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桜の森の眼差しの下──アニメ『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』後期オープニング論|あにもに

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※本記事は、マギアレコード総合同人誌『チコの星 vol.1(2022)所収の論考を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。

文:あにもに

しかし、眼差しにおいて何が重要かということを我われが把握するのは、そもそも主体と主体との関係において、すなわち私を眼差している他の人の実在という機能においてなのでしょうか。むしろ、そこで不意打ちをくらわされたと感じるのが、無化する主体、すなわち客観性の世界の相関者ではなくて、欲望の機能の中に根をはっている主体であるからこそ、ここに眼差しが介入してくるのではないでしょうか。

──ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』

はじめに

 2020年に放送が開始されたテレビアニメ『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』には、テレビアニメの本編にも原作のスマートフォン用ゲームにも描かれなかったもうひとつの “顔” が存在する。それはテレビアニメにとって不可欠な「オープニング」の映像である。

 本作は2017年にリリースされた同名のスマートフォン用ゲームをアニメ化したものであり、アニメーション制作会社シャフトが手掛けたオリジナルアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)のスピンオフにあたる。全3部作としてテレビアニメ化され、途中でいくらか放送の間隔が空きながらも2022年4月、ついに完結を迎えた。原作のゲームとは正反対のあまりにも悲劇的な「失敗の物語」として決着したテレビアニメ版が、ゲームの既存ユーザーからも新規のアニメ視聴者からも多くの賛否両論を呼び起こしたことは記憶に新しい。しかしながら、そうしたストーリーのインパクトが大きすぎるあまり、『マギアレコード』を論じる多くの論者が意識的に、あるいは無意識的に除外してしまっている映像が存在する。それが本作のオープニングである。

 本稿が焦点を当てるのは、テレビアニメの本編にまつわる物語論的な分析や、あるいは劇中で描かれる政治的な対立についてのイデオロギー的読解ではない。そうではなく、通常では取り上げられる機会が少ないオープニングに関する分析である。とりわけ本稿では、テレビアニメ第2部にあたる『2nd SEASON−覚醒前夜−』(2021)と第3部『Final SEASON−浅き夢の暁−』(2022)で共通して用いられている、ClariSの『ケアレス』を主題歌とするオープニング(以下「後期オープニング」)を分析対象として取り上げる。このわずか90秒ほどの映像にはいったい何が表現されており、またそこではどのような手法が採用されているのか──これらの問いに答えることが本稿の目的である。

 このような観点からオープニングの映像について論じることは、『マギアレコード』という膨大な量のテクストからなる多層宇宙を読み解くための重要な手がかりを得ることにつながるだろう。それはとりもなおさず、同作の主人公・環いろはという特権的なキャラクターについての洞察を深めることを意味する。というのも、後期オープニングで主題的に描かれるのは、いろはを悩ませる存在論的な不安と、そこから劇的に立ち直っていく彼女の姿だからである。本稿ではオープニングに登場するさまざまなモチーフや演出を注意深く解釈しつつ、ひとりの少女が自分自身を取り戻すまでの軌跡を明らかにしていきたい。

『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON−覚醒前夜−』ノンクレジットオープニング

目次

オープニングの詩学、多義性の罠

 本作の後期オープニングについて論じる前に、まず確認しておくべき前提がある。それはテレビアニメのオープニングやエンディングの映像が、本編のストーリーやキャラクターの描写と必ずしも一致しているとは限らないということだ。主題歌を提供する作曲家や作詞家はもちろん、映像を作っている演出家やアニメーターが物語の結末を知らずに制作を行うのも珍しいことではない。

 実際、本作の『2nd SEASON』および『Final SEASON』で副監督を務め、前期・後期両方のオープニングのディレクターを担当した演出家の吉澤翠さえも、ストーリーの結末を知らない状態で制作を行ったことを放映後のインタビュー記事で明かしている1

 それゆえ一般的なオープニングの映像制作においては、決して多くはない選択肢のなかから慎重にモチーフを拾いながら、抽象的な形で映像に落とし込む作業が要請される。さらに楽曲の歌詞、すなわち詩そのものの形式とも相まって、最終的に完成する映像はきわめて叙情的かつ暗示的なものとなる。だからこそ、オープニングは視聴者がいくらでも解釈しうる多義的な構造を備えることになり、巧妙にサンプリングされたモチーフの断片から一種の「深読み」に興じることも可能になるのだ。

『マギアレコード』の後期オープニングもまた、詩的な形式が採用されているシーンが存在するという点において、さまざまな解釈を呼び込む多義性を持ち合わせている。それがオープニングのラストに描かれている「万年桜」のシーンである[図1]

図1:『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON −覚醒前夜−』オープニングより、ラストシーンの万年桜と環いろは
©Magica Quartet/Aniplex・Magia Record Anime Partners

 桜を撮影しながら走るいろはのフォローショット、下から見上げた桜の実写映像のショット、万年桜を正面からロングで捉えたパンアップのショット、そして桜の前に立ついろはが振り返って歩みを進めるショット──ラストシーンはこの4つのショットから構成されている。

 最後のショットでは、まず万年桜のほうを向いて立っているいろはの後ろ姿が描かれる。ふと彼女がこちらを振り返ると、一瞬何かに驚いたかのような表情を浮かべながらも、すぐさま少し困ったように微笑みかける。そうしていろはがこちら側に歩みを進めようとしたところで画面が切り替わり、そこではじめて本作のタイトルロゴが表示されてオープニングは終わる。

 このように実に含みを持たせた描写でオープニングのラストを締めくくっている以上、「いろはが振り返った先に誰がいるのか」という問いが生まれるのはごく自然なことだろう。そこにいるのはテレビアニメのオリジナルキャラクターである黒江かもしれないし、いろはのパートナーとも言うべき七海やちよかもしれない。あるいは『1st SEASON』(2020)のオープニングのラストショットにおいても同様に、いろはが振り返って「みかづき荘」の仲間たちのもとに駆け寄るシーンで終わることを踏まえれば、今回も彼女の視線の先には同じ仲間たちが一堂に会していると解釈することもできるはずだ。

『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 1st SEASON』ノンクレジットオープニング

 後期オープニングのラストシーンがさまざまな解釈に開かれていることは、ディレクターの吉澤自身も否定していない。彼女はオープニング中の「コネクト」2シーンにおいてみかづき荘の仲間たちがだんだんと増えていく仕掛け3に触れながら、問題のラストについても以下のように語っている。

(コネクトのシーンでは)幻のみかづき荘のメンバーとして黒江ちゃんが入っています。「なんで黒江が?」と思われるかも知れませんが、最終話でいろはが「黒江さんも一緒だよ」って言っていたので、セーフということにしていただけたら(笑)。あとオープニングの最後に『万年桜』でいろはちゃんが振り返った先に誰がいるかは、視聴者さんに決めてもらえればと思っています。4

 実際に後期オープニングのラストシーンは放送当時から一部の視聴者のあいだで話題になっており、先に挙げたものを含めていくつもの解釈が試みられていた。しかしいずれも決定打とはなりえず、「いろはが振り返った先に誰がいるのか」という問いは依然として宙吊り状態になっていた。「視聴者さんに決めてもらえれば」という吉澤の発言は、こうした状況を積極的に追認するものと言えるだろう。

 とはいえ、このラストシーンの問いに対して一定の説得力を伴った回答を与えることは、実はそれほど難しいことではない。なぜならば、そもそも解釈の自由度がきわめて高いため、いろはが振り返った先にどのような人物を想定したとしても、もっともらしい論拠を用意することはできるからだ。

 だがそうだとするなら、ここで本当に問われなければならないのは、「いろはが振り返った先に誰がいるのか」ということではない。そうではなく、このような問いが生まれてくることのより根本的な意義、言い換えれば、そのように問うことそれ自体が意味するものを問わなければならないのである。すなわち、万年桜の森の満開の下、いろはが振り返った先に任意の人物が存在するとして、その人物の正体があえて明らかにされず、さまざまな解釈可能性へと開かれているのはなぜなのか。そしてこの決定不可能性は、後期オープニングの構成全体にどのような意味を与えることになるのか。

 これらを適切に問うためには、オープニングからさまざまなモチーフを取り出して個別に深読みをしながら意味づけるだけでは十分とは言えない。むしろ、映像として描かれている出来事が互いにどのように関連しており、またそれらがどのような手法で表現されているのかに着目しつつ、それぞれの意味作用を丹念に読み解いていくことではじめて見えてくるものがあるはずだ。

 それゆえ本稿では、主に原作ゲームに関連するキャラクターやストーリー、あるいはテレビアニメ独自の物語展開に関する仔細な解釈は行わないこととする。むろん、必要に応じて本編のストーリーや、時には他作品の演出を読解の補助線とすることもいとわないが、あくまで本作の後期オープニングを読解の基本的な軸とすることに変わりはない。およそ90秒のオープニングを構成するさまざまな映像を手がかりに、環いろはとはいかなる存在なのか、そして彼女の抱える葛藤がどのように描かれているのかを具体的に検討していこう。

落下する書物と「無名の物語」

 万年桜を描いたラストシーンは、後期オープニング全体にとってどのような意味を持ちうるのか。この点について考えるためには、オープニングを形作るすべてのショットを対象に、その諸要素の関係性を意識しつつ検討しなければならない。

 さしあたり後期オープニングを貫く主題は、吉澤が証言しているように「いろはの記録」5をめぐるものであることは間違いない。これは映像に配置されている数多くのモチーフからも明らかだろう。本棚に置かれた古びた書物、物語の舞台である「神浜市」の地図とイマジナリーな風景、妹たちと一緒に食べた手作りのお弁当、みかづき荘の仲間たちと訪れた思い出の場所の写真、さらにはトランジションで使用されているジグソーパズルのピース……。こうしたひとつひとつのモチーフが、遠い日の記憶の手がかりを探すいろはの動機や感情を追体験させるかのようにつなぎ合わされている。

 ただし、これらはオープニングに通底する主題のほんの一部に過ぎない。いろはの記録を通して紡がれるのは、彼女のパーソナリティのみならず、そもそも『マギアレコード』という作品がいかなる物語なのかということである。

 はじめに、オープニング冒頭のショットを見てみよう。このショットは本棚を背景として垂直に下降していく薄暗い映像の途中に「MAGIA RECORD」と題された1冊の本がどこからともなく落ちてくるというものだ。このわずか数秒のショットには、ともすると見過ごされてしまうかもしれないが、テレビアニメ全編を象徴すると言っても過言ではない重要な意味が込められている。それを読み解く手がかりとなるのが、かつてシャフトが制作した西尾維新原作のテレビアニメ『続・終物語』(2019)である。同じく吉澤が絵コンテ・演出を担当した同作の第1話「こよみリバース 其ノ壹」のアバンタイトルに、きわめてよく似たカットが存在するからだ[図2]

図2:『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON −覚醒前夜−』オープニング(左)および『続・終物語』第1話より、本棚から落下する書物
©Magica Quartet/Aniplex・Magia Record Anime Partners ©西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

 『続・終物語』第1話冒頭のシーンは、約1分15秒ほどの縦の長回しのカメラワークから始まる。原作小説の「〈物語〉シリーズ」の表紙が見えるように並べられた本棚をカメラがゆっくりと下降しながら、同作の主人公・阿良々木暦がこれまでに出会ってきた怪異や人物についてモノローグの形式で振り返っていく。この自己言及的な演出はそれ自体、とても面白い仕掛けではある。しかしここで注目したいのは、整然と収納された本棚、そしてそこからはみ出すようにこぼれ落ちてゆく書物という印象的な表現が、明らかに『マギアレコード』の後期オープニングと響き合っていることだ。このショットについて論じた拙稿から引用しよう。

このきわめて自己反省的な演出は、ラストで歴代のタイトルロゴが連続してフラッシュされる演出と対をなすものであり、本作の自己言及性を端的に規定せしめるものである。しかしながらここでいまひとつ重要であるのは、その直接的な自己言及ではなく、むしろスポットライトが当てられない隅に追いやられた書物の数々の方である。

 タイトルすら与えられない、その無名の書物たちは、阿良々木によるナレーションとは無関係に本棚からこぼれ落ちてゆく。その書物たちはいみじくも忍野扇が言い表したように、阿良々木にとっての失われた二十パーセントであり、語られ得なかった物語たちである。「鏡によって吸収されて跳ね返ってこなかった光」と「当てられなかったスポットライトの光」はここで一種の共鳴を起こしているのだ。6

 本棚とそこから落下する書物のショットは「語られ得なかった物語たち」、すなわち公式の歴史=物語ではなく、そのような歴史が紡がれる過程で語り落とされてきたいくつもの小さな物語が存在することを示している。いわば「無名のアンネームド物語」とでも形容すべきものが、本棚からこぼれ落ちる書物のイメージに託されているのだ。

 ひるがえって『マギアレコード』について考えると、『Final SEASON』最終話のエピローグで「誰も知らない、それでも私は絶対に忘れない。これは誰も知らない、私たちの記録」といろはがモノローグで語りかける際にも、やはり1冊の本が登場する。これが『続・終物語』第1話で描かれた落下する書物と類似した意味作用を担っていることは明らかだろう。つまり『マギアレコード』とは歴史の本棚から失われた「無名の物語」として始まるのであり、だからこそ後期オープニング冒頭で落下する書物の表紙には「MAGIA RECORD」と記されていたのである。この意味で『続・終物語』と『マギアレコード』はともに〈本棚からこぼれ落ちる書物=無名の物語〉を描いた作品なのだ。

実写映像による「心象イメージ」

 冒頭で落下してきた書物が紐解かれると、その中から桜の花びらが舞い上がり、いくつもの光景が画面いっぱいに広がる。それは主人公・いろはの妹である環うい、そして彼女の親友である里見灯花、柊ねむの3人の「記憶」にまつわる映像であるように見える[図3]

図3:『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON −覚醒前夜−』オープニングより、環うい・里見灯花・柊ねむの記憶
©Magica Quartet/Aniplex・Magia Record Anime Partners

 このパートで矢継ぎ早にモンタージュされる映像はいずれも、本作の『1st SEASON』で描かれた「ウワサ」と関連づけられている。三角形の螺旋階段が特徴的な横浜市中央図書館7が「絶交階段のウワサ」に、渋谷の豊栄稲荷神社が「口寄せ神社のウワサ」に、ラムネ瓶を彷彿とさせる形状のグラスが「フクロウ幸運水のウワサ」に、そして送電線の鉄塔が「ひとりぼっちの最果てのウワサ」にそれぞれ対応していることは一見して明らかだろう。むしろここで重要なのは、本編との明白な対応関係というよりも、これらの風景がすべて実写の映像を加工したものであるという点だ。

 冒頭に続くこの数秒のパートは『1st SEASON』の端的な要約であると同時に、それ以降の展開を示唆するものでもある。実写映像の上に重ね合わされ、走り回る手描きの少女たちの姿──『2nd SEASON』の時点でそれがうい、灯花、ねむのシルエットであることは自明だろう──は、実写とアニメーションという異なる映像技法の差異を際立たせる。だがそうだとすれば、ここでは両者の差異にどのような意味が与えられているのか。あるいはなぜ、わざわざ加工した実写映像が背景として用いられているのか。

 まず確認しておくべきなのは、少女たちが作中で実際にその場所を訪れているわけではないということだ。『Final SEASON』の第1話で明らかになった通り、神浜市内でウワサを創り出して広めていたのはういたち自身であった。大病を患って長期の入院を余儀なくされていた彼女たちは、不可思議なウワサを創作して口頭伝承のように広げることで、自分たちが確かに生きた証として残そうとしていたのである。鉄塔に続くショットでは、神浜市の地図を机の上に広げて、3人が色鉛筆で絵を描きながら共同でウワサの創作をしていた様子が映し出されている[図4]

図4:『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON −覚醒前夜−』オープニングより、神浜市の地図
©Magica Quartet/Aniplex・Magia Record Anime Partners

 つまり、ここで挿入されている実写の風景映像は、ういたちが実際に3人で訪れた「記憶」ないし「記録」としての風景ではなく、入院中に彼女たちが夢見た「心象イメージ」としての風景であり、いわば「存在しない記憶」なのだ。だからこそ、このパートでは手描きの背景ではなく、あくまでアニメーションの少女たちにとっては異質な実写映像が用いられているのである。あえて白飛びにした実写の街を縦横無尽に駆ける手描きの少女たちは、現実/フィクションという単純な区別の内部にさらなる差異を持ち込み、あたかもスカートの襞のようにリアリティを多層化していく。

過去形の映像、シルエットの感傷

 それでは、ここで用いられている加工された実写映像には、具体的にどのような意味づけが可能なのか。この問いについて考えるうえで第一に重要なのは、現実の映像が〈アニメーション=フィクショナルな想像力〉のうちに持ち込まれていることだろう。そしてこれに関して有益な示唆を与えてくれるのが、アメリカの批評家スーザン・ソンタグの『写真論』(1977)である。このなかでソンタグは、写真が「メメント・モリ(死を忘れるな)」、すなわち死の表徴を有していることを指摘しつつ、写真が映画のなかで用いられる際の意味作用について以下のように語っている。

 写真は映画の流れの中で、一瞬のうちに現在を過去に、生を死に変質させることによって衝撃を与える。そしてかつて作られたもっともひとを不安にする映画のひとつ、クリス・マルケルの『埠頭』(一九六三)は自分の死を予見する男の物語で、まったくスチール写真だけで語られている。

 写真の発揮する魅力は死の形見であるが、同様にそれはまた感傷への招待でもある。写真は過去を優しい眼差しの対象に変え、過ぎ去った時間を眺める普遍化した哀愁によって道徳的差別をごちゃまぜにし、歴史的判断を取り去るのである。8

 写真は「現在を過去に、生を死に変質させる」ことで、映像のなかに異なる複数の時制を持ち込み、均質な時間の流れを破裂させる。ここでソンタグが述べているのは(実写の)映画のなかで写真が用いられる場合についてではあるが、彼女の洞察を手がかりに、アニメーションと実写の関係性へと敷衍して考察することも可能だろう。

 考えてみれば、もとより映像表現には言語における時制にあたる機能が存在しない。過去形や現在形、未来形などさまざまな時制を持つ言語とは対照的に、テロップなどの言語に頼った付加的な情報や、あるいは特殊な撮影技法や加工処理を駆使して映像の約束事を呼び出さないかぎり、あらゆる映像は原則的に「現在形」として処理される。逆に言えば、映画における写真とはまさにそのような現在のうちに過去を侵入させ、死の予感とともに「哀愁」や「感傷」をかき立てる特権的な装置なのだ。

 本作の後期オープニングにおける心象イメージとしての実写の風景も、これとよく似た役割を果たしていると考えられる。ステレオタイプ的なセピア色でこそないものの、淡いフィルター加工やカラーグレーディングによって「現在形」としての風景の存在感が薄められ、同様に淡い輪郭線のシルエットで描かれた儚げな少女たちの姿が「過去形」の印象を強めている。とりわけコマごとにシルエットの輪郭の色にバラつきがある点は、彼女たちの存在をひどく頼りないものに感じさせ、ある種の死の予感──とまではいかなくても、過ぎ去ってしまった日々への感傷──を生み出していると言えるだろう。つまりこのシーンでは、アニメーションのうちに加工した実写の風景を挿入することで、たんに視覚的なリアリティを多層化するのみならず、過去へと向かう別の時間、別の時制をも導入しているのである。だからこそ、手描きではない実写の映像であるにもかかわらず、それらが少女たちの夢想する心象イメージとして機能するのだ。

 不可逆的な時間が生み出す哀愁や感傷を少女のシルエットで表現すること。これは吉澤がディレクターを担当した『1st SEASON』のエンディングを否応なしに想起させるものでもある[図5]

図5:『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 1st SEASON』エンディングより、七海やちよ
©Magica Quartet/Aniplex・Magia Record Anime Partners

 『1st SEASON』のエンディングの冒頭にもやはり実写の風景が挿入されており、本作の後期オープニングと通底するものがある。やちよがファッションモデルとして活動している表の姿がシルエットで描かれる一方で、彼女の裏の顔、すなわち魔法少女としての孤独な生き方が狭いエレベーターと一脚の椅子で表現されていたことを考えると、そのコントラストは明白だろう。つまりシルエットによるキャラクターの表現は、確かなはずの現在の希薄さ、かりそめに過ぎない存在の曖昧さを暗示しているのだ。

 あるいは、さらに遡って『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』(2013)のエンディングを連想してみてもよい[図6]。シルエットのみで描かれる2人の少女、そして主題歌であるKalafinaの『君の銀の庭』に歌われる「君」への痛切な想い──「ほんとのことなんて/いつも過去にしかない/未来や希望はすべて/誰かが描く遠い庭の/わがままな物語」。「君の銀の庭」とはまさに現実から遊離した心象イメージそのものであり、こうした想像的な世界、もしくはフィクション内フィクションとも言うべき観念的な風景こそが、実写映像やシルエットによるキャラクター表現に託されているものなのである。

図6:『劇場版まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』エンディングより、2人の少女のシルエット
©Magica Quartet/ Aniplex・Madoka Movie Project Rebellion

『マギアレコード』後期オープニングの冒頭で展開されているさまざまな風景がキャラクターの実際の記憶に基づいたものではなく、あくまでも心象イメージであることは続くショットでも示される。そこで明らかになるのは、主人公・環いろはを駆り立てる実存的不安である。

記憶の欠落を埋める「自撮り」

 いろはが電車のなかで目を覚ますと、彼女の周りには誰もいない。直前のショットでは妹たちが確かに隣にいたにもかかわらず、あたかもすべてが彼女の幻覚にすぎなかったかのように忽然とその姿を消してしまう。電車の床の上に落ちている1枚の桜の花びらが、ひとり取り残されたいろはの孤独を表している[図7]。ここで電車を登場させているのはおそらく、『マギアレコード』というアニメそれ自体が宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』(1934)を参照しているためだろう。

図7:『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON −覚醒前夜−』オープニングより、電車内で目覚めるいろは
©Magica Quartet/Aniplex・Magia Record Anime Partners

 あらためて考えてみれば、物語の当初からいろはの記憶は相当部分が欠落しており、彼女は常に自分自身の記憶の不確かさに悩まされ続けてきた。自身が魔法少女になったときに叶えたはずの願いも思い出せず、最愛の妹であるういの存在さえ疑わしく思えるほどの深刻な記憶喪失を抱えていたのだ。

 それゆえ、いろはは自身の大切な思い出を主観的な「記憶」ではなく、客観的な「記録」として物理媒体に残そうとする。そこで登場するのが、オープニングのラストシーンにもつながる写真の存在である。

 いろははみかづき荘の仲間たちと海へ遊びに行った際、スマートフォンで彼女たちの写真を撮影する[図8]。このことは、彼女の視線とカメラが同一化したかのような一人称視点のショットがいくつも映し出されることで表現されている。これは自身の不確かな記憶が信じられないいろはにとって、大切な思い出を形にすることで少しでも定着させようとする試みなのだろう。

図8:『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON −覚醒前夜−』オープニングより、みかづき荘の仲間たちの写真
©Magica Quartet/Aniplex・Magia Record Anime Partners

 このシーンにおいて特に象徴的なのは、いろはが自分自身をカメラのフレームに収めた「自撮り」をしていることである。写真家の大山顕は、自撮りというきわめて現代的な写真のあり方に着目し、それを写真史における「ひとつの革命」であると形容した。ただし、大山によれば〈自撮り=自分自身を見る〉という視覚経験そのものは、人間の知覚にとってまったく新しいものというわけではなく、視覚的装置としては古くから存在する「鏡」と共通する性質を持っていると指摘する9

 従来の写真撮影が「世界から切り離された主体」を前提としているのに対し、いろはは自撮りを通して「世界と分かちがたく結びついた主体」として自分自身のアイデンティティを再構築しようと試みる。いろはのカメラ=視線を通して描かれるこの一連のショットは、後期オープニングにとって本質的な意味を持つ映像表現のひとつである。

消滅する指標記号

 しかしながら、いろはのささやかな抵抗はまたしても残酷に打ち砕かれる。自撮りを終えた彼女が振り返ると、まるで電車内で妹たちがいなくなるシーンを反復するかのように、みかづき荘の仲間たちの姿もまた消え去ってしまう。さまざまなアングルのロングショットで捉えられるいろはの孤独な姿は「突然目の前の全部しまわれてた/空想でもなくて空耳じゃない声が/傷をそっと癒やしてる」という『ケアレス』の歌詞とともに強く印象づけられる[図9]

図9:『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON −覚醒前夜−』オープニングより、再び取り残されるいろは
©Magica Quartet/Aniplex・Magia Record Anime Partners

 ここで注目すべきなのは、砂浜に「足跡」が残されている点だろう。だが、そこにもやはりいろはの足跡しかなく、先ほどまで確かに一緒にいたはずのみかづき荘の仲間たちのそれは見当たらない。

 記号論の提唱者として知られるチャールズ・サンダース・パースは、記号を「類像記号(イコン)」「指標記号(インデックス)」「象徴記号(シンボル)」の3つに分類した。パースによれば、対象とそれを表す記号とが類似性によって結びついているものが類似記号、両者が物理的かつ直接的に結びついているものが指標記号、そして両者に直接的なつながりがなく、慣例によって結びついているものが象徴記号であるとされる10。この分類に従うなら、足跡は写真と同様に対象の物理的な痕跡を指し示すという意味で、典型的な指標記号のひとつと言えるだろう。

 その物理的な痕跡であるはずの足跡が、たちまち消えてしまうのだ。みかづき荘の仲間たちなど最初から存在しなかったと言わんばかりに、ただいろはの足跡だけが波打ち際に孤独に続いていく。そして、その唯一残されていた自身の足跡さえも、打ち寄せる波がいともたやすくかき消してしまう。これはまた、それ自体としては類像記号であるアニメーションを通じて指標記号を表現することで可能になる、興味深い演出である。

 この足跡に関する描写で思い起こすべきなのは、吉澤が絵コンテ・演出を担当した『1st SEASON』第9話「私しかいない世界」のエピソードだろう。二葉さなと「ひとりぼっちの最果てのウワサ」であるアイが最果ての世界を巡りながら対話するのだが、砂漠地帯と思しき仮想の異空間をともに歩くシーンでは、さなの足跡しか残らない[図10]11

図10:『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 1st SEASON』第9話より、最果ての世界を歩く2人
©Magica Quartet/Aniplex・Magia Record Anime Partners

 この足跡の有無による対比はさしあたり、アイが非人間的な存在であることを直裁に表現するものではある。だがこの演出を踏まえるなら、後期オープニングにおける先の海辺のシークエンスは、いろはにとって恐るべき出来事として経験されたにちがいない。

 記憶に欠落を抱える彼女にしてみれば、みかづき荘の仲間たちは自身の存在を再確認させてくれる、ほとんど唯一のつながりのようなものである。にもかかわらず、彼女たちもまた妹たちのように、あるいは「ウワサ」のように痕跡も残さず消えてしまうのだから12

「手ブレ」に表れる実存的不安

 パースの記号論によれば、対象の光を記録する写真もまた足跡と同じく指標性を伴い、強力な物理的痕跡として機能する。しかしながら、その写真さえもいろはにとってはまったく信用できないものであるということは、すでに『1st SEASON』の第1話から示唆されていた。彼女の記憶の欠落をなぞるように、2人で撮ったはずの写真から妹のういの姿だけが消えているのである[図11]

図11:『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 1st SEASON』第1話より、妹の存在が消された写真
©Magica Quartet/Aniplex・Magia Record Anime Partners

 デジタル技術による画像加工が所与のものとなった現代において、写真は指標記号としての機能を急速に喪失しつつあるといわれている。あたかもそのことと呼応するかのように不自然な空白のあるコラージュめいた写真は、ういの姉としてのいろはのアイデンティティに危機的状況を生じさせることになる。

 彼女の抱えるこの実存的な不安は、後期オープニングのラストシーンにおいても繰り返し表現されており、そこで描かれている最も重要な主題のひとつと言っていい。あらためて万年桜のシーンを確認することにしよう。

 桜は『1st SEASON』のオープニングでもファーストショットとして使われるなど、本作における重要なモチーフのひとつである。なかでも万年桜はいろはにとって、みかづき荘の仲間たちと同じくらい大切な意味を持っている。というのも『Final SEASON』の回想で明かされた通り、それはほかならぬ彼女自身が未来への希望を託して創造した「ウワサ」だからである。

 すでに見たように、後期オープニングのラストシーンにおいて彼女は、頭上の桜をスマートフォンで撮影している。本作における桜と写真の位置づけを踏まえれば、いろはがたんに「綺麗だから」という理由で記録に残しているわけではないことは明らかだろう。だがそうだとすれば、彼女の行為にはどのような意味があるのか。あたかも桜の撮影を通じて、万年桜の先にいるはずの不可視の妹、ひいては自分自身の存在の手触りを確認しようとしているかのようである。

 そのことを最もよく表しているのが、いろはが走りながら桜を撮っている点だろう。常識的に考えれば、走りながら撮影するのは無謀な行為である。いかにカメラの自動補正機能が優れていても、走って撮った映像に「手ブレ」が発生するのは避けられない。ましてやこのシーンでは、続く桜のショットが示しているように彼女は静止画ではなく動画を撮影しており、そのようにして撮られた映像は案の定、激しくブレてしまっている。

 しかしながら、この「手ブレ」こそが重要なのだ。なぜならば、小刻みにブレながら映し出される桜のイメージは、いろはが抱えている存在論的な不安を反映しているからである。

 このショットは、先に取り上げた「自撮り」と同じ枠組みで解釈するとわかりやすいだろう。ここでいろはは「世界から切り離された主体」として対象(桜)を美しく撮影しようとしているわけではない。そうではなく、映像自体のブレを通してそれを引き起こした自分自身の存在をそこに刻み込むこと、すなわち「世界と分かちがたく結びついた主体」であることを再確認しようとしているのである。逆に言えば、世界に自分の居場所がないという不安に駆られているからこそ彼女は自撮りをするのであり、さらには「走って撮影する」という一見すると奇妙な行為をすることにもなる。

 映像のブレは、撮影者がこの世界と確かに結びついていることを示してくれる。このシーンではあたかも、実写の桜と手描きのキャラクターとが和解を果たしているかのようでもある。しかし、それがほかでもないいろはの実存的な不安によって動機づけられていることは、彼女のどこか落ち着きを欠いた浮かない表情からも見て取れるだろう。

少女の視線の先にあるもの

 写真を撮るということ。それは「眼差し」をめぐるコミュニケーションを可視化することでもある。後期オープニングではそのような視線に関するプリミティブなアクションとして、キャラクターの「振り返り」や「振り向き」が何度も反復されている。

 前述したように、オープニングのラストでは万年桜の前に立ついろはが何者かの気配を感じ、こちらを振り返って視線を合わせる。この振り向くアクションは、中盤のモンタージュにおいて特に強調される動きのひとつである。

 オープニングの中盤、みかづき荘のメンバー以外のキャラクターが描かれる一連のショットを見てみよう[図12]。秋野かえでと水波レナ、十咎ももこと八雲みたま、天音姉妹と梓みふゆ、アリナ・グレイと御園かりんのペアが描かれるこの4ショットは、一般的なテレビアニメのオープニングにおけるいわゆる「キャラクター紹介」の役割を担っている。

図12:『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON −覚醒前夜−』オープニングより、キャラクター紹介のショット
©Magica Quartet/Aniplex・Magia Record Anime Partners

 典型的なカット割りではあるが、いずれのショットも不穏な暗さを伴っている点は見逃せない。魔法少女として戦うことを宿命づけられた少女たちが、あたかも舞台上でスポットライトを当てられているかのように照らし出される。とはいえ、逃れられない運命の下で互いの存在を拠り所にしながら日常を過ごす彼女たちを、単純に微笑ましいカップリングとして処理することはできない。このことは各ショットがフレームに対して水平ではなく、不安定に傾いた状態のダッチアングルで描かれていることからも明らかだろう。

 さらに注目すべきなのは、キャラクターの視線の移ろいである。例えば、レナとかえでは互いに見つめ合うように階段の上──これは言うまでもなく「絶交階段のウワサ」のエピソードを彷彿とさせるものである──で寄り添い、ももことみたまは「調整屋」のソファの上で横になりつつも互いに視線を外す。天音姉妹とみふゆは同じ「マギウスの翼」の一員としてみかづき荘とは異なる形の疑似家族を形成しており、ここでも対面の視線によるコミュニケーションが描かれている。そしてこのなかで最も特筆すべきなのは、アリナとかりんをめぐる描写である。

 暗いアトリエで退屈そうに寝転んでいるアリナ。そこに現れた来訪者が勢いよく扉を開け、部屋のなかに一条の光が差し込む。アリナは光のほうに視線を向けると、やってきたのが誰なのかをすでに知っていたかのように、うっすらと笑みを浮かべてみせる。

 黒い影としてしか描かれていないこの来訪者の正体は、アリナの通う学校の後輩にあたる御園かりんである。このショットは一見すると、原作ゲームのファンに対する単なる目配せのように思えるが、実は後期オープニングの構造上の中心点であり、隠れたクライマックスのひとつでもある。なぜならば、このショットはラストシーンにおけるいろはの描写と相似形を成しているからである。

 第一に、両者の共通点はカメラワークの次元において見出すことができる。直前の3組のショットでは画面がそれぞれ異なる方向にパンしていたが、アリナのショットだけはFIX(固定画面)で描かれていることに注意しよう。これは作中における彼女の立ち位置と深く関わっているという意味で、見せ方としてきわめて納得できるものだ。つまりここでは、魔法少女として完全に自立した存在であるアリナを、運命に翻弄されている他の魔法少女たちから区別するために意図的にFIXが用いられているのである。

 第二に、キャラクターの視線の動きも共通している。アリナのショットもいろはのそれも、画面には映らない人物がフレームの手前側に存在し、それを受けて彼女たちがこちらに視線を合わせる。さらには、相手の視線に気づいたキャラクターが一瞬、驚きの表情を見せつつも、すぐに穏やかな微笑みを浮かべる──といった一連の芝居までもが共通しているのは、意義深い符合と言わざるを得ない。

 しかしながら、こうしていくつかの共通項を挙げることによって、両者の明確な違いもまた見えてくる。いろはとは異なりアリナのショットにおいては、手前にいる人物の正体が影の形によって十分に示唆されているという点である。もちろん、その影がかりんのものであるということは──『Final SEASON』最終話のエピローグでその存在がはじめてはっきりと描かれたとはいえ──、多くの視聴者は最後まであずかり知らない事実だろう。しかしそれでも、影の形によってこのショットが一意に解釈可能であること、つまりは人物を特定しうることは理にかなっている。というのも、アリナが微笑んでみせる相手はストーリーの関係上、かりん以外にはありえないからだ。

 だが一方で、万年桜におけるいろはのショットはその限りではない。手前にいるらしい何者かの影は描かれず、瞳の反射で対面の人物を推察させるといった古典的な手法も封じられている。相手の正体が決して明かされない演出は、すでに述べた通り、いろはの視線の先に誰がいるにせよ、それ自体はまったく本質的ではないということを示している。むしろここで意識すべきなのは、いろはが何者かの眼差しを感じたということ、そしてそれに応じて彼女自身の視線が移ろっていく描写そのものであり、これこそが後期オープニングにおいて決定的な役割を果たしているのである。

反転する眼差し

 後期オープニングでは、実存的な不安を抱え葛藤するいろはの姿が随所で描かれている。オープニングのサビにあたる箇所も同様である。彼女が仲間たちと海に行くカットの冒頭ではカラフルな波が打ち寄せ、魔法少女に変身する際にも泡立つ水のエフェクトがオーバーラップするのだが、吉澤の描く水はいつだって、悩み葛藤する主体を不安定に揺らめかせるのだ[図13]

図13:左上から時計回りに『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON −覚醒前夜−』オープニング、『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 1st SEASON』第9話、『3月のライオン』28話(第2シリーズ第6話)、『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 1st SEASON』エンディングより、水のイメージを用いた演出
©Magica Quartet/Aniplex・Magia Record Anime Partners ©羽海野チカ・白泉社/「3月のライオン」アニメ製作委員会

 また、いろはがオープニングにおいてほとんど笑顔を見せない点も特徴的である。彼女が時おりわずかにこぼす笑みは、その直後に常に打ち消される運命にある。いろはにとって安心できる居場所はどこにもなく、それゆえ彼女は得も言われぬ不安に取り憑かれている。

 例えば、オープニングのサビで展開される戦闘シーンも、仲間との絆を主題的に描いた前期オープニングや原作ゲームのオープニングと比較すれば、その異質さは明らかだろう。黒江が登場したり、みかづき荘の仲間たちとコネクトしたりする様子が一応は描かれるものの、このサビの戦闘描写から受ける印象は、彼女たちの絆や連帯感といったものからはほど遠い。さらにこのシーンでは、いろはがなぜ、どのような経緯で戦っているのかといった具体的な描写が意図的に排除されているようにも見える。むしろここで強調されているのは、得体の知れない敵に対して人知れず奮闘する、いろはの孤独な姿である[図14]

図14:『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON −覚醒前夜−』オープニングより、いろはの戦闘シーン
©Magica Quartet/Aniplex・Magia Record Anime Partners

 さて、これまでに後期オープニングのさまざまなショットを取り上げてきたが、ここに来てようやく、結末に置かれた万年桜のシーンを解釈する準備が整ったと言えるだろう。

 走りながら桜を撮影するいろは、桜の実写映像、万年桜、そしてこちらを振り返るいろは──ラストシーンを構成するこれらのショットは、本稿で詳しく分析してきた種々のモチーフや出来事の相関、演出技法などを踏まえれば、たちどころにその意味が明らかになる。「撮る」という行為に託されているのはいろは自身の存在証明の試みであり、実写映像の「手ブレ」は彼女の実存的な不安、そして「振り返る」アクションは視線によるコミュニケーションを提示するものにほかならない。後期オープニングにおいてはあらゆる要素が相互に関連づけられており、そしてそれらの意味作用が最終的に一点に収束するのがこのラストシーンなのだ。

 だがそうだとすれば、そこからは一体どのような解釈が浮かび上がってくるのか。すべてのショットが収斂していく特権的なトポスとしての万年桜、そのラストシーンで描かれているのは、まさしく「反転する眼差し」とも言うべきものである。主体と客体(被写体)、撮る側と撮られる側という関係が、オープニングの結末において鮮やかに逆転するのだ。

 走りながら桜を撮影するいろはのショットが切り替わり、彼女が万年桜の前に立っているときにはすでに、彼女の手元からスマートフォンが消えていることに注意しよう。さらに、後ろ姿のいろはを捉えたラストショットは被写界深度が浅く、当初は彼女の向こう側の万年桜に焦点が当たっているのだが、ピント送りによってこちらを振り向く彼女の姿がはっきりとした像を結ぶ。この映像的な操作は明らかに、このショットがカメラによって撮られたものであることを強調する演出である。つまりこのシーンでは、それまで桜を撮っていたいろはが一転して、撮られる側に立っていることが示唆されているのだ。

 すでに論じてきた通り、後期オープニングにおいて「写真を撮る」という行為は、記憶に欠落のあるいろはにとって大切な人や出来事を「記録」すること、そしてそれによって自身のアイデンティティを再構築することを意味していた。しかしその試みは常に挫折し、彼女はそのたびに実存的な不安に苛まれてきた。ところがこのラストショットでは、彼女は写真を撮る主体から撮られる客体(被写体)へと180度反転している。これによっていろは自身が、誰かの思い出として記録されるべき存在、すなわちフレームの手前にいるらしい何者かにとっての「大切な人」になっていることが明かされるのである。

 そしてこの「何者か」をあえて確定せず、多様な解釈可能性へと開いてみせたことは、以下の2つの点において重要な意味を持っている。第一に、このシーンの主役はキャラクターではなく、あくまで「撮る」という〈行為=アクション〉そのものであるということ。そして第二に、このシーンにおいて本当に注目すべきなのは、いろはに視線を向けている誰かの正体ではなく、視線を向けられている彼女自身であるということだ。

 実存的な不安に苦しめられていたいろはがいつしか、誰かにとっての大切な存在になっている──このあまりにも鮮やかな反転は、いま述べたように、彼女自身がカメラに撮られるという演出によって生み出されている。並の演出家であれば、その瞬間をわかりやすく提示するために、例えば画面に手ブレなどの撮影効果を加えたくなる誘惑に駆られるかもしれない。だが『マギアレコード』の後期オープニングにおけるラストショットは、FIX以外にはありえない。なぜならば、この固定されたショットはまさに、いろはの実存と深く結びついたものだからである。

 ラストショットがFIXで撮られている理由もまた、これまで検討してきた数々のシーンとの関連性をたどることで、容易に理解することができる。いろはが振り向く直前までのすべてのショットに一定の動きが伴っていたこと、そして魔法少女として自立しているアリナの姿がFIXで表現されていたことを踏まえれば、最後に差し込まれたFIXの意義はおのずと明らかだろう。そう、この固定されたショットは、何度となく挫折を味わってきたひとりの人間がそれでも立ち上がろうとする、まさにその瞬間を映し出したものなのだ。

 それゆえに、いろはを捉える最後のカメラは一切の動きを伴ってはならないし、ましてやブレることなどありえない。FIXで撮られたラストショットは、『マギアレコード』の後期オープニングにおける映像的主題とその方法論を凝縮したものであると同時に、本作の主人公・環いろはが真に自分自身の物語の主人公として歩み始める、その幕開けオープニングを飾るものなのである。

おわりに

 これまで見てきたように『マギアレコード』の後期オープニングでは、いろはにまつわる多種多様な「記録」と「記憶」のモチーフを通じて、主に視線によるさまざまなコミュニケーションが描かれてきた。とりわけラストシーンの「反転する眼差し」は、彼女が自身の主体性を再構築し、自己喪失から回復していくさまを鮮やかに映し出している。

 本稿ではオープニングを構成する各ショットの意味作用を詳細に分析することで、いろはの精神的な軌跡を跡づけてきたが、冒頭でも述べた通り、オープニングの映像は必ずしも本編の内容と一致するわけではない。そのため、本稿の議論が『マギアレコード』という作品全体の理解にとってどれほど意味のあるものなのか、という疑念もまた当然ありうるだろう。

 しかしながら、内容に直接の結びつきがないからといってオープニングを軽視することは、とりわけテレビアニメを論じるうえで誠実な態度とは言いがたい。毎週決まった時間に繰り返し放送されるテレビアニメにとって、やはりそのたびに冒頭で反復されるオープニングは、現実の時間の流れを中断してフィクション世界の到来を予告する、ある種のシグナルのようなものである。それは文字通りの意味でひとつの世界の「始まり」を予告するものであり、それゆえに本編で起こりうるさまざまな物語展開とは必ずしも一致しない相貌、すなわち世界が自らを語り始めるときのあの表情をあらわにするのだ。そこにはテレビアニメの「失敗した物語」とは異なる、だがいずれ果たされるべき約束が刻まれている。たとえいくつかの物語がそこへと至らなかったとしても、世界からこの約束が失われることは決してない。本稿が試みてきたのは、まさにそのような世界のもうひとつの “顔” として後期オープニングを読み解くことであった。

 最後に、これまでいろはが万年桜の前で振り返るショットを便宜的に「ラストショット」と呼んできたが、厳密を期すならば、本当の意味でのラストショットはタイトルロゴが表示されるカットであることも指摘しておかなければならない。このタイトルロゴの出し方にもまた言及しておくべきだろう。いろはが振り返り、こちら側に歩みを進めようとする途中でカットされる演出はさながら、カメラのシャッターが切られるかのようである。このオープニングは冒頭こそ「無名の物語」から始まりながらも、最後には彼女自身が物語の主人公として歩み始める、まさにその瞬間を記録しているレコードのだ。

 このようにして後期オープニングは幕を閉じる。あるいは正確にはこう言い直すべきだろう──このようにして後期オープニングは『マギアレコード』という作品の始まりを告げるのであり、正式に幕を開けるのである。いろはの物語はいま、ここから始まるのだ。

著者

あにもに animmony

アニメ制作会社シャフトの作品が世界で一番好き。シャフトに関する論考を集めた合同誌『もにも~ど』を作っています。きっと見に来てくださいね♪

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脚註

  1. 『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 TVアニメ公式ガイドブック2』、芳文社、2022年、118頁。 ↩︎
  2. 『マギアレコード』のゲームで新たに導入されたシステムで、魔法少女が自身の力を別の魔法少女に分け与えて能力を強化すること。アニメではコネクトを発動させる条件として「手をつなぐ」という具体的なアクションが付け加えられた。 ↩︎
  3. 後期オープニングには細かな作画修正や撮影処理の調整、キャラクターの追加などいくつかのバージョン違いが存在している。テレビ放送版やBlu-ray Discのパッケージで収録されたリテイクを含めると最低でも5パターン以上の差分が生まれているが、それらはおおむね細部のクオリティの向上に寄与するものであり、オープニング全体の構造や各シーンの意味作用を大きく揺るがすものではないため、ここでその差異を厳密に検討することはしない。こうしたオープニングやエンディングのバージョンアップを放送中に絶えず繰り返すのは、シャフト作品の特徴のひとつである。 ↩︎
  4. 『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 TVアニメ公式ガイドブック2』、118頁。 ↩︎
  5. 同上。 ↩︎
  6. あにもに「続・終物語』と始まりの物語──超越的・歴史的・自己反省的シャフ度について」、『アニメクリティーク vol.6.5_β ペンギンハイウェイ/文字と映像(序)』、アニメクリティーク刊行会、2018年、52頁。 ↩︎
  7. 吉澤が絵コンテ・演出を担当した『Final SEASON』の第1話でアリナ・グレイがキュゥべえを虐殺するシーンにおいても、この螺旋階段が舞台として採用されている。 ↩︎
  8. スーザン・ソンタグ『写真論』、近藤耕人訳、晶文社、1979年、92頁。 ↩︎
  9. 大山顕『新写真論 スマホと顔』、ゲンロン、2020年、61頁。 ↩︎
  10. チャールズ・サンダース・パース『パース著作集2 記号学』、内田種臣訳、勁草書房、1986年、32–37頁。 ↩︎
  11. このショットはテレビ放送版とパッケージ版とで色味が大幅に変更されている。この他にも『マギアレコード』には作画のみならず演出上の修正が大量に施されており、注意深い比較検討が必要である。 ↩︎
  12. いろはの計り知れない孤独と不安は、突として落ちゆく夕陽と色濃くなる紫色の空模様によっても表現されている。紫色は『魔法少女まどか☆マギカ』のメインキャラクターのひとりである暁美ほむらのパーソナルカラーだが、それ以上にこの色は『叛逆の物語』で描かれた(フィクション内)フィクション世界を表すものであったことは言い添えておく必要があるだろう。 ↩︎

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