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打ち明ける勇気──『映画 バクテン‼︎』に見る自己開示の難しさ|Kaz

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※本記事には『映画 バクテン‼︎』(2022)の結末についての情報が含まれます。

文:Kaz

 2022年夏に公開された『映画 バクテン‼︎』は、青年期の高校生が「自己開示」を行うことの難しさとその重要性をリアルに描き出した作品である。本作では主要なキャラクターたちが自分の気持ちを周囲にうまく伝えられず、人間関係にさまざまな支障をきたしている。そのため、見る者に強いもどかしさを感じさせるのだが、彼らが抱えるこうした困難は「自己開示」という観点を導入することで明瞭に理解することができる。またこれにより、同作におけるキャラクターたちの葛藤がたんにフィクションのなかだけではなく、現代社会を生きる多くの青年たちにも共通するものであることがわかるはずだ。

 では、本作のキャラクターたちはなぜ自分の気持ちを素直に伝えられないのだろうか。言い換えれば、彼らはなぜ「自己開示」に失敗し続けるのか。本稿では、こうした問いに心理学的な観点からアプローチしてみたい。

目次

自己開示とは何か?

 『映画 バクテン‼︎』は、2021年春に地上波で放送されたアニメ『バクテン‼︎』の続編である。宮城県岩沼市を舞台に、私立蒼秀館高等学校(通称アオ高)の男子新体操部がインターハイへの出場を目指すという物語だ。テレビアニメでは最終回でインターハイ出場が決定し、映画ではその続きが描かれている。といっても実際のインターハイでの演技シーンは、映画全体の3分の1にあたる冒頭約30分のみである。むしろ本作のメインストーリーは、新体操部の3年生の先輩が引退した後に、残された2年生の亘理光太郎と1年生の双葉翔太郎、美里良夜の3人がどのように部を盛り上げていくかというものだ。

『映画 バクテン‼︎』より、左から美里良夜、亘理光太郎、双葉翔太郎
©映画バクテン製作委員会

 3年生の引退後、作中では2年生と1年生の雰囲気がぎこちないシーンが何度も描かれる。どうして彼らは互いに良好な関係を築くことができないのだろうか。その理由を理解するための鍵となる概念が、本稿の冒頭で述べた「自己開示(self-disclosure)」である。

 自己開示とは「自分が考えていることや感じていることを正直に相手に伝えること」を意味する。自己開示は相手に対して親密な感情を抱いているという表明にもなるため、自分から率先して行うことで、相手からも同等の自己開示が行われやすくなる効果がある。これを「自己開示の返報性(reciprocity)」という。新体操部の2年生と1年生がギクシャクしているのは、要するに自己開示が適切に行われていないためなのだ。

 本作では、キャプテンを引き継いだ亘理が何かを言いたそうにしているが、結局は何も言えずにその場をやり過ごしてしまう、といった場面がしばしば見られる。たとえば、新体操部の皆が演技についての意見を出し合うなか、亘理だけは何も言わずに黙ったままというシーンがある。新部長として部を引っ張っていくべき立場であるにもかかわらず消極的な亘理は、ついに後輩の美里から「キャプテン辞めてくれて構いませんから」という厳しい一言を浴びせられてしまう。

 3年生が引退して以降、亘理は後輩の信頼を失いかけており、頼れる相手も見つけられず、新キャプテンとしてどのように部を率いていくのかを見つけられずにいた。そもそも亘理は自分から進んで部長に立候補したわけではなく、先輩や監督がいなくなったことで、2年生の自分が引き受けざるを得なかったという経緯がある。部長という立場を意識するあまり、後輩に自分の不安や心配をさらけ出すことができず、ますますストレスを溜めていく亘理。無理をしてリーダーを演じてはみるものの、自分が断ったあるイベントへの出演オファーを後輩が勝手に承諾しまい、部長としての面目も丸潰れとなってしまった。

自己開示によって伝えるべきこと

 今回のような場合、亘理が後輩に行うべき自己開示の内容としては「頼れるものがなくなり、自信がない」というものだろう。しかし亘理は新部長という立場にありながら、というよりはそのせいで部員たちに本音を打ち明けることができなかった。そして自己開示をせずに後ろ向きな態度を取り続けた結果、チームを引っ張っていく存在としてふさわしくないと思われてしまった。そのため、後輩から厳しい言葉を投げかけられてしまったのだ。

『映画 バクテン‼︎』より、苦悩する新部長・亘理光太郎
©映画バクテン製作委員会

 最終的に亘理は自己開示を行うのだが、それは物語のかなり終盤である。後述するライバル校との合同練習を終えて帰路に着く途中でようやく、前キャプテンの七ヶ浜政宗がいなくなり「どうしたらいいかわからない」と後輩や引退した先輩に打ち明けるのだ。もっとも、事前に彼らに相談ができていたら、チーム全員で解決策を考えることができたかもしれない。

 実は今作において適切な自己開示ができていないのは亘理だけではない。そのことは3年生が引退した後の練習シーンによく表れている。双葉翔太郎は演技の練習中もずっと考えごとをしており、まったく集中できていない。美里良夜は、亘理や双葉の調子が悪いことに気づいてはいるものの、それを口に出そうとはしない。ついには、ラストの演舞に向けた練習からの帰り道で思いの丈が爆発し、亘理や双葉に強く当たってしまうのだが、これは上手な自己開示とは言えないだろう。では、なぜバクテンのキャラクターたちはことごとく自己開示に失敗し続けるのだろうか。

自己開示がうまくいかない理由

 まず前提として、自己開示はいわゆる青年期の高校生にとっては難しい行為とされている。青年は「偽りの仮面」を被っているといわれる。自尊心を保つために友人や他者から高い評価を得たいと考えており、その結果、本来の姿を偽って自分をより良く見せようとする傾向があるのだ。しかし、偽った自分を見せ続けることは、自分にとって都合のいい印象操作や、周りの人間を基準とした偏った自己形成につながる危険性がある1。ありのままの自分を相手に見せるためには、まず本当の自分を受け入れなければならない。しかし、亘理も双葉も美里も自身の気持ちを整理できておらず、自分が本当は何をしたいのか/すべきなのか、十分に認識できていない状態にある。つまり、開示すべき「自己」そのものがいまだはっきりと輪郭を結んでいないのだ。

 次に、もうひとつ別の要因として考えられるのは、自分の考えていることや感じていることが相手に否定されてしまうのでないか、という恐れを抱いていることである。これによって自身が精神的に傷つくことが予想される場合、人は自己開示に否定的になる2。亘理は自分のなかの不安や焦りを周囲に伝えることができておらず、後輩からの信頼を失いかける。だがその一方で、新部長としてはそのような内心を打ち明けたとしても、かえって後輩から頼りないと思われてしまうと考えていたのかもしれない。どちらにしても悪い結果を招く可能性はあるが、否定的な結果を予想して自己開示をためらうのは、青年期のひとりの人間として当然のふるまいと言えるだろう。

 これは別の言い方をすると、アオ校男子新体操部の「心理的安全性」が低いということでもある。近年ではコロナ禍における授業や業務のリモート化の進展により、対面でのコミュニケーション機会が減少したため、組織やチーム運営の鍵となる「心理的安全性(psychological safety)」という概念に注目が集まっている。これは文字どおり、自分の考えていることや感じていることを率直に話せる、話しても拒絶されたり非難されたりしないという心理的に安全な環境のことで、この安全性の度合いが集団の成果を大きく左右するといわれる。というのも、心理的安全性が低いチームでは「こんなことを言ったらダメな人間だと思われてしまう」というネガティブな思考に陥りやすいため、チームメンバーはそれぞれが思っていることを口にしなくなり、新しいアイデアや問題の解決策を話し合うどころではなくなってしまうからだ3。3年生の引退により環境が大きく変わった新体操部は、それ以前と比べて心理的安全性が低下していたと考えられる。このような環境下では、ただでさえ困難な青年の自己開示など望むべくもないだろう。

自己開示のきっかけ

 亘理は物語の終盤になってようやく、シロ高との合同演習からの帰り道で新体操部の先輩や後輩に自己開示を行う。先に触れたように、先輩たちが引退してしまったいま、自分には新キャプテンとして部を率いていく自信がない、と率直に打ち明けるのである。この自己開示は明らかに、私立白鳴大学附属高等学校(通称シロ高)との合同練習がきっかけとなったと考えられる。実は新体操部を離れる監督へのサプライズとして、引退した3年生も含めて一緒にパフォーマンスを行うことを後輩が勝手に承諾してしまい、いまの自分たちの状態に危機感を抱いた亘理がシロ高に合同練習を頼み込んだのだ。その結果として、アオ校の演技の質は大幅に向上する。

『映画 バクテン‼︎』より、シロ高男子新体操部のメンバー
©映画バクテン製作委員会

 だが合同練習による一番の成果は、技術や士気が向上した結果、アオ高の男子新体操部が3年生の引退前の雰囲気に戻ったことにある。高校生の部活動においては、互いを尊重し合う雰囲気や仲の良さが、先輩・後輩間のコミュニケーションを促進する4。シロ高との交流を通じてアオ高の面々がそれぞれ自分に足りないものを自覚し、みなが前を向いたことで、部内に漂っていた閉塞感が打破されたのだ。これによって3年生を含めたコミュニケーションの輪が戻り、また自分がキャプテンとして実現した合同練習の成功も後押しとなって、亘理はようやく自己開示のタイミングを見出すことができたのだろう。

 寮に戻ったのち、美里と双葉も自分の思いを率直に打ち明けたのは、前述した「自己開示の返報性」によるものと考えられる。亘理が内心を明らかにしたことが、ひるがえって2人の自己開示を促したのである。逆に言えば、シロ高との合同練習がなければ3人がそれぞれの思いをぶつけ合うことはなく、まともなコミュニケーションが取れないまま男子新体操部として最悪の演技につながっていただろう。

自己開示がもたらす「成長」

 青年期はアイデンティティの確立にとって重要な時期だといわれる。青年期には自分が目指すものやあるべき姿を自分のなかで定義することになるのだが、その際に親や友人といった身近な他者との交流を通じて「こうありたい自分」を取捨選択していく5

 アイデンティティの形成期において、否定的な感情を経験することは大きな危機をもたらす一方6、それを通じて自分自身への認識をアップデートする、すなわち精神的な「成長」のチャンスでもある。またアイデンティティの確立にあたっては、その個人が所属するコミュニティとの相互的な承認関係を築けるかどうかが大きな意味を持つとされる7。亘理にとって今回の一連の出来事は、先輩の引退により大きく変化したコミュニティ=新体操部において、他のメンバーから自分がどう見えるかを意識しつつ、自分自身のあり方を再定義するよう迫るものだった。彼はこの困難な課題を、先輩・後輩に対する自己開示を通じてなんとか成し遂げたのだ。

『映画 バクテン‼︎』より、内省する亘理光太郎
©映画バクテン製作委員会

 旧来の共同体の紐帯がほどけつつある現代社会において、青年期に友人や親しい人に対して自己開示を行うのは決して容易ではない。そのため、現代の青年は本音や心のうちを相手に見せず、表面的かつ希薄な人間関係を築く傾向にあることが報告されている。だが、他人と深い関係を結ぼうとせずに自身の欲求を抑圧すると、情緒的満足が不足して精神的な成長が妨げられる恐れがある8。アイデンティティの形成期に他者への深入りを避けることは、たしかに人間関係に由来する苦悩を取り除いてくれるかもしれないが、同時に自分自身への認識を深める契機もまた失われてしまうだろう。

 相手を知るためにはまず自分をさらけ出す必要がある、とはよくいわれることだ。しかし、いくら書物や教師を通じてその大切さを教えられたところで、そうやすやすと自己開示ができるようになるわけではない。むしろ自分にはできないと諦めてしまったり、自分には必要ないと反発したくなったりすることもあるかもしれない。本作のようなフィクションがそのもっとも崇高な使命を果たすのは、まさにここにおいてである。

 『映画 バクテン‼︎』では、亘理の葛藤を通じて青年期の自己開示の難しさを示すとともに、ついにはそれを成し遂げて精神的な成長を果たした彼の姿をも描いてみせた。もちろん、亘理の自己開示はあくまで作中の先輩や後輩に宛てられたものにすぎない。だがそこに私たち視聴者が、そしてほかでもないあなた自身が含まれていないと、どうしてそう考えることができるだろうか。本作はそれ自体がひとつの自己開示であるかのように自らを打ち明けるのであり、そしてまさにその返報性があなたに、自分自身を他者へと開く勇気を与えてくれるはずだ。

著者

Kaz

アニメのアカデミア界隈をウロウロしています。見かけたらこっそり声をかけてください……

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脚註

  1. 廣實優子 (2003)「現代青年の交友関係に関連する心理学的要因の展望」『広島大学大学院教育学研究科紀要. 第三部, 教育人間科学関連領域』51,pp. 257–264. ↩︎
  2. 福森崇貴,小川俊樹 (2006)「青年期における不快情動の回避が友人関係に及ぼす影響──自己開示に伴う傷つきの予測を媒介要因として」『パーソナリティ研究』15 (1),pp. 13–19. ↩︎
  3. Amy Edmondson (2014) “Building a psycologically safe workplaceTed Talks. ↩︎
  4. 小野雄大・庄司一子 (2015)「部活動における先輩後輩関係の研究」『教育心理学研究』63 (4),  pp. 438–452. ↩︎
  5. 杉村和美 (1998)「青年期におけるアイデンティティの形成関係性の観点からのとらえ直し」『発達心理学研究』9 (1), pp. 45–55. ↩︎
  6. 山影有利佐 (2010)「青年期の成長契機場面と感情, 成長過程行動に関する検討 −愛着スタイルに着目して−」『青年心理学研究』22,pp. 17–32. ↩︎
  7. 河井亨 (2011)「自己とコミュニティの関係についての社会学的考察 : G. H. ミードとE. H. エリクソンの再読を通じて」『京都大学大学院教育学研究科 紀要』 57,pp. 641–653. ↩︎
  8. 福森,小川 (2006). ↩︎

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