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『ダークソウル』はなぜ不親切なのか?──パターナリズムにあらがう「私の物語」|すみ

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※本記事は、すみ「『ダークソウル』はゲームにおけるパターナリズムへの華麗なカウンターである」を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。

文:すみ

 2009年に発売された『デモンズソウル』は、フロム・ソフトウェアが開発したPlayStation 3専用(当時)のRPGである。このゲームに端を発する「ソウルシリーズ」は、のちに「ソウルライク」と呼ばれるひとつのゲームジャンルを生み出すことになった。ソウルライクとは、ソウルシリーズを特徴づける高難度アクションRPGを指すジャンルのことで、プレイヤーは高いゲーム難度のせいで何度も「死」を重ねながら、次のチェックポイントを目指して少しずつ進んでいくことになる1

『デモンズソウル』(PS5版)より。ソウルシリーズの歴史はここから始まった
©2009 Sony Computer Entertainment Inc.

 その2年後に発売された『ダークソウル』(2011)は前作の売り上げを大きく上回り、一躍「ソウル」は名作ブランドのひとつとなった。それ以降も、同シリーズ作品は世界中で称賛され、数多くのゲームに影響を与え続けている。さらに「ソウル」の名前こそタイトルに掲げていないが、『ブラッドボーン』(2015)や『SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE』(2019)((ただし『SEKIRO』は他のソウルシリーズ作品とは異なり、かなりスキル依存性の強いゲームである。そのため、本稿で述べるソウルシリーズ特有の「ズルをしても許される魅力」などがあまり当てはまらないゲームであると考えている。)) といったソウルシリーズと近しい作品も生まれ、2022年2月には同シリーズの集大成とも言える『エルデンリング』が発売された。販売会社によると発売後1カ月間での出荷予想は400万本だったが、全世界でその3倍以上の約1,350万本を売り上げ、ソウルシリーズがいかに多くのゲームファンに愛されているかを示すことになった2

 『エルデンリング』が大ヒットを記録する前年の2021年11月、ソウルシリーズが世界中で高く評価されていることを強く印象づける出来事があった。毎年英国で開催され、その年の最高のコンピュータゲームを表彰する権威あるイベント「ゴールデン・ジョイスティック・アワード」において、オールタイムベストとも言うべき特別賞「Ultimate Game of All Time」を『ダークソウル』が獲得したのである3。これは私にとって大きな驚きであった。というのも、いまでこそ『ダークソウル』をはじめとするソウルシリーズは名作と言われているが、発売当時はかなり多くの批判が寄せられ、現在でも『ダークソウル』後半のダンジョンは「テキトーに作られている」と言わんばかりの辛辣な評価が多々見られるからだ4 。実際に「ダークソウル 後半」でGoogle検索すると、次に「手抜き」という単語がサジェストされるほどである。

Googleの検索でサジェストされる「手抜き」

 さらに、ソウルシリーズの特徴は冒頭で述べたとおり、その高い難度にある。一般的に高難度のゲームは、マニアやスキルの高い一部のプレイヤーには好意的に評価されるものの、プレイスキルの低い、つまりは下手なプレイヤーからは批判されることが多い。にもかかわらず、『ダークソウル』はあらゆる名作ゲームを押しのけて権威あるゲーム賞のオールタイムベストを獲得し、しかもそのことに対して、ファンや業界から強い反発が出ているようにも見えない。

 ときには「手抜き」とまで批判されることもあり、また高難度でプレイヤーを選ぶスタイルながらも、ソウルシリーズはなぜこれほどまでに高く評価され、また広く愛されているのだろうか。この問いに対して、あらゆる要因を考慮した包括的な答えを提示することは現時点では難しいかもしれない。そこで本稿では、そのひとつの手がかりとして、とくに『ダークソウル』をはじめとするシリーズ作品のユニークな特徴に着目することで、たんに高難度ゆえに達成感が得られるだけの他のゲームとはどのように異なっているのかを明らかにしてみたい。

目次

『ダークソウル』はプレイヤーを「信頼」している?

 まずは『ダークソウル』に代表されるソウルシリーズに対して、どのようなことが語られているのかを見てみよう。以下にリンクを張った記事は、2018年に「Kotaku」というゲームメディアに掲載されたゲーム開発者たちへのインタビュー記事だ5

 この記事の内容は、インディゲームなどの開発者たちにソウルシリーズの魅力や欠点を語ってもらうというもの。開発者たちの指摘には、なるほどと思わされることも多い。そのなかのひとつを引用してみよう。

ソウルシリーズのゲームは時に、プレイヤーに対する無関心〔indifference〕や無視〔disregard〕と思われるものによって称賛されている。

 こう語るのはグレッグ・カサヴィンである。Supergiant Games社の脚本家・ディレクターであり、『Bastion』(2011)や『Transistor』(2014)、『HADES』(2018)などを手がけたゲーム開発者だ。ここでグレッグは、通常はネガティブな意味で用いられる「無視」や「無関心」といった言葉を、奇妙にもソウルシリーズへの「称賛」と結びつけている。彼は続けて次のように言う。

私がソウルシリーズのゲームを愛する主な理由は、私への信頼〔faith〕の大きさなんだ。私がこれまで会ってきた人みんなも、同じくらい私を信頼してくれたらよかったのに。

 グレッグはソウルシリーズの作品から感じられるプレイヤーへの「無関心」や「無視」を、むしろ「信頼」の大きさを示すものとして積極的に評価している。彼のみならず、同シリーズをめぐる言説には、こうしたプレイヤーへの「信頼」という話題がたびたび登場する。たとえば、2022年2月に公開された以下の日本語記事でも、同じように「プレイヤーを信頼している」ことが語られている。

それでもなぜ、フロム・ソフトウェアが難易度調整要素すら搭載せずにこのようなゲームをプレイヤーに突きつけてくるのかといえば、それはプレイヤーというものを信頼しているからではないかと思う。そしてそんなフロム・ソフトウェアをプレイヤーもまた信頼しているから何度投げ出しそうな難易度のボスに直面したとしても、ゲームをそう簡単には投げ出さないのではないだろうか。〔強調は原文〕

 たとえプレイヤーを置いてけぼりにしかねないとしても、ゲームの難度を高く設定したことの背景には、「それでもついてきてくれるはずだ」というプレイヤーへの「信頼」がある──このような解釈はたしかに可能である。しかしその一方で、先のグレッグの言葉を借りれば、高難度に手こずりギブアップしてしまうプレイヤーに対して「無関心」である、あるいはそうしたプレイヤーを「無視」しているとも解釈できるはずだ。人によっては当然ネガティブに捉えられてもおかしくない高難度の設定は、にもかかわらず不思議とポジティブに捉えられることが多い。これはいったいなぜだろうか。

不親切なゲームデザインが生み出す「自然さ」

 Xbox 360が発売された2005年以降、家庭用ゲーム機においてもHD出力がサポートされ、ビデオゲームのグラフィックスは高精細化がいっそう進んだ。これによりビデオゲームにおける表現が豊かになる一方で、そのことが果たしてゲーム自体のおもしろさにつながるのかと疑問に感じていたプレイヤーも少なくなかった。

 「リアルなグラフィックスはゲームをおもしろくするのか?」という議論はたびたびなされているが、この問いはたんにグラフィックスのリアリティだけにとどまらない。たとえば、車を操作するドライブゲームやレーシングゲームで、エンジンをかけるためにキーを挿入するアクションを求めるゲームはほぼ存在しない。こうしたアクションをゲーム内で実装することはたしかにリアリティを高めるかもしれないが、そのことが本来提供したい価値(ゲームとしてのおもしろさ)につながらないのであれば、そうしたリアリティは不要なものとみなされるからだ。

 もちろん、リアルなグラフィックスやアクションがゲーム自体のおもしろさに貢献するケースもあるだろう。しかし当然ながら、リアリティを追求したからといって必然的にゲームがおもしろくなるわけではない──それどころか、両者はしばしば「トレードオフ」の関係にあり、余計なリアリティの追求がかえってゲーム自体のおもしろさを毀損するケースも少なくないのである。

 多くのプレイヤーは最初からこの関係性をよく理解しており、ゲームデザインにおけるリアリティとおもしろさのバランスこそを評価する──「リアリティという意味ではおかしいかもしれないけど、これくらいの都合の良さはおもしろさにつながっているから問題ない」といったふうに。つまり、リアリティとおもしろさのトレードオフという関係は、どこかでバランスをとるべき問題として捉えられているのだ。

 ソウルシリーズのパラダイムシフトは、まさにこうした通常のバランス調整から距離をとり、リアリティとおもしろさのトレードオフ関係をいわば「脱臼」させたことにある。同シリーズには、あえて難度を上げることで「やりごたえ」を高めているというよりも、たんにプレイヤーに対して「無関心」、あるいは「不親切」に感じられるような点が多々ある。そのせいで、他のゲームでは当たり前のように行われているリアリティとおもしろさのバランス調整の努力が、まるで放棄されているかのように思えてしまうのだ。いくつか具体例を挙げよう。

 ソウルシリーズでは一貫して、マップ表示や方角表示といった3DアクションRPGでは標準的とも言える機能が導入されていない6 。マップや方角が表示されないせいで、右往左往したプレイヤーも少なくないはずだ。たとえば『ダークソウル3』(2016)における「ファランの城塞」のステージ。たしかにマップがないおかげで、ヒリヒリするような冒険のリアリティが醸し出されているのかもしれないが、とはいえ地形に足を取られたり、妙に強いモブ敵が出てきたりするせいで、ステージクリアに必要な周辺の探索に集中するのが難しい。加えて、周囲がどこもよく似た環境であるため探索自体の楽しみが少なく、むしろストレスを感じさせる。

 『ダークソウル』における「混沌の廃都イザリス」に到達する前の溶岩地帯も、同じような問題を抱えている。マップや方角を表示しないのであれば、たとえばいくつかヒントを配置するなどして、プレイヤーにとって探索しがいのある仕掛けを用意するのが普通だろう。しかし、このエリアには「廃都」に到達するための明確なヒントがほとんどない。配置されている敵も強力で、有用なアイテムが落ちているわけでもない。そのためプレイヤーにとっては疲労感が強く、苦労の割には報われない印象を与えるステージになっている。

 ソウルシリーズの「不親切さ」は、マップ表示や方角表示がないことにとどまらない。たとえば『ダークソウル』では最初の拠点から、難易度的にはノーマルと言えるエリア「城下不死街」へと続く階段にいたるまでのプレイ上のガイドが明らかに不足している。この階段に向かわずに、序盤で挑むには不当なまでに難度が高い「巨人墓地」や「小ロンド遺跡」に迷い込んでしまったプレイヤーも多いだろう。これと似たようなことが『ダークソウル2』(2014)の序盤にも当てはまる。最初に向かうべき「朽ちた巨人の森」エリアの途中には、序盤の武器ではほとんどダメージを与えられないオーガが配置されている。この敵の「硬さ」に疑問を抱き、他の道を探してしまうプレイヤーもいるかもしれない。

 しかし、このような「不親切さ」はすでに見たとおり、ソウルシリーズにおける独特の持ち味として肯定的に受け取られている。ここで注目すべきなのは、この不親切さ・難しさが一見すると「設計(デザイン)」されているようには思えない、という点にある。つまり、その世界が意図的・人為的に作られたものではなく、正真正銘 “自然” に、ありのままに存在しているかのような感覚を与えるのだ。現実世界の洞窟の美しい鍾乳石に人を感動させようという意図がなく、むしろその意図がないことによって人は余計に感動してしまうといった経験に似た感覚を、同シリーズはプレイヤーに感じさせる。

 もちろん、本当に設計が欠如しているということはありえない。ソウルシリーズが高い難度を保ちながらもきちんとクリアできるようになっているのは、むしろ巧みな設計の存在を明らかに示している。にもかかわらず、ここで重要なのは「こいつは本物の(意図されていない)難しさなのではないか、マジモンなのではないか」とプレイヤーに錯覚させる点にある。一般的に高難度ゲームに対しては、しばしば「本気で殺しにきている」という物騒な褒め言葉が投げかけられるが、この言葉にはそういった「作り物や茶番ではない(かのように感じられる)」ことへの称賛が込められている。ソウルシリーズの「不親切」にも思える難易度設計は、おそらくこうした「自然さ」の演出に向けられており、そしてこれこそが、同シリーズを特徴づける魅力のひとつであるように思われるのだ。

 では、単純にゲームを「不親切」に設計すれば、そのような「自然さ」が生まれ、作品の魅力になるのだろうか。しかしそれでは逆に、設計が行き届いていない不出来なゲームも同じような魅力を持つことになりかねない。不親切であるがゆえに自然に感じられる作品と、その他のたんに難しいだけのゲームとでは、いったい何が違うのだろうか。もちろん、ソウルシリーズはいま述べたように難易度の調整が絶妙であり、その点で他作品よりも優れているという側面はたしかにあるのだが、おそらくそれだけではない。私の考えでは、同シリーズを他の作品と分かつポイントは「攻略」のあり方にある。

 そこで次に、ソウルシリーズの「不親切さ」のもうひとつの現れとも言える、特徴的な攻略法について考えてみよう。

正攻法とは思えない「拙い」攻略法

 ソウルシリーズの作品はどれも難しいゲームではあるものの、その攻略においては「ハメ技」や安全地帯など「ズル」と言えるような方法が数多く存在している。通常、こうした方法に頼ることは、ある種の罪悪感のような気持ちをプレイヤーに抱かせるものだろう。ところがソウルシリーズには、そうしたズルい攻略を許してくれるような雰囲気がある。そのひとつの要因として挙げられるのが、ゲームシステムが用意している一部の攻略法に正攻法とは思えない、いわば「裏技」のようなものがあることだ。

 『デモンズソウル』の序盤に「王の飛竜」という大きなドラゴンの敵が出てくる。倒さなくてもゲーム自体は進めることができるが、倒すこともできる。しかしこのドラゴンが地上に降りてくることは一切なく、クルクルと同じ場所を旋回し続けている。ではどうするのかというと、おあつらえ向きに存在している近くの塔の上から、チマチマと弓矢で射ることで倒すことができる。

『デモンズソウル』より、王の飛竜。
こんな倒し方でいいの? と最初は思った
©2009 Sony Computer Entertainment Inc.

 この倒し方は面倒なだけでまったく難しくないし、危険もない。弓と大量の矢さえあれば誰でも倒すことが可能だ。このようにソウルシリーズには、倒しても倒さなくてもよく、また倒し方に爽快感や達成感が伴うわけでもない敵が存在する。ベテランのゲーマーほど「こんな攻略法でいいのか?」と戸惑うだろう。しかし、ある意味では「拙い」こうしたやり方の存在が、必ずしも正攻法でなくてもいいという安心感をプレイヤーに与えてくれる。もちろん、同シリーズにおける裏技的な攻略法は、スキルの低いプレイヤーの救済措置として用意されている側面もあるにちがいない。それでも、ゲーム自体がこうしたアナーキーな攻略法を許しているからこそ、ズルい方法を用いることの後ろめたさも低減される。

 仮に「下手な人のために救済措置を用意しましたよ」とわざわざアピールしていたら、多くのプレイヤーは逆にもっと反発していたかもしれない。というのも、困難なゲームに挑戦し、その試練を克服することにやりがいを感じるプレイヤーは、イージーモードのような「親切」な設定をむしろ屈辱的に感じ、できるかぎり選択したくないと考えることが多いからである7

 しかし、ゲーム自体が最初からある種の「拙さ」を許容していると思わせてくれれば、プレイヤーは自分がそのようにプレイすることに気後れしないはずだ。ハメ技や安全地帯からの遠距離攻撃といった、裏技的な攻略法を用いることのハードルも下がるだろう。「ズルい手を使ってしまった」というプレイヤー側の罪悪感をできるかぎり軽減することで、ゲームを進めていくモチベーションを維持すると同時に、難しいと言われるソウルシリーズをクリアしたときの達成感が損なわれないよう、巧みに設計されているのである。

「不器用」なオンライン機能と「私の物語」

 さらに、ソウルシリーズの大きな特徴として、オンライン機能が攻略のための直接的な手がかりになっているという点がある。血痕の存在やメッセージ、さらには「白霊」と呼ばれる協力プレイのシステムがあり、これらはプレイヤーが難しいゲームを攻略するのに役立っている。加えて、ゲーム実況やネット掲示板に代表されるオンライン・コミュニティの存在も、同シリーズの攻略になくてはならないものだ。

 ただ、システムに備わっているオンライン機能は、現代の他のゲームにおける同様の機能と比べると、ある意味でとても「不器用」なものである。ソウルシリーズに関するある記事8 でも、たとえば『デモンズソウル』について次のように語られている。

このゲームは、奥深くてやり応えのあるゲームプレイに、他のプレイヤーを助ける(または倒す)か、先に潜む危険やショートカットを他のプレイヤーに教えるメッセージを残せるという魅力的だがぎこちないオンラインシステムを組み合わせていた。〔強調は引用者〕

 ソウルシリーズでは、プレイヤーは定型文や奇妙なエモート9 を通じてしか、互いにコミュニケーションをとることができない。そのため、プレイヤー同士の意思疎通や情報の共有にはかなりの制限がかかる。しかし、こうした「不器用」なコミュニケーション手段しか用意されていないからこそ、プレイヤーは伝わらない部分について自分自身で思考し、仮説を立て、実際にやってみるように促される。先に挙げた「拙い」攻略法もそのひとつと言えるだろう。そしてその結果、ゲームを攻略するプロセスそのものが、たんにあらかじめ設計された意図をなぞっていくというよりも、むしろ周囲の助けを借りながらではあるが、あくまで自分の意志と力で切り開いていくかのように体験されることになる。言い換えれば、プレイ体験が「私の物語」として構築されていくのだ。

 ゲーム外のオンライン・コミュニティを介した攻略についても、似た側面があるように思われる。私自身の感覚としては、自分でネットを検索して攻略情報を得ることと、コミュニティの友人から攻略情報を教えてもらうこととでは、似ているようで少し異なる。前者には「ズル」をしているような、どこか後ろめたい感覚が伴う。しかし同じ内容でも、後者のように友達から教えてもらった情報であれば、不思議と後ろめたさは感じない。この感覚がどこまで一般化できるかはわからないが、これは情報の中身にかかわらず、その伝達経路や手段こそが自分自身のユニークな体験として感じられるかどうかを大きく左右する、ということではないだろうか。日頃から付き合いのある友人の場合、いつものコミュニケーションの延長線上で、互いに教え合い助け合うという構図が生まれやすい。そのなかで得られた情報は、たんに検索して表示された「正解」よりも、はるかに「私の物語」の一部として受け入れられやすいはずだ。

 あるいはゲーム実況動画についても、同じようなことが言えるかもしれない。他人の実況動画を見ていて、たまたま攻略に役立ちそうな情報が得られた場合でも、やはり自分が「ズル」をしているとはあまり感じないのではないか。たんに偶然気がついてしまっただけで、効率のいい「正解」を求めて直接検索をかけていたわけではないからだ。それはズルというよりも、むしろ「幸運」や「偶然」として自身のプレイ体験に織り込まれていく。

 このように考えると、ソウルシリーズはまさにその「不親切さ」のおかげで、個々のプレイヤーによる攻略プロセスが「私の物語」として構築されやすいという特徴を持っているように思われる。ゲームクリエイターの意図があえて明確化されず、プレイヤーに対してあたかも「無関心」であるかのような設計だからこそ、さまざまな試行錯誤やプレイヤー間のコミュニケーションが促され、結果的に「自分が、自分の力でクリアした」というたしかな感覚を生み出すことができる。先に引用した記事でも、次のように述べられている。

プレイヤーたちはこの謎めいたアクションRPGについて話をせずにはいられなかった。まず、難易度が非常に高く、さらにはトライ&エラーを繰り返すか、他のプレイヤーと協力しなければ発見できない秘密が山ほど隠されているようにも思えたからだ。

 もちろん、ソウルシリーズはそもそも難しいゲームであり、他のプレイヤーと協力するにしても、ある程度のプレイヤースキルの鍛錬は必要になる。だが、それがいつしか苗床となり、拙い攻略法や不器用なコミュニケーションが肥料となって、ついには「私の物語」というかけがえのない経験が実る。こうした果実を生み出す「不親切」なシステムと、そこから派生したコミュニティの存在は、同シリーズのプレイ体験において決定的な意味を持っているように思われる。そしてまさにこれこそが、ソウルシリーズの作品が他のゲームから一線を画している最大の要因なのではないだろうか。

「親切」なゲームが見失いがちなこと

 ビデオゲームはその黎明期から時が経つにつれて、どんどんと「親切」になっていった。それはゲームを広く普及させるうえで、たしかに必要なことだったのかもしれない。しかしその結果、自分がそのゲームをプレイしているのか、それともそのゲームにプレイさせられているのかがわからなくなってしまい、モヤモヤとした気持ちを抱える人も少なくなかったように思う。なぜ古参のゲーマーは「冒険の書」が消えたことをあれほど饒舌に語りたがるのだろうか10 。それは「冒険の書」の消失という出来事が、ゲームデザインに込められたクリエイターによる意図の「外部」にあるからだ。データが消えるという理不尽な現象は、まさにその理不尽さゆえに、ありふれたプレイ体験を「私の物語」へと変えることができる──たとえ実際には、誰にでもしょっちゅう起こりうる出来事だったとしても。

 ソウルシリーズが成し遂げたのは、このような「意図の外部」をいわば意図的に実現するというきわめてアクロバティックな挑戦であり、これによって同シリーズは、プレイヤーが再びゲームを通じて「私の物語」を紡ぐことを可能にした。これはゲーム史に残る偉大な功績と言うべきだろう。

 「親切」なゲームはたしかに、スキルの高低を問わず多くの人がプレイできるという意味では「優しい」のかもしれない。しかしそれは同時に、システムが手取り足取りプレイヤーに介入するという点で、ある種の「パターナリズム(父権主義)」を思わせるのも事実だ11 。「おー、よちよち、気持ちよくプレイさせてあげますよ」とでも言うかのような態度には、プレイヤーを下に見る傲慢さが滲んでいる。あるいはそこまで露骨ではなくても、先回りしてつねにプレイヤーの便宜を図る「親切」な設計に対し、少なくないゲーマーがそのパターナリスティックな嫌らしさを敏感に嗅ぎ取った。最初は自らの意志でその困難な冒険に立ち向かっていたはずなのに、いつのまにか自らの意志が後景に退き、作り手の意志に操作されているように感じられてしまうからだ。そこに「私の物語」が生まれる余地はない。

 だからこそ多くのゲーマーは、設計が欠如しているかのように自然で、「本気で殺しにきて」いて、拙くて、アナーキーで、不器用なゲームである『ダークソウル』にどこか懐かしくも新鮮な親近感と、ある種の「誠実さ」を感じ取ったのだ。最初に引用した記事のなかで、グレッグ・カサヴィンが「私への信頼」と評していたのは、まさにこのようなものにほかならないだろう。それはゲームが、手っとり早く快楽を得るためだけのものではない、ということを思い出させてくれる。

 ソウルシリーズは、その誕生から今にいたるまで多くのゲームに影響を与えている。たとえば、2022年2月にフランスのスタジオから発売された『師父-Sifu-』は、同シリーズの影響を強く感じさせつつも、アクションゲームとしての独自性を確立した完成度の高い作品に仕上がっている。『師父』にはソウルシリーズ特有の「ソウル回収システム」などはないが、「プレイヤー自身の意志と力で困難を突破させる」という同シリーズの精神がたしかに息づいている。もはやソウルシリーズは、たんによく似た「ソウルライク」なゲームを生み出すだけではなく、その達成を踏まえたジャンル独自の進化の段階に入っているのだ。

 ソウルシリーズの開発者でありディレクターでもある宮崎英高は、自らが手がけたゲームを「クラシック」((以下のインタビュー記事を参照。https://www.4gamer.net/games/120/G012067/20120224019/)) と表現する。しかし、同シリーズはたんに古典的な仕組みを復興させたわけではない。そこではオンライン機能やリアルなグラフィックスといった現代的な道具立てと、本稿で示したような独特の「不親切さ」が絶妙にハイブリッドされている。それは理不尽なほど難度の高かった昔のゲームをそのまま蘇らせるのとはわけが違う。ソウルシリーズが本当の意味で現代にリバイバルさせたのは、プレイヤーが「なにくそ」と挑戦する青臭いゲームプレイそのものである。

 プレイヤーにあくまで親切に、気持ちのいい時間を提供し続ける──ソウルシリーズはそんな “過保護” な従来のビデオゲームに対する、華麗なカウンターなのだ。同シリーズがこれほどまでに多くのゲーマーから愛されるのは、ゲームプレイをもう一度、自分たちの手に取り戻させてくれたことへの感謝があるからではないだろうか。

著者

すみ sumi

ビデオゲームに関するブログを書いています。RPGやアドベンチャーなど、特にストーリーが魅力的なゲームに興味があります。最近は『ゼノブレイド3』をクリアしました。また「ビデオゲーム」という言葉が、「テレビゲーム」や「デジタルゲーム」という言葉の代わりに普及することを願っています。

Blog:ビデオゲームとイリンクスのほとり

Twitter:@turqu_boardgame

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脚註

  1. さらに『デモンズソウル』以降のソウルシリーズには、操作キャラクターが死んだとき、その場に持っていた「経験値」を落とし、それを回収できないまま再び死んでしまうとその経験値を失ってしまう、というシビアなシステムが共通して備わっている。ソウルライクと呼ばれる他のゲームも、同様のシステムを採用していることが多い。 []
  2. なお『エルデンリング』は、ソウルシリーズとかなり似通った作品でありながら、同シリーズらしからぬ「親切」なゲームとして作られているように感じる。本論では、それとは異なる従来のソウルシリーズの持つ「不親切さ」とその魅力について述べる。 []
  3. 以下の記事を参照。https://www.gamesradar.com/dark-souls-is-your-ultimate-game-of-all-time-at-the-golden-joystick-awards/ []
  4. 以下の記事を参照。https://gametokka.com/darksoulrerond/http://blog.livedoor.jp/madoyuka/archives/8280144.html []
  5. 「ゲームデザイナーはソウルシリーズの何を愛している(もしくは、愛していない)のか?」なお、このKotakuの記事の日付は2018年だが、本文に記載されているとおり、当記事の内容が最初に公開されたのは2015年である。 []
  6. 最新作の『エルデンリング』にはマップ機能が搭載されているが、それでも本稿の議論は部分的には有効であると考えている。というのも、他の3Dアクションゲームであれば通常表示されるヒントや達成マークなどが『エルデンリング』では相対的に少なく、一般的なゲームよりもかなり「不親切」なマップとなっているからだ。 []
  7. 以下の記事を参照。https://automaton-media.com/articles/newsjp/20220531-204628/amp/ []
  8. Why Dark Souls is a hardcore gamer’s dream ticket []
  9. 「手を振る」「頭を下げてお礼をする」などの一連の動作をプレイヤーキャラクターに行わせる機能。ショートカットなどに登録しておき、文字ではなく動きで相手に自分の意図を伝える手段として使われる。オンラインゲームに搭載されることが多い。 []
  10. ファミコン時代の『ドラゴンクエストⅢ』(1988)などのセーブデータである「冒険の書」は、内蔵のボタン電池によって保存されている。そのため、外部からの衝撃などによって一時的に接触不良が起きるとセーブデータの「冒険の書」が消え、それまでの蓄積がゼロになってしまうという悲劇がしばしば発生した。 []
  11. 当然ながら、パターナリズムがただちに悪いということではない。そもそもゲームが「行為をデザインするもの」(松永伸司『ビデオゲームの美学』、慶應義塾大学出版会、2018年)である以上、大なり小なりパターナリズム的な側面は持たざるを得ないだろう。本稿が問題にしているのはむしろ、そうした意図をどのようにプレイヤーに伝えるか、そしてそれによってプレイヤーがどのように感じるか、という点だ。 []

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