特徴なんだけど、これが世界的にめちゃくちゃ流行した。でもそれは本当に新しかったからというより、戦時中の物資不足のせいでそれまでずっと禁欲的なスタイルが続いてたせいなんですよ。むしろ実際は古い貴族の時代のドレスのシルエットに近くて、エレガントで贅沢なデザインが「戦争の終わり」を象徴するものとして受け入れられた。つまり、ある意味では「リバイバル」だったんです1

ディオールの「ニュールック」(1947年春夏コレクション)
© Associations Willy Maywald ADAGP, 2020

 そして「ヴィーナス」のデザインは若干このニュールック感があるんですよね、とくにデコルテがあらわになってたり、サテンかシルクの豪華な生地がふんだんに使われてたりするところが。スカート部分が斜めに留められてるあたりは、1950年の「バーティカルライン」っぽくもあるんだけど、それでもどこかクラシカルな印象を引きずってる。

 それに対して「誘惑」はスカートがだいぶシンプルになっていて、典型的なニュールックからちょっと脱してきた感じがある。ただスカート丈はまだ長いままだから、たぶん1952年の「シニュアスライン」あたりをイメージしてるんじゃないかな。

 要するに「ヴィーナス」と「誘惑」を比較すると、戦争への反動としての「貴族の時代」のリバイバルから、より現代的なデザインへと変化していくプロセスが見えてくるんですよ。そういう意味でもハリスが「誘惑」に惹かれて、最終的にそれを手に入れるのは完璧に理にかなってるんです。

 ただ、権力の源泉が神から人間へと移ることにはもちろん副作用もあって、ブランドのある種の神聖さや神話のようなものが損なわれてしまう。それまでは特別な人しか手にできなかったものが、お金を出せば誰でも買えるものに変わっちゃうわけだから。それにさっきも言ったとおり、当のディオールで働いてる人たちの給料では、自分たちが作ってる服を買うのが難しいという問題も相変わらず残っている。

 だから「いや、“人間” のものになったって言うけど、結局は大資本家のものだし、世俗化したところでなんかいいことあるの?」みたいな疑問は当然出てくるわけですよ。あるいは「誘惑」という名前が暗示するように、今度は神に代わって資本主義が人々の購買意欲をあおって、大量消費社会に取り込んでいくだけなんじゃないの、みたいな問題もある。

 ただここで重要なのは、ハイブランドに対する考え方、あるいはそのブランド自体に織り込まれていた思想が、確実に変容を遂げつつあるってことなんです。事実としてディオールはお金持ちのためのものだし、資本主義というシステムに対する懐疑もある。だけど「買おうと思えば買える」という自由の可能性を、いまや社会の誰もが手にすることができた。そういう大きな変化を、この作品でははっきりと肯定的に受け止めている。その補助線として登場するのが、ジャン゠ポール・サルトルの哲学なんです。

実存主義としてのファッション

 えっとね、この作品には何度もサルトルの話が出てくるんですよ。実際に1950年代のフランスではサルトルの実存主義がめちゃくちゃ流行していた。そしてファッションとサルトルの思想って、ものすごく親和性が高いと思うんですよね。

アンリ・カルティエ゠ブレッソンが撮影したサルトル
© 2023 Henri Cartier-Bresson/Magnum Photos, courtesy Fondation Henri Cartier-Bresson, Paris

 サルトルの有名な言葉に「実存は本質に先立つ」っていうのがあるじゃないですか。実存とか本質とかいわれると難しく感じるかもしれないけど、これって要するに、人間は自分で自分をつくり上げていくことができるんだ、っていう話なんですね。サルトルも『実存主義とは何か』(1946)のなかで、こんなふうに書いてる。

人間は最初は何ものでもないからである。人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間がみずからつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。2

 こういう考え方って、生まれたときから貴族は貴族、平民は平民、みたいな社会では当然成り立たないわけで、まさに戦後の混乱のなかで「労働者が王様」になっていった世界と完全にリンクしてる。じゃあ、そのことがファッションとどう関係しているのか。

 ハイブランドを身につけることって、デザインや品質の良さによる満足感も当然あるけど、いちばん重要なのはそのブランドの「精神性をまとう」ことにあると思うんですよね。つまり服を着るということは、サルトルっぽく言えば、そこに込められた考え方とかものの見方に合わせて、自分自身をつくり上げていくことでもあるわけですよ。

 たとえばUNIQLOのTシャツを着るのとSupremeのTシャツを着るのとでは、それを着る人がどういう人間になりたいのか、という意味でもだいぶ違う。もちろん、ブランドの服を着たからってすぐに「みずからつくったところのものになる」わけじゃないし、たんに「そう見える」だけかもしれない。だけど、自分がどういうふうに見られたいか、見られているかっていうことも「みずからをつくる」ためのすごく大きなモチベーションにはなる。ファッションってそういう力があると思うんですよね。

 そして「労働者が王様」の時代は、自分で自分をどういうふうにつくり上げていくか=どういう服を着るか、っていうのをかなり「自由」に選べるようになっている。ハリスみたいに、これまで手の届かなかったハイブランドの服を着ることも(可能性としては、だけど)できる。というより、いまや誰もが嫌でもこの自由を行使しないといけない、なぜなら「人間は最初は何ものでもない」んだから……ね? 相性いいでしょ、ファッション(特にハイブランド)とサルトルの思想って。「人間は自由の刑に処せられている」なんて言葉も、毎朝何を着るか悩んでる現代人の話に思えてくるじゃん。

 こうやってファッションが大衆に受容されていく過程を、当時流行の思想と絡めてこれだけスマートに映像化した作品、私は見たことないですよ。すげーいい、ここ最高。

 それでね、ハリスさんがディオールの大転換のきっかけになった、ってさっきサラッと書いたじゃない? キャッシュフローがヤバくて経営が行き詰まりかけていたディオールは、このくらいの時期から「ディオールの香水」とか「ディオールのストッキング」みたいな低価格品を取り扱うようになるんだけど、そこには実はハリスの影響があった──というふうにこの作品では描かれているのね。

 低価格品を出すっていうのは、ディオールのこれまでのラインナップには手が届かない(プレタポルテですら超高級だもんね)、でもブランドに憧れている労働者たちに向けた商品を取り扱うってことだから……「いまは労働者が王様」をディオールが認めたわけです。つまり、ここではディオールという「法人」もまたハリスに感化されて、彼女がドレスをまとうように自分で自分を新たにつくり上げていくんですよ。だからこそ、ディオールの精神性が「ヴィーナス」から「誘惑」へと大きくシフトする。

 社会情勢と思想、そしてブランドの変化。これらをしっかりとひとつに “縫い上げた” 作品として、めちゃくちゃ素晴らしかったです。

あえて描かれない「その後」

 でもね、この話にはちょっと暗い続きがあって……。ちょうどこの1957年の10月に、創業者のディオールは急死してしまう。ブランド自体はそのあと若きイヴ・サン゠ローランが継いで、地位を守っていけるから大丈夫なんだけど。

 ただ、ハイブランドが低価格品を取り扱う流れはほかのブランドにも波及していって、そのなかでもいちばん経営が苦しかったグッチは、1975年から安易なライセンスビジネスに走って「グッチのマグカップ」「グッチのボールペン」「グッチのバスタオル」みたいなしょうもないグッズを販売し始める。その結果、ハイブランドが「品質とデザインを保証するもの」から、たんに「ブランド名で差別化するだけのもの」になってしまった。しかも同時に工業的な大量生産に手を出したせいで模倣しやすくなって、コピー品がたくさん出回るようになる。これが、1970年代からいまも続く「偽ブランド品」問題の発端なんです3

 でもこの作品はたぶん、そういう歴史の展開を意図的に切り離している。設定では1957年ということになってるけど、作中のファッションショーに出てくるドレスはさっきも言ったとおり1950年代前半頃のデザインっぽいし、1955年に入社しているはずのサン゠ローランの姿も見当たらない。

 映画評論家の町山智浩氏は、アンドレっていうディオールの若いスタッフがサン゠ローランをモデルにしてることを指摘してるんだけど4、そしてビジュアル的にはたしかにそうなんだけど、でも作中ではアンドレは「会計士」なのよ。つまり、19歳でディオールに見出されて21歳で主任デザイナーに抜擢される若き天才デザイナーとしては描かれていないわけ。これはだから、少なくともこの作品はディオールのその後を描くつもりはない、ってことだと思うのね。そしてそれは同時に、ハイブランドが低価格品の取り扱いを始めて、やがて偽ブランド品が氾濫していく「黒歴史」を描かないという意思でもある。あくまで「ハリス」という存在を中心に置き、彼女が自分自身をつくり上げていく、幸福をつかむ物語へと着地させることを選んだ。

ディオールの会計士のアンドレ(右)
©2022 Universal Studios

 クリスチャン・ディオールって、数あるハイブランドのなかでもその頂点に君臨するくらいの存在感があるんです。そういう意味ではすごく「王様」っぽいんですよね。にもかかわらず、というよりだからこそ、この物語はハリス個人のものとして閉じられていく。それはディオールという偉大なブランドではなく、ハリスという一介の労働者こそがこの作品世界の主役であるということ……つまり「いまは労働者が王様」を最後まで貫いている。

 このあとに起こる現実の悲劇も、いろいろな社会問題も、いまこの瞬間だけは「ハリス」という王様のために忘却される。それはきっと、素敵な映画を見ている/ドレスを着ているあいだだけかかる魔法、みたいなものかもしれませんね。

著者

すぱんくtheはにー Spank “the Honey”

原稿依頼、いつでもお待ちしております。締切厳守、いつもにこにこ修正即応。なんでも書きます、なんでも。 ご連絡はツイッターのDMか、Eメールアドレス(spankpunk888●gmail.com)までよろしくおねがいします。

Twitter:@SpANK888

note:https://note.com/spank888/

YouTubeチャンネル:Eye of the すぱんく

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脚註

  1. たとえば以下の記事を参照。「【歴史】40年代のファッション – ディオールのニュールック↩︎
  2. J−P. サルトル『実存主義とは何か』伊吹武彦ほか訳、人文書院、1996年、42頁。 ↩︎
  3. たとえば以下の記事を参照。「勢いあまって大失敗 GUCCI グッチ」High-Brands.com. ↩︎
  4. TBSラジオ「たまむすび」2022年7月26日放送。 ↩︎

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