記事一覧
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立ち去る光、立ち去る美術館──DIC川村記念美術館の諸問題|永瀬恭一
2025年3月31日、国内有数の現代美術コレクションを擁するDIC川村記念美術館(千葉県佐倉市)が30年余りにわたる営業を終えた。同館を運営する化学メーカー・DIC株式会社が東京都内への縮小移転を決めたためだ。その決定は美術関係者や愛好家のあいだに大き... -
ウィズ・ザ・ビートルズの消失──村上春樹『一人称単数』装画を読む|倉津拓也
代表作『アンダーカレント』などで知られ、寡作ながら国内外で高く評価される漫画家・豊田徹也(1967–)。 豊田は村上春樹の短編集『一人称単数』の装画も手掛けているが、そこではある謎めいた「消失」が起こっているという。 2023年11月の文学フリマ東京... -
【座談会】私たちはなぜキャラソンを聴くのか?──キャラクター文化と交差する音楽の現在地|私的音楽同好会
ポピュラー音楽のなかでも自己を表現する音楽を独自に「私的音楽」と名づけ、美学や社会学といった観点から探究している「私的音楽同好会」。アニメなどのキャラクターソング(キャラソン)もまた、キャラクターが自己表現を行う私的音楽のひとつに数えら... -
救済のパラフレゾロジー──長崎、京アニ、きみの色|てらまっと
かれこれ10年ほど前、原爆に関するフィールドワークの手伝いのために何度か長崎を訪れたことがある。平和公園や爆心地公園、長崎原爆資料館、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館といった公式の関連施設や各種の被爆遺構に加え、長崎人権平和資料館や福済寺などの比較的マイナーな施設も巡り歩いた。 -
「ギャル堕ち」の先にある自由──武田弘光から「オタクにやさしいギャル」まで|安原まひろ
現代の男性向けエロマンガに親しんでいる読者なら、おそらく誰しも「アヘ顔」や「ネトラレ」といった特徴的な表現ないしは展開に触れたことがあるはずだ。人によって好き嫌いが分かれるとはいえ、いまや定番とも言うべきこれらの要素を、キャリアの早い段階から明確に打ち出してきたエロマンガ家のひとりに武田弘光がいる。 -
ツインテールの天使——キャラクター・救済・アレゴリー|てらまっと
2011年3月11日──。あの日を境に、オタク文化もまた変わってしまったのだろうか。森川嘉一朗によれば、オタク文化は「永続する強固な日常(とその閉塞感)」の上に成立してきたが、いまや「永続する日常という基盤自体に亀裂が走っている」。また竹熊健太郎によれば、オタク的な表現は「変質するしかない」。なぜならそれは、オタクの「豊かな日常を前提としたライフスタイル」に支えられているからだ。 -
素材の手触り──新海誠作品の唯物論的構造分析|みなかみ
新海誠監督作品はこれまで、実写映画とも共通する「風景/キャラクター」という二項対立によって論じられることが多かった。だが、映画とアニメのあいだには制作プロセス上の大きな隔たりがある。実際にアニメの演出にも携わってきたみなかみが、セルやBG... -
排水口をめぐる冒険──シャフトアニメ演出論|あにもに
いくぶん唐突な問いではあるが、「シャフト演出」と聞いたとき、ただちに連想するものと言えば何だろうか。人によってはキャラクターを非解剖学的な角度で振り向かせる「シャフ度」と呼ばれる奇妙な演技の仕方であったり、実写映像やタイポグラフィなどアニメーションの中に異なる素材を忍ばせる手法であったりと、一見して風変わりな演出の数々を思い浮かべるかもしれない。 -
生誕の喜劇──アニメ『けいおん!』と日常系の臨界点|志津史比古
村上春樹は、『国境の南、太陽の西』の中で、ひとりっ子の主人公に「自分にもし兄弟がいたら」という空想を思い描かせている。いや、正確に言うならば、そうした仮想が繰り広げられそうになる瞬間に、それを制止させている。主人公は、母親から尋ねられたときに、次のような返答をしたという。 -
『君たちはどう生きるか』という悪夢──治者としての宮崎駿|noirse
平成という時代が幕を閉じて数年が経過した。けれども今でも何かが終わったとか、何かが変わったという実感はない。「平成は失敗の30年」で、「けっきょく『昭和』を清算しきれなかったネガティヴな時代」という思いがあるからだろうか。 -
加速する “JRPG” の到達点──『ファイナルファンタジー16』がそれでもムービーにこだわる理由|すみ
2023年6月に『ファイナルファンタジー16』が発売された。多くの期待と不安が寄せられた本作であるが、その評価をめぐっては大きく意見が分かれている。大手ゲームメディアサイトの平均点を算出するメタスコアでは、100点満点中87点と比較的高い点数を獲得している。 -
“首なし” たちのユートピアのために──ゴジラ・首・すみっコぐらし|杉田俊介
劇場映画第3弾となる『映画 すみっコぐらし ツギハギ工場のふしぎなコ』の映画の真のラスト、Perfumeの「すみっコディスコ」が流れるエンドロールが終わったその後に、映画のスクリーンそのものが「工場=映画館」の復活した「顔」になる、いや、「首」になるということ……