※本記事には、終末論的および黙示録的な内容が多く含まれています。気分や体調の優れない方は、フラッシュフォワード(幻覚、未来視等)を引き起こす可能性がありますのでご注意ください。
文:壱村健太
革命の全ての暴力は一人の男の人格に集中するようになったが、そのことによって革命の過程に本質的な変化が生じたわけではない。
フリードリヒ・シュレーゲル(仲正昌樹訳)『歴史の哲学』1
〈核〉神話と危機の意識
哲学者の仲正昌樹は、かつてキリスト教系の新興宗教団体「統一教会(現・世界平和統一家庭連合)」の信者であり、その当時の宗教体験を語った自伝的著作(『統一教会と私』、論創社、2020年)のなかで、次のように述べている。
文教祖は、91年11月に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問し、金日成と会談をおこなった。それ以来、「世界日報」〔=統一教会系の新聞社〕の北朝鮮に対する論調が露骨にあまくなっていった。あまいだけならいいのだが、92年にはいると、「世界日報」は奇妙な論説を掲載しはじめたのである。
文教祖が、北朝鮮が保持する核は、神の摂理に貢献していると言いだしたのだ。そうなると「世界日報」は、北朝鮮が核を保持していることを擁護しなければならなくなる。実際に、92年からそういう記事が掲載されはじめた。2
統一教会内での「人間関係がうまくいかず、ふてくされていた」仲正は、勤務先である「『世界日報』に来てもふてくされていた」。「かつては反共の旗を掲げ、北朝鮮に対してもっともきびしい論陣を張っていた新聞が、教祖の一言によって、あっという間に主張を変えてしまう。ソ連・東欧の社会主義諸国が崩壊し、北朝鮮を取りまく状況が激変したので」「北朝鮮に対するスタンスが変わるのは、ある意味で仕方のないことかもしれない」。
「しかし、核兵器の保有まで肯定するというのは、私には考えられない話だった。『こんな記事を掲載するような新聞社と付きあっていられない』と思った」「『もう、脱会してもいいかな』私はそう思った」。
なぜ、文鮮明が北朝鮮の核保有を肯定することが、10年以上にわたって信仰者であった仲正にとって、「わたしには考えられない」、信仰を放棄せざるをえないほどのきっかけとなるのかは、仲正自身が詳しく説明してくれないのでよくわからないが、ごく単純に考えて、仲正が広島の出身だからであろう。
ところで、2022年2月24日、(ウラジーミル〔Владимир〕・プーチンの)ロシアが(ヴォロディミル〔Володимир〕・ゼレンスキーの)ウクライナへ全面侵攻を開始した直後、「自民党の安倍元総理大臣は、アメリカの核兵器を同盟国で共有して運用する政策について、日本でもタブー視せずに議論すべきだという考えを示しました」3。そして、そんな「ウクライナの危機に乗じて、日本の国是『非核三原則』に反する話を持ち出した安倍さん」4を、「旧統一教会」そのものとほぼ同一視したうえで殺害した山上徹也容疑者は、過去に広島の自衛隊基地に海上自衛隊員として勤務していたことがわかっている。
文鮮明と安倍晋三、現代東アジアを代表する宗教家と政治家の、「核」を容認する(かのごとき)発言に対して、広島という土地にゆかりのある人生を送ってきたふたりの人間が、強烈な「否」を突きつけているように思える。つまり、第二次世界大戦を終結に導いたとされる、1945年8月6日、広島への原爆投下によって生じた、「底なしの淵から上って」きた「一匹の獣が」、文鮮明と安倍晋三、「彼らと戦って勝ち、二人を殺してしま」ったのではないか5。そして、「その二人の死によって改革のチャンスが到来する」(ジロラモ・サヴォナローラ)6かのごとく、いまの日本社会は浮き足立っている。
問われるべき問いはこうである。
安倍晋三を殺害した山上徹也容疑者、「彼は果たして本当に」外部「の人間だろうか?」7
予兆:共振
ケネディ大統領が暗殺された日のことだった。私は友人とゴルフに出かけていて、ニュースを聞いた途端、ゴルフクラブを車に積み、家路を急いだ。その時、追い抜いた後方のトラックがぴったりとくっついて、あおってきた。
リチャード・マシスン(棚藤ナタリー訳)
スタンリー・ウィーオッターによるインタビュー「ダーク・ドリーマー、リチャード・マシスン」8
読売新聞(1995年11月14日夕刊)に「アメリカの『ニューズウィーク』誌による興味深い世論調査の結果が載っていた。全米752人を対象にしたこの世論調査の結果によると、当時のアメリカ人の66%は悪魔の存在を信じ、しかもそのうちの37%は『自分は悪魔の誘惑を受けたことがある』と答えている。『本来ならするはずのない邪悪なことを人間にさせる力を悪魔は有している』という回答も33%に上っている。要するにアメリカにおいて『悪魔が存在する』ということは疑いようのない『形而上学的真理』になっているのである」9。そして、西方キリスト教圏において発展を遂げた「悪魔」という観念、存在はなぜか、「とりわけ橋造りが好きだった」。その証拠に「ヨーロッパのあちこちに『悪魔の橋』の異名をもつ橋がのこっている」10。
ところで、2022年4月、批評家の杉田俊介は、広島で育った政治思想家・批評家である橋川文三を論じた著作(『橋川文三とその浪漫』、河出書房新社)を上梓した。
そのなかで杉田が(橋川と共に)対決を試みるのは、戦前から戦時中にかけて活躍した文芸評論家、保田與重郎(出身地は山上容疑者と同郷の奈良、処女作は『日本の橋』)の「悪魔的破廉恥」「悪魔的無邪気さ」である。
〔…〕時代の混沌と混乱に身を委ねつつ、自らの現実的・政治的な無力さを観念的に転倒させ、現実的には無力だからこそ文化的・美的には「無敵」であろうとする、という不死身の精神のことだ。それによってこの世界全体を否定し、すべては平等に無意味で無価値で無意義であると見なし、嘲弄する。そこには無限に弱い人間こそが無限に強くなるという倒錯的な暴力、つまり弱者暴力がある。11
杉田は(橋川と共に)保田のなかにある、この「戦争によって敵兵を殺戮し、あるいは虐殺しても何も感じず、朗らかに無邪気でいられるような」12「悪魔的無邪気さ、享楽的な残酷さの側面を切り捨てて、保田の人間的な核心を論じうるとは思えない」13と述べている。
杉田が狂信的でお馬鹿なアメリカ人のように「悪魔」の実在を信じているのかどうかは、杉田自身がはっきりと述べてくれないのでよくわからないが、人間の心のなかに存在する、悪魔的な部分に強い関心を抱いているのは確かである。
世界でもっとも「平和」で「安全」な(はずの)「現代日本」において、白昼堂々、公衆の面前で政治家の暗殺事件が起こるなどとは夢にも思わなかった私たちからすれば、「時代のはるか先の曲がり角を超えたところで国家の政治の次元で何が起こっていたのかということを、多かれ少なかれ理解していた誰かがいたことが驚きである」14。つまり、2022年7月8日、「それより早く、まったくの個人として、アンチクリストの動きをとらえたものはいた」15。
令和の大審問官
政治学者の中島岳志は、東京新聞(2022年7月26日夕刊)に掲載された記事のなかで、「山上徹也容疑者のものとみられるツイッターアカウントの投稿」を精読している。
約二年九カ月にわたって書かれたツイートからは、生きづらさと鬱屈を抱えた中年男性が、排外主義的でパターナル(父権的)な思想に傾斜する姿が浮かび上がる。その言葉は、対象に対して常に攻撃的で、冷笑的だ。
〔…〕
そんな彼が二一年四月二十八日に言及するのが、前日に文春オンラインで公開された杉田俊介の論考「『真の弱者は男性』『女性をあてがえ』…ネットで盛り上がる『弱者男性』論は差別的か?」である。杉田がここで論じるのは、自己の人生に誇りを持つことができず、惨めな思いを抱える男性の救済についてである。
〔…〕
杉田は「男の弱さ」を「自分の弱さを認められない弱さ」であると指摘する。そして、「自分の弱さ(無知や無力)を受容し、そんな自分を肯定し、自己尊重していく」道筋を模索する。惨めさを抱えながらも「幸福に正しく——誰かを恨んだり攻撃したりしようとする衝動に打ち克って——生きられるなら、それはそのままに革命的な実践そのものになりうるだろう」。
この杉田の呼びかけに対して、山上容疑者は「だがオレは拒否する」と応答する。誰かを恨まないという姿勢が正しさを帯びるのは、「誰も悪くない場合」であり、自分にとっては「明確な意思(99%悪意と見なしてよい)をもって私を弱者に追いやり、その上前でふんぞり返る奴がいる」という。彼の殺意は、杉田の言葉を乗り越えていく。16
実は、この記事のなかで、著者の中島が紹介している山上容疑者のツイート(発言)には、欠落部分がある。つまり、山上容疑者の殺意が「杉田の言葉を乗り越えていく」以前に、そもそも著者である中島の読解自体が、山上容疑者の言葉を乗り越えている。
当該のツイートにおいては、「~ふんぞり返る奴がいる」のあとに、「私が神の前に立つなら、尚の事そいつを生かしてはおけない。」(強調引用者)という言葉が続く。
犯罪者としては三流のチンピラについて、いくつかの文章を書いたことがあるだけの中島にとって、「犯罪界のナポレオン」(モリアーティ教授)のごとき、山上徹也容疑者の「革命的・破壊的性格」「全ての聖なるものへの持続的な狂信的憎しみ」17は、手に余るということだ。
「おそらく〔山上容疑者と杉田という〕両者の相違は」、男性「を強いととらえるのか、それとも弱い(積極的な意味で)ととらえるのか、その選択は、キリストを美しいとみるのか、それとも醜い(同じく積極的な意味で)とみるのかという古くからの議論とも関連して、宗教的で神学的であるのみならず、政治的で倫理的、美的で感性的でもある意味合いすら帯びた二つの極みとなって」18いるように思われる。
ようするに、両者の相違は、日本憲政史上最大最強の政治家である安倍晋三を何のためらいもなく殺害してしまうほどに強く、「塩顔ハイスペックイケメン」(by 山上ガールズ)19でもある美しい「男性」の山上徹也と、「支援者(介助者)から脱落し、活動家にもなれず、文化批評を書いて糊口をしのいできた『転向左翼』のごとき」20「自分の弱さ(無知や無力)を受容し、そんな自分を肯定」せざるをえないほどに弱く、「生まれつきのアトピー性皮膚炎のためもあって、昔から醜形恐怖症(BDD)があり、現在に至るまで自分の顔や身体をうまく正視でき」21ないほどに醜い「男性」である杉田俊介という、「男性」のありかたをめぐる二つの極みとなっているように思われるのである。
重要なのは、山上容疑者と批評家の杉田、「両者は二項対立にして相補的な関係にある」ということだ。
強者は弱者がいなければありえない。「美は醜がなければ」「ありえない」「そしてその逆もまた真である」。言い換えるならば、「神は悪魔がいなければ孤独であり、悪魔という兄弟を必要としている」「そしてその逆もまた真である」22。さらに言い換えるならば、「真理はつねに脱構築可能なものとして現れるが、真理なしには脱構築は存在しえない」23。そしてその逆もまた真である。
「要するに」、 批評家杉田俊介と山上徹也容疑者、「双方の間にパラディグマティクな関係がある」24ということだ。
私たちは、安倍晋三銃撃事件の真相を確かめるために、杉田と山上容疑者の双方にとっては「主体あっての客体であると同時に客体あっての主体という」、両者のあいだに存在する、否、「むしろそれは」批評家杉田俊介と山上徹也容疑者、ふたりの「有限者を自己のうちに包み込んだもの」25として存在する「トートロジカルな構造」26、この「循環のうちへと正しい様式で入りこむ」27必要がある。
根源悪(=das radikale Böse)を「分かつ」「分離する」
思索は、自らを隠蔽するものを思索しなければならない。〔…〕思索されるべきものは、その意味において〈暗闇〉であるがゆえに、〔…〕本質的な思索は、それ自体必然的に瞑いのである。
ハイデガー(村井則夫訳)「西洋的思索の元初──ヘラクレイトス」28
杉田は、ある文芸誌が主宰する新人賞の選考委員を務めていたことがある。
2017年から2022年にかけて、集英社が刊行する文芸誌『すばる』が毎年開催していた、批評・評論の新人賞「すばるクリティーク賞」だ。
広く一般から募集された作品のなかから、あらかじめいくつかの最終候補作が選ばれる。そのなかから受賞作を決めるために、数人の批評家、学者、作家からなる選考委員たちがおこなった座談会の様子を、その年の受賞作とともに読むことができる。
ところで、『すばる』2022年2月号に掲載・発表された「2022すばるクリティーク賞」の受賞作を決めるためにおこなわれた選考座談会のなかで、杉田はいささか異様な熱量で、ある応募作品を絶賛している。
彼によれば、その「ほとんど誇大妄想のような感じでもある」テクストには、「延々と続く言語や暗喩の横滑りの中に、自分を含むこの世界を金属バットでぶん殴るような、ある種の殺伐とした批評性がある」。「無差別殺傷へと至るような欲望を、ぎりぎりのところで知性の力で世界変革へと転じていこうとする、そうした批評性を感じ」させるものであり、「随所に認識的な驚き、発見を感じました。博覧強記だけど、たんなる言葉遊びではないと思った」。それは「知性と暴力によってこの世界全体に反逆するような野蛮」29なテクストである。
熱に浮かされたかのように自身が推薦する作品についてひたすらにしゃべりまくる杉田の、「この特有な状態は昔から憑依体験またはつきもの妄想の名で呼ばれ」「現象学的には人格重複の体験であり、自我の単一性の意識の障害に属するものであるが、人格の重複体験にはもうひとつ自己像幻視と呼ばれる特有な現象がある」。別名「二重身」(ドッペルゲンガー〔Doppelgänger〕)だ30。
さて、そんな神懸かり(悪魔憑き?)状態の杉田をまえにして、ほかの選考委員たち(大澤信亮、浜崎洋介、上田岳弘)の反応は薄い。というか、若干引いている。
「この著者〔と杉田〕は一体何が言いたいのか?という気持ちにもなった(笑)」(大澤)。「訳がわからない。読者を置いてきぼりにする」「読んでいくに従って、『で……?』という感じになってくる」(浜崎)。「ここでは批評を募集しているので論として成立していない」(上田)等々。
この瞬間、批評家杉田俊介は「異端と決まった」。杉田「の告白した〔=絶賛した〕のは異端の信仰だ。邪説は露見し、断罪」される(司教レモン・ド・ミルモン)31。「〔この著者の論証には〕エビデンスがない」(上田 強調引用者)。「〔この著者が〕批評を書く意味はない」(浜崎 強調引用者)等々。
ようするに、杉田と彼が推薦する著者のような「意思疎通のできない人は幸せをつくれない」「障害者〔のごとき、この作品とその著者〕は周りを不幸にするので、いない方がよい」(植松聖死刑囚)32ということだ。はやいはなしが、杉田と彼が推薦する作品の著者は「ダメ人間」「社会のゴミ」(小松原織香に性暴力をふるった男性)33、ただの「ポンコツ」(立憲民主党神奈川県連所属議員・浦道健一)34である。
「そうですね……それは確かに。すごくいいと思うんですけどね。皆さんの低評価を押し切って覆す力もいまの僕にはありません」(杉田 強調引用者)。
一体何が起こっているのだろうか。
いうまでもなく、杉田のなかに潜む、もうひとつの「人格」「自己」とは、C・G・ユングがいうところの「集合的無意識の内容」「元型」のうちのひとつ、「影」である35。つまり、4人の選考委員からなる「集団の成員がすべて同一方向、それも陽の当たる場所に向かっているとき、その背後にある大きい影〔=悪魔、反キリスト、強いキリストetc.〕について誰も気づかないのは当然である。その集団が同一方向に『一丸となって』行動してゆくとき、ふと背後を振り向いて、自分たちの影の存在に気づいたもの〔=杉田〕は、集団の圧力のもとに直ちに抹殺される」36ということだ。
そして、ごくふつうに考えれば、「言葉もまた人間の生存と競争の道具の一つである以上、〔「2022すばるクリティーク賞」の〕勝者の証言だけが残るのは当然である。負けた者は消滅する。彼〔=杉田と彼が推薦した作品の著者〕にはもう言葉を使う権利はないのだ。退場に先立つ日々に彼らがどれほどの無念を感じていたか、絶望がいかに深かったか、それはめったに言葉の形では残らない」37。
「だが」ここに例外が存在する。
「2022すばるクリティーク賞」の選考過程において物議をかもした、この、問題作にして落選作の著者が、批評家杉田俊介の「影」であった場合である。「というのも、影の持つ性質は個人的無意識の内容」「個人の人格の暗い面」「から大部分推しはかることができるからである」38。
つまり、杉田が無力であったがゆえに抹殺されてしまった作品の著者は、「夢を諦めたこと。仕事もないこと。金がないこと。社会的な肩書がないこと。周りに友達がいないこと。もちろん、そのどれもが苦しかった。つらかった」。「そんな日々の中で」、オレ「はやがて、社会や周囲の人間に対する、鬱屈した被害者意識を抱えこんでしまった。他人を憎み、世の中を憎んだ」39。そして、なによりも、愛する人(の作品、言葉、生命)を救うことさえできない、無知で無力な自分自身の〈弱さ〉こそを、もっとも強く憎んだ。
唐突だが、次のような仮説を立ててみたい。
この、「2022すばるクリティーク賞」の受賞作を決めるためにおこなわれた選考座談会において、ほとんど異例ともいえる議論の紛糾を引き起こした果てに、杉田が推薦を諦めてしまったため、私たちには決して読むことができない、「まなざしの煉獄、金属バットの哄笑」(以下「哄笑」)と題された、ビートたけしを論じているらしいテクストは、安倍晋三元首相銃撃事件の犯人である山上徹也容疑者が偽名を用いて応募したものではないか。
復讐、鏡像段階、トリニティ実験
「早く起きて来てよ!」
いたずら小僧の兄弟ウサギが言いながら走っていきます。
「産まれたんだよ」
「王子様のことだよ」
「みんなで見に行くのさ」
フェリックス・ザルテン(佐野晶訳)『ディズニー・クラシックス7 バンビ』
これこそわしが長らく待ち望んできた好機だった——それがついに到来したのだ。
敵はもうこっちの手のうちにある。
ジェファスン・ホープ
アーサー・コナン・ドイル(深町眞理子訳)『緋色の研究』
先に紹介した東京新聞に掲載された山上徹也評のなかで、著者の中島は、山上容疑者が「だがオレは拒否する」といったときの、「だが」という一言に注意を促している。
これは逆接の接続詞であり、杉田の主張を受け入れたことを意味する。しかし、彼は強い恨みによってそれを「拒否する」のだ。40
ようするに中島がいいたいのは、彼自身がそこに属する「論壇」や「批評家たち」の側から、凶行に及ぶ直前の、おそらくは想像を絶する孤独に苛まれていたであろう(と、中島が勝手に思いこんでいる)「山上容疑者の深い部分に届いた言葉があった。批評があった」のだということだ。自分たち「論壇」や「批評家たち」が、「自分なりに、何事かを地道に、悩みながら、こつこつと積み重ねてきた。間違いや、失敗や、足りないことも多いのだけれど、とりあえず、ここまでやってきた」41ことは決して無駄ではなかった、自分たちが細々と紡いできた言葉は、決して無意味ではなかったのだ……。ようするに、自分たちは今のままでいいということだ。めでたし、めでたし……
いうまでもなく中島の「このような言い回しは、ペテン師のやり口にほかならない」42(「嘗めやがって……」43)。
「栄光と破壊のヴィジョンがほぼ交互におとずれているという点」で、「映画のモンタージュの手法になぞらえ」((岡田、前掲書、26頁、傍点原文。)) ることもできる私たちの論述(=映画)の、エンドロールにはまだはやい(「幕が降りた時、喝采するのは誰だろう」44)。
中島は、山上容疑者が、なぜ杉田俊介の書いた論考に対してのみ、特別「強い恨みによってそれを『拒否』」せざるをえないのか、そのあたりの裏事情がまったく把握できていない。はやいはなしが中島は、山上徹也容疑者と「2022すばるクリティーク賞」落選作「哄笑」の著者が同一人物である可能性を見落としている。
そして、(いまのところはとくになんの根拠もない)この筆者の仮説(というか思いつき)が正しかったとすれば、安倍晋三銃撃事件直後に書かれたものとしては、もっとも「山上容疑者の深い部分に届い」ていると思われる、中島の山上徹也評のもつ、神学的かつ「倫理的で政治的な意味にかんして」「事情が一変する」45 。
「暴力を超える言葉の力」を信じて、山上容疑者が、時としてみずからの無力さを痛感しながらも必死に書きあげた(のかもしれない)「言葉」「テクスト」、その「テクスト」の著者である(のかもしれない)山上容疑者の主張を、文芸誌の新人賞の最終候補作に残すというかたちで受け入れておきながら、「だが」受賞は認めない(逆接の接続詞!)というかたちで、暴力的に拒否したのは、中島自身、選考委員を務めた経験もある、文芸誌『すばる』の新人賞の選考委員たちを含む、現代日本の「論壇」や「批評家たち」ではないか。つまり、自分たちが生きる社会や世界に対して「強い恨み」を抱き、自分たちが論ずる「対象に対して常に攻撃的で、冷笑的」な言葉を浴びせ続けてきたのは、山上徹也の側ではなく、現代日本の「論壇」や「批評家たち」の側ではないか。
ここにおいて、バズーカのごとき手作り拳銃を構えながら、安倍晋三の背中に照準を合わせる山上容疑者の「まなざし」の「怖ろしい反転が生じる。植民者は被植民者の立場にある自分を見いだす。搾取者は被搾取者へ、加害者は被害者へと変化する」46。そして(「論壇」や「批評家たち」にとってはまさに悪夢としかいいようがないが)「一方の視点から他方への移行に由来する」、この「価値転倒的な効果は」「それまで不可能/到達不能だった対象に肉体を与え、手の届かなかったものに声を与えてしゃべらせる。要するにそれを主体化するのである」47。
私たちは、安倍晋三銃撃事件について、「既存の理解(パラデイクマ)を根底から覆す、そのために」、批評家杉田俊介と山上徹也容疑者の「対抗関係を極大化し、なおかつ決して決着させない、というクリティックの前提」48、「この世界の運命のための土台を打ち立て」49ることに成功した。
そして(なによりも重要なことだが)、この、ほとんど前代未聞の偉業を成し遂げることができたのは、「2022すばるクリティーク賞」の選考座談会でボロカスに否定された問題作、「哄笑」の著者であると同時に、本稿の著者でもあるオレだけだ。
ようするに、小林秀雄以来、掃いて捨てるほどいる「親に恵まれた」だけの批評家たち、「その恵まれたオマエらが」「わけのわからぬ非論理的な」「その表題も虚偽である」50「批評」しか書くことができない、「意味をなしておらず、下等で、生のままで、醜く、野蛮な」51「テクスト」を生みだすことしかできない、「俺みたいな猿〔=「ダメ人間」「社会のゴミ」〕に負けたってこと」(伏黒甚爾)52。
「こ、こ、これは……た、た、た、大変なことですよぉ~⁉」(安倍晋三銃撃事件直後に登壇した選挙特番で、社会民主党党首福島瑞穂の発言に動揺する東浩紀)
ところで、フランス文学研究者の山田広昭によると、「ロマン主義はつねに欠如の周りに生まれる」らしい。「ロマン主義とは欠如から価値をつくり出すシステムである」。「それは、欠如それ自体を、一挙に、『想像的に』、積極的な価値へと反転させる」53。「そこでは、政治社会への幻滅や無力感がデフォルトとしてあるために、空想的勝利への陶酔や無限定の態度留保などに陥りかねない、という危うさがつねにある」(杉田)54。
なんということだ、「凡そ俺を小馬鹿にした俺の姿が同じ様に眼前にあった」(小林秀雄)55。
「救世主キリストか、それとも悪魔の手先アンチキリストか。それはある意味で紙一重であり、しばしば反転しうる」56。
そんな、神/悪魔、勝者/敗者、強者/弱者、「善/悪、正/邪、東/西、幸/不幸、愛/死……の別が」57「一見してわからない世界の上には陽気な哄笑がひびいている」58。
まあ、ようするに、「僕の勝ちだ」(旧多二福)59。
……勝ち? 「勝負はこれからだろ」(伏黒)60。
筆者のほんとうの計画は、ここにおいて成就した。
安倍晋三銃撃事件(というか山上容疑者のこと)を、現代日本の有力な批評家たちがほとんどなにも理解できない(おそらくするつもりもない)という異常事態を、その歴史的根源にまで遡行して批判的に「問う」ための端緒をひらく(というか強引にこじあける)。言い換えるならば、現代日本における〈批評〉の「欠如それ自体を、一挙に、『想像的に』、積極的な価値へと反転させる」という壮大かつ、ある意味で破局的なヴィジョンの現実化に向けて、その一歩目はすでに踏みだされている。
過去60年間(1963年11月22日以降)、そのうちの最良のものも含めて基本的には「紙屑」(アドルノ)である、あってもなくてもどうでもいいような、眼に見える作品のみを相手に、せっせと自慰行為に励んできた、主に日本とアメリカ合衆国の批評家たち(=異端者ども)が、断固としてその存在を認めようとはしなかった(より厳密にいえば、自身の「生」そのものが、その〈作品〉の構成要素の一つにすぎないという端的な事実を決して認めようとはしなかった)、《一つの見えない作品 ein unsichtbares Werk》61の〈批評〉が遂に始動する(その瞬間、〈理性〉という名の「偶像はことごとく滅びる」62)。「はははは。ざまあみろ」63。
終わりのはじまり、否、はじまりの終わりのきっかけとなるのは些細なことだ。
かつて、批評家の柄谷行人が書き記したつぎの言葉が、正しく書き直される。
依然として、われわれは「一人二役」としての《批評》を必要とする。64
依然として、われわれは「一人三役=トリニティ」としての《批評的実験》65を必要とする。
いまここに、アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディの死に関する「陰謀論的理性批判がはじまる」(杉田俊介)66。言い換えるならば、「私が」その《一つの見えない作品》の作者である「神の前に立つなら、尚の事そいつを生かしてはおけない」(山上徹也)。
※追記:「この論考の発表を以ってしばしば『批評の時代』の幕開けとされる」(日本語版ウィキペディア 「トリニティ実験」の項目より 4022年7月8日現在)。
著者
壱村健太 Kenta Ichimura
1989年神奈川県生まれ。
川崎市内の工業高校を卒業後、フリーター。
独学で思想史、文化史等を学ぶ。現在無職。
2023年11月22日の発表に向けて
「陰謀論者の夢——〇〇〇〇・〇〇〇試論(仮題)」鋭意執筆中
「万国の世界市民たち、もう一努力だ」by デリダ
Twitter:@murumulu
E-mail:kenta.ichimura0926▲gmail.com
関連書籍
関連リンク
脚註
- 仲正昌樹『増補新版 モデルネの葛藤』、作品社、2019年、433頁より。 ↩︎
- 仲正昌樹『統一教会と私』、論創社、2020年、164−165頁。 ↩︎
- 「安倍元首相 “同盟国で『核共有』 タブー視せず議論を”」、NHK NEWS WEB、2022年2月27日。 ↩︎
- 「安倍元首相『核共有、議論を』 非核三原則踏みにじる発言」、中日新聞オンライン、2022年3月4日。 ↩︎
- 『ヨハネの黙示録』11章7節、新共同訳、強調引用者。 ↩︎
- 岡田温司『黙示録』、岩波新書、2014年、124頁、強調引用者。 ↩︎
- 秋山駿『内部の人間の犯罪』、講談社文芸文庫、2007年、19頁。 ↩︎
- 『ナイトランド Vol.7』、トライデント・ハウス、2013年。 ↩︎
- 高橋義人『悪魔の神話学』、岩波書店、2018年、2頁、強調引用者。 ↩︎
- 池内紀『悪魔の話』、講談社学術文庫、2013年、169頁、強調引用者。 ↩︎
- 杉田俊介『橋川文三とその浪漫』、河出書房新社、2022年、44頁。 ↩︎
- 同書、45頁。 ↩︎
- 同書、92頁。 ↩︎
- リー・マッキンタイア(大橋完太郎ほか訳)『ポストトゥルース』、人文書院、2020年、197頁。 ↩︎
- 河合隼雄『影の現象学』、講談社学術文庫、1987年、53−54頁、強調引用者。 ↩︎
- 「〈論壇時評〉安倍元首相銃撃事件 山上徹也容疑者の生きづらさ 中島岳志」、東京新聞 TOKYO Web、2022年8月1日、強調引用者。 ↩︎
- フリードリヒ・シュレーゲル『歴史の哲学』、仲正『増補新版 モデルネの葛藤』、433頁より、強調引用者。 ↩︎
- 岡田、前掲書、39−40頁、傍点原文。 ↩︎
- FLASH編集部「『塩顔ハイスペックイケメン』山上容疑者にガチ恋する女性が続々…山上ガールズの本音とは」、smartFLASH、2022年7月22日。 ↩︎
- 杉田俊介(@sssugita)、2022年10月3日のツイート。 ↩︎
- 杉田俊介『非モテの品格』、集英社新書、2016年、38頁。 ↩︎
- 高橋、前掲書、25、27頁、強調引用者。 ↩︎
- 大橋完太郎「解釈の不安とレトリックの誕生」、マッキンタイア、前掲書所収、242頁、強調引用者。 ↩︎
- 木庭顕『クリティック再建のために』、講談社選書メチエ、2022年、37頁、下線および強調引用者。 ↩︎
- 岩崎武雄『カントからヘーゲルへ』、東京大学出版会、1977年、183頁、強調引用者。 ↩︎
- 仲正、前掲書、34頁、強調引用者。 ↩︎
- マルティン・ハイデガー(熊野純彦訳)『存在と時間(2)』32節、岩波文庫、2013年、231頁、強調引用者。 ↩︎
- 村井則夫『解体と遡行』、知泉書館、2014年、50頁より。 ↩︎
- 大澤信亮+杉田俊介+浜崎洋介+上田岳弘「2022すばるクリティーク賞発表 選考座談会」、『すばる』2022年2月号、集英社、116‐118、124‐126頁、強調引用者。 ↩︎
- 宮本忠雄『言語と妄想──危機意識の病理』、平凡社ライブラリー、1994年、101頁、強調引用者。 ↩︎
- 渡邊昌美『異端審問』、講談社学術文庫、2021年、32頁、強調引用者。 ↩︎
- 堤拓哉「見えないバックラッシュ──障害のある人たちをめぐるテン年代の諸相」、『対抗言論 反ヘイトのための交差路 2号』、法政大学出版局、2021年、267頁、下線および強調引用者。 ↩︎
- 小松原織香『当事者は嘘をつく』、筑摩書房、2022年、22頁、下線および強調引用者。 ↩︎
- 上田耕司「立憲男性県議が『女性とかジェンダーとかほざく連中』『ポンコツ』と暴言 神奈川県連で横行する“深刻ハラスメント”」、AERA dot.、2022年10月14日。 ↩︎
- C・G・ユング『ユング・コレクション4 アイオーン』、野田倬訳、人文書院、1990年、21頁。 ↩︎
- 河合、前掲書、52頁、強調引用者。 ↩︎
- 池澤夏樹『楽しい終末』、文春文庫、1997年、92頁、傍点および強調引用者。 ↩︎
- ユング、同前、強調引用者。 ↩︎
- 杉田、前掲書、86頁。 ↩︎
- 「〈論壇時評〉安倍元首相銃撃事件 山上徹也容疑者の生きづらさ 中島岳志」、傍点および強調引用者。 ↩︎
- 杉田、前掲書、130頁。 ↩︎
- ケルソス『真理の言葉』、オリゲネス『ケルソス駁論』、高橋、前掲書、92頁より。 ↩︎
- 永瀬隼介『19歳──家四人惨殺犯の告白』、角川文庫、2004年、65頁。 ↩︎
- 池澤、前掲書、364頁。 ↩︎
- ジョルジョ・アガンベン(上村忠男ほか訳)『アウシュヴィッツの残りのもの』、月曜社、2001年、7頁、強調引用者。 ↩︎
- Stephen D. Arata(丹治愛訳)「The Occidental Tourist: Dracula and the Anxiety of Reverse Colonization」、丹治愛『ドラキュラの世紀末』、東京大学出版会、1997年、65頁、強調引用者。 ↩︎
- スラヴォイ・ジジェク(鈴木晶訳)「あの人の蔑むような眼差しの中に、私の破滅が書かれているのが見える」、ジジェク編(鈴木ほか訳)『ヒッチコック×ジジェク』、河出書房新社、2005年、359頁、傍点原文、強調引用者。 ↩︎
- 木庭、前掲書、74頁、傍点および強調引用者。 ↩︎
- ミシェル・ウエルベック(中村佳子訳)『プラットフォーム』、角川書店、 2002年、 250頁、強調引用者。 ↩︎
- ディオニュシオス『約束について』、エウセビオス(秦剛平訳)『教会史』Ⅶ:25、講談社学術文庫、2010年より、強調引用者。 ↩︎
- ノヴァーリス『花粉』、仲正、前掲書、273頁、強調引用者。 ↩︎
- 芥見下々『呪術廻戦 9』、集英社、2020年、強調引用者。 ↩︎
- 山田広昭『三点確保──ロマン主義とナショナリズム』、新曜社、2001年、118頁、強調引用者。 ↩︎
- 杉田、『橋川文三とその浪漫』、70頁、強調引用者。 ↩︎
- 小林秀雄「Ⅹへの手紙」、『Ⅹへの手紙・私小説論』、新潮文庫、1962年、74頁、強調引用者。 ↩︎
- 岡田、前掲書、114頁、強調引用者。 ↩︎
- 鈴村和成『テロの文学史──三島由紀夫にはじまる』、太田出版、2016年、27頁。 ↩︎
- 池内、前掲書、207頁、傍点および強調引用者。 ↩︎
- 石田スイ『東京喰種トーキョーグール:re 13』、集英社、2017年、強調引用者。 ↩︎
- 芥見、前掲書、強調引用者。 ↩︎
- 仲正、前掲書、232頁、傍点および強調引用者。 ↩︎
- 『イザヤ書』、2章18節、新共同訳。 ↩︎
- 高橋洋『映画の魔』、青土社、2004年、47頁、強調引用者。 ↩︎
- 柄谷行人「批評とポストモダン」、柄谷『批評とポストモダン』、福武文庫、1989年、54頁。 ↩︎
- 酒田健一『フリードリヒ・シュレーゲルの「生の哲学」の諸相』、御茶ノ水書房、2017年、58頁、傍点原文、強調引用者。 ↩︎
- 杉田俊介(@sssugita)、2022年10月25日のツイート。 ↩︎