※本記事は、すみ「『ゼルダの伝説 BotW』の探索はなぜワクワクするのか。新作ゼルダに宿る『ハズレの美学』」(2017)を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。
文:すみ
2017年に発売された『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』(以下『ゼルダの伝説 BotW』)は、ゲームファンなら誰もが認める傑作である。そもそも『ゼルダの伝説』(1986)に始まるシリーズ自体が高く評価されており、とりわけ5作目の『ゼルダの伝説 時のオカリナ』(1998)は長らく「史上最高のゲーム」と見なされてきた1。そのため、同シリーズの新作には常に高い期待が寄せられる。
『ゼルダの伝説 BotW』は、このあまりにも高いハードルを見事に乗り越えてみせた。数々の挑戦を通じて『時のオカリナ』以来の伝統を打ち破り、同作に匹敵するほどの高評価を獲得したことで、歴史ある『ゼルダの伝説』シリーズのなかでも特別な地位を築いたのだ。あるレビュー記事では以下のように、本作がほとんど手放しで絶賛されている。
本作〔=『ゼルダの伝説 BotW』〕の完成のためにどれ程の情熱と、どのような狂気が注ぎ込まれたか想像もつかない。とても語りきれないほどのパワーとボリューム、野心に満ち溢れたゲームであり、かつて『時のオカリナ』がそうであったように、今後の「ゼルダ」タイトルに対する呪縛めいた比較対象になることは間違いない、たぐいまれなる傑作である。2
『ゼルダの伝説 BotW』の同シリーズにおける新しさは、「オープンワールド」と呼ばれる広大なマップをシームレスに移動できるシステムを採用している点にある。それでも従来のシリーズ作品と同じくらい面白い『ゼルダの伝説』を作ることができるのか、発売前にはファンからの不安や疑念も寄せられていたが、本作の完成度の高さには良い意味で予想を裏切られることになった。
そして2023年5月12日、『ゼルダの伝説 BotW』から6年を経て、シリーズの続編となる『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』が発売される。世界中から「たぐいまれなる傑作」と評価された前作の続きというだけあって、この新作への期待もきわめて高い。もちろん、ファンのなかには「さすがに前作を超えるのは難しいのではないか?」と懐疑的になっている人もたくさんいるだろう。引用したレビュー記事で語られているとおり、それだけ『ゼルダの伝説 BotW』は圧倒的な支持と評価を集め、後続作品に対する「呪縛めいた比較対象」になっているからだ。
『ゼルダの伝説 BotW』がこれほどまでに高く評価されるのはなぜだろうか。その要因についてはすでに数多くのレビュー記事で分析されているが、本稿ではあるひとつの「気づき」から出発して、本作の隠れた魅力の一端に迫ってみたい。その気づきとは、プレイヤーとしての私の思惑が「ハズレ」てしまった、という体験によって得られたものだ。私はこれを「ハズレの美学」と呼ぶことにしたい。とはいえ、プレイヤーの思惑が外れてしまう体験がいったいなぜ、どのようにゲームの魅力となりうるのだろうか。『ゼルダの伝説 BotW』の数ある長所の中から、逆説的にも「ハズレ」がもたらす美点を記述すること──これが本稿の目指す場所である。まっさらな地図を手に、さっそく探索をはじめよう。
「ハズレ」とのファースト・コンタクト
私は『ゼルダの伝説 BotW』をこれまでに2周クリアしている。1周目は約70時間、2周目は少しじっくりと遊び、90時間ほどプレイした。1周目のときは、楽しくて楽しくて前のめりでプレイしていたためか、本作の細部に宿っている魅力に明確には気づいていなかった。しかし2周目に入ると、そこで初めて「素晴らしいアイデアだ!」と驚くことが何度もあった。そうした気づきのなかで一番印象的だったのが、ゲームの序盤に訪れた「カカリコ村」での一場面である。
それはカカリコ村の高台から見える、ある「でっぱり」に登ったときのこと。このでっぱりは、自然の造形物としては不自然ながら、人工物というにはあまりに素っ気ない。ピンときた私は「あそこには確実に何かあるな」と思った。
本作をプレイしたことがある人なら、このゲームではまさにそういった「思い込み」が重要であることを知っているはずだ。特に、持ち物の容量を増やすことができる「コログの実」という収集アイテムは、このでっぱりのように一見して違和感のあるオブジェクトや、山の頂上などに隠されていることが多い。そういうわけで「何かある」と確信した私は、そのでっぱりに登ってみたのだ。
ところが、そこには何もなかった。予想していた収集アイテムはもちろん、発見できるようなものは何ひとつなかったのだ。このような場合、爆弾などを使って刺激を与えると何かが起こるのが『ゼルダの伝説 BotW』の定番である。そこで爆弾をはじめさまざまなアイテムを試してみたのだが、特に何も起こらない。そしてこう思った──「ああ、ここは “ハズレ” なのか」と。まさにその瞬間、なぜこのゲームが、とりわけ「探索」がこんなにも楽しいのか、その秘密の一端を私は垣間見た気がしたのだ。
同じようなことは別の場所でも体験した。それはとある高地の、風雪吹きすさぶ山の頂上に到達したときのことだ。私はこの山頂についても「きっと何かあるにちがいない」と思い、登ってみることにした。『ゼルダの伝説 BotW』のマップには等高線が引かれており、山頂などはマップの上でも特徴的な形になっている。本作では、そういった特殊な形の場所に収集アイテムが存在していることがある。そのため、何か手に入ることを期待しつつ、雪嵐で視界の悪いなかを苦労して登頂したのだが、そこには何もなかった。この山頂も「ハズレ」だったのだ。
また別の山でも同じようなことがあった。山頂がきれいに割れている、いかにもあやしげな山を見つけた私は、そこに何かあるだろうと思って登ってみたのだ。しかしこの山頂でもやはり、これといって何も見つけることができなかった。
『ゼルダの伝説 BotW』では、実はかなり多くのプレイヤーが似たような体験をしているのではないだろうか。「何かあると思ったけれど、実際には特に何もなかった」という体験はおそらく、本作をプレイするうえで避けては通れないものだ。そして私の考えでは、このハズレの体験こそが本作のデザインにおける美しさのひとつであり、プレイヤーの「探索」への期待を絶妙にコントロールしているのである。
他のオープンワールドと何がちがうのか?
『ゼルダの伝説 BotW』の「ハズレ」体験の重要性について考えるには、本作と同じタイプのオープンワールドゲーム3と比較するのが有用だろう。そこで、比較的広いマップを歩き回ってアイテムを収集する要素のあるゲームを4作品ほどピックアップし、それぞれのマップ画面を見比べていくことにしたい。特に注目してほしいのは、マップ上に配置されているアイコンである。
『アサシン クリード シンジケート』
19世紀のロンドンを舞台に、暗殺者となって暗躍するステルスアクションゲームが『アサシン クリード シンジケート』(2015)だ。『アサシン クリード』シリーズは「フリーラン」が持ち味で、高いところにも自由に登ることができる。この点は『ゼルダの伝説 BotW』の「壁登り」とよく似ているが、スタミナ切れなどは特にないため、遊びの質としてはかなり趣が異なる。同作では画面左側のウィンドウに収集アイテムの数が表示され、この数値の分母がひとつのエリアにおけるアイテムの総数を示している。収集アイテムの位置は「宝箱の地図」を購入することで、マップ上にアイコンとして表示されるようになる。
『Far Cry 4』
『アサシン クリード』と同様、『Far Cry 4』(2014)も『ゼルダの伝説 BotW』と共通点の多いゲームとして名前が挙がるシリーズの一作だ。先進的な文明から隔離され、部族的な慣習に支配された土地を舞台に、現地の軍事勢力との戦いを生き延びる一人称視点のサバイバルアクションゲームである。マップ上には、特徴的なロケーション(橋や建物など)を示すアイコン以外に、アクティビティと呼ばれるサブミッションの場所が表示されている。「?」マークのアイコンは、まだ訪れてはいないがそこに何らかのアクティビティがあることを示している。またマップを拡大すると、宝箱などの位置を示すアイコンがさらに細かく表示される。
『ライズ オブ ザ トゥームレイダー』
初代プレイステーション時代に人気を博し、映画化もされた人気シリーズの一作が『ライズ オブ ザ トゥームレイダー』(2015)だ。女性冒険家を主人公に据えたアクションアドベンチャーゲームで、リブートされた前作(2013)でシステムが刷新され、オープンワールド化した4。ひとつひとつのエリアは狭いものの、画面左側のリストに表示されているとおり、収集アイテムやミッションは種類・数ともに豊富であり、マップ上のアイコンがそれらの位置を示している。
『ホライゾン ゼロ ドーン』
『ホライゾン ゼロ ドーン』(2017)は『ゼルダの伝説 BotW』と同時期に発売されたオープンワールドアクションゲーム。文明が崩壊した遠い未来の世界を舞台にした名作で、美しい環境のビジュアル、多彩な機械獣との戦闘、SF的設定の物語などが高く評価されている。マップ上には大量のアイコンがひしめき合っているが、その多くは「ファストトラベル」(一度訪れた場所への瞬間移動)が可能な「たき火」ポイントである。それ以外にも、宝箱や収集アイテムのある洞窟や遺跡の場所がアイコンで示されている。
これら4作品はいずれも『ゼルダの伝説 BotW』の数年前、もしくは同年に発売された、それなりに評価の高いオープンワールドゲームである。それぞれの作品のマップには、実に多くのアイコンが表示されていることがわかる。収集アイテムやミッションポイント、拠点といったものがマップ上に満遍なく配置されているのだ5。
しかしながら、上記の4作品に『ゼルダの伝説 BotW』ほどの探索の魅力があるとは感じられなかった。これらのゲームのマップには、小エピソードを含むサイドクエスト(完了すると経験値が手に入るクエスト)に加え、お金や武器などのアイテムがアイコンとして表示されている。同様に『ゼルダの伝説 BotW』においても、収集アイテムの「コログの実」や、武器やお金などが入っている「宝箱」が広大なマップに配置されている。収集アイテムを探し出して入手することがゲーム上のメリットをもたらすという点では、本作と他の4作品とのあいだに大きな違いがあるわけではない。さらに言えば、探索に要する時間や手間などの点でも、これらの作品同士にはっきりとした優劣があるとは思えない。
ところが『ゼルダの伝説 BotW』は、他作品と比べて「この先に何が待ち受けているんだろう」というワクワク感が圧倒的に高いのだ。そしてこのワクワク感が、プレイヤーに「探索してみたい!」という強い衝動を呼び起こすのである。
「アタリの保証」によって失われるもの
先に挙げた4つの作品のマップには、収集アイテムをはじめさまざまな目標物が配置されている。それなのに、なぜ『ゼルダの伝説 BotW』ほど探索のワクワク感がないのだろう。本作と類似作品とでは何が違うのだろうか。まずは『ゼルダの伝説 BotW』のマップを見てみよう。
『ゼルダの伝説 BotW』のマップには、青色のひし形のアイコンが他と比べて多く表示されている。このアイコンは「祠」と呼ばれる場所を指し示すもので、ここではパズルのような問題が提示される。そのパズルを解くと主人公リンクの能力をアップさせられるアイテムが入手できるため、本作においてはかなり重要な場所である。
一見すると『ゼルダの伝説 BotW』のマップも、先の4作品と何も変わらないように見えるかもしれない。しかしここで注意すべきなのは、これらの青いアイコンがすべて、プレイヤーが祠を発見した「後」に出現するということだ。実際に祠を見つけるまでは、それがあるはずのマップ上の位置には何も表示されていないのである。これに対し、先の4つのオープンワールドゲームではいずれも、あらかじめマップにさまざまなアイコンが表示されていることが多い。つまり、本作とこれらのゲームとでは、マップ上にアイコンが出現するタイミングが、その目標物を発見する「前」か「後」かで大きく違うのだ6。『ゼルダの伝説 BotW』における探索があれほどワクワクするものなのは、こうした「事後性」にその理由の一端があると私は考えている。
とはいえ本作以外にも、アイコンが後からマップ上に表示されるタイプの作品はいくつか存在する。先ほどの例には挙げていないが、たとえば『スカイリム』(2011)や『グランド・セフト・オートⅤ』(2013)といったオープンワールドゲームでも、『ゼルダの伝説 BotW』における祠と同様、プレイヤーが遺跡や街などを発見するたびにマップ上にそのアイコンが追加されていく。そのため、アイコン表示の事後性そのものは本作の独創というわけではない。むしろここで私が強調したいのは、これら他のゲームではマップ上のアイコンが例外なく「アタリ」を意味している、ということだ。裏返せば、そこにはハズレが存在しないのである。マップ上のアイコンは「何かあるかもしれない」というヒントでさえなく、そこに行けば必ず何かがある「アタリ=正解」をあからさまに示している7。
振り返ってみれば、それまでのオープンワールドゲームでは、マップ上のアイコンやヒントはほとんどすべてアタリを意味していたように思う。『スカイリム』のような作品でも、メインクエストや数々のサブクエストの「目的地」などを指し示すアイコンは、マップ上に表示されていることが多い。そしてこのアイコンは当然ながら、ほぼ例外なく「アタリ=正しい目的地」を意味している。
そこに行けば何かがはじまり、そこに行けば何かが見つかる。プレイヤーがすべきことは、その正解に向かって進んでいくことだけ……。もちろん、だからといって探索要素がまったくないわけではない。いくつかのゲームは「ルート探索」とでも言うべき遊びを提示している。目的地はわかっていても、どうしたらそこにたどり着けるのかわからない以上、正解のルートを探し当てる必要があるからだ。しかしこういった遊びもすべて、100%の正しさを保証された「アタリ=目的地」を前提としている。それは下手をすれば、すぐさま退屈な「作業」へと変貌しかねない。つまりはアタリを保証することが、探索のワクワク感を押し下げてしまうのだ。
「地形を読む」というアクション
アイコンによるアタリの保証は、かえってプレイヤーの気持ちを萎えさせてしまう恐れがある。とはいえ、それまでのオープンワールドゲームが、こうした懸念にまったく無頓着であったわけではない。先に挙げた各作品でも、探索がたんなる作業に堕してしまわないように、さまざまな工夫が凝らされている。なかでもよく見られるのは次の2つのパターンだろう。ひとつは、マップ上のアイコンがピンポイントで位置を指し示すのではなく、ぼんやりと「だいたいこのへん」を指示することで、目的地や目標物の場所を曖昧にするという方法だ。これによって狭い範囲ではあるが、プレイヤーに探索の余地を与えることができる。
もうひとつは、そもそもアタリのアイコンを表示しないという方法だ。こちらの場合、NPC(プレイヤーが操作しないキャラクター)との会話や事前に入手したドキュメントなどから、どこに向かえばいいかを自発的に探ることになる。
1つ目の解決策のように、範囲をどれだけぼやかしても、そのアイコンがアタリを保証していることに変わりはない。そういう意味で『ゼルダの伝説 BotW』は、2つ目の方法を採用していると言っていい8。しかし、たんにアタリのアイコンを配置しないというだけではない。先に触れたように、本作のマップには地名と、等高線による簡易な地形が描かれているのだ。
この等高線や地形を見ると、高い山などはいかにも特別な場所に思える。平地と比べて等高線の密度が高く、中心にある山頂を指し示しているかのように見えるからだ。ここでは探索という行為が「地図を読む」「地形を読む」ことへと昇華されている。これによってプレイヤーは、マップ上に明示されたアイコンをただ順番に巡るのではなく、マップをみずから読解し検証するという能動的なアクションへと導かれていく。
こうした仕組みを採用することで『ゼルダの伝説 BotW』は、プレイヤーの期待を絶妙にコントロールしている。その象徴とも言えるのが「ハズレ」の存在である。本作のマップに記された地名や等高線は、当然ながら、それ自体としてはアタリを指し示すものではない。つねに正解を教えてくれる都合のよい目印ではないのだ。そのため、あやしいと感じて実際に行ってみたとしても、そこに必ず何かがあるわけではない。私自身が何度も体験したように、どんなに高い山やおかしな形の丘に登ったところで、それはただのハズレかもしれない。
『ゼルダの伝説 BotW』を称賛するとき、人々はしばしばこう語った──「どこに行っても、ちゃんと何かがある。だから、ついつい探索してしまうんだ」9と。これは実感としてはそのとおりかもしれない。だがその裏には、もうひとつの真実があるのではないか。繰り返し述べているように、あやしげな場所に行ったとしても、そこに必ず何かがあるわけではない。必ずあるのだとしたら、他のゲームと同様、たんにアタリのアイコンを目指すだけの行為に近くなってしまう。しかし『ゼルダの伝説 BotW』はそうではない。探索のワクワク感が持続するのは、あやしいと感じる場所に行ってみたところで、そこには何もない可能性がつねにあるからだ。
「何かがあった」ことだけがプレイヤーの期待を形作るのではない。「何かがなかった」こともまた、裏側から期待をコントロールしている。だからこそ、そこでようやく何かを見つけたとき、プレイヤーは「私が」「俺が」「僕が」見つけた、という強い実感を得ることができる。「どこに行っても、ちゃんと何かがある」と感じられるためには、逆説的に「どこに行っても、ちゃんと何かがあるわけではない」という体験の積み重ねが必要なのだ。
とはいえ『ゼルダの伝説 BotW』では、たんにいくつものハズレが用意されているだけではない。むしろそこで重要になるのは、ハズレをどのようにデザインするかということだ。そして私の考えでは、とりわけ以下の2つの仕組みが、本作における「ハズレの美学」を支えているのである。
ハズレのデザイン(1)物量による期待の底上げ
ハズレを引くのはたしかに残念なことだ。しかし『ゼルダの伝説 BotW』は、その残念さがうまく緩和されるように作られている。それを可能にしているのが、本作における収集アイテムの膨大な「物量」である。「祠」は全部で120カ所、「コログの実」は900個。「宝箱」にいたっては、いったいどれだけあるのかわからないほどだ。
この圧倒的な物量のおかげで、たとえハズレを引いてしまっても「次こそは何かあるかもしれない」とすぐに切り替えることができる。「何もなかった」→「でも次は何かあるかも……」→「あった!」というハズレとアタリの連鎖は、たんにハズレの残念さを緩和するだけではない。まるで「いないいないばぁ」遊びのような緩急のおかげで、プレイヤーの期待はつねに新鮮なまま保たれ、高い水準で推移していく。
先に挙げた4つの作品も、それなりの物量の収集アイテムを用意していなかったわけではない。にもかかわらず、それらが『ゼルダの伝説 BotW』ほどには探索のワクワク感に寄与していないように感じられるのは、すでに述べたとおり、ヒントとなるアイコンが100%の確率でアタリを示していたからだ。これは裏を返せば、アイコンのない場所は100%ハズレであることを意味している。そのため「何かがあった/なかった」という緩急が生まれず、期待が活気づけられることもない。何もないとわかっている場所にわざわざ行くプレイヤーは少ないからだ。
他方で本作はアイコンを表示せず、あやしげな場所にもあえてハズレを配置することで、その場所がアタリなのかどうかを徹底的に不明瞭なものにした。これによってプレイヤーの想像力がかき立てられ、アタリに見える場所がいたるところに増殖していく。「何かあるにちがいない」という思い込みに突き動かされて、崖のでっぱりや高い山の頂上に登り続けた私のエピソードを思い出してほしい。
収集アイテムの物量によってハズレとアタリの連鎖を生み出し、プレイヤーの期待を高水準に維持するとともに、想像力を刺激してさらなる探索へと駆り立てる──これが『ゼルダの伝説 BotW』の1つ目の「ハズレのデザイン」である10。
ハズレのデザイン(2)ハズレの二重底
「ハズレの美学」を支えるもうひとつの仕組み、それは「ハズレの二重底」とでも言うべきものだ。箱や引き出しの「二重底」と同じように、最初に見たときは何もない(ハズレ)と思っていても、後になって何かがある(アタリ)ことに気づかされる、というタイプの仕掛けである。これは特に「コログの実」の収集にあたって遭遇することが多い。行うべきアクションがわからず、最初はハズレだと思い込んでスルーしてしまうパターンだ。
たとえば『ゼルダの伝説 BotW』には、まったく同じ形の木が3本、横一列に並んでいる場所がある。まるで「コピペ」したような木々が丘の上に3本だけ生えている、というのは決してよくある光景ではない。本作においてもかなり珍しい部類だろう。
この光景を初めて見たとき、私は「いかにもあやしい!」と思ったものの、これといって何も発見することができず、その場を離れてしまった。同じような体験をした人も多いのではないだろうか。しかしあるとき、これが実は「アタリ」だったことに気づいた。詳しくは説明しないが、この場所で特定のアクションを行うと、ハズレに見えていたものが突如としてアタリだったことが判明するのだ。
プレイヤーに最初から100%のアタリ/ハズレを提示するのではなく、両者の境界をほんの少し曖昧にしておくこと。それがハズレの二重底だ。「あのときのハズレは、もしかしたらハズレではなかったのかも……」と考え始めると、これまでに体験してきたあらゆる「ハズレ」が疑わしく見えてくる。それだけではない。まだ出会っていない未来のハズレもまた、本当にそれがハズレだと断定できるのか、プレイヤーは確信が持てなくなってしまう11。これは長期間にわたってアタリへの期待を高止まりさせる、ひそかな心理的要因となっているはずだ。
アタリとハズレの彼岸へ
『ゼルダの伝説 BotW』における「ハズレの美学」とは何か。それはアタリなのかハズレなのかを曖昧にしておくことで、プレイヤーの期待をつなぎ止め続けることだ。今向かっている高い丘の上にはいったい何があるのだろうか。アイテムの物量を踏まえれば、そこはおそらく「アタリ」であることが期待できるのだが、とはいえ100%の確信は持てない。しかし仮にその場所が「ハズレ」だったとしても、次に向かう場所はアタリかもしれない、という期待が失われることはない。さらにはハズレと見せかけて、実は「ハズレの二重底」になっている可能性も大いにある。
このようにアタリとハズレの境界を曖昧にする本作のデザインは、私にとってはオープンワールドゲームの原初的な喜びに根差している。
オープンワールドと呼ばれる広大なマップを自由に移動するゲームに私が初めて触れたのは、『グランド・セフト・オートⅢ』(2001、以下『GTA3』)をプレイしたときだった。ローディングを挟まないシームレスな移動、広大なマップを縦横無尽に探索できる楽しさに、私はいたく感動した。しかしそれ以上に感激したのは、ゲームの世界に「路地裏」が存在していることだった。ビルの谷間にあるゴミ収集ボックス、積み上げられたベニヤ板やタイヤ、ビニールシートを被った資材……。ゲームのなかで意味があるのかないのかよくわからないこういった存在に、街全体の息遣いのようなものを感じたのだ。意味もなくブラブラと歩くだけで、本物の街を探検しているような気分が味わえた。
オープンワールドではないゲームでは、それぞれのエリアがある程度の広さで区切られている。そのため、そこにあるオブジェクトにはたいてい、わかりやすい「役割」がある。ゲーム上の何らかの「機能」を持っていることも多い。区切られたエリアに路地裏のような場所があったとしても、多くの場合はたんに行き止まりになっているか、もしくはゴミなどに隠されたアイテムを入手するという明確な「意味」や「目的」を担っている。
しかしながら、私がたまたま迷い込んだオープンワールドの「路地裏」は、これといって意味のない場所だった。それは街をまるごと作るという、オープンワールドならではのコンセプトによって生まれた場所だ。オープンワールドの広大なエリアをくまなく探索するようなプレイヤーはほとんどいないだろう。だから、私がその路地裏を見つけたのは本当にただの偶然で、運命の気まぐれでしかない。そこはゲームの進行上、必ず行かなければならない場所でもなかった。私はそのことにひどく感激した。それは現実世界の「路地裏」がまさにそのような場所であること、つまり普段は無視されており、わざわざ足を踏み入れるような場所ではないことと、奇妙にシンクロしているように感じたのだ。『GTA3』の路地裏はアタリでもハズレでもなかった。それはただ、そこにあった。
『GTA3』以降、オープンワールドゲームは進化し、大量の収集アイテムが探索の「ご褒美」として用意されるようになった。たとえば、私が『アサシン クリードⅡ』(2009)をプレイしたときにうれしかったのは、そこに膨大な宝箱やサイドクエストが用意されていたことだった。というのも初代『アサシン クリード』(2007)では、広大ではあるものの探索への動機づけの薄いマップに不満を感じていたからだ。そのため次作のリッチな収集要素に夢中になるとともに、シリーズが正統に進化したようにも感じられた。こうして数多くの収集要素を備えたオープンワールドゲームは、プレイヤーの探索行為をさらに動機づけるために、宝箱の位置やクエストの発生ポイントを示す便利な地図を用意するようになった。まさしく「宝の地図」だ。ありとあらゆる宝の場所を記した地図は、収集する楽しさを十分に満たしてくれるものだった。
しかし、プレイヤーとしての私は天の邪鬼だった。どこに何があるかわかっている些末なアイテムを、どうしてわざわざ取りに行かなくてはならないのか──そんな疑問が湧いてきたのだ。「自由」を売りにするオープンワールドで、あらかじめ正解が約束された探索を行うことに、私はだんだんと違和感を覚えるようになった。それは本当に「探索」と呼べるのだろうか。私が抱え込んだこの疑問は、オープンワールドというシステムが時間をかけて進化していった果てにたどり着いた、逆説的な課題と言えるかもしれない12。
だからこそ『ゼルダの伝説 BotW』が提示した「ハズレの美学」は、オープンワールドという枠組みのさらなる進化を促すという意味で、私にはきわめて鮮やかな回答に思えた。ゲームのサブ要素になりつつあった「探索」に新たな光を当て、その魅力を見事に引き出してみせたからだ。他のゲームが探索要素をどこか遠慮がちに、メインディッシュの隣に副菜として添えるなか、本作は堂々とお皿の真ん中に盛り付けてきた。探索をメインディッシュとして恥ずかしくない面白さに仕立て上げて勝負してきたのだ。
『ゼルダの伝説 BotW』の達成とは何か。それはアタリとハズレの境界を曖昧にすることで、再び「アタリとハズレの彼岸」へと到達する道を示したことだ。本作は私たちがもう一度、自分だけの「路地裏」と出会ったあのときの感動を思い出させてくれる。そうだ、私たちの冒険は、正解だけで舗装された道を歩くことなんかじゃなかった。たどり着いた先に何があるかわからない、何もないかもしれない、それでも──いや、それだからこそ、私たちは胸を高鳴らせて足を踏み出していったはずじゃないか。『ゼルダの伝説 BotW』には、あのころ夢中になった冒険のロマンが、今もたしかに息づいている。
著者
すみ sumi
ビデオゲームに関するブログを書いています。RPGやアドベンチャーなど、特にストーリーが魅力的なゲームに興味があります。最近は『バイオハザード RE:4』と『パラノマサイト FILE23 本所七不思議』をクリアしました。また「ビデオゲーム」という言葉が、「テレビゲーム」や「デジタルゲーム」という言葉の代わりに普及することを願っています。
Blog:ビデオゲームとイリンクスのほとり
Twitter:@turqu_boardgame
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脚註
- 『時のオカリナ』は発売から20年後の2018年、ゲームや映画、音楽などの批評家レビュー集積サイト「Metacritics」において100点満点中98点という驚異的なスコアを獲得し、「史上最高のビデオゲームTOP50」の第1位に輝いている。以下の記事を参照。「レビュー集積サイトMetacriticによる「史上最高のゲームTOP50」。1位は『ゼルダの伝説 時のオカリナ』に」『電ファミニコゲーマー』、2018年9月30日。 ↩︎
- Rokurou Eyama「『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』レビュー 伝統からの脱却と呪縛からの解放」『AUTOMATON』、2017年4月7日。強調は引用者。 ↩︎
- 「オープンワールド」という語を本稿では、『グランド・セフト・オートⅢ』(2001)以降の3Dオープンワールドゲームを想定して用いている。それ以前のゲームにおいてもオープンワールドと呼びうる特徴を備えているゲームはいくつもあるが、ここでは2Dのゲームは想定していない。 ↩︎
- 新生『トゥームレイダー』がオープンワールドゲームと呼べるかどうかは議論のあるところだろう。ただし本稿の主眼はそこにはないため、暫定的にオープンワールドゲームとして扱うことにする。 ↩︎
- これらのうち収集アイテムのアイコンは、そのアイテムが取得されるとマップ上から消える。しかしこの後で述べるように『ゼルダの伝説 BotW』ではまったく逆に、収集アイテムを発見するとマップ上にそのアイコンが現れる。この表現上のベクトルの違いはきわめて重要だ。 ↩︎
- 正確を期すなら、他の4作品も最初からすべてのアイコンが表示されているわけではない。たいていの作品はそのエリアに到達したり、そのエリアのマップを解放したりすることで、そこにある収集アイテムや洞窟の場所などが明らかになる。ただし『ゼルダの伝説 BotW』では、プレイヤーが「祠」の間近まで行き、きちんと「発見」しないかぎりマップには表示されないのだが、他の作品の場合は実際に発見する「前」から、アイコンによって位置が示されていることが多い。 ↩︎
- 『ライズ オブ ザ トゥームレイダー』は他の3作品と比べ、収集アイテムの場所を示したマップを獲得するために多少歯応えのある探索が必要になる。ただしそのマップを入手した後は、他の作品と同様、アイテム収集自体の「作業」感は否めない。 ↩︎
- 特に「コログの実」に関してはそうだ。他方で「祠」については、あらかじめアイコンが表示されているわけではないが、センサーが範囲内でのアタリを指し示すため、前述の2パターンの複合策として位置づけられる。また、シーカータワー(マップを入手できる高い塔)からの祠のマッピングは、100%正解のアイコンを自分で作っていくという点に特徴があると言えるだろう。 ↩︎
- たとえば以下のブログ記事では、本作の長所として「『何かあるかな?』と思った場所には必ず『何か』がある」と語られている。「【ゼルダの伝説BotW】限りなく自由で、何をしても楽しい傑作OW」『フユ将軍のゲーム部屋』、2021年3月24日。 ↩︎
- その一方で、収集アイテムの膨大な物量は、プレイヤーに対してほどよい「諦め」も与えてくれる。たとえば本作には「コログ図鑑」のようなものが用意されておらず、900個ある「コログの実」の半分以下の数(440個)を集めれば、各種ポーチを最大まで拡張することができる。これらはプレイヤーに全アイテムの収集を諦めさせ、果てしない探索を適度なところで切り上げるために必要とされる配慮だったのだろう。数百個もの「実」を集めるころには、ハズレによるストレスはかなり高まり、もはやアタリへの期待を維持できないレベルにまで達している可能性もあるからだ。本作の膨大な物量は、プレイヤーがそこまで行き着いてしまう前に、他の要素に興味を向けさせるための「バッファ」としても機能しているのではないだろうか。他方で「ハイラル図鑑」(アイテムやモンスターの撮影)という、これまたなかなかのボリュームにもかかわらず、コンプリート目標が明確な収集要素も用意されている。撮影対象がどこにいるかは近づくまでわからないのも、アタリを明確にしないという点で筋が通っている。そのうえ、撮影の面倒臭さや撮り逃しをカバーする措置まで備えており、抜け目がない。 ↩︎
- そういったアタリかハズレかわからない場所にこそ、プレイヤーは「スタンプ」(マップ上のブックマーク)を置きたくなる。 ↩︎
- たとえば、探索対象のアイテムの価値を高めることは、この課題に対するひとつの解決策となるようにも思える。しかし、ゲーム内でのアイテムの価値が高ければ高いほど、当然ながらプレイヤーとしてはそれを手に入れないわけにはいかず、開発者側も見つけてもらうための工夫を凝らすだろう。そうなれば結局のところ、探索の自由さは制限されてしまう。 ↩︎