※本記事は、サブカルチャー評論同人誌『セカンドアフター vol. 1』(2011)所収の論考を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。
The Allegory of Angel Wings: A Theological Reading of K-ON!! toward the End|teramat
文:てらまっと
希望なき人々のためにのみ、希望は私たちに与えられている。
ヴァルター・ベンヤミン
プロローグ
2011年3月11日──。あの日を境に、オタク文化もまた変わってしまったのだろうか。森川嘉一朗によれば、オタク文化は「永続する強固な日常(とその閉塞感)」の上に成立してきたが、いまや「永続する日常という基盤自体に亀裂が走っている」1。また竹熊健太郎によれば、オタク的な表現は「変質するしかない」。なぜならそれは、オタクの「豊かな日常を前提としたライフスタイル」2に支えられているからだ。森川と竹熊の投稿は賛否両論を呼んだが、あのとき感じられた「終わり」の感覚は、いまなお多くの人の心に影を落としているのではないか3。
「終わりなき日常」はたしかに終わった4。けれどもそれは、東浩紀が指摘しているように、私たちが「ばらばらになってしまった」5という意味においてである。「終わりなき日常」が終わりを迎えたのは、非日常や例外状態が全面化したからではないし、ましてや世界そのものが終わってしまったからでもない。そうではなくて、私たちの日常そのものが分断され、ばらばらになってしまったからだ。それは言い換えれば、私たちが「意味を失い、物語を失い、確率的な存在に変えられてしまった」6ことを示唆している。
いまだに行方不明の人、家族や友人を亡くした人、住みなれた土地を追われた人、国外に脱出する人、原発を復旧する人、新政府を立ち上げる人、会社に出勤する人、恋人とデートする人、子どもと遊ぶ人、家でアニメを見る人……。ある人の日常は終わり、またある人の日常は終わらない。そうだとすれば、いま私たちの目の前に広がっているのは、終わりなき日常でも非日常でもなく、ある意味でひどく当たり前の、確率的に「終わったり終わらなかったりする日常」ではないだろうか。あるいは宇野常寛の言葉を借りて、「非日常的な緊張感を内包した日常」7と言ってもいい。いずれにせよそれは、遅かれ早かれ「いつか終わる」という不吉な予感をはらんだ日常である。
本稿で私が問題にしたいのは、たとえば宇野や濱野智史が切り開いたような、オタク文化をはじめとする「ネットカルチャーやポップカルチャーによる連帯」の可能性ではない。「終わりなき日常」がばらばらになってしまったいま、ニコニコ動画やツイッターのおしゃべりに、そのような「連帯」の希望を見てとることは難しい。もちろん、これらのサービスは今後も変わらずに続いていくだろう。そしてあいかわらず私たちは、アニメやマンガやゲームにのめりこみ、ああでもないこうでもないとしゃべり続けるだろう。
だが私たちの言葉が一瞬途切れ、沈黙が支配するわずかな瞬間に、人ならざる者たちの声なき声が語りはじめる。私たちはそれぞれの「終わり」を意識する。動物的な快楽にも、あるいは人間的なコミュニケーションにも還元できない、たったひとつの私の終わりを。
私たちは誰しも、それぞれの終わったり終わらなかったりする日常を抱えながら、いつか逃れられない終わりを迎えるだろう。けれどもそれは、ばらばらに引き裂かれてしまった私たちにとって、むしろ最後の紐帯とでも言うべきものである。だからこそ私は、新しい連帯の可能性について語る前に、その可能性の条件であるところの、還元不可能な終わりについて考えてみたいのだ。
私の終わりはあなたの終わりではない。だがあなたの終わりもまた、私の終わりではありえない。そしてそのことが明らかになるのは、ひとえにあなたがいてくれるからである。私のかたわらで、私の終わりを看取ってくれるからである。そこには共有しえないものを分有する経験があり、ただそのようにして私たちは、かすかな連帯の──あるいは共同体の──残滓を認めることができる。
おそらく愛とは、そのようなものであるにちがいない。たったひとりで終わりを引き受けることはできない。決してひとつに溶け合うことのない身体。ぎこちなく重なり合い愛撫し合う、傷つきやすい2つの肉体。私たちは避けられない終わりにおいて、とはつまり互いの絶対的な有限性が露呈する地点で、ようやく愛することを学ぶ。フランスの批評家モーリス・ブランショは、それを「恋人たちの共同体」8と呼んだ。
しかしそうだとすれば、死者たちはどうか。人ならざる者はどうか。あらかじめ生なき者たちは、それどころか交換可能で、複製可能で、生も死もない存在であるところのキャラクターはどうだろうか。
大きな揺れで落下し、ばらばらに壊れた美少女フィギュアを前にして、私たちは「喪失」を経験することができるだろうか──まるで家族や友人や恋人を失ったかのように。そんなことはまったく不可能である。私たちはそれぞれの終わりを、互いの有限性を分かち合うことができない。それゆえ愛することができない。私たちは一方的に「萌え」ていただけであり、いまやそれすら不可能である。綾波レイのあまりにも有名なセリフを思い出そう──「私が死んでも代わりはいるもの」。そのような終わりにおいて露呈するのは、キャラクターにおける絶対的な有限性の欠如であり、互いの非対称性であり、人間的な愛の不可能性であり、したがって「喪失の喪失」である。
だがそのようにして私たちは、互いの有限性を分有するのとはちがうかたちで、すなわち愛するとは別の仕方で、それぞれの「終わり」へと送り返される。遍在するキャラクターの巨大なまなざしが、いたるところから私を見つめている。私たちはつねに共にあった。互いにまったく異なる存在として、しかしそれゆえにこそ奇跡の到来を待ち望みながら。それは決してひとつになることではない。互いを隔てる差異を乗り越えることではない。そうではなくて、自らの有限性において普遍的なものに接触し、そのような接触において自らの有限性を引き受けることである。それは「天使にふれる」経験にほかならない。
本稿の内容をごく簡単に説明しておこう。私たちはまず、空気系アニメについての分析から出発する(第1部)。それは「キャラ萌え」に特化することで、私たちの「終わりなき日常」を豊かに拡張しようとする試みだった。次に、空気系アニメの金字塔とも言うべき『けいおん‼』最終回の神学的解釈を通じて、空気系から排除された「終わり」の問題を取り扱う(第2部)。そこで見出されるのは、最後の日に訪れる「救済」の予兆であり、天使のまなざしにふれる経験である。続けて私たちは、ヴァルター・ベンヤミンのアレゴリー概念を手がかりに、梅ラボとthreeという2組のアーティストの作品を取り上げる(第3部)。彼らはキャラクターのイラストやフィギュアをばらばらに分解し、私たちに喪失の不可能性を突きつける。しかしそれは同時に、廃墟におけるアレゴリー的復活の可能性を指し示すものでもあった。そして最後に名高い「コピペ」を解読しつつ、本稿は閉じられる。
私たちは一貫して愛と死の問題について論じる。およそ論理的とは言いがたい “電波” な文章だが、私にはそれ以外の文体は考えられなかった。というよりも、いつのまにかそうなってしまった(たぶん「深夜ポエム」みたいなものだろう)。だが、コミュニケーションの連鎖からこぼれ落ちるもののなかに、沈黙や絶句や嗚咽のなかに、はじめて到来する一人称複数形というものがあるのではないか。はじめよう。
終わりなき日常を生きる──空気系とキャラ萌えの技法
「空気系」あるいは「日常系」と呼ばれるアニメのジャンルがある。芳文社の『まんがタイムきらら』系列雑誌に掲載されているような、いわゆる「萌え四コマ」を原作とするアニメ作品の総称である。
1999年に連載がはじまり、翌年にアニメ化された『あずまんが大王』を嚆矢として、2007年に放送された『らき☆すた』と、2009年の『けいおん!』およびその続編『けいおん‼』の大ヒットをきっかけに、空気系・日常系アニメは、2000年代後半を代表する主要なジャンルのひとつと見なされるようになる。
これらの作品では、女子高生・女子中学生たちの他愛ない「日常」や、のんびりとした「空気」の描写に主眼がおかれ、喉が指摘するように「女性キャラクターの恋愛対象となるような男の子、日常生活を妨げるような敵、あるいは葛藤や自意識の問題といった内面的な障害は全て作品世界から取り除かれる」10。
しばしば空気系の作品に「明確な物語が存在しない」11といわれるのは、それがもともと四コマ漫画原作だからというだけではなく、大きな事件や出来事を引き起こしかねない要因が、あらかじめ慎重に排除されているためだ。その理由ははっきりしている。いつか「終わり」が訪れる物語の構造は、女子高生たちの「終わりなき日常」を描くには不都合だからである12。たとえ原作が完結しても、アニメ放送が終了しても、彼女たちの輝かしい日常はいつまでも続く──空気系アニメはほぼ例外なく、そのような “お約束” の上に成立している。「俺たちの戦いはこれからだ!」ならぬ「私たちの日常はこれからも!」というわけだ13。
しかしそうだとすれば、なぜそのような奇妙なアニメが、一部視聴者の熱狂的な支持を獲得しえたのだろうか。それはおそらく、私たち自身の生のあり方そのものに関係している。私たちはおそらく、バブル崩壊以後の「終わりなき日常」を生きるためにこそ、フィクションとして理想化された「終わりなき日常」のモデルを必要としたのである。『らき☆すた』が火付け役となった聖地巡礼ブームの背景には、この二重化された日常──というよりも、日常それ自体を拡張しようとする飽くなき情熱──が存在する。
空気系アニメは恋愛を排除することで、終わりなき日常が物語化されてしまう、つまりは「終わり」に直面する可能性を消し去ると同時に、より効率的にキャラクターに「萌える」ことを可能にしたといわれている。ごく単純化して言えば、多くの男性視聴者にとって、作品内に異性のパートナーがいるキャラクターよりも──カップリング萌えや関係性萌えといったものはもちろんあるが──、恋愛経験の少ない、というかほとんどないキャラクターのほうが、より感情移入しやすいようだ。
アニメ評論家の氷川竜介は、画面のなかに男性主人公(プレイヤー)が描かれない「美少女ゲーム」との連続性を指摘している14。男性キャラクターが登場すると、それだけで感情移入の邪魔になってしまうというのである。実際に2011年に放送された『ゆるゆり』では、作中から男性キャラクターが完全に排除されたうえ、女子中学生同士の友情や恋愛模様がコミカルに描かれ、男性視聴者の圧倒的な支持を集めた。
もちろん人気の理由はそれだけではないが15、いずれにせよ空気系アニメにおける「キャラ萌え」の効率化は、私たちにとってきわめて重要な意味をもっている。なぜならキャラクターに萌えるというふるまいは、ほかならぬ「終わりなき日常」を生きるために編み出され、洗練されてきたひとつの生の作法だからである。
コピーにアウラを宿らせる能力
キャラ萌えの本質とは何か。それはひとことで言ってしまえば、「コピーにアウラを宿らせる能力」16である。「アウラ(オーラ)」とは周知の通り、ドイツの批評家・思想家であるヴァルター・ベンヤミンの有名な概念で、コピーにはないとされるオリジナルの神秘的な権威や、伝統に由来する重々しい雰囲気といったものを指している17。
ところが、いまや私たちはオリジナルともコピーともつかない「シミュラークル(まがいもの)」であるはずのキャラクターに、〈いま・ここ〉にしかないアウラを見出してしまう18。それどころか、ニンテンドーDSソフト『ラブプラス』(2009)のヒットに見られるように、私たちはデータにすぎないキャラクターとの擬似的な恋愛を楽しむことさえできる。では、この逆説的な能力はどのようにして獲得されたのだろうか。
よく知られているように、批評家の東浩紀は『動物化するポストモダン』のなかで、キャラ萌えが「つねにキャラクターの水準と萌え要素の水準のあいだで二重化されて」いることを指摘している。
〔…〕九〇年代のオタク系文化を特徴づける「キャラ萌え」とは、じつはオタクたち自身が信じたがっているような単純な感情移入なのではなく、キャラクター(シミュラークル)と萌え要素(データベース)の二層構造のあいだを往復することで支えられる、すぐれてポストモダン的な消費行動である。特定のキャラクターに「萌える」という消費行動には、盲目的な没入とともに、その対象を萌え要素に分解し、データベースのなかで相対化してしまうような奇妙に冷静な側面が隠されている。19
東のいう「萌え要素」とは、オタク的な感性を刺激するさまざまなガジェット(ネコミミやメイド服、スクール水着といった視覚的な要素だけでなく、変わった口癖や性格といった設定も含まれる)のことだ。そしてそれぞれのキャラクターは、そのような萌え要素の「データベース」のなかから、いくつかの要素を組み合わせることで生成される。そして東の考えでは、キャラクターに萌えるという経験は、シミュラークルとしてのキャラクターに「盲目的に没入」する一方で、キャラクターを萌え要素に「分解」し、再びデータベースへと還元する(そしてまた新たなシミュラークルを作り出す)という往復運動によって特徴づけられる。
キャラ萌えに見られるこのような二層構造は、東によれば、オタク的主体の「解離的」なあり方に対応している。オタクたちは、シミュラークルへの生理的・動物的な「欲求」と、データベースへの社交的・人間的な「欲望」を切り離し、両者を結びつけることなく共存させているのだという。
たとえば『Kanon』(1999)や『AIR』(2000)といった “泣ける” ノベルゲーム(美少女ゲーム)では、「不治の病」とか「前世からの宿命」とかいったような、典型的な萌え要素の組み合わせ(シミュラークル)による「効率のよい感情的満足」が与えられる。それは東が言うように、知的な観賞態度というよりも生理的で動物的な欲求を満足させようとする、いわば「薬物依存的」な消費行動である21。
しかしその一方でオタクたちは、しばしばノベルゲームのシステムそのものに侵入し、データベースから抽出したキャラクターや背景のイメージを加工・編集することで、新たなシミュラークルを再構成する。ニコニコ動画にアップロードされた膨大な「MAD動画」の数々は、誰かに見せたい、評価されたいというオタクの社交的で人間的な欲望を、素直に反映していると言えるだろう。
この解離的な二重性は、「コピーにアウラを宿らせる能力」としてのキャラ萌えと深く関係している。ノベルゲームをプレイするオタクたちは、そのゲームがマルチストーリー/マルチエンディングであり、したがって「作品内の運命が複数あることを知りつつも、同時に、いまこの瞬間、偶然に選ばれた目の前の分岐がただひとつの運命であると感じて作品世界に感情移入している」23。本来いくつもあるはずのキャラクターの「運命」に泣いたり萌えたりすることができるのは、シミュラークルへの動物的な欲求が、データベースへの人間的な欲望から切り離されているためだ。「シミュラークルの水準での動物性とデータベースの水準での人間性の解離的な共存」24こそが、コピーにアウラを宿らせるという逆説を可能にするのである。
日常を拡張する技術
シミュラークルへの動物的な欲求と、データベースへの人間的な欲望の解離的な共存が、キャラクターに萌えるという逆説的なふるまいを支えている。そして私たちにとって重要なのは、そのような二重化された主体のあり方が、近代的な超越性(神や国家や革命といった「大きな物語」)の失墜によって要請されているという点だ。
かつては東が言うように、それぞれの「小さな物語」(見えるもの)から、その背後にある「大きな物語」(見えないもの)へと遡行し、それによってアウラを見出す(オリジナルとコピーを区別する)ことができた。ところが「大きな物語」が失われたポストモダンな社会では、深層に「大きな非物語」としてのデータベースしか存在しないため、表層のシミュラークルを意味づけることができない(それゆえオリジナルとコピーを区別できない)のだという。したがって私たちは、目に見えない超越的なものにたどり着こうと試みながら、結局はシミュラークルの水準で “横滑り” を続けるしかない。これを東は「過視的なポストモダンの超越性」25と呼んだ。
キャラクターグッズや二次創作のコレクションに対する、オタクたちの執拗なまでの情熱は、そのような超越性──というよりは超越の不可能性──の典型的なあらわれだろう。私たちはお気に入りのキャラクターを「所有」するために、あるいは彼女に「ふれる」ために、公式・非公式を問わずさまざまなグッズを買い集め、ときには自ら創作まで行うが、意中のキャラクターそのものにたどり着くことは決してありえない。キャラクターに萌えるということは、果てしない横滑りの恍惚に身をまかせることにほかならない。
キャラ萌えが「終わりなき日常」を生きるための作法であるというのは、このような意味においてである。動物的な快楽と人間的なコミュニケーションをぐるぐる往復しながら、シミュラークルの終わりなき横滑りに没入すること──それこそが「大きな物語」なきあとで「終わりなき日常」をやり過ごすための、ひとつの生のかたちなのだ。
しかしそれでも私たちは、あいかわらずどこかで「終わりなき日常」を終わらせる「デカイ一発」27を夢見ているのかもしれない。たしかに『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)をはじめとする、いわゆる「セカイ系」と呼ばれる作品の流行や、あるいはオウム真理教による無差別テロ事件の背後には、ハルマゲドン的な「世界の終わり」を引き起こすことで「終わりなき日常」から脱出しようとする、ロマンチックな憧れが透けて見える。そこで描かれる典型的なモチーフは、少年と少女、2人だけの終わった世界──宮台のいう「核戦争後の共同性」28──である。
ブランショもまた「恋人たちの共同体」が「社会の破壊をその本質としている」ことを指摘している。「二人の存在者がささやかな共同体を形成するところには、〔…〕戦争機械があるいはより正確に言えば大災厄の可能性がつくり出されるのであり、分量自体は極小であるとしてもこの可能性のうちには全般的絶滅の脅威が含まれている」29。
しかしだからといって、セカイ系アニメの愛好者がテロリスト(ないしはテロリスト予備軍)ではないのはもちろん、核戦争による「世界の終わり」を本気で待ちわびているわけでもない。少なからぬ人々が「文明社会が滅亡する夢想にふけることを閉塞感のはけ口としている」30としても、それ自体は別に倫理的に非難されることではないし、そのような願望はつねにキャラ萌えによって脱臼させられ、「終わりなき日常」へと回収されていると言うべきだろう。
『エヴァンゲリオン』に登場する2人のヒロイン、綾波レイと惣流アスカ・ラングレーは、いまでも熱烈な崇拝者を数多く抱えている。あるいはセカイ系と空気系のハイブリッドとして、アニメ化もされた大人気ライトノベル『涼宮ハルヒの憂鬱』(2003)を参照してもいいかもしれない31。涼宮ハルヒが退屈な現実からの脱出を夢見ながら、それと知らずに宇宙人や未来人や超能力者たちと日常を謳歌するさまは、物語と現実のねじれた関係を見事に描き出している。
その一方で、空気系や日常系に分類される作品は、宇野のいう「拡張現実的な想像力」に対応している。それは「外部=〈ここではない、どこか〉に越境するのではなく〈いま、ここ〉の井戸にどこまでも潜り、そして多重化していく想像力」32なのだという。あるいは美術批評家の黒瀬陽平が指摘するように、「いまやアニメのリアリティは、虚構世界の箱庭では完結させることができず、現実世界と並行させることによって確保されている」33。ありそうにない物語を排除し、キャラ萌えを最大限に効率化することで、私たちの「終わりなき日常」の上にもうひとつの「終わりなき日常」を重ね合わせること──。空気系アニメが目指したのは、「世界の終わり」を逃避的に夢見ることなく、私たち自身の「終わりなき日常」そのものを多重化し、拡張しようとする実験的な試みだった。
したがって、実在する風景を忠実にトレースしアニメの背景画として取り込む手法や、あるいはそこから火がついた「聖地巡礼」ブームが、空気系アニメの流行とともに盛り上がったのは偶然ではない34。そして宇野や黒瀬が言及しているように、これらの現象は、現実の場所にヴァーチャルな情報を付加する「拡張現実(AR)」と呼ばれる技術を思い起こさせずにはおかない35。
わかりやすい例としては、たとえば「セカイカメラ」というスマートフォン用アプリケーションや、あるいはアニメ『電脳コイル』(2007)に登場する「電脳メガネ」が挙げられる。それらを覗くと、現実の風景の上にさまざまな文字や画像が重なって見える。つまり拡張現実においては、いくつもの「レイヤー」の重なり合いとして現実が構成されるのだ。「Virtual Reality(VR=仮想現実)では、現実空間とは独立した虚構の空間(サイバースペース)を立ち上げることが強く志向されていたのに対して、ARは、あくまで現実空間にかさね合わせるかたちで情報が配置されていく」36。
私は別のところで、複数のレイヤー間の認知的な「ズレ」が露呈したイメージを、村上隆の「スーパーフラット」と区別して「マルチレイヤー」と呼び、現実を多層的なレイヤー構造として捉える視点を「マルチレイヤー・リアリズム」と名づけたことがある37。
しばしば透視図法的なリアリズムで描かれる背景画(背景レイヤー)と、記号的にデフォルメされたキャラクター(前景レイヤー)を合成して作られるアニメやノベルゲームの映像は、マルチレイヤーなイメージの典型例である。あるいは美少女フィギュアを屋外で撮影した写真や、PhotoshopやSAIといったソフトで制作される美少女キャラクターのコンピュータ・グラフィックを挙げることもできるだろう。アニメやゲームの映像にとどまらず、すでに多くの若いアーティストたちが、オタク文化の枠を超えてこの新しい現実認識の問題に取り組んでいる38。ありふれた日常を多重化・多層化するまなざしは、いまや異世界をはるか遠望する視線に代えて、私たちの身体に直接インストールされつつあるようだ。
私たちはアニメの舞台となった “聖地” に参拝し、キャラクターグッズや二次創作を買い集め、飽きることなくネットで情報交換しながら、果てしないシミュラークルの奔流に押し流されていく──不安定に揺れ動くレイヤーのはざまに、確率的な終わりが待ち受けているとも知らずに。
キャラ萌えの中断
空気系や日常系と呼ばれるアニメは、私たちが「終わりなき日常」を生き抜くための「キャラ萌え」成分を供給してくれる。この点で、たとえば「空気系には物語がないから退屈だ」というよくある批判は当たらない。なぜなら空気系アニメとは、宇宙や異世界といった物語的な外部を召還することなく、あくまで〈いま・ここ〉に踏みとどまりながら、私たちの動物的な快楽と人間的なコミュニケーションを充足させようとする、いわばオルタナティブな生のモデルだったからである。
退屈な日々から脱出しようともがくのではなく、魅力的なキャラクターたちに萌えながら、毎日を楽しく生きること。「『らき☆すた』の登場人物たちが、漫画、アニメ、ゲームなどの話題で日常の生活空間を彩るように、〔…〕現代の消費者たちはそんなキャラクターたちを用いて日常生活空間を彩っていく」39。
空気系アニメに登場する等身大のヒロインたちは、私たちの「終わりなき日常」に寄り添い、今日とさして変わらない明日を生きるための、ほんの少しの元気を分け与えてくれる。つまりキャラ萌えに特化した空気系の作品は、「大きな物語」の凋落に対する優れたセーフティー・ネットとして、もしくは良質の「サプリメント」として機能していたのである。なるほど、そこにはたしかに「日本の若者は不幸じゃない」40と言い切れるだけの可能性があった。
数万人の死者・行方不明者が出たあの日。永遠に続くかに見えた私たちの日常は、ある日突然ばらばらになってしまった。より正確には、そのことがようやく可視化されたと言うべきかもしれない。いずれにせよ私たちは、あれからずっと確率的な「終わり」の予感につきまとわれている。けれども空気系や日常系の作品は、私たちの根源的な問いに対する答えを与えてはくれない。というのもそれは、明確な物語を排除し、やがて訪れる終わりの可能性を消去することで、果てしないキャラ萌えの往復運動を積極的に肯定する、そのような作品の総称だったからである。
もちろん空気系アニメがすべて “オワコン” になったとか、あるいは逆にセカイ系が復活して “覇権” を握るなどと主張するつもりはまったくない。すでに述べたように、それぞれの日常が完全に消え去ったわけでも、ましてや世界そのものが滅びたわけでもないからだ。新しい/古いの二分法はたしかに魅力的だが、いささか繊細さと誠実さに欠ける。それどころか野蛮でさえあるだろう。
しかしそうだとしても、「終わりなき日常」を生き抜くための生の作法は、原理的に「終わり」の問題を扱えない。それは「終わらない」ことへの苦悩に対処するためのものであって、いつかやってくる還元不可能な終わりを引き受けるためではなかったのだから。
私たちがまるで何事もなかったかのように、アニメやマンガやゲームについてしゃべり続けるしかなかったのは、したがってそのような「喪失」の経験を受けとめる術を知らなかったせいかもしれない。それとも東が予見していたように、シミュラークルが全面化した現代社会においては、現実の人間の死もキャラクターとの別れも、すべてが一元的な「キャラ萌えのグラデーション」42に回収されてしまうのだろうか。遠い被災地の映像と美少女キャラクターの画像がフラットに並べられ、萌える(泣ける)かどうかだけで感情移入の度合いが決まる──それがキャラ萌えの正義であり、過視的なポストモダンの倫理である43。
だがそうだとすればなおさら、私たちはそこで本当に失われたもの、すなわち「喪失の喪失」にこそ目を向けるべきではないか。もはや倒壊した美少女フィギュアに「萌える」ことはできない。かといって私たちは、彼女を愛していたとうそぶくこともできない。キャラ萌えが暴力的に中断され、シミュラークルとデータベースのあいだの往復運動が停止する瞬間。人間的な「喪失」の不可能性が露呈する、そのような空白地帯に踏みとどまることで、私たちはそれぞれの避けられない終わりを引き受ける。破局的な「世界の終わり」へと短絡することなく、自らの「終わり」に向けて歩み出すことができる。
そのための足がかりはどこにあるのか。2000年代後半の空気系を代表する作品でありながら、同時に「終わり」の問題を真正面から引き受けた特異なアニメが存在する。『けいおん‼』である44。
そして天使は舞い降りた──『けいおん‼』最終回について
『けいおん‼』は『まんがタイムきらら』誌に連載中の萌え四コマを原作とするアニメ『けいおん!』の第2期として制作され、前作に続いて社会現象といわれるほどの大ヒットを記録したアニメである。第1期から引き継がれた高いクオリティや、モデルとなった旧豊郷小学校への聖地巡礼の過熱化、さらには作中で使用されたさまざまな小道具──たとえば楽器や文房具といった品々だが、これらを「聖地」になぞらえて「聖遺物」と呼ぶことができるかもしれない──を次々と特定する熱狂的なファンの出現は、まさに無数のシミュラークルを通じて「終わりなき日常」を拡張しようとする、空気系アニメのひとつの到達点と呼ぶにふさわしい。
キャラ萌えに見られる動物的な欲求と人間的な欲望の往復運動は、両作品において極限まで圧縮・洗練され、「あずにゃんぺろぺろ」という粘膜接触のメタファーによる、オタク同士の果てしない連鎖的コミュニケーションへと進化する45。2ちゃんねるやツイッターで「ぺろぺろ」がどこまでも続いていく(あるいは「非公式RT」されていく)さまは、「萌え」に見られる植物的な生成のモチーフを飛び越え、オタクという「データベース的動物」たちの純粋な毛づくろい的コミュニケーションを思わせる46。それはまさに「終わりなき日常」の象徴とも言うべき光景だった。
この希有な作品を手がけたのは、同じく大ヒットしたライトノベル原作アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』や、空気系の文法を確立した『らき☆すた』、あるいは『AIR』や『Kanon』、『CLANNAD』といった美少女ゲームブランド「key」原作のアニメ化で知られる京都アニメーション(以下、京アニ)である。このラインナップは実はきわめて重要な意味をもっているのだが、それについてはまた後で詳しく述べることにして、まずは第1期『けいおん!』の内容を簡単に紹介しておこう。
これといって特技も趣味もない主人公の平沢唯は、高校入学をきっかけに勘違いから軽音部へと入部し、そこで出会った仲間たち(同学年の田井中律・秋山澪・琴吹紬と、第8話から登場する後輩の中野梓)とガールズバンド「放課後ティータイム」を結成する。唯たちは楽器の練習そっちのけで放課後の音楽室に集い、お茶とお菓子を満喫し、女子高生らしいたわいない会話に花を咲かせる。かつて東は「『けいおん!』の世界は無時間的な感じがする」47と評したが、たしかに第1期で描かれていたのは、彼女たちの「終わりなき日常」以外の何ものでもなかった。放課後の光のなかで戯れる少女たちの楽園──つまりはそれが、空気系の極北としての『けいおん!』である。
しかしながら、杉田uが「『けいおん』の偽法——逆半透明の詐術」のなかで鋭く指摘しているように、私たちは第1期『けいおん!』の最終回(第12話)「軽音!」をきっかけとして、唯たちの日常が決して「無時間的」な楽園ではないことに気づく。家に忘れたギターを背負い、仲間たちが待つ学校へと急ぐ唯の姿が、第1話の登校シーンを彷彿とさせる演出で描かれる。「1話では転んで尻餅をつき、ことあるごとに道草を食っていた唯が、12話においては転ばず、止まらず、休まず、全力で疾走していく」48。これまで天真爛漫な自由人としてふるまってきた唯が、迷惑をかけた軽音部のメンバーに謝罪し、感きわまって涙ぐむとき、私たちはそこにかすかな成長の痕跡を認めずにはいられない。
昨日と同じ今日、今日と同じ明日が続くかに見える「終わりなき日常」は、しかしゆるやかな螺旋を描いて、少女たちを終わりへと導いていく。
終わりなき日常の終わり
第1期『けいおん!』は、主人公である唯の成長を暗示して幕を閉じた。これに対して第2期『けいおん‼』では、やがて訪れる終わりの予感が、少女たちの「終わりなき日常」にいっそう色濃く影を落としている。そして私たちもまた、ひとりの可憐な少女のまなざしを通じて、二重化された「終わりなき日常」の終焉に立ち会うことになるだろう。
放課後ティータイムのギター担当である中野梓ことあずにゃんは、第2期『けいおん‼』の最終回(第24話)「卒業!」が近づくにつれて、避けられない「終わり」を強く意識しはじめる。あずにゃん以外のバンドメンバーは、みんな卒業していなくなってしまうからだ。唯たち3年生はそろって同じ大学に進学し、ひとり学年のちがう彼女だけが、誰もいない放課後の音楽室に取り残される。「終わりなき日常」の分断。だがここで重要なのは、孤独な終わりにおびえるあずにゃんのまなざしが、『けいおん‼』を見る私たち視聴者の視線と重ね合わされている点である。
杉田は先の論考のなかで、第2期ではあずにゃんの主観視点──杉田はそれを「あずにゃんカメラ」と名づける──が強調されていることに注意を促している。「もともと梓は実直に音楽に取り組む姿勢を持つ、反・空気系的な存在として放課後ティータイムに緊張感をもたらす役割を担っていたが、さらに二期においては〔…〕梓が軽音部の三年生四人と切断された状態で行動するエピソードがいくつも挿入され、そしてことあるごとに三年生四人を『見送る視点』『追いかける視点』が強調されている」49。つまり『けいおん‼』では、杉田のいう「あずにゃんカメラ」を媒介として、あずにゃんにとっての〈終わり=最終回における先輩たちの卒業〉と、私たち視聴者にとっての〈終わり=『けいおん‼』の放送終了〉がシンクロし、強烈な感傷を呼び起こすように仕組まれているのである。
それは言い換えれば、「終わりなき日常」を二重化する空気系の戦略を逆手にとり、私たちの日常へと拡張された「終わり」を突きつけることにほかならない(しかも原作コミックまで同時に終わらせるという念の入れようだった)。多くの熱狂的なファンが「もう死ぬ」とか「生きていけない」などと大げさに騒いでいたのは、キャラ萌えを安定して供給してくれる空気系のお約束──たとえテレビ放送が終わっても、彼女たちの平和な日常はいつまでも続く──が裏切られ、はしごを外されたように感じたせいだろう50。これは「早く続きを読みたい(結末を知りたい)」という一般的な物語の受容のされ方とは真逆の現象と言っていい。『けいおん‼』は終わる。あずにゃんは、そして私たちは逃げられない。
やがて卒業式の日がやってくる。あずにゃんは終始上の空といった様子で、柱に額をぶつけて軽い怪我をする(そして絆創膏を貼る——まるで本音を押し殺すように)。それでも先輩たちの卒業を精一杯祝福しようと、あずにゃんはひとりひとりにお礼の手紙を手渡し、そしてお祝いの言葉をかけようとした瞬間、彼女はこらえきれずに泣き崩れてしまう。「卒業しないでください……もう部室片づけなくても、お茶ばっかり飲んでても叱らないから、卒業しないでよぉ……!」
額の絆創膏が外れるのもかまわず、嗚咽するあずにゃん。唯は彼女の額にそっと新しい絆創膏を貼ってやり、軽音部の5人を象徴する桜の花と、1枚の手作り合成写真をプレゼントする。それは第1期『けいおん!』の第1話で、唯が入部を決意したときに撮影した写真であり、唯たち卒業生の集合写真の上に、丸く切り取られたあずにゃんの顔写真が貼りつけられていた。
それから卒業生4人は、この日のためにひそかに練習してきた新曲を披露する。「天使にふれたよ!」と題されたその曲は、音楽室の柔らかな空気を伝い、テレビの前のほこりっぽい空気を震わせる。あずにゃんは愛らしい瞳に大粒の涙を浮かべている。「あずにゃんカメラ」ではない、しかしひどくぼやけた視界のなかで、私たちの二重化された日常が共振し、午後の穏やかな光に満たされた「永遠の放課後」が出現する──そのとき私たちは、たしかに「天使にふれた」のである。
あずにゃん、マジ天使
『けいおん‼』最終回をどう解釈すべきだろうか。杉田によれば、「『けいおん‼』は放課後ティータイムの解散を回避することで空気系の楽園を温存するのと同時に、〔現実と虚構という対立そのものに向けられた〕垂直方向の視線である『あずにゃんカメラ』を視聴者に接続することで、空気系的な想像力を宙づりにもしている」51のだという。だが私たちは、そこからさらにもう一歩踏み込むことにしたい。
たしかに杉田が指摘するように、アニメ放送の最終回では、原作コミックの「卒業式当日に梓が軽音部の三年生と別れた後に、〔梓と同学年の友人である〕憂と純が軽音部に入部する様子」がカットされており、そのかぎりであずにゃんは「救済」されていないと言うこともできる52。だがここで言われている「救済」とは、軽音部の存続による「終わりなき日常」の再延長というほどの意味であり、避けられない終わりを引き受けることではなかった。私たちはむしろ後者の意味において、「救済」という言葉を定義することにしよう。「終わり」に直面したあずにゃん(と私たち)に、果たしてそのような救済は訪れたのかどうか──。『けいおん‼』最終回に賭けられている問いは、きわめて深刻な重みをもっている。
「天使にふれたよ!」の演奏が終わると、あずにゃんはおもむろに立ち上がって拍手し、感きわまって涙する……かと思いきや、私たちが予想だにしなかった言葉を口にする。「あんまり上手くないですね!」
この意表をつくセリフは、第1期『けいおん!』の第1話「廃部!」において、軽音部への入部をためらう唯が、律と澪、紬による演奏──それが「翼をください」だったこともきわめて示唆的ではある──を聴かされたときの、素直すぎる感想とまったく同じものだ。そのときあずにゃんは、まだ軽音部どころか桜が丘高校に入学してさえいなかったというのに。もちろんこれはただの偶然かもしれないし、もしかしたらすでにそのことを先輩たちから聞かされていたのかもしれない。しかしながら私たちは、このありそうにない偶然の一致を救済の指標として理解することができるのではないか。それは「終わりなき日常」の終わりに訪れた、ごく小さな奇跡だった。
この際はっきり言ってしまおう。「天使にふれたよ!」という美しい曲のタイトルが示唆しているように、あずにゃんは文字通りの意味で「天使」だったのだ──それもおそらく、記憶喪失の。
あずにゃんの顔写真が貼られた『けいおん!』第1話の集合写真は、一見すると荒唐無稽に思われる私たちの解釈を裏づけてくれる53。このマルチレイヤーなイメージが表向き意味しているのは、卒業しても変わることのない「放課後ティータイム」の精神的な絆であり、「離れても心は一緒だよ」といったありふれたメッセージにすぎないように見える。しかしそうだとするなら、なぜわざわざあずにゃんの顔写真を丸く切り抜き、彼女がまだ入部していなかった頃の記念写真に貼りつけたのだろうか。そこには異なったレイヤー間の認知的なズレが露呈している。これでは「放課後ティータイム」の一体感を演出するというより、むしろあずにゃんの疎外感を際立たせてしまうのではないか──卒業写真を撮影する日に欠席した生徒のように。
しかしそうではないのだ。この奇妙な集合写真が暗示しているのは、あずにゃんが第1期『けいおん!』の第1話から、つねにすでに唯たちと共にあったということなのだから。それは記憶の捏造や過去の改変といった意味ではない。そうではなくて、2種類の写真が貼り合わされたマルチレイヤーなイメージは、『けいおん!』における「終わりなき日常」が、はじめから画面の内と外とで二重化されていた可能性を示している。言い換えるとこういうことだ。あずにゃんが映りこんでいないあらゆるショット、あらゆるシーンは、実はすべて「あずにゃんカメラ」を通して見た光景だったのである。彼女は私たち視聴者と一緒に、軽音部の先輩たちをずっと見守ってきたのだ。あずにゃんは拡張された日常のいたるところに存在する天使であり、だからこそ彼女は、知りえないはずの唯のセリフを『けいおん‼』最終話で繰り返すことができたのではないか。
志津Aは「日常における遠景──「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」と題された重要な論考のなかで、第1期『けいおん!』のいたるところに、唯たちの「充実した時間を遠くから眺めるような視点」54が潜在することを指摘している。それは放課後の部室に差し込む「暖かい午後の日差し」そのものであり、登場人物たちの頭越しに「日常それ自体のうちに輝きが見出せることを遠くから再発見しているまなざし」55である。
志津Aはこの姿なき視線を「登場人物ひとりひとりのまなざし」として結論づけているが、むしろ私たちはそこに、『けいおん!』を眺める私たち自身の、そして遍在する天使のまなざしを見てとることができるのではないか。彼が言うように「アニメを見ることそれ自体が現在の風景を複数化することと関わってくる」のだとすれば、私たちに見られている『けいおん!』の風景もまた、絶えず複数化され、重ね合わされていると見るべきだろう56。
このように考えるなら、第2期『けいおん‼』の中盤以降で多用される「あずにゃんカメラ」もまた、たんなる感情移入のための仕掛けなどではありえない。それらはマルチレイヤーな集合写真と同じように、あずにゃんが二重化されたレイヤーのあいだを往還しうる、この世ならざる存在であることを示唆していたのだ。それは派手な物語をあえて排除し、キャラ萌えに特化し、私たちの「終わりなき日常」に寄り添ってきた空気系アニメだからこそ実現しえた奇跡だった。「天使にふれたよ!」の歌詞にはこうある。「きっとあの空は見てたね/何度もつまづいたこと/それでも最後まで歩けたこと」。空から見ていたのは私たち自身であり、そしてほかでもない天使であるあずにゃんだった。
やがてどうしても軽音部に入りたくなったあずにゃんは、おそらく天使だった頃の記憶と引き換えに、桜ヶ丘高校の新入生として『けいおん!』本編に登場する。ヴィム・ヴェンダース監督のあまりにも有名な映画『ベルリン・天使の詩』(1987)を思い起こしてもいいだろう。
唯があれほど執拗にあずにゃんに抱きつき、ほおずりし、過剰なスキンシップをとっていたのは、彼女が本来「ふれる」ことのできない存在──天使だったからではないのか。ただそのようにして唯は、あずにゃんを『けいおん!』のレイヤーにつなぎとめ、画面の外へと浮き上がってしまうのを防いでいたのだ。あるいは私たちが「あずにゃんぺろぺろ」と唱えるとき、それは動物的な欲求のあらわれでも、あるいは人間的な欲望のあらわれでもなく、遍在する「天使にふれ」ようとする、ひとつの敬虔な祈りだったのではないか57。
あずにゃんは『けいおん‼』最終回において、ようやく自分が何者であるかを──とはつまり「忘れ物」を──思い出す。「でもね、会えたよ! すてきな天使に/卒業は終わりじゃない/これからも仲間だから/大好きって言うなら/大大好きって返すよ/忘れ物もうないよね/ずっと永遠に一緒だよ」。いまや放課後ティータイムは、そして私たちは文字通りの意味で「ずっと永遠に一緒」である。あずにゃんはいたるところに存在する、そのような天使たちのひとりなのだから。
そうだとすれば、『けいおん‼』第20話「またまた学園祭!」における「放課後ティータイムは、いつまでも、いつまでも、放課後です!」という唯のセリフは、「終わりなき日常」を擁護し、空気系の楽園を温存しようとする(不可能な)宣言として理解すべきではないだろう。というのも最後の学園祭ライブの後、音楽室で号泣する唯たち3年生は、逃れられない「終わり」が迫っていることをたしかに知っていたからである。つまり、彼女のいう「永遠の放課後」が意味するものとは、あらかじめ終わりを内包した「永遠に終わりゆく日常」にほかならない。
志津Aが指摘していたように、そこにはすでに遠くから──終わりの向こう側から──遡及的・回顧的に眺める天使のまなざしが織り込まれている。放課後とはおそらく、そのような特異な時間、生の目的論的進行から外れた時間のメタファーなのだろう58。そこでは美しく理想化された室内空間と、風雨にさらされ崩れ落ちた廃墟の光景が二重写しになっている。
やがて訪れる終わりの予感に浸透されたとき、はじめて私たちは奇跡の到来を待ち望むことを許される。放課後の静謐な空気のなかに、終わりゆく日常の片隅に、かすかな救済の可能性がはらまれている──弱々しい光を反射してキラキラと輝く、細かなほこりのように。それは認識の強い光の下では決して見ることができない。ただ終わりを予感する伏し目がちなまなざしだけが、救済のわずかな予兆を照らし出すことができる。放課後の長い影が延びるとき、終わりが永遠へと反転する。天使が舞い降りる。
京都アニメーションの天使たち
あずにゃんは本当に天使だった──。これは一見してそう思われるほど、荒唐無稽な解釈ではない59。なぜなら、これまで京アニが手がけてきた美少女ゲームを原作とするアニメでは、奇跡の到来を予感させる「天使」のモチーフが何度も登場し、そのつど重要な役割を果たしてきたからだ60。
たとえば『Kanon』のメインヒロインである月宮あゆは、天使の羽根がついた小さなリュックサックをいつも背負っている。あるいは『AIR』に登場する「翼人」は、その名の通り天使のような翼をもった種族である。さらに京アニ制作ではないが、『Kanon』『AIR』『CLANNAD』のシナリオライターとして知られる麻枝准が脚本を手がけたアニメ『Angel Beats!』(2010)にも、やはり天使の翼をもったヒロイン・立華奏が登場する。
「天使にふれたよ!」という空気系らしからぬ曲名は、これらの “泣きゲー” と呼ばれるkey作品の系譜を、暗黙のうちに参照しているように思われる61。そもそも東や氷川が言うように、男性キャラクターを徹底して排除する空気系アニメの源流に「美少女ゲームの影響」があるのだとすれば、京アニと密接な関係にあるノベルゲームの文脈に引きつけて『けいおん‼』を理解しようとする試みは、決して不自然なものではないはずだ。
物語に介入することができず、ただ見守ることしかできない「あずにゃんカメラ」の不能感は、たとえば『AIR』第3部におけるプレイヤー=カラスの視点とほとんど同じものだと考えられる。そこではプレイヤーは無力な「視線」であることを義務づけられ、死にゆくヒロインを救うことができない。「選択肢を奪われ、〔ヒロインの〕観鈴や晴子とのコミュニケーションも断たれ、システム的にもシナリオ的にも作品内世界への介入手段を一切剥奪された私たちが感じるのは、欲望の解放ではなく、むしろ圧倒的な不能感である」62と東は指摘している。「あずにゃんカメラ」を通じて『けいおん‼』の終わりに直面させられた私たちもまた、似たような不能感に苛まれていたのではなかったか。
しかしその一方で、第2期『けいおん!!』の最終回では、『Kanon』における「奇跡」の問題系がひそかに受け継がれているようにも思われる。ここではメインヒロインの月宮あゆのエピソードに限定して、ごく簡単に紹介しよう。
幼い頃の記憶を失っている主人公・相沢祐一の前に、かつて不幸な事故で亡くなったはずのあゆが現れる。祐一は彼女と親交を深めるにつれて、一緒に過ごした幼少期の記憶を取り戻し、やがて彼の腕のなかで少女は消滅する。すると昏睡状態に陥っていたあゆの本体が目覚め、春の訪れとともに2人は再び出会う。
批評家の村上裕一によれば、ここには2種類の奇跡が存在する。すなわち「幽霊のあゆと再会したこと」および「昏睡状態のあゆが目覚めたこと」である。前者は本来起こりえないはずの出来事であり、これに対して後者は、起こる可能性が限りなく低い出来事である。村上はこの2つの出来事を、それぞれ「神学的奇跡」「確率的奇跡」と呼んで区別している63。そしてここで重要なのは、これら「二つの奇跡を交換するというチート行為」が、3つだけ願いを叶えてくれる「天使人形」によって媒介されているという点である。あゆがまるで天使のような姿で祐一の前に現れたのは、奇跡を可能にする天使人形が、昏睡する少女の願いのよりしろになっていたためなのだ。
『けいおん‼』最終回に挿入された楽曲「天使にふれたよ!」は、『Kanon』における天使人形とほとんど同じ役割を果たしていると言っていい。なぜならその曲は、「あんまり上手くないですね!」というあずにゃんの驚くべきセリフ──ありそうにない偶然の一致という「確率的奇跡」──を呼び起こし、さらにこの偶然を「あずにゃんは本当に天使だった」という「神学的奇跡」として解釈しなおすことを可能にしてくれるからだ。
それはまさに奇跡的な瞬間だった。あずにゃんが大粒の涙を浮かべながら「天使にふれたよ!」に聴き入っているとき、テレビの向こう側から彼女を眺める私たちもまた、あふれ出る涙と鼻水を禁じえなかったにちがいない。もはや「あずにゃんカメラ」的な主観視点ではないにもかかわらず、私たち視聴者は、あずにゃんが見ているであろう光景をたしかに目の当たりにしていた。それはニコニコ動画のジャーゴンで「セルフエコノミー」と呼ばれる、涙でぼやけた解像度の低い世界である64。ここにおいてあずにゃんは、画面の内と外、重なり合った2つのレイヤーのいたるところに存在する、そのような天使として顕現する。
あずにゃんは画面のなかにいながら、同時に私たち視聴者と共にある。二重化された日常にくまなく響き渡り、拡張された空気を共振させる音楽の力によって、「天使にふれた」としか言いようのない経験が出来する65。避けられない終わりが「永遠の放課後」へと反転し、遍在するあずにゃんのまなざしが私たちを取り囲む。「終わりなき日常」が終わりを迎えるとき、薄れゆく意識のなかで、私たちは天使のツインテールがひるがえるのを見るだろう。
キャラクター、この非人間的なるもの
「終わりなき日常」の終わりに、私たちは天使にふれる。それはキャラクターに「萌える」ことではありえない。すでに確認したように、そもそもキャラ萌えとは、「コピーにアウラを宿らせる」という逆説的な能力のことだ。そしてそれを可能にするのが、ポストモダンな主体における動物的な欲求と人間的な欲望の解離的な共存であり、シミュラークルとデータベースからなる二層構造だった。この2つのあいだをぐるぐる往復しながら、私たちは「大きな物語」が失われた後の「終わりなき日常」をやり過ごしてきたのである。
しかしそうだとすれば、「終わりなき日常」が分断され、確率的な終わりの予感に浸されたとき、キャラクターに対する私たちの関係もまた変わらざるを得ない。シミュラークルとデータベースのあいだの往復運動が停止し、キャラ萌えが機能不全に陥る瞬間。私たちはシミュラークルに没入することも、あるいは分解してデータベースへと還元することもできず、かつて感情移入の対象であったものの断片が散乱する光景のなかに、途方に暮れて立ちつくしている。もはやそれらに萌えることはできない、ましてや愛することなど到底不可能である。そしてそのことが白日の下にさらされてしまった。悲しみはない──むしろそのことが悲しいのである。
だがそのようにしてはじめて、私たちは「天使にふれる」可能性に開かれる。ここで言われている「天使」とは、さしあたって「遍在するキャラクター」の別名として理解してほしい。
私たちはあずにゃんのフィギュアやイラスト、二次創作といったものにあずにゃんの存在を認め、動物的な快楽を求めて感情移入する。しかしそれは同時に「ただのフィギュア」「ただのイラスト」であり、要するにシミュラークルにすぎないと言うこともできる。私たちはあずにゃんが現実には存在しないことを知っている。だからこそ私たちは、動物的な欲求と人間的な欲望を切り離すことで、その不都合な真実に目をつぶってきたのだった。
これは逆に言えば、私たちがキャラクターを無理やり擬人化し、あたかも同じ “人間” であるかのように受容してきたことを物語っている。それどころか存在しない恋人の代わりとして、擬似的な「恋人たちの共同体」を取りつくろってさえいたのではないか。「あずにゃんは現実には存在しない」とか「それはただの絵にすぎない」とかうそぶいてみせるときでさえ、私たちはあまりにも人間的な愛の(不)可能性にとらわれすぎている。キャラクターという人ならざる存在を、人間という狭い枠に押し込めようとしている(そして当然のように失敗している──綾波レイの「私が死んでも代わりはいるもの」に口ごもるしかなかった、かつての碇シンジのように)。
人間とはちがって、キャラクターにはこれといった実体が存在しない。というのも志津Aが指摘するように、たとえば「綾波レイと呼ばれるものが複数いるとしても、そのすべてが綾波レイだと言えるし、どれも綾波レイではないとも言える」66からだ。たしかに「コピーにアウラを宿らせる能力」としてのキャラ萌えは、キャラクターは人間ではないという当たり前の事実を覆い隠し、私たちが愛の不可能性に直面することを回避させてくれる。けれどもそれは「終わり」において破綻する。「喪失の喪失」が露呈する。そしてそのような終わりのなかにこそ、かすかな救済の可能性が息づいている。
『けいおん‼』の最終回が私たちに教えてくれたのは、綾波の悲劇的な──だがなぜ悲劇的なのだろうか、それはむしろ私たち人間中心の見方にすぎない──セリフに対するひとつの答えであり、キャラクターの “脱人間化” を肯定的に受けとめる視点だった。あずにゃんが現実には存在しないという言い方は正確ではない。むしろ画面の内と外とを問わず、彼女はいたるところに存在する──ただし、人間とは別の仕方で。要するに、あらゆるフィギュア、あらゆるイラストがあずにゃんの貴重な断片なのであって、フラクタルに遍在する彼女の一部なのだ。
あずにゃんが「天使」であるというのは、このような意味においてである。それはおそらく、斎藤環が「同一性を伝達するもの」67と呼び、伊藤剛が「キャラ」68と名づけ、リチャード・ウォルハイムが(トークンに対して)「タイプ」69と定義したものに近いと考えられる。あるいは「固有名」に関する複雑な議論を参照することもできるだろう70。
しかしながら、私はあくまで「天使」という宗教的な語彙にこだわりたい。なぜなら私たちにとって重要なのは、キャラクターが「キャラ」や「タイプ」や「同一性を伝達するもの」であることを “理解” することではないからだ。そんなことはまったく問題ではなかった。むしろここで問われているのは、キャラクターを人間へと矮小化することなく、あくまで非人間的な存在として “経験” することである。それは愛することではない。かといって萌えることでもない。そうではなくて、それは祈りのようなもの──すぐれて宗教的な経験──ではないだろうか。遍在するキャラクターのまなざしを直観し、私たちが自らの有限性へと、避けられない終わりへと送り返されるかぎりで、おそらくそうなのである。
これに対して「同一性を伝達するもの」や「キャラ」、あるいは「タイプ」といった比較的ニュートラルな語彙は、分析のための概念装置としての意味合いが強い。だが少なくとも、ここでいう「天使」は概念ではない。それは「ふれる」経験において、とはつまり自らの絶対的な有限性へと差し戻される瞬間において、私たちの終わりを、とはつまり生の有限性を輪郭づける「永遠」として産出される71。したがって接触のメタファーが含意しているのは、普遍的なものへの没入や、主客が未分化な状態への退行といったものではない。むしろそれは還元不可能な差異が露呈する瞬間を指し示している。恋人とふれあい、それぞれの終わりを分かち合うのとはちがう仕方で私たちの漠然とした生を境界づけ、そのことによって終わりの向こう側へと切断しつつ媒介する襞飾りのようなもの──それが天使である。
終わりの予感にとりつかれた憂鬱なまなざしだけが、キャラクターを決して人間化することなく、普遍的な存在者として直観することを可能にする。遍在する天使の巨大な目を経由して、私たちは自らの終わりへと差し戻される。「天使にふれる」とは、そのような経験の直喩である。
シミュラークルからアレゴリーへ──非人間の破壊=救済
丸く切り抜かれたあずにゃんの顔写真が、第1期『けいおん!』の集合写真が象徴する「終わりなき日常」を地として浮かび上がる。私たちはそれが最初から二重化されていたこと、遍在する天使に見つめられていたことに気づく。
断片化され、重ね合わされたあずにゃんのイメージは、逃れられない終わりを「永遠の放課後」へと反転させる、そのような「救済」の可能性を指し示している。それはもはやシミュラークルではなかった。たんなる感情移入の対象でも、コミュニケーションのためのネタでもなかった。そうではなくて、それは救済の寓意であり、永遠のアナグラムであり、天使の横顔が隠された判じ絵だったのだ。動物的な没入ではなく、ひらめくような解読の対象としてあるもの──私たちはそれを「アレゴリー(寓意)」と呼ぶことにしよう。
アレゴリーとは何だろうか。『美学辞典』によれば、普遍と特殊の絶対的な一致が「象徴(シンボル)」と呼ばれるのに対して、アレゴリーとは特殊が普遍を意味する、あるいは普遍が特殊を通して直観される、そのような表現のことである72。有名なところでは、剣と天秤をもった女性像で「正義」の概念を、また狐の図像で「狡猾」を表現する例などが挙げられる。これらのイメージは慣習や約束事によって意味内容と結びつけられており、両者のあいだに必然的なつながりは存在しない。他方で象徴とは、たとえば神の像が(何らかの概念に回収できない)神それ自体として出現することをいう。
要するに(たんなるシミュラークルではなく)アレゴリーとして経験するということは、「特殊なもの」としてのさまざまな断片(フィギュアやイラストなど)を通じて、それ自体が救いであるような「普遍的なもの」としてのキャラクターを直観することを意味している。したがってそれは、もろもろのキャラクター・グッズや二次創作をシミュラークルとして──とはつまりキャラ萌えの対象として──受容することとは根本的に異なった経験である。それどころか正反対の営みとさえ言うことができる。というのも何度も述べたように、キャラ萌えが「コピーにアウラを宿らせる」ことであるとすれば、これに対してアレゴリー的経験は「有機的なもの、生あるものの破壊──仮象〔=アウラ〕の消去」73によって特徴づけられるからだ。それはすなわち「感性的な美しい自然〔肉体〕に、不自由さ、未完成さ、そして断片性を認めること」74にほかならない。
アレゴリー的経験の内実についてこのように語ったのは、ほかならぬベンヤミンである。彼は1928年に刊行した『ドイツ悲劇の根源』のなかで、やはり象徴と対比しながら、アレゴリーのもつ破壊的・断片的な性質を繰り返し強調している。「芸術象徴、つまり有機的な総体性をもった像である彫塑的な象徴に対して、アレゴリー的文字像のこの無定形な断片ほど鋭く対立するものはない」75。あるいは「人物的なものに対する事物的なものの優位、総体的なものに対する断片の優位によって、アレゴリーは象徴の対極をなしつつ、しかしまさにそれゆえに同じように強大なものとして、象徴に対抗する」76。
人間的・有機的な総体性(象徴)に対する、事物的・無機的な断片性(アレゴリー)の優越。キャラ萌えのアウラを破壊し、散乱する無数の断片へと変容させること。倒壊したフィギュアは四肢に欠損を抱え、はがれ落ちたイラストは肝心な部分が破り取られている。あずにゃんの顔写真は遠慮なく切り抜かれ、別の写真の上に無造作に貼りつけられる。それはベンヤミンのいう「継ぎはぎ細工であるアレゴリー的形成物」77でなければ何だろうか。
アレゴリー的直観の前では、シミュラークルが仮構する「総体性という偽りの仮象は消え去ってしまう」78だろう。キャラ萌えのアウラは破壊されてしまうだろう。だがそのようにして私たちは、後に残された断片のなかに、アウラを失って「枯渇した判じ絵」のうちに、本来それが指示するものとは異なった意味を読み解くことができる。「アレゴリカーの手のなかで、事物は己れ自身ではない他のなにかになり、それによってアレゴリカーは、この事物そのものではない他のなにかについて語ることになる」79。私たちは憂鬱な「アレゴリカー」として、『けいおん‼』最終回について語った。「永遠の放課後」について、天使による救済について語った。唯があずにゃんにプレゼントしたマルチレイヤーな合成写真は、終わりを予感する彼女の、そして私たち自身のまなざしの下で、永遠を暗示するアレゴリーへと変容する。
しかしながら「無定形な断片」がアレゴリー的に暗示するものとは、むしろ永遠や救済とは対照的に、いずれは何もかもが滅び去っていくという「はかなさ」のほうであり、避けられない終わりそのものではないだろうか。それは断片が散乱する廃墟の光景である。「事物の世界において廃墟であるもの、それが、思考の世界におけるアレゴリーにほかならない」80とベンヤミンは述べている。けれどもそのような廃墟のなかにこそ、永遠と救済をもたらす「奇跡」の可能性が息づいている。引用しよう。
瓦礫のなかに毀れて散らばっているものは、きわめて意味のある破片、断片である。それはバロックにおける創作の、最も高貴な素材である。というのも、目標を正確に思い描かぬままにひたすら断片を積み上げていくこと、および、奇跡をたえず待望しつつ繰り返しを高まりと見なすことは、さまざまなバロック文学作品に共通する点だからである。バロックの文士たちは芸術作品を、この意味でのひとつの奇跡と見なしていたにちがいない。〔…〕バロックの詩人たちの試みは、錬金術の達人たちの手つきに似ている。古典古代が遺したものは彼らにとって、そのひとつひとつが、新しい全体を調合するための、いや建築するための、その基本物質なのである。つまり、この新しいものの完璧なる幻影が、廃墟にほかならなかった。81
ベンヤミンが17世紀のドイツ・バロック悲劇において見出したものを、私たちは現代のオタク文化に見てとることができるだろうか。彼は「子供部屋」や「亡霊の部屋」、そして「魔術師の部屋や錬金術師の実験室の、断片的なもの、無秩序なもの、積み重ねられたもの」82に、アレゴリーとの深いかかわりを見出していた。私たちはそこに、現代の混沌としたオタクの部屋をつけ加えずにはいられない。
シミュラークルの終わりなき横滑りに押し流され、無数のフィギュアやイラストや二次創作で埋めつくされた部屋のなかで、私たちは孤独な終わりの予感に浸透される。シミュラークルを覆っていた仮象(アウラ)の輝きが消え、非人間的・無機的な断片へと姿を変える。「きわめて意味のある破片、断片」が散らばる廃墟に踏みとどまり、ひたすら瓦礫を積み上げながら「奇跡をたえず待望しつつ繰り返しを高まりと見なすこと」──それは来るべき救済の予兆に導かれながら、私たちの日常を拡張しようとする錬金術的なプロセスである。
やがて訪れる終わりの日に、私たちは薄れゆく意識のなかで、散乱した無数の断片がひとつの像を結ぶのを見るだろう。膨大なキャラクター・グッズや二次創作の瓦礫の山は、最後の瞬間に「復活のアレゴリー」へと反転する。「その慰めなき混乱したありさまのうちに、はかなさが意味され、アレゴリー的に表現されているというよりも、むしろ、このはかなさそれ自身が意味するものであり、〔復活を暗示する〕アレゴリーとして提示されている」83。シミュラークルの残骸が散らばった破局的な光景は、こうして「背信的に復活へと寝返る」ことになる。
このように考えるなら、おびただしい数のシミュラークルを通じて「終わりなき日常」を二重化しようとする空気系アニメの戦略は、いまや「終わり」におけるアレゴリー的復活への準備段階として位置づけられる。放課後の穏やかな光に照らされて、シミュラークルのアウラが脱落し、断片的なアレゴリーへと変容する。ツインテールの長い影がどこまでも延びる。ただそのようにして私たちは、断片の彼方に遍在するキャラクターを直観する──すなわち「天使にふれる」のである。「神の世界で、アレゴリカーは目覚める」84とベンヤミンは記している。
現代美術からのアプローチ
現代のオタク文化におけるアレゴリー的復活の可能性を探求する試みは、それが外部と接する地点において、とはつまりキャラクターに対する動物的な感情移入が阻害される領域において、よりはっきりとした輪郭をともなって立ち現れる。それはしばしばキャラ萌えの不可能性に由来する強烈な違和感として経験され、ときには激しい摩擦を引き起こすこともあるだろう。
現代アート集団「カオス*ラウンジ」の中心的なメンバーのひとりであり、一連の騒動の発端となった梅ラボ(梅沢和木)の平面作品は、3人組のアートユニット「three」の彫刻作品とならんで、アレゴリー的経験を定着しようとする優れた試みとして理解することができる。絵画と彫刻という表現形式のちがいこそあれ、両者の手法はきわめて似通っている。梅ラボはネットで収集したキャラクターの画像をばらばらに分解し、それらの断片をコラージュすることで、不定形で無意味なイメージの集積を生成するスタイルで知られている。他方でthreeは、大量の美少女フィギュアを同じように分解し、それらの断片を溶かして圧縮することで、さまざまなかたちを模した立体物を作り上げる。
前者がイメージの自動的な生成──インターネットという「アーキテクチャの生成力」87──を強調し、作家が介入した痕跡をできるかぎり消去しようとするのに対して、後者はよりコンセプチュアルで洗練されたアプローチを志向するというちがいはあるが、しかし私たちにとって重要なのは、一見してそれとわかる両者の明らかな共通点である。
この2組のアーティストに共通しているのは、美少女キャラクターのフィギュアやイラストといったシミュラークルを容赦なく解体し、自らの作品を構成する「断片」として利用しているという点だ。先の引用箇所でバロックの詩人たちについてベンヤミンが述べていたように、現代のオタク文化が生み出したさまざまなシミュラークルは、いまや「彼らにとって、そのひとつひとつが、新しい全体を調合するための、いや建築するための、その基本物質なのである」。すなわち、一方ではコラージュされた雑多なイメージの集積として、もう一方では圧縮された抽象的なオブジェとして、シミュラークルの人間的・有機的な総体性を破壊し、断片的・無機的なアレゴリーへと変容させること。そのようにして彼らは、シミュラークルに宿るキャラ萌えのアウラを暴力的に剝奪する。
したがって、少なからぬオタクたちが梅ラボの、あるいはthreeの作品に強い拒否反応を示す──とは言わないまでも、ぬぐいがたい違和感を覚えるのは、いわゆる「現代アート」に対する理解が不足しているためだけではない。そうではなくて、これまで私たちがキャラ萌えによって回避してきた問いに、あらためて向き合うことを迫られるからだ。それは愛(の不可能性)をめぐる問題である。
何度も見てきたように、私たちは動物的な欲求と人間的な欲望を切り離し、それぞれ別の水準で処理することで「コピーにアウラを宿らせる」という逆説を可能にしてきた。けれども梅ラボとthreeの作品を前にしたとき、私たちは自らの解離的なふるまいに無自覚ではいられない。ばらばらに分解・圧縮され、人のかたちをとどめていないイラストやフィギュアの断片は、もはや動物的な没入の対象ではありえないからだ。私たちが夢中になっている「それ」は、人間ではない。分解可能で反復可能なシミュラークルにすぎない。梅ラボが自身のブログで書いているように、そもそもキャラクターとは、「匿名の想像力によって無限にn次創作され、増殖し、改変され、遍在する幽霊のようなもの」88なのだから。
そうであればこそ、私たちはお気に入りのキャラクターの「なれの果て」をそこに見つけたとしても、どこか本気で怒ったり悲しんだりすることがためらわれるのではないだろうか。この居心地の悪さの正体は、愛するものを亡くした「喪失」の悲しみなどでは決してない。むしろ逆である。この空っぽの悲しみは、キャラ萌えが強引にキャンセルされたことによって、愛することの不可能性——すなわち「喪失の喪失」——が露呈してしまったことに由来する。こうして彼らの作品は、私たちがキャラクターに萌えることの自明性を問い直し、その暗黙の前提を揺るがせる。綾波の問いかけの前に立ち止まらせる。
しかしだからといって、おそらく梅ラボには、そしてもちろんthreeにも、オタクの解離的な生のあり方を道徳的に非難し、キャラクターをおとしめようとする露悪的な意図はなかったにちがいない。むしろそこまで読み込んでしまうとすれば、それは私たちの後ろめたさのあらわれか、あるいは不幸なすれちがいの結果と言うほかない89。
それよりも彼らは、視覚的な新しさやおもしろさ、あるいは生理的な気持ち悪さを入り口にして、私たちに考えることを促しているように思われる。キャラクターとは何か、キャラクターに萌えるとはどういうことなのか。キャラ萌えの果てしない往復運動を一時停止することなしに、そのような問いに向き合うことは不可能である。というより、キャラ萌えが破綻する地点で、とはつまり「終わりなき日常」が終わる場所で、私たちは否応なくこの問いの前に連れ戻される。それはひるがえって、私たち自身について問うことでもあるはずだ。分解されたシミュラークルはデータベースへと還元されることなく、物言わぬ無数の断片となって私たちの周りに散らばっている。
だがそうだとするなら、救済の可能性はどこにあるのか。梅ラボやthreeの作品は、私たちの暗い欲求を認識の強い光で照らし出し、そのようにしてただ反省することを、「はかなさ」を暗示する廃墟のなかに立ちすくむことだけを要求しているのだろうか。おそらくそうではない。瓦礫の山と化したシミュラークルの残骸は、やがて訪れる「終わり」の光景そのものである。私たちは奇跡の到来を待ち望みながら、散乱する無数の断片をひたすら積み上げていく。午後の穏やかな光を浴びて、積み重ねられた断片がひとつの影を形作る。復活を暗示する女神の姿が浮かび上がる。
救済と天罰の女神
「終わりなき日常」が終わったあの日。梅ラボはその日を境にして、自らの表現のスタイルを大きく変えている。大量の断片がコラージュされた無意味なイメージの集積から、人のかたちをしたキャラクターを画面の中央に配置した、宗教的な意味合いの強い構図への転換。まるで天から降臨するかのように描かれたキャラクターには、「救済と天罰の女神」というきわめて寓意的な役割が与えられている。
「キメこなちゃん」という愛称で親しまれているそのキャラクターは、『らき☆すた』の主人公である泉こなたをベースに、さまざまなキャラクターの特徴を寄せ集め、文字通り「キメラ」的に合成され生み出された存在である。
キメこなちゃんは匿名の画像掲示板「ふたば☆ちゃんねる」で誕生し、同じく海外の画像掲示板「4chan」に転載されて人気を博した後(4chanでは「Moetron」と呼ばれる)、再び「ふたば☆ちゃんねる」に逆輸入されて愛されてきた91。おそらく梅ラボは、それ自体コラージュの産物である──とはいえ個々のイラストには、それを描いた「絵師」が存在するわけだが──彼女に自らの創作手法と似通ったものを見出し、新作の主要なモチーフとして採用することを決めたのだろう。彼はブログのなかで、キメこなちゃんが「ただただ無名の創作意欲が拡散し集合した結果生まれ」たキャラクターであること、そして自らの作品もまた「匿名集合知の成果物」92であることを強調している。
しかしながら、梅ラボ自身がアーティストとして活動し、自らの名前で作品を発表している以上、ここには明らかな矛盾があると言わざるを得ない。たとえ梅ラボが言うように、匿名の利用者に支えられたネットの生成力こそがキメこなちゃんを作り出したのだとしても、彼の作品はそうではない。アーティスト自身がひとつの「アーキテクチャ」であるというのは、レトリックにすぎない94。マルセル・デュシャンの《泉》(1917)を引き合いに出すまでもなく、それはあくまでも梅ラボの名において、とはつまり強い作家性を帯びた作品として流通してしまうからだ。この非対称性に無自覚であるということは考えられない。そうでなければ彼の作品は、ネット上の無償の表現に対する、アートの側からの一方的な収奪や搾取として受け取られてしまうだろう。「アーキテクチャの生成力」は空疎な責任逃れの言葉に堕してしまうだろう。
キメこなちゃんの帰属と商業利用をめぐって、「ふたば☆ちゃんねる」住人とカオス*ラウンジ側の対立が表面化したのは、したがって当然の成り行きだったのかもしれない。両者の主張は平行線をたどり、やがて不信感を募らせた匿名掲示板の住人たちは、カオス*ラウンジの活動に対するさまざまな疑惑を追及・告発していく。詳しい経緯は省略するが、梅ラボ作品の著作権侵害問題や、「破滅ラウンジ」の偽札疑惑にはじまり、最終的には大手イラスト・コミュニケーションサイト「pixiv」を巻き込んだ騒動へと発展することになる95。
カオス*ラウンジ騒動の顚末や、それに対する評価はひとまず措こう。むしろここで問題にしたいのは、著作権侵害の是非をめぐる論争に隠れて、すっかり影が薄くなってしまった事柄──すなわち、梅ラボの作風が劇的に変化した(ように見える)理由についてである。
梅ラボは騒動のきっかけとなった作品が、「今までの自分の作品からすればかなりイレギュラー」96であることを認めている。そこには「震災後のキャラクターの在り方について一貫した考えを示す」という、これまでの彼の作品には見られない明確な意図が込められているためだ。被災地を訪れた梅ラボは、そこで目にした「ガレキや砂にまみれて打ち捨てられた多くのぬいぐるみ」に衝撃を受け、たとえ「遍在する幽霊のようなもの」にすぎないキャラクターでも、「ある形をとれば一人の人間に大切にされ、かけがえのないものになる」97ことに気づかされたのだという。
しかしそうだとすれば、梅ラボはこれまでのアレゴリー的手法を捨て、シミュラークルに宿る人間的なアウラの復権へと180度 “転向” したのだろうか。決してそうではない。この作品に託されているのは、長い年月を経て「かけがえのないもの」になってしまったシミュラークルの「喪失」を嘆き、あたかもそれが人間であるかのように追悼することではない。梅ラボがこれまで一貫して取り組んできたのは、人間とキャラクターを隔てる本質的な差異であり、そしてそのことを明らかにするために、彼はシミュラークルに宿るキャラ萌えのアウラを解体し続けてきたのだった。したがって問題となっている作品も、その延長線上に位置していると考えるべきだろう。
梅ラボが人のかたちをしたイメージに固執したのは、キャラクターを擬人化し、その「かけがえのなさ」をロマンチックに強調するためではなかった。それはキメこなちゃんが「救済と天罰」の寓意として描かれていることからも明らかである。「救済」であると同時に「天罰」でもあるような、人知を越えた一撃──それがこの作品の中心的なテーマであって、そこに人間的な感傷が入り込む余地は一切ない。
〔…〕この作品は津波の画像、ガレキの画像と現地で自分の目でみたぬいぐるみと、インターネットに散らばる無数の画像をごちゃごちゃにまぜて全体が構成されています。かつての日常であったキャラクター達と、打ち捨てられたキャラクター達が、一緒くたになって地に流されている構成です。
そして真ん中の天から一体のキャラクターがまるで女神のように、地に打ち捨てられた者たちを救済するかのように降臨しています。
すべては見守られているように見えますが、見方を反転させればこの地の惨状をすべて女神が天罰のごとく起こしたようにも見えるでしょう。98
梅ラボが自らの作品についてこのように語るとき、私たちはそこに、アレゴリー的復活を暗示する両義的なヴィジョンを読み解くことができる。彼は「かけがえのないもの」になってしまったキャラクターをいわば “解放” するためにこそ、「救済と天罰の女神」を召還しなければならなかった。つまりこの作品においては、打ち捨てられた「かけがえのない」シミュラークルを慰撫することではなく、逆に「人間的な固有性」の獲得によって隠蔽されていたもの、すなわち「幽霊的な遍在性」の暴力的な回復が問題になっているのである。壊れたシミュラークルを嘆くにはおよばない。それは本来あるべき姿──遍在するキャラクターを暗示する断片──へと還ったにすぎないのだから。
キャラクターから人間的な固有性のアウラを剥奪し(天罰)、それによって本来の幽霊的な遍在性を取り戻してやること(救済)。梅ラボのいう「救済と天罰の女神」とは、キャラクターを人間的なるものから浄化する、そのような神的な暴力の顕現である。無数の断片へと解体されたシミュラークルの残骸は、所有者の記憶や感傷の呪縛から解き放たれ、遍在するキャラクターの一部として新生する。いまやキメこなちゃんが「女神」に選ばれた理由は明らかだ。つまりそれ自体コラージュの産物であるキメこなちゃんは、打ち捨てられたシミュラークルをアレゴリー的断片へと変え、そのようにして彼女自身「復活」を暗示するアレゴリーとして降臨するのである。
これまでの梅ラボの作品が、断片的なイメージの集積を提示することでキャラ萌えのアウラを破壊し、人間的な愛の不可能性を暴露するものだったとすれば、キメこなちゃんを描いた作品は──モチーフの選択が道義的に適切だったかどうかは別にして──破壊が同時に救済を含意するという点で、さらに一歩進んでいる。なぜならそれは、私たちを廃墟のなかに置き去りにしつつ、同時に最後の日におけるアレゴリー的復活の可能性を指し示しているからだ。つまりこの作品は、言ってみれば「天使にふれる」経験を図解しているのである。
遍在する幽霊のまなざし
梅ラボは震災をきっかけとして、断片的で無機質なコラージュ作品から、より宗教性の色濃い作品へと自らの作風を深化させた。キャンバスの中央に配置されたキメこなちゃんは、打ち捨てられたシミュラークルを破壊しつつ救済する、復活のアレゴリーとして顕現する。これに対してthreeのいくつかの作品は、すでに梅ラボの試みを先取りしていたと言えるかもしれない。というのも彼らのスタイルは、無数の美少女フィギュアを溶解・圧縮してさまざまなかたちに成型するというものだが、そのなかに大きな美少女キャラクターの姿をかたどったものが含まれているからだ。
threeの作品に近づいてよく眺めると、数えきれないほどのフィギュアの顔や腕や脚や胸や尻が表面をびっしりと覆い、異様な光景を作り出してはいるものの、同時にきわめて清潔で洗練された印象を受ける。それはおそらく、カオス*ラウンジの混沌とした展示手法とは対照的に、彼らが現代アートの文脈を比較的折り目正しく参照していることに由来するのだろう100。とりわけ震災後(2011年8月6〜28日)にトーキョー・ワンダーサイト本郷(現・トーキョーアーツアンドスペース)で発表されたインスタレーション《24bit》は、梅ラボとはまったく異なった仕方で、アレゴリー的復活の可能性を具現化しようとするコンセプチュアルな試みだった101。
そこでは従来のように、大量の美少女フィギュアの断片を溶解・圧縮するのではなく、フィギュアを1体ずつ(おそらく専用の型に入れて)圧縮し、手のひらに乗るほどの小さな直方体にして展示するという手法が採用されていた。かつて人のかたちをしていた無機質なキューブが、まるで墓標のように整然と並べられ、肌色と原色の混ざった複雑なマーブル模様をさらしている。
直方体の上面にひとつだけ残された大きな「目」が、美少女フィギュアだった頃の面影をかろうじて偲ばせている。だがそれだけではない。規則正しく配置されたそれぞれの台座には、圧縮されたフィギュアの名前と重量が記され、そして四角いキューブからは長い「影」が延びている──キャラクターのかたちをした影が。
ここにおいてthreeのインスタレーションは、シミュラークルとデータベースのあいだの往復運動を中断し、キャラクターの遍在を暗示する「復活のアレゴリー」として立ち現れる。圧縮される前の美少女フィギュアの影が、放課後の光に照らされて長く延びる。人の姿を失い、もはや動物的な感情移入の対象ではありえない色鮮やかな墓碑は、しかし自らを断片と化すことによって、特殊から普遍へといたるアレゴリー的な通路を切り開く。私たちは台座に刻まれた名前を手がかりにして、明確な実体をもたない──だがそれゆえに、いたるところに存在しうる──影法師としてのキャラクターを直観するよう促されるのである。ここには梅ラボが描き出そうとしていたキャラクターの「幽霊的な遍在性」と同じものが、より抽象的で洗練されたかたちで提示されている。無機質な直方体に変えられた美少女フィギュアは、むしろそのことによってキャラクター本来の遍在性を回復し、把握しがたい影となって復活するのだ。
さらにthreeの作品において重要だと思われるのは、影とならんで、巨大な目のイメージだけが原形をとどめている点である。かつて東は、アニメやマンガのキャラクターにおける「視線を交錯させない目の機能」103について論じていた。一般的に透視図法的な西洋絵画の場合、私たちは描かれた人物像と見つめ合い、視線を交わすことによってリアリティを感じるとされる。ところがアニメやマンガのデフォルメされた記号的な目は、まなざしを交換することなく感情移入することを可能にする。私たちはキャラクターの目を見つめ、そしてたしかに感情移入するのだが、にもかかわらずそこで「目が合う」ことは決してないのだという。
そしてこの「幽霊的」なまなざしにリアリティを感じ、アウラを宿らせることを可能にしているのが、動物的な欲求と人間的な欲望を解離的に共存させる、ポストモダンな主体のあり方である。前者を後者から切り離し、シミュラークルのレベルで処理するというオタクのふるまいは、東によれば、キャラクターの「『見る』側と『見られる』側の空間的な連続性を脱臼させてしまう不思議な視線」104によって担保されている。つまりキャラクターと目が合わないからこそ、私たちは何のためらいもなく、動物的な快楽を一方的に享受することができるのだ105。
しかしこれは逆に言えば、キャラ萌えの往復運動が停止する地点において、キャラクターの視線が前景化することを意味している。シミュラークルがシミュラークルであることをやめたとき、見返すことのないキャラクターの幽霊的なまなざしは、突如としてアレゴリーの暗い光を帯びる。私たちはあいかわらずキャラクターと目を合わせることはできないが、瓦礫のなかに散乱する無数の目の背後に、遍在する何ものかの視線を感知する。
斎藤は東の議論を念頭におきながら、「僕たちはキャラクターを見ているが、キャラクターも僕たちを見ている」106ことに注意を促している。斎藤に言わせれば、「それは必ずしも『目が合う』といったことだけを意味しない」107。あるいは黒瀬も、たとえばアニメを見る経験において、私たちがキャラクターに「見られている」ことを強調している108。いずれにせよ彼らは、シミュラークルに対する動物的な感情移入とは異なった経験の領域を指し示していると言えるだろう。それは私たちの言い方では、キャラクターをその遍在性において直観することであり、散らばった断片の彼方から見つめる巨大なまなざしに身をさらすことである。キャラクターと一対一で視線を交わすことができないのは、彼女たちが実体をもたず、それゆえにあらゆる場所から私たちを見つめているためだ──「あずにゃんカメラ」がそうであったように。
そうだとすれば、threeが圧縮された直方体に美少女フィギュアの目だけを刻印したのは、それがキャラクターの遍在を暗示する特権的なアレゴリーとして機能しうるからではないか。コミュニケーションのざわめきが遠ざかり、孤独な終わりの予感のなかで、私たちはいたるところから見られていることに気づく。だがそれは決してひとつになることではなかった。すでに述べたように「天使にふれる」という接触のメタファーが含意しているのは、キャラクターとの一体化でも主客の差異の消滅でもなく、自らの絶対的な有限性へと送り返されることなのだから。そこで露呈するのはむしろ、視線の非対称性である。私たちは天使のまなざしを経由して、それぞれの終わりを引き受ける。
エピローグ
本稿は終わりに差しかかっている。私たちは「終わりなき日常」の終わりから出発した。途方に暮れたまま空気系アニメを振り返り、『けいおん‼』最終回で天使が舞い降りるのを目撃した。シミュラークルの残骸が散乱する廃墟のなかで、ベンヤミンのいうアレゴリー的復活の可能性に賭けた。梅ラボとthreeの作品を前にして、「天使にふれる」経験のたしかな痕跡を見つけ出した。だがそうだとすれば私たちは、村上が『Kanon』について述べていたように「あまりにも宗教的な救済の欲望に支えられている」109と言うべきだろうか。そうかもしれない。私はそのことを否定しようとは思わない。
「救済」とは何だろうか。それは私たちが自らの生を肯定しうるということである。確率的な終わりを意味づけられるということである。超越的なものの不在を嘆くのではなく、かといって果てしない横滑りの恍惚に身をまかせるのでもなく、最後の日における奇跡の到来を予感しつつ祈ること。もはや死せる神の恩寵を期待することはできない。しかしそれでも私たちは、アレゴリーと化した無数の断片を通じて、遍在する天使のまなざしを直観する。それぞれの生を生きるに値するものとして、ささやかな物語を紡いでいく。
いわゆる《ルイズコピペ》と呼ばれる作者不詳のテクストには、これまで私たちがたどってきた、もしくはこれからたどるであろう魂の遍歴がはっきりと記されている。それは本稿の終わりを飾るにふさわしい名文である。全文を引用しよう。
ルイズ!ルイズ!ルイズ!ルイズぅぅうううわぁああああああああああああああああああああああん!!!
あぁああああ…ああ…あっあっー!あぁああああああ!!!ルイズルイズルイズぅううぁわぁああああ!!!
あぁクンカクンカ!クンカクンカ!スーハースーハー!スーハースーハー!いい匂いだなぁ…くんくん
んはぁっ!ルイズ・フランソワーズたんの桃色ブロンドの髪をクンカクンカしたいお!クンカクンカ!あぁあ!!
間違えた!モフモフしたいお!モフモフ!モフモフ!髪髪モフモフ!カリカリモフモフ…きゅんきゅんきゅい!!
小説11巻のルイズたんかわいかったよぅ!!あぁぁああ…あああ…あっあぁああああ!!ふぁぁあああんんっ!!
アニメ2期放送されて良かったねルイズたん!あぁあああああ!かわいい!ルイズたん!かわいい!あっああぁああ!
コミック2巻も発売されて嬉し…いやぁああああああ!!!にゃああああああああん!!ぎゃああああああああ!!
ぐあああああああああああ!!!コミックなんて現実じゃない!!!!あ…小説もアニメもよく考えたら…
ル イ ズ ち ゃ ん は 現実 じ ゃ な い?にゃあああああああああああああん!!うぁああああああああああ!!
そんなぁああああああ!!いやぁぁぁあああああああああ!!はぁああああああん!!ハルケギニアぁああああ!!
この!ちきしょー!やめてやる!!現実なんかやめ…て…え!?見…てる?表紙絵のルイズちゃんが僕を見てる?
表紙絵のルイズちゃんが僕を見てるぞ!ルイズちゃんが僕を見てるぞ!挿絵のルイズちゃんが僕を見てるぞ!!
アニメのルイズちゃんが僕に話しかけてるぞ!!!よかった…世の中まだまだ捨てたモンじゃないんだねっ!
いやっほぉおおおおおおお!!!僕にはルイズちゃんがいる!!やったよケティ!!ひとりでできるもん!!!
あ、コミックのルイズちゃああああああああああああああん!!いやぁあああああああああああああああ!!!!
あっあんああっああんあアン様ぁあ!!セ、セイバー!!シャナぁああああああ!!!ヴィルヘルミナぁあああ!!
ううっうぅうう!!俺の想いよルイズへ届け!!ハルケギニアのルイズへ届け!110
これほど感動的な「コピペ」が他にあるだろうか111。それはもはや気持ち悪いとか頭おかしいとかそういう感情をすべて置き去りにして、人間的な愛のかたちをはるかに超え出ていく。人気ライトノベル『ゼロの使い魔』(2004–17)のヒロインであるルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールに捧げられた、このあまりにも有名なテクストは、終わりの苦悩を突き抜けて歓喜にいたる──とはつまり「天使にふれる」──経験を、どれほど長大な叙事詩にも劣らず劇的に描き出している。それは現代の『神曲』と呼ぶにふさわしい。
全部で18連からなるルイズコピペもまた、大きく3つの部分に分かれている。まず第1連「ルイズ!ルイズ!ルイズ!……」から第7連「……かわいい!あっああぁああ!」までがキャラ萌えの恍惚に相当し、私たちは思うがまま「ルイズたん」の「桃色ブロンドの髪」を「クンカクンカ」し「スーハースーハー」し「モフモフ」する。こうして第1部では、ルイズたんの髪の匂いや肌触りといった触覚的な快楽に没入する様子が、独特の擬音語・擬態語をともなって生き生きと描写される。それはある種の退行的な経験であり、自他の境界が溶け出す瞬間でもあるだろう。
しかし続く第8連「コミック2巻も発売されて嬉し……」から第12連の途中「……ちきしょー!やめてやる!!」にかけては、一転してキャラ萌えの機能不全と現実への絶望が綴られる。第2部において私たちは、コミックや小説やアニメの「ルイズちゃん」──ここで「ルイズたん」から呼称が変化していることに注意しよう──が「現実じゃない」ことに思いいたる。恍惚の喘ぎが恐怖の悲鳴へと変わり、冒頭から繰り返される「あああああああ」と大量の感嘆符「!」は、にわかに絶望の色を帯びはじめる。
第12連の後半「現実なんかやめ…て…え!?……」から最終連にかけての怒濤の展開は、まさに圧巻の一言だ。悲嘆のあまり「現実なんかやめ」てしまおうとするそのとき、散乱した「表紙絵のルイズちゃん」や「挿絵のルイズちゃん」や「アニメのルイズちゃん」や「コミックのルイズちゃん」が、いたるところから「僕」を「見てる」ことに気づく(ここではじめて主体を名指す「僕」という言葉が登場するのだが、これは「天使にふれる」経験を通じて、死にゆく者としての自己形成がなされたことを意味している)。いまやシミュラークルとしての「ルイズたん」は、遍在する「ルイズちゃん」の一部であるような断片へと変容し、復活のアレゴリーとして顕現する。
ルイズちゃんは──ルイズたんではなく──つねに私たちと共にあった。だがそのことを真に経験するためには、すなわち「僕にはルイズちゃんがいる!!」と断言しうるためには、キャラ萌えの往復運動を中断し、避けられない終わりを引き受けなければならなかった。ただそのようにして私たちは、遍在する天使のまなざしにふれ、自らの還元不可能な有限性へと送り返される。心からの確信をもって「ひとりでできるもん!!!」と言い切ることができる。私たちの傷ついた魂は、ルイズたんに対する「萌え」(第1部)から「終わり」の絶望(第2部)をくぐり抜け、第3部を締めくくる最終連において、ルイズちゃんへの「祈り」として結晶する──「俺の想いよルイズへ届け!!ハルケギニアのルイズへ届け!」
私たちはこれまでずっと一人称複数形で語ってきた。だが「私たち」とは誰のことだろうか。私たちはばらばらになってしまったのではなかったか。うなだれて立ちつくす私の傍らには、いつも人知れず誰かが、放課後の影のように寄り添っていた。私が不意に死を想うとき、彼女のツインテールがそっと私にふれていた。それは一方で永遠を、もう一方で終わりを指し示しているように思われた。私は死すべき人間として彼女にふれ、やがて同じように死にいたる人々を見出した。沈黙が支配するあらゆる場所に、そしてもちろん、小さな画面の向こう側にも。
だから私は天使に祈る。死にゆく私たちのために祈る。いかなるときも彼女が私たちと共にあらんことを──願わくはその最期の瞬間にいたるまで。
著者
てらまっと teramat
低志会メンバー。アニメの女の子になりたい。
Twitter:@teramat
Blog:てらまっとのアニメ批評ブログ
Twitcasting:てらまっとの怒られ☆アニメ批評
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脚註
- 森川嘉一朗(@kai_morikawa)の2011年3月21日のツイートより引用。この前後のツイートについては「森川嘉一郎氏(@kai_morikawa)の語る、震災が今後のおたく文化に与える影響について」にまとめられている。また森川嘉一朗・斎藤環「3.11後のオタク文化のゆくえ」(『現代思想9月臨時増刊号 vol. 39–12 緊急復刊imago』青土社、2011年、214–229頁)も参照。 ↩︎
- 竹熊健太郎(@kentaro666)の2011年4月13日のツイートより引用。この前後のツイートについては「竹熊健太郎氏(@kentaro666)の語る、3.11以後のオタク的な表現」にまとめられている。また竹熊健太郎「『終わりなき日常』が終わった日」(『思想地図β vol. 2』、コンテクチュアズ、2011年、148–159頁)も参照。 ↩︎
- 森川や竹熊らのツイートに対する反論としては、たとえば「希有馬氏、『震災原発事故でオタクのリアリティが変わる論』への疑義」などがある。 ↩︎
- 周知のように「終わりなき日常」とは、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件を分析・批判するために、宮台真司が提示した言葉である。いわゆる「転向」前の宮台は、ブルセラ少女を例に挙げながら、現代の日本社会に生きる私たちにとって「終わらない日常のなかで、何が良きことなのか分からないまま、漠然とした良心を抱えて生きる知恵」が重要であることを強調していた(宮台真司『終わりなき日常を生きろ』、ちくま文庫、1998年)。 ↩︎
- 東浩紀「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」、『思想地図β vol. 2』、8–17頁。 ↩︎
- 同論考、11頁。 ↩︎
- 宇野常寛『リトル・ピープルの時代』、幻冬舎、2011年、6頁。 ↩︎
- モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』、西谷修訳、ちくま学芸文庫、1997年。 ↩︎
- 震災後、旧2ちゃんねるの「フィギュアスレ」には、破損したフィギュアが散乱するオタク部屋の画像が数多くアップロードされた。画像は「【まとめ】地震でフィギュアの棚が崩れたオタクの人たち」(『アプリコットコンプレックス』、リンク切れ)より引用。 ↩︎
- 喉「収斂する欲望──アニメというマトリックス」、『アニメルカ vol. 3』、2010年、53頁。 ↩︎
- 前島賢『セカイ系とは何か』、ソフトバンク新書、2010年、234頁。 ↩︎
- 宇野は空気系を「目的」の不在として記述しているが、これは「目的=終わり(end)」である以上、同じことである(宇野『リトル・ピープルの時代』、390–391頁)。 ↩︎
- 第2期『けいおん‼』のアニメ放送終了に合わせて完結した原作コミック『けいおん!』が、(おそらく読者の強い要望と掲載誌の売り上げを考慮して)連載を再開したことは広く知られている。連載再開後の『まんがタイムきらら』の売り上げは、再開前の約3倍に上ったという。 ↩︎
- 東浩紀・宇野常寛・黒瀬陽平・氷川竜介・山本寛「物語とアニメーションの未来」、『思想地図 vol. 4』、NHK出版、2009年、198頁。 ↩︎
- 実際に『ゆるゆり』が百合作品として受容されているかどうかは異論がある。この点については「ゆるゆりは百合作品ではなく、日常系コメディ」および「\アッカリーン/がゆるゆりのシンボルになってる状況うぜえ。あいつ百合じゃないじゃん」を参照。 ↩︎
- 東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』、河出文庫、2011年、408頁。 ↩︎
- ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション 1』、浅井健二郎編訳・久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995年、590頁。 ↩︎
- シミュラークルとは、フランスのポストモダン思想家として知られるジャン・ボードリヤールの概念である。もともとはプラトンに由来する言葉だが、(ジル・ドゥルーズとピエール・クロソフスキーを経由して)ボードリヤールが現代社会の分析に用いて有名になった。詳しくは、ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』(今村仁司・塚原史訳、ちくま学芸文庫、1992年)および『シミュラークルとシミュレーション』(竹原あき子訳、法政大学出版局、1984年)を参照すること。 ↩︎
- 東浩紀『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、2001年、75–76頁。 ↩︎
- 画像は「網状言論F〜ポスト・エヴァンゲリオンの時代〜」より引用。 ↩︎
- 同書、129頁。 ↩︎
- 画像は「網状言論F〜ポスト・エヴァンゲリオンの時代〜」より引用。 ↩︎
- 同書、124頁。 ↩︎
- 同書、140頁。 ↩︎
- 同書、160頁。 ↩︎
- 画像は「網状言論F〜ポスト・エヴァンゲリオンの時代〜」より引用。 ↩︎
- 来るはずのない「デカイ一発」という表現は、鶴見済『完全自殺マニュアル』(太田出版、1993年)の序文に記された印象的な言葉で、「世界の終わり」の不可能性を指摘するためにしばしば引用される(たとえば宮台『終わりなき日常を生きろ』(89頁)や、宇野『リトル・ピープルの時代』(4–5頁)、さらに竹熊「『終わりなき日常』が終わった日」(157頁)など)。 ↩︎
- 宮台、前掲書、18–20頁および95–97頁。 ↩︎
- ブランショ、前掲書、101頁。 ↩︎
- 竹熊、前掲論考、155頁。 ↩︎
- 宇野、前掲書、388–390頁。 ↩︎
- 同書、395頁。 ↩︎
- 黒瀬陽平「新しい『風景』の誕生」、『思想地図 vol. 4』、134頁。 ↩︎
- たとえば『らき☆すた』の聖地として一躍有名になった埼玉県鷲宮町(現・久喜市)の鷲宮神社では、地元商工会の強い後押しが功を奏したこともあって、正月三が日の参拝者数がアニメ放送開始前(2007年)の9万人から、2011年には47万人と5倍以上に激増したとされる。また鷲宮町商工会のウェブサイトには、『らき☆すた』に関連したさまざまなイベントや、お土産の情報が掲載されている。『らき☆すた』聖地巡礼についての研究論文としては、次のものがある。山村高淑「アニメ聖地の成立とその展開に関する研究:アニメ作品「らき☆すた」による埼玉県鷲宮町の旅客誘致に関する一考察」、『国際広報メディア・観光学ジャーナル 7』、2008年、145–164頁。 ↩︎
- 拡張現実と聖地巡礼の親和性については、宇野『リトル・ピープルの時代』と黒瀬「新しい『風景』の誕生」に加えて、みやじ・はるお・よしたか/tricken/反=アニメ批評による座談会「背景から考える──聖地・郊外・インタラクション」(『アニメルカ vol. 3』、28–29頁)が参考になる。またアナログ拡張現実装置「あなる」を使って聖地巡礼した際の記録「『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』聖地巡礼in秩父with拡張現実」も参照してほしい。 ↩︎
- 佐々木友輔「拡張された郊外におけるアート」、佐々木友輔編『floating view “郊外” からうまれるアート』、トポフィル、2011年、56頁。聖地巡礼とは直接関係しないが(むしろ『電脳コイル』のそれに近い)、佐々木の映像作品および彼がディレクションした「floating view “郊外” からうまれるアート」展は、拡張現実という技術と現実の風景とのかかわりを考える上で、きわめて重要な示唆を与えてくれる。 ↩︎
- この点については、拙ブログ記事「多層化するスーパーフラット:マルチレイヤー・リアリズムの誕生(1)」および「多層化するスーパーフラット:マルチレイヤー・リアリズムの誕生(1.5)」、さらに拙稿「多層化する世界──魔法少女とマルチレイヤー・リアリズム」(『魔法少女のつくりかた』、こうさくらぶ、2011年)を参照。 ↩︎
- たとえば先に言及した映像作家の佐々木に加えて、美少女CGのレイヤー構造にきわめて自覚的なJohn Hathway、「アニメ」で知られる谷口真人、それにアナログ拡張現実とも言うべき池田朗子の試みを挙げることができる。John Hathwayは村上隆の「pixiv Zingaro」で開催された「JH科学展」のメッセージのなかで、彼が「レイヤーと呼ばれる仮想の透明なシート状キャンバスの概念を利用して画像を作り上げて」いること、そして「レイヤーを2000枚〜4000枚程度使い、それを時系列であったり加工であったりどんどん重ねて1ヶ月〜半年かけて1枚の絵にして」いることを明らかにしている。彼は「JH科学展」で、自らの作品に3D加工を施し、手前側に描かれた美少女キャラクターを浮かび上がらせて見せることで、CGにおけるレイヤーの多層性を具現化しようと試みていた。また谷口真人は、ギャラリー「SUNDAY ISSUE」で開いた個展「アニメ」において、透明なガラスに裏側から少女の姿をペイントし、それをまた裏返しにして──とはつまり混沌とした絵の具の面を表にして──鏡に映して見せるという作品を発表している。それはスーパーフラットなイメージによって抑圧されているものを可視化しようとする試みとして理解しうる(『MAKOTO TANIGUCHI』)。池田朗子もマルチレイヤーなイメージの優れた探求者であり、写真の一部を切り抜いて折り曲げ、人物や車や家を立たせて撮影した作品のシリーズ(その一部は『光景 their sight/your sight』(青幻社、2008年)にまとめられている)や、小さな飛行機のモチーフを乗り物(バスや電車、車、飛行機、船)の窓ガラスに貼りつけ、移り変わる背景とともにビデオ撮影した《サイト・サイト・サイトプロジェクト》(2000)は、イメージの多層性を洗練されたかたちで描き出していると言えるだろう(『AKIKO IKEDA』)。 ↩︎
- 宇野、前掲書、392頁。 ↩︎
- 福嶋麻衣子・いしたにまさき『日本の若者は不幸じゃない』、ソフトバンク新書、2011年。 ↩︎
- 2009年から11年にかけて、『らき☆すた』原作者・美水かがみの生家は「きまぐれスタジオ美水かがみギャラリー幸手」として一般公開されていた。画像は「Izumi Konata’s House」(A Foreigner’s Tale in Japan、2009年8月20日)より引用。 ↩︎
- 東『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』、409–410頁。彼はミステリー作家の法月綸太郎との対談のなかで、プレイステーション・ソフト『どこでもいっしょ』の人気キャラクターである「トロ」と、紛争地である「コソボやチェチェンのニュース映像」、そして「身近で触れる家族や恋人」をフラットに並べ、やがて「この三つの存在がすべてシミュラークルになってしまって、感情移入の大きさだけでグラデーションのように捉えられる世界観になるような気がする」と語っている(409頁)。 ↩︎
- 東自身の立場は微妙である。彼はシミュラークルの全面化が不可避であることを指摘する一方で、キャラ萌えを支える解離的な主体性に無自覚であり続けることを批判する。東に言わせれば、萌えの手前に立ち止まることで「解離を解離のまま受け入れること、自らの分裂をはっきり認識することは、ひとつの倫理へと繋がる」のだという(『ゲーム的リアリズムの誕生』、講談社現代新書、2007年、3–6頁)。キャラ萌えの中断というモチーフは、たとえば後で分析する梅ラボやthreeの作品のなかに、はっきりと見てとることができる。 ↩︎
- これはもちろん『けいおん‼』にかぎったことではなく、たとえば細田守監督の劇場アニメ『時をかける少女』(2006)には、延々とループし続ける「終わりなき日常」からの離脱というモチーフが、より洗練されたかたちで提示されていると言うこともできる。しかしそこで主題的に描かれていたのは、誰もが共感できる青春のさわやかな汗と涙であって、オタク的なキャラ萌えの可能性は周到に排除されていた。本稿で『けいおん‼』を取り上げるのは、(もちろん個人的な嗜好もあるが)それが一方でキャラ萌えに特化し、他方で「終わり」の問題に向き合っているからだ。私たちはこのギャップにこそ注目する。 ↩︎
- 「あずにゃんペロペロ(^ω^)」というのは、匿名掲示板『2ちゃんねる』の「中野梓スレ」に集結したあずにゃんファン──やがて彼らは「ペロリスト」と呼ばれることになる──が、そろって「あずにゃんペロペロ(^ω^)」とレスしはじめたことに端を発している。「【あずにゃん】あずにゃんペロペロが流行った訳【ペロペロとは】」(『おんたん☆ブログ』、2010年6月9日)によれば、当初はあずにゃんではなく唯が「ペロペロ(^ω^)」の対象だったらしい。全盛期の中野梓スレは熱狂的なペロリストたちの巣窟と化していたが、あまりにも「ペロペロ」ばかり書き込まれるため、ついには「荒らし」と見なされて規制されることになった。これについては同サイトの「あずにゃんペロペロ(^ω^)規制、ペロリスト死亡w」(『おんたん☆ブログ』、2010年4月2日)を参照。いまではあずにゃんといえばペロペロ、ペロペロといえばあずにゃんと言われるほど定着している。 ↩︎
- 同じく古典的なキャラ萌えの手法(いわゆる「ハーレムもの」)で描かれたアニメ『IS〈インフィニット・ストラトス〉』(2011)をきっかけとして、新たに「萌え豚」や「ブヒる」といった表現が流行・定着する。萌え豚の特徴は、従来の「萌えー」という(最低限の)人間的なかけ声に代えて、「ブヒイイイイイイイイ」というあからさまに動物的な鳴き声でキャラクターへの没入を表現する点にある。したがってブヒるとは、オタク的主体のより先鋭的なあらわれと見ることができるかもしれない。 ↩︎
- 東・宇野・黒瀬・氷川・山本「物語とアニメーションの未来」、209頁。同じ対談のなかで、黒瀬もまた「どれだけ『けいおん!』にハマったとしても、その個人的な消費活動がそのまま当人の実存の問題をあぶり出す、ということはない」と述べているが(186頁)、これは「空気系アニメには物語がない」という批判とほぼ同型である。 ↩︎
- 杉田u「『けいおん』の偽法──逆半透明の詐術」、『アニメルカ vol. 3』、46頁。さらに杉田は、原作コミックとの明らかな差異を指摘している。原作では第1期の最終回に相当するライブは失敗に終わり、迷惑をかけた唯も反省の色を見せない。つまり「原作の唯はアニメとはちがって、一切成長を志向していない」のである(46頁)。したがってそれは、京アニがひそかに「空気系の純粋言語」を裏切っていることを意味している。 ↩︎
- 同論考、48頁。 ↩︎
- 『けいおん‼』最終回に対するファンの阿鼻叫喚については、たとえば「大ヒットアニメ『けいおん‼』 来週最終回の告知でネット発狂」(『J-CASTニュース』、2010年9月28日)や「『けいおん‼』最終回にショックを受けて自殺予告『終わったので死にます』」(『サーチナ』、2010年9月14日[リンク切れ])といった記事を参照。ただし第2期『けいおん‼』においては、第1期と同じく最終回の後に「番外編」(第26話)が用意されていただけでなく(なおBD・DVDには、もうひとつ番外編として第27話が追加されている)、番外編放送後に映画化決定の発表が行なわれた。このときのファンの熱狂ぶりは常軌を逸したものがあったが、その一端は「『けいおん!』映画化決定! いやっふぉおおおおおおおおおおおおお生きがいきたあああああああ」(『今日もやられやく』、2010年9月29日[リンク切れ])などからうかがい知ることができる。さらに興味深いのは、テレビ放送が終了した翌週、ネット掲示板やツイッターで、放送されるはずのない『けいおん‼』第27話の「エア実況」が行なわれたことである。「終わり」を否認しつつ、それさえコミュニケーションのネタとして消費するふるまいは、『けいおん‼』が私たちの「終わりなき日常」と分かちがたく結びついていたことを示している。 ↩︎
- 杉田、前掲論考、50頁。 ↩︎
- 同論考、49頁。 ↩︎
- 合成写真についての解釈は、志津Aとの私的な会話から重要な示唆を得た。 ↩︎
- 志津A「日常における遠景──「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」、『アニメルカ vol. 2』、2010年、17頁。 ↩︎
- 同前。 ↩︎
- 同論考、19頁。 ↩︎
- 祈りとしてのあずにゃんペロペロの可能性については、「『あずにゃんペロペロってどこをペロペロしてるの?』に対する応答」を参照。さらに後述の「ルイズコピペ」を媒介にして、あずにゃんペロペロはあずにゃんのまなざしに対する応答として理解されることになる。この点に関しては「見てる!あずにゃんが僕を見てるぞ! ペロペロ(^ω^)」(『【2ch】ニュー速vipブログ(`・ω・´)』、2010年6月11日)にまとめられたレスが示唆的。 ↩︎
- 終わりを内包した日常というモチーフは、主婦向けのさまざまな文化領域に頻出する。たとえば『ku:nel』や『天然生活』、あるいは『ナチュリラ』といった雑誌が体現しているのは、一見すると、比較的裕福でクリエイティブな主婦とその子どもを中心とした「終わりなき日常」そのものであるように見える。誌面に登場する中年の女性たちは、白や生成りの上質なブラウス、黒や紺の麻のスカート、色落ちした淡青のジーンズ、履き込まれてくったりとした革靴やサンダルといった衣装に身を包み、真っ白に塗られた壁と深い茶色の重厚な木製家具──それはまさにウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の旧豊郷小学校、すなわち『けいおん!』の聖地を思わせる──に囲まれて微笑んでいる。彼女たちは小さなブランドのデザイナーであり、かばん作家であり、絵本作家であり、エッセイストであり、料理研究家であり、そして子どもを育てる主婦である。有機野菜の手料理、豆から淹れるコーヒー、北欧への憧れ、ハンドメイドの什器といったものがないまぜになって、日常生活の細部への行き届いた配慮を形作る。しかしその一方で、古びたアンティーク雑貨や西洋の骨董品、紫陽花のドライフラワーといった無機物への傾倒は、廃墟趣味への接近を予感させるだけでなく、彼女たちの清潔でオーガニックで美しい室内空間が、崩れ落ちた廃墟の光景と重ね合わされているかのような錯覚を与える。女性たちの安らいだ笑顔のそこかしこに、逃れられない死の影が貼り付いている。理想化された日常ほど異様な光景はない。それは半ば必然的に「終わり」のイメージを引き寄せてしまう。これらの雑誌を満たしている白い光は、どこか病院の静謐さに似ている。 ↩︎
- 本記事の初稿執筆後に公開された『映画けいおん!』(2011)では、テレビシリーズ第2期の最終回において「天使」という語が呼び出された理由──というよりは無意識のメカニズム──がひそかに図解されている。ロンドンへの卒業旅行のさなか、「あずにゃん」という愛称が英語への翻訳を通じて言葉遊び的に変形され、視覚情報と結びついて「天使」へとスライドしていくのである。こうした無意識への着目は、監督の山田尚子と脚本の吉田玲子が手がけた他の作品にも見出だせる。詳しくは「ロンドン、天使の詩:『映画けいおん!』と軽やかさの詩学 ver. 3.5」および「無意識をアニメートする2:『たまこラブストーリー』と非人間への愛」を参照。 ↩︎
- これまで京アニが手がけた作品のうち、天使のモチーフが登場するのはkey原作のアニメだけではない。かつて京アニは宗教団体「幸福の科学」の啓発ビデオを制作しており、教祖・大川隆法による絵本を原作とするOVA『しあわせってなあに』(1991)にも背中に羽の生えた少年が登場する。 ↩︎
- 志津Aは「日常における遠景」のなかで、この連続性に注意を促している。彼は空気系とセカイ系を安易に対立させるのではなく、「『けいおん!』を『AIR』や『CLANNAD』に近い作品として考えること」を提案している(志津A、前掲論考、9頁)。 ↩︎
- 東『ゲーム的リアリズムの誕生』、318–319頁。 ↩︎
- 村上裕一『ゴーストの条件──クラウドを巡礼する想像力』、講談社BOX、2011年、310頁。 ↩︎
- 「感動」と「セルフエコノミー」に関しては、拙ブログの以下の記事を参照。「あの日見た花の名前が涙でにじんで見えない。:幽霊と涙とレイヤーについての覚え書き」。 ↩︎
- 『けいおん!』の主人公・平沢唯の名前のモデルとなったミュージシャン平沢進は、震災後に寄稿したエッセイのなかで、目に見えない放射能の脅威にさらされ、不安や絶望に打ちひしがれた人々を、音楽という「手品」によって救済しうると主張している。「音楽は」と平沢は述べる、「虚構によって現実体験の質を変えうる手品として人の心に影響を与える」(平沢進「音楽と放射能──手品師が見た日本の放射能体験」『現代思想9月臨時増刊号 vol. 39–12 緊急復刊imago』、192頁)。というのも「音楽によって媒介された『体験』が充分にあなたの心を動かし、そこから『動機』と『活力』と『希望』を得たならば、それは一つの世界観となってあなたの中に残り続ける」からだ(194頁)。平沢はそのような「体験」を構成する「あらゆる時と場所に遍在する祖先の霊」に言及しているが(同上)、私たちはそれを「天使にふれる」経験に連なるものとして捉え返すことができるかもしれない。 ↩︎
- 志津A「キャラクターの不定形な核──『鉄腕アトム』から『新世紀エヴァンゲリオン』へ」、『アニメルカ vol. 3』、64頁。 ↩︎
- 斎藤環『キャラクター精神分析──マンガ・文学・日本人』、筑摩書房、2011年、234頁。 ↩︎
- 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』、NTT出版、2005年、95頁。 ↩︎
- リチャード・ウォルハイム『芸術とその対象』、松尾大訳、慶應義塾大学出版会、2020年、80頁。 ↩︎
- キャラクターと固有名に関する議論については、たとえば村上『ゴーストの条件』の120–127頁を参照。 ↩︎
- 志津Aはアニメにおける接触のモチーフを、キャラクターのイメージを構成する「線」ないし「面」の問題として描いている。それによると「その場合の線とは空間に穴をうがち、その穴の表面にイメージを浮かび上がらせるような縁の役割を果たして」おり、また「面としてのキャラクターにおいて重要なのも、こちら側と向こう側との分割であり、境界面としての役割である」(志津A「キャラクターの不定形な核」、72頁)。 ↩︎
- 佐々木健一『美学辞典』、東京大学出版会、1995年、142頁。ここで参照した定義は、ドイツ・ロマン主義の哲学者フリードリヒ・シェリングの分類に従っている。 ↩︎
- ベンヤミン、前掲書、380頁 ↩︎
- 同書、217頁。 ↩︎
- 同書、216頁。 ↩︎
- 同書、236頁。 ↩︎
- 同書、235頁。 ↩︎
- 同書、217頁。 ↩︎
- 同書、230頁。 ↩︎
- 同書、219頁。 ↩︎
- 同書、220–221頁。 ↩︎
- 同書、237頁。 ↩︎
- 同書、316頁。 ↩︎
- 同前。 ↩︎
- 同人ゲーム『東方Project』のキャラクターを中心としたコラージュ作品。画像は『梅ラボ』より引用 ↩︎
- 美少女フィギュアを解体・圧縮して直方体に固めたシンプルな作品。重量をタイトルにすることで、フィギュアを無機質な数字に還元し、脱アウラ化を推し進めている。画像は『three』より引用。 ↩︎
- 「アーキテクチャの生成力」については、濱野智史「ニコニコ動画の生成力──メタデータが可能にする新たな創造性」(『思想地図 vol. 2』、NHK出版、2008年、313–354頁)を参照すること。そこでは従来の「作者」に代わって、個々の動画に付される「タグ」こそが「n次創作」の担い手になっていることが論じられている。 ↩︎
- 「うたわれてきてしまったもの」、『梅ラボmemo?』、2011年5月24日。 ↩︎
- カオス*ラウンジの主要メンバーのひとりである藤城嘘は、「キャラクターをバラバラにして表現をすること」が人に不快感を与えうることを認めつつも、あくまで「他人の干渉できない『正義』の問題」であることを主張している。さらに彼は「作者への愛やリスペクトが見られない」という批判に対して、暴力的・陵辱的な内容の同人誌の存在を挙げて反論している。ただ残念なことに、嘘の議論は梅ラボ作品の違和感の正体(キャラ萌えの中断と反省の誘発)を一切説明することなく、カオス*ラウンジの立場を正当化することに終始しているように見える。不快感を与えたことを「正義」の代償として片づけるのではなく、そのショックにこそ照準を合わせ、キャラクターやアーキテクチャをめぐる生産的な対話へと開くような解説が必要だったように思う。詳しくは「『キメこな問題』について・カオス*ラウンジ藤城嘘の見解」(『ダストポップ』、2011年6月25日)を参照。 ↩︎
- 画像は2011年5月18日の梅ラボのツイートに添付されたURLより引用。画像はすでに削除されており、旧コンテクスチュアズ社のオフィスに設置された作品も非公開となっている。 ↩︎
- キメこなちゃんが誕生した経緯については、たとえば以下のサイトの記事を参照。「キメこなちゃんが超可愛い件について!」(『ヤラナイカ』、リンク切れ)および同サイトの「世界に羽ばたくキメこなちゃん!」(リンク切れ)。 ↩︎
- 前掲「うたわれてきてしまったもの」 ↩︎
- キメこなちゃんを描いたものとしては最も有名な画像。同じポーズでさまざまなバリエーションが存在する。画像は「キメこなちゃんが超可愛い件について!」(『ヤラナイカ』、リンク切れ)より引用。 ↩︎
- 「黒瀬陽平『カオスラウンジ宣言』」、『ART and ARCHITECTURE REVIEW』(リンク切れ)。黒瀬はこのなかで、「人間の内面」が「アーキテクチャによる工学的介入によって蒸発する」こと、そしてカオスラウンジのアーティスト自身が「ひとつのアーキテクチャとなって、新たな演算を開始する」ことを主張している。 ↩︎
- カオス*ラウンジ騒動については、関係者のツイートをまとめた記事が多数存在する。騒動初期のツイートを扱ったものとしては、たとえば「キメこな騒動まとめ。」がある。またpixivを舞台にした「現代アートタグ祭り」に関しては、「pixivと現代アート」を参照。 ↩︎
- 前掲「うたわれてきてしまったもの」。 ↩︎
- 同前。 ↩︎
- 同前。 ↩︎
- ダミアン・ハーストの有名な作品《母と子、分断されて》(1995)を踏まえていると思われる作品。画像は『three』より引用。 ↩︎
- threeの作品に対するネットの反応に関しては、以下のまとめサイトの記事などを参照。「海外で話題 『日本のフィギュアをドロドロに溶かして新たなる価値観を創造したオブジェクト作品』」、『【2ch】ニュー速vipブログ(`・ω・´)』、2010年12月16日。 ↩︎
- 《24bit》および他の作品は、threeのウェブサイトで見ることができる。展示の概要については、「TWS-Emerging 164/165/166/167」を参照。 ↩︎
- 情報の最小単位「bit」に還元された24体のフィギュアが並べられている。画像は『three』より引用。 ↩︎
- 東『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』、278頁。 ↩︎
- 同前。 ↩︎
- 東『ゲーム的リアリズムの誕生』、318頁。 ↩︎
- 斎藤、前掲書、220頁。 ↩︎
- 同前。 ↩︎
- 黒瀬陽平「キャラクターが、見ている。──アニメ表現論序説」(『思想地図 vol. 1』、NHK出版、2008年、454–460頁)を参照。 ↩︎
- 村上、前掲書、306頁。 ↩︎
- 《ルイズコピペ》は旧『2ちゃんねる』の「vip板」で誕生したと言われている。その衝撃的な内容から、これまでに数多くのバリエーションが作られた。『とらドラ!』のヒロイン逢坂大河や『ローゼンメイデン』の蒼星石、『涼宮ハルヒの憂鬱』の朝倉涼子といったオーソドックスなものをはじめとして、福田康夫元総理、仏陀、関羽、さらにはチュパカブラやたわしや蒟蒻畑にいたるまでコピペ化されている。詳しくは「ルイズの派生コピペ集めようぜwwwww」(『もみあげチャ〜シュ〜』、2009年7月25日)などを参照。いまでは《ルイズコピペ》のバリエーションを自動生成してくれる「クンカクンカジェネレーター」なるものまで存在する。 ↩︎
- キャラクターに対する感情を吐露した数あるコピペのなかでも、《ルイズコピペ》はとりわけ高く評価されている。そこにはルイズに対する「熱い意志」や「情熱」が感じられ、気持ち悪いどころか「むしろカッコイイ」「感動した」等の好意的なコメントが寄せられている。以下のまとめサイトの記事を参照。「ルイズのコピペを超える気持ち悪いコピペって存在するの?」、『マジキチ速報』、2010年5月10日。 ↩︎