※本記事は、サブカルチャー評論同人誌『セカンドアフター vol.2』(2012)所収の「喪失と希望の対位法──『ほしのこえ』とエグザイルの詩学」を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。
文:てらまっと
あれから10年以上の月日が流れた。仮設住宅で暮らしていた被災者の大半は復興公営住宅に移り、メルトダウンした福島第一原子力発電所の廃炉作業も地道に進められている。唯一、全住民の避難が続いていた福島県双葉町では2022年8月に避難指示が一部解除され、ようやく町内での居住が可能になった。震災直後には50万人近くにのぼった避難者の数も、いまでは3万人余りにまで減少しているらしい1。本稿の元となった文章(「喪失と希望の対位法──『ほしのこえ』とエグザイルの詩学」)を書いた2012年当時と比べると、被災地の復興は着実に進んでいるように見える。
そのあいだに新型コロナウイルスの世界的な流行は3年目に入り、人々の旅行や移動が厳しく制限される一方、突如としてロシアによる隣国ウクライナへの「特別軍事作戦」が始まった。2月下旬の侵攻開始直後、ツイッターをはじめとするSNSには連日のように戦地の映像が流れ、世界中の人々の心に侵略者への恐れと怒りをかき立てた。兵士や民間人の遺体、ドローンによる攻撃で破壊される軍用車両、そしてTシャツ姿で支援を呼びかけるゼレンスキー大統領……。とはいえ、戦場から遠く離れた場所で暮らす私たちにとって、こうしたイメージが喚起する情動は決して長くは続かない。米欧の武器援助を受けたウクライナの反攻により戦争が長期化の様相を見せると、日々リツイートされてくる新たなメディア・イベントに思考と感情のリソースを奪われ、戦争への関心はいやおうなく薄れていく。
それでも、私の脳裏にはいまなお強く残っているイメージがある。戦火に包まれた故郷を逃れ、あるいは徴兵されるのを恐れて祖国を離れる人々の長い長い車列。ロシアによる侵攻開始以来、ウクライナから国外に脱出した人の数は8月初頭時点で1,000万人を超えたとされる2。さらには部分的動員を発令したロシアからも、すでに20万人以上が周辺国などに逃れたという3。
これらの人々は、かつての震災・原発事故による国内避難民と同様、あるいはより正確な意味で「エグザイル(追放、exile)」ないしは「ディアスポラ(離散、diaspora)」の状態にある。さしあたってエグザイルとは「本国や文化的、民族的出所を離れ、遠方に身を置く」4ことを指し、またディアスポラとは「故国から新たな地域に人々が自発的に移動したり、もしくは強制移住させられる」5ことを指す。住み慣れた土地を追われ、国内外の避難所や難民収容所、あるいは遠い親戚のもとで暮らすことを余儀なくされた人々。地震や津波、放射能の脅威だけではなく、紛争や戦争もまた、私たちに不本意な「移動=転位(displacement)」を強いる大きな要因である。
10年前の文章で私は「故郷喪失者にただ同情するだけではなく、彼らの困難を自分の問題として考えてみたい(それはまた自分の無力感の裏返しでもあるだろう)」と記している。苦しい避難生活を送っていた当事者からすれば、直接的な被害を免れた人間がこのように語るのは、いかにも傲慢に映ったにちがいない。だが、当時よりも相対的に安定した、それゆえに平凡な生活を送っているいまも、私自身の思いはそれほど大きくは変わっていない。というのも「移動」こそが彼らの過去/現在であると同時に、私自身の未来でもありうるという予感に取り憑かれているからだ。
危機をあおる言説はあの頃から変わらず、いたるところにあふれている。日本列島はまた遠からず巨大地震に見舞われるだろうし、そうでなくてもグローバルな気候変動による異常気象・自然災害はますます増加するだろう。少子高齢化に伴う財政負担の増大は現役世代に重くのしかかり、非正規雇用の常態化もあいまって若者たちから夢も希望もむしり取っていく。独裁体制下の中国では台湾への武力侵攻の可能性がまことしやかにささやかれ、そうなれば多数の米軍基地を擁する日本が巻き込まれるのは避けられない。未来は急な下り坂で、しかも底知れない暗闇に続いている……。
私が考えていたのは、しかしこうした気の滅入るような未来予測とはちがう、もっと「別の時間」のあり方である。そしてこの別の時間、すなわち過去や未来との非線形的な関係性は、ほかでもない移動をめぐる問題と深く結びついているように思われるのだ。たとえば文化人類学者のジェイムズ・クリフォードは、ディアスポラについて次のように述べている。「ディアスポラの経験のなかで、『ここ』と『あそこ』の共存は、反目的論的な(ときにはメシア的な)時間性と節合される。直線的な歴史は裂け目を入れられ、現在にはつねに過去が影を落としている。そしてその過去とは、欲望されるが遮断されている未来、更新され苦痛に満ちた熱望である」6。直線的な時間を破裂させ、均質な〈いま・ここ〉に突然侵入する「メシア的」な過去/未来──それはあたかも緊急地震速報のように、まどろんでいた私たちを打ちのめすだろう。
とはいえこのように言うことで私は、エグザイルやディアスポラにまつわる現実的な困難の数々を捨象してしまうかもしれない。「エグザイルは」と批評家のエドワード・サイードは注意をうながしている。「それについて考えると奇妙な魅力にとらわれるが、経験するとなると最悪である」7。しかしそうだとしても、エグザイルの経験に肯定的な側面がないわけではない。サイードはそれを「対位法的意識」と名づける。「対位法的(contrapuntal)」とはサイードが好んで用いる表現であり、さしあたりここでは西洋音楽における対位法──いくつもの独立した旋律を多声的に組み合わせる作曲技法──のように、複数の時空間にわたる意識が同時に生起する状態として考えてほしい。サイードはエグザイルの経験について、次のように続けている。
エグザイルにとって、新しい環境における生活習慣や表現や活動は、別の環境に置き去りにしてきたものの記憶を背景として生ずる。したがって新しい環境と古い環境はともに、生々しく、現実的で、対位法的に同時に生起する。この種の把握法には独自の喜びがともなう。〔…〕たまたまいる場所であれば、それがどこでもくつろげる、そんなふうに行動することで、独特の達成感覚も生まれる。8
故郷喪失者を苦しめると同時に「独自の喜び」「独特の達成感覚」をもたらすのは、空間的な移動の経験にともなう時間性の変容である。そこでは過去・現在・未来が一直線に並べられるのではなく、それらが同時並行的に絡み合った離接的な時間として経験される。失われた〈かつて・あそこ〉は絶えず〈いま・ここ〉に回帰し、予期せぬ〈いつか・どこか〉の到来にさらされる。したがっていくつもの奇妙なカップリングがありうるだろう──〈いま・あそこ〉や〈かつて・どこか〉、あるいは〈いつか・ここ〉といったように 。そしてこうした時間・空間についての意識は、いまやインターネットやスマートフォンによってますます身近なものになっている。それらは通常リアルタイムというかたちで圧縮されてはいるが、対位法的な経験をもたらしうる特権的な装置でもあるのだ。過去から幽霊が電話をかけ、未来から天使がメールを送る──すなわち「ディアスポラの意識は、明確な緊張関係として喪失と希望を生きる」9のである。希望はつねに喪失とともにあり、そしてそこにしかない。はじめよう10。
車窓に映る風景/内面
新海誠はエグザイルの作家である。少なくとも10年前の時点ではそうだった。『ほしのこえ The voices of a distant star』(2002)から『星を追う子ども』(2011)にいたるまで、初期新海──と、ここでは『君の名は。』(2016)以前を指して暫定的にこう呼ぶことにしよう──は一貫してこの問題に取り組んでいる11。だがそう言われると違和感を覚える人も少なくないだろう。というのも彼の作品を強く印象づけるのは、懐かしくも美しい繊細な風景描写と、思春期の遠距離恋愛をめぐる叙情的な物語だからである。放課後の教室、学校帰りのコンビニ、雨上がりの通学路、早朝の駅のホーム、透き通った青空、都会のネオン、真夜中の電話ボックス、桜の舞う踏切──そんなありふれた日常の風景も、ひとたび新海の手にかかると、まるで生命を吹きこまれたかのように燦然と輝き始める。それは胸を締めつけるような感傷的なモノローグとともに、少年と少女の孤独な内面を鮮やかに照らし出す。
もちろん、こうした理解がまちがっているわけではない。たとえばアニメ評論家の藤津亮太は、批評家・柄谷行人の「風景の発見」という有名な議論を参照しながら、『ほしのこえ』における風景の「懐かしさ」を登場人物のモノローグと結びつけている。「なんでもない風景を、懐かしい、かけがえのない風景として思い出すこと。そのためには、なんでもない風景を認識する人物たちに内面があることを描かなくてはならない」12。なぜなら、柄谷が言うように「周囲の外的なものに無関心であるような『内的人間』inner manにおいて、はじめて風景がみいだされる」13からだ。全編にわたって流れる静謐なモノローグは、登場人物が孤独な内面をもつ「内的人間」であることを示している。だからこそ「その寂しさの向こう側で、それまでは何の変哲もなかった踏み切りやバス停、階段のある道などが、突如かけがえのない風景として改めて甦り始める」14。新海自身が柄谷の議論から影響を受けていることを考えると15、きわめて説得力のある解釈である。
しかしここで注意しなければならないのは、そのような「風景の発見」に先立って「内的人間」が存在するわけではないということだ。そうではなくて、柄谷が問題にしているのは「内面/風景」という二分法それ自体を可能にする「抽象的思考言語」──すなわち「言文一致」という近代的制度なのである。「表現」される内面と「描写」される風景は、この新しい「言=文」において初めて見いだされる。したがって問われるべきなのは、初期新海作品において「内面/風景の発見」を可能にする装置とは何なのか、ということだ。そして私の考えでは、それこそがエグザイルにほかならない。映画学者の加藤幹郎は、風景が「遠方への眼差しや旅(空間移動)によって、すなわち旅行(距離の生産)による日常の非日常化のなかから産みだされる」16と述べているが、風景だけではなく内面についても同じことが言えるだろう。というのも、加藤が指摘するように「とりわけ新海誠のアニメーション映画は移動(旅立ち)の主題に満ちており、移動が産みだす場所の転位(風景の変化)と距離の拡大ならびに縮減の試みが伝統的なメロドラマ的主題(邂逅や擦れ違い)へと翻訳される」17からである。
『ほしのこえ』冒頭のシーンには、こうしたモチーフがすでに色濃く現れている。鉄橋をわたる電車の騒音に混じって、携帯電話(ガラケー)の甲高い操作音が響く。制服姿の少女が電車の窓際に立ち、一心にメールを打っている。加納新太による同作のノベライズから引用しよう。
〔…〕わたしは電車に乗っていた。
乗客席と運転席をへだてる壁にもたれて、後ろ向きに立って、すごいスピードで流れさっていく景色を自動ドアのガラスごしに眺めていた。
でも、ほんとうは、すごいスピードで流れさっているのは景色ではなくて、電車に乗ったわたしのほうだ。
そう思った瞬間、なんだか追いたてられたような、慌てたような気分になって、無意識に携帯電話を取りだしていた。18
この短いシーンでは、移動にともなう「内面/風景の発見」がわかりやすくシミュレートされている。車窓を流れる風景が少女の自意識へと折り返され、「なんだか追いたてられたような、慌てたような気分」をつくり出す。それはエグザイルに特有の感覚である。つねに移動し続けることで〈いま・ここ〉が希薄化し、彼女は外界から切り離されているかのような不安に襲われる(それはまた柄谷のいう「人間から疎遠化された風景としての風景」19が成立する過程でもあるだろう)。少女が「無意識に携帯電話を取りだしていた」のは、コミュニケーションを通じて自分の居場所を確認するためだ。しかし彼女のメールは誰にも届かない。灰色の小さなディスプレイに表示されたのは、「サービスエリア外です」というそっけない文字列だけだった。少女は諦めたように目を閉じ、そして静かにモノローグが流れ始める──「内的人間」の誕生である。
だがここで描かれているのは、たんなる「内面/風景の発見」だけではない。電車内にいたはずの少女は、次のシーンでは高層マンションの非常階段に立っている。さらに自宅のドアを開けると、そこには誰もいない放課後の教室が広がっている。「ねぇ… わたしはどこにいるの」──そう自問して目覚めた少女は、自分が「もう、あの世界にはいない」ことをはっきりと悟る。「ここは誰も来たことのない、遠い、黒くつめたい宇宙のはて」20。少女の操る人型ロボット「トレーサー」の背後には、地球から8.7光年離れたシリウス星系第4惑星「アガルタ」が冷たく輝いている。つまり『ほしのこえ』冒頭のシーンは、彼女がトレーサーのコックピットのなかで見た束の間の幻影にすぎなかったのだ。そして注目すべきなのは、その幻の内容ではなく形式、すなわちフラッシュバックである。宇宙空間をさまよう少女の脳裏に、懐かしい地上の風景がよぎる。それは〈いま・ここ〉が裂開し、〈かつて・あそこ〉が侵入する経験である。
初期新海作品のいたるところに、このような裂け目が開いている。そこから見える風景は美しく、また痛ましくもあるだろう。新海にとっての〈いま・ここ〉は、〈かつて・あそこ〉と〈いつか・どこか〉を結んだ線上の一点にある──それゆえ規則正しく隣り合っている──わけではない。そうではなくて、それらは同時に重なり合い、絡まり合っている。そしてそれこそが彼をエグザイルの作家たらしめている、あるいはたらしめていた最大の要因なのだ。したがって「内面/風景の発見」を指摘するだけでは決して十分ではない。より重要なことは、離接的な時間と多層的な空間が立ち現れる、そのような経験の諸相をとらえることである。
過去から届くメール
あらためてストーリーを確認しておこう。『ほしのこえ』は「宇宙と地上にひきさかれる恋人」の物語である。中学生のミカコとノボルはお互いに好意を抱いており、同じ高校への進学を目指していたが、ある日突然離ればなれになってしまう。ミカコは宇宙船「コスモナウト・リシテア号」の乗組員として、異星人「タルシアン」の痕跡を調査するために遠い宇宙へと旅立つ。2人は携帯メールで近況を報告し合っていたが、宇宙船が地球から遠ざかるにつれてメールの送受信にかかる時間がしだいに大きくなっていく。やがてアガルタへの長距離ワープが行なわれると、2人のあいだの時間のズレは決定的なものとなる。いつしかノボルはミカコからのメールを待つことをやめ、同じ高校に通う少女と親しく交際し始める。「どこにいるのかもわからない、なんの約束もしていない女の子をただ待ち続けるには、『いま』『ここ』という時間と空気感は、リアルすぎて、圧倒的すぎた。/〔…〕/ぼくにとって意味がある事実は、ミカコはいま、ここにはいない、ということだった」21。ノボルをとりまく日常は、あまりにも「空気が濃すぎる」のである。
他方でミカコは、ノボルのいない〈いま・ここ〉を受け入れることができない。「ノボルくんとあの街にいたときの日常感覚。/ノボルくんといた気分。/それをわたしの心の基準位置にしていたい」22。ノボルとは対照的に、ミカコは文字通りの意味で真空状態におかれている。彼女は火星や木星の壮大な光景を目の当たりにした感動をメールで伝えているが、それは藤津が言うように「修学旅行で流れ作業的に名所旧跡などを訪れた時の感想と同じ種類の当たり前の感想にすぎない」23。やがてメールのやりとりが途絶えると、ミカコは耐えがたいほどの孤独感に襲われる。それは〈かつて・あそこ〉にとらわれた故郷喪失者のメランコリーである。地球とよく似ているはずの緑の惑星アガルタでさえ、彼女にとっては「ここには何もない」に等しい。なぜなら「こんなところにノボルくんはいない」からだ。
地理学者のカレン・カプランは、亡命者とツーリストがともに〈いま・ここ〉を無価値化する傾向にあることを指摘している。「〔…〕どこか別のところにもっと真実の、もっと意味のある生活があるという信念は、亡命者とツーリストの両者に共有されている。これら二つの形象はともに、第一義的な主体の位置に神秘化されると、失われた実体や、けっして到達しえない統一を探し求める憂鬱病患者を表象することになる」24。さしあたってミカコがそのような「憂鬱病患者」であることは明らかだ。
しかしだからといって、新海は〈いま・ここ〉への没入をすすめているわけではないし、ましてや〈かつて・あそこ〉への逃避をうながしているわけでもない。というのも彼が描こうとしているのは、すでに述べたように、それらが交差する対位法的な意識にほかならないからだ。現在と過去が折り重なる瞬間──それは「いまとここの幸福」にまどろんでいたノボルの意識を叩き起こす。夏の湿った空気と雨音を切り裂いて、携帯の着信音が鳴り響く。一通のメールが「爆弾のように飛びこんできた」のは、彼が古いバス停の待合室で雨宿りしていたときのことだった。それは1年ぶりのミカコからのメールであり、そこには冥王星付近でタルシアンと戦闘になったこと、やむをえずハイパードライブで1光年の距離に逃れたこと、そしてこれから8.6光年先のシリウスに向けて長距離ワープに入ることが記されていた。
だがノボルの心を激しく揺さぶったのは、メールの文面よりもむしろ送信日時である。そこには1年前の日付が表示されていた。つまりミカコは、メールが地球に届くまで1年以上かかることを知りながら、それでもなお1年後のノボルに宛てて送信したのだ。彼はその事実に衝撃を受け、過去から届いたメールを声に出して読み始める。それはすぐにミカコのモノローグへと変わり、やがて2人の声が静かに重なり合う──「ねえ、わたしたちは、宇宙と地上にひきさかれる、恋人みたいだね」。〈かつて・あそこ〉から響いてくる彼女の声は、まるでこだまのように〈いま・ここ〉の空気を振動させる。ノボルはもはや現在に没入することができない。加納によるノベライズでは、彼の意識が〈いま・ここ〉から引きずり出され、対位法的なものへと変化する様子がわかりやすく描かれている。離接的な時間と多層的な空間の出現──それは〈かつて・ここ〉ないし〈いま・どこか〉として経験されるだろう。
ぼくには、そのとき──
心が時間を越えて、2年前のあの日とまったく同じように、ミカコの息遣いと、存在を感じとることができた。ミカコの吐息や、喉をならす音や、ミカコから落ちる雨のしずくや、匂いや、そういったものまで。
ぼくは、いま、この瞬間に宇宙のどこかにいるはずのミカコに思いを馳せた。
このメールを書いてから、1年の時が過ぎ、ひとつ歳を取ったミカコのことを。25
ノボルがひとりで雨宿りしていた粗末な待合室は、2年前の夏、ミカコと一緒に夕立をやり過ごした思い出の場所だった。〈いま・ここ〉にいるはずのないミカコの気配が、ノボルの感覚器官にありありと現前する。それをミカコの「アウラ(aura)」と呼んでもいいかもしれない。アウラとはもともと古代ギリシャ語・ラテン語で「息吹」や「微風」を意味する言葉だが、批評家のヴァルター・ベンヤミンはこの語を次のように定義し直している。「そもそもアウラとは何か。空間と時間から織りなされた不可思議な織物である。すなわち、どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現れているものである」26。ノボルはすぐ近くにミカコの「息遣い=アウラ」を感じる。それは〈かつて・ここ〉にあったものであり、また〈いま・どこか〉にあるはずのものだ。近さと遠さが交錯し、現在と過去/未来が短絡する。宇宙の果てから吹きつける風が、かすかに地上の空気に混じる。独文学者の大野真は、新海が「『今』を『過去』として捉える感覚操作を、これは恐らく半ば無意識のうちに行なっている」((大野真「風景の詩学——新海誠『秒速5センチメートル』解読」、『深読み映画論──『暗い日曜日』の記憶』、春風社、2009年、170頁。)) ことを指摘しているが、そうするためには時間と空間を離接的で多層的なものとして把握しなければならない。
過去・現在・未来が折り重なるバス停の待合室は、歴史家ミシェル・ド・セルトーのいう「場所」の定義を正確になぞってもいる。「事実、場所というのは」とド・セルトーは語っている。「幾層にも重なった〔記憶の〕断片からなっており、その層のどこかに移っていったり、またそのどこかから出てきたりするし、そしてまた、こうして動きゆく厚みそのものを活用している」27──まるでパリンプセスト(重ね書き羊皮紙)のように。したがって「場所は、奥深くたたみこまれた、とぎれとぎれの話であり、他人の読みおとした過去、先へ伸びてゆくことができるのにじっとたたずんで、来るべき物語のように未来を待ちながら、判じ文字のようにそこに在る時間、そうして、身体の苦悩と快楽のなかにひそかに宿る象徴表現である」28。
ミカコの存在を感じとるということは、パリンプセストとしての〈いま・ここ〉に書き込まれた〈かつて・あそこ〉や〈いつか・どこか〉のアウラをとらえる──あるいは逆にとらえられる──ことにほかならない。時間と空間を超えて重なる2人のモノローグは、そのような対位法的意識の現れとして理解することができる。
見失われた「ここ」を求めて
待合室でのメールと同じような演出は、『ほしのこえ』のラストでも繰り返されている。ミカコとノボルのモノローグが交互に流れ、最後に2人の声が重なり合う感動的なシーンだ。バス停の待合室で「ほしのこえ」を聞いてから、8年7カ月後──24歳になったノボルは、再びミカコからのメールを受信する。「ここにいるよ」と題されたそのメールには、たった2行「24歳になったノボルくん、こんにちは!/わたしは15歳のミカコだよ」とだけ記され、後はノイズで読めなくなっていた。映像は8年前のアガルタ上空へと切り替わり、ミカコのトレーサーとタルシアンの激しい戦闘が繰り広げられる。交差する2人のモノローグに合わせて、日常のありふれた光景が次々にフラッシュバックする。ノボルは雪の舞う灰色の空を見上げ、ミカコは目の前のタルシアンを切り裂いていく。地上と宇宙、現在と過去が目まぐるしく入れ替わり、やがて2人は同時に最後のセリフを口にする。それは愛の告白でも別れの挨拶でもなく、あのメールの題名と同じ「ここにいるよ」というごく控えめな言葉だった。
このシンプルなラストシーンには、しかし『ほしのこえ』の解釈を決定づける重要な問いが含まれている。2人のいう「ここ」とはいったいどこなのか、という問題だ。ミカコとノボルのモノローグはたしかに重なり合ってはいるものの、それは彼らが〈いま・ここ〉を共有しているということを意味しない。実際には2人の時間と空間は大きくズレており、このズレがのちの『君の名は。』における「入れ替わり」の時間的なねじれへと発展していったと考えられる。したがって批評家の東浩紀が指摘するように、ミカコとノボルの声は「脳内世界でしか重ならない」29。だがそうだとすれば、2人はたんにそれぞれの〈いま・ここ〉を肯定しようとしているのだろうか──『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)最終回のあまりにも有名なセリフ「僕はここにいてもいいんだ」がそうであったように。
実際、批評家の大塚英志や編集者の大野修一、ライターのササキバラ・ゴウらは、『ほしのこえ』のラストシーンに現状肯定的な態度を見いだし、そのことの是非をめぐって議論している。ササキバラの考えでは、「ここにいるよ」という2人のセリフは物語の「着地点」を示しているのであって、その先の「成長」を描こうとしているわけではない。彼はその点をむしろ積極的に評価する。というのも「ここにいて、ここ以外のどこにも行けなくて、ここしかない」というニヒリスティックな現状認識──宮台真司のいう「終わりなき日常」──のなかで、それでもなお「ここにいるよとかここにいることが好き、あるいはこの空間が好きだっていう結論」30に達しているとされるからだ。
これに対して大野は、ササキバラの解釈に真っ向から反対している。彼に言わせれば、「ここ」というのは「次にどこかに向かうための、スタート地点」31でなければならず、そしてそのかぎりで評価に値する。つまり『ほしのこえ』のラストシーンは、「旅」に出る前の「状況の再確認」と「その状況の再確認の中にいる『私』の再確認」のプロセスであり、重要なのは「ここ」から旅立つことなのだという。
他方で藤津は、ササキバラや大野のように「ここ」を〈いま・ここ〉として理解することそれ自体を疑問視している。なぜなら「二人がそれぞれ今生きている場所を指し示すにしては、作品中で描かれている二人の「現在」はあまりにも希薄すぎる」32からだ。たしかに彼らの〈いま・ここ〉は出発点というにはそっけなく、また着地点というにはあっけないように思える。それは藤津によれば、ミカコとノボルが〈かつて・あそこ〉へのノスタルジーにとらわれているためだ。「魅力的な過去の前では、現在は色あせて見える。色あせた現在は、まるで観光絵はがきか何かのように細部と奥行きを失い、関心を誘わない何かへと変化していく」33。2人は「自分がどこにいるのかも見失ったまま」、ともに過ごしたあの夏の思い出に心を奪われている。つまり藤津の解釈では、彼らのいう「ここ」とは、現実から遊離した「どこでもない場所」(≒脳内世界)にほかならないのである。
しかしそうだとすれば、ラストシーンのミカコとノボルは「どこでもない場所で携帯電話を手にしながら、つながっているかどうかもわからない相手に『ここにいるよ』とモノローグをつぶやいているだけ」34にすぎないのだろうか──部屋に引きこもってパソコンの画面に没入する、当時の若者たちのように35。おそらくそうではないだろう。新海が描こうとしていたのはたんなる現実逃避ではないし、かといってたんなる現状肯定でもない。2人の現在がどれほど希薄なものに見えるとしても、彼らがメランコリーやノスタルジーに完全に支配されていると考えるのはまちがいだ。
そのことがもっともよく現れているのは、アガルタに到着したミカコがタルシアンと接触するシーンである。美しい大地に降りしきる雨を眺めながら、彼女もまたあの夏の日の夕立を懐かしく思い出していた。学校の帰り道、急にどしゃぶりの雨に降られ、2人でバス停の待合室に駆けこんだこと。トタン屋根を叩く雨音を聞きながら、隣に座るノボルの息遣いを感じていたこと。もう戻れない日々の記憶に苛まれ、ミカコはトレーサーのコックピットのなかで泣き崩れる。だがそれも長くは続かない。不意に何者かのひとさし指がミカコの額にふれ、ノスタルジーに浸っていた彼女の意識を覚醒させる。「誰?/どうして? そんな疑問が生じるよりもはるかに速く、わたしのなかから情報がひきだされて、わたしの意識の表面に次々と映しだされた」36。ノボルが突然のメールによって〈いま・ここ〉への没入を妨げられたのと同じように(あるいはそれとは対照的に)、彼女はタルシアンとの接触によって〈かつて・あそこ〉への沈潜から引き戻されるのである。
さらにここで注目すべきなのは、タルシアンがミカコ自身の過去/未来の姿となって現れることだ。顔を上げた彼女の目の前に、もうひとりの自分が出現する。少女は10歳くらいの子供の姿で、くすんだ色のワンピースを身にまとい、まるで「天使みたいに浮かんでいた」37。あっけにとられているミカコの前で、幼い少女はまだ見ぬ20代半ばの大人の姿へと変身する。つまりこのシーンでは、タルシアンによってミカコの過去と未来が擬人化され、彼女の現在に重ね合わされているのである。それはまさに「対位法的意識の劇場」とも言うべきものだ。そして「ここにいるよ」というセリフの謎を解き明かすための手がかりは、ほかならぬこの舞台の上に用意されている。それはミカコに対するタルシアンの呼びかけのなかに見いだされるだろう。
「ねえ、やっとここまできたね」
「大人になるには痛みも必要だけど」
「でも、あなたたちならずっとずっと、もっと先まで、きっと行ける」
「ほかの銀河へもほかの宇宙へだって」
「ねえ、だから、ついてきてね」
「託したいのよ、あなたたちに」
この一連のセリフには、『ほしのこえ』における初期新海の姿勢があからさまに表現されている。というのも彼は、同作のラストシーンを「このままみんな脳内〔世界〕でいようよ、というメッセージ」として受けとったという東に対して、ミカコとノボルが「現実は別々の場所に生きていてそのさきを生きていかなければならない」38、そのような意図を「ここにいるよ」という言葉に込めたと語っているからだ。要するに、新海はエグザイルの経験そのものを肯定しようとしていたのである。
ここでもあるどこかへ
しかしそれにもかかわらず、ラストシーンの2人のセリフは現状肯定ないし現実逃避として受けとられることになった。そしてその原因は、少なからず新海自身のミスリードにある。彼は「〔最終的に「脳内世界」にとどまるという〕泣ける話として受け入れられるのはウェルカムだった」39とも述べているが、そのことは自分の過去/未来の姿と対面したミカコのヒステリックな反応にも見てとれる。宇宙の果てまで「ついてきて」ほしいというタルシアンに対して、彼女は涙ながらに「ノボルくんと一緒にいたかっただけ」だと訴える。だがミカコの願いを打ち砕くかのように、上空から強力なビーム攻撃が降り注ぎ、アガルタの美しい大地を無惨に破壊する。激しい戦闘の火ぶたが切って落とされ、彼女はトレーサーを駆りながら「わかんないよ!」と絶叫する。
一見すると、ミカコは「そのさきを生きていかなければならない」という新海=タルシアンの意図に反発し、さらなるエグザイルを拒絶しているように思える。14歳という年齢を考えれば当然の反応ではあるが、おそらくこの点に『ほしのこえ』の曖昧さがあるといえるだろう。ラストシーンの解釈をめぐって、現実逃避/現状肯定という両極端な立場が生じるのはそのためだ。しかしながら、いま見てきたようにどちらの解釈も不十分である。前者はミカコがタルシアンとの戦闘に身を投じる理由を説明できないし、後者は戦闘中に過去の風景がフラッシュバックする理由を説明できない。要するに、両者は移動にともなう対位法的意識の生成をとらえ損ねているのだ。何度も述べているように、ミカコはたんに〈かつて・あそこ〉に逃避しているわけではないし、かといって〈いま・ここ〉に埋没しているわけでもない。そうではなくて、それらが複雑に折り重なった離接的で多層的な「ここ」を生きているのである。
大塚はこの点を正確に理解していたように見える。というのも彼は、『ほしのこえ』のなかに「ここにいるっていうことに関する肯定と、いやそれだけじゃだめなんだっていう否定」40という「二重性」が存在することを指摘していたからだ。それは言い換えれば、「ここ」が着地点であると同時に出発点でもある──したがってそのどちらか一方ではない──ということ、すなわち絶えず移動し続けているということを意味している。ミカコはつねにあらかじめ「旅」のなかにある。そのことは携帯電話という装置からも明らかだ。デスクトップ・パソコンやテレビのディスプレイ──それらは現実から切り離された「脳内世界」や「どこでもない場所」を映し出す──が基本的に移動不可能であるのに対して、携帯電話の小さな液晶画面は、文字通りの意味で高度なモビリティを達成している。このちがいは決して小さなものではない。つまりミカコやノボルにとっての「ここ」とは、座標空間内に固定された一点としての〈いま・ここ〉や〈かつて・あそこ〉ではなく、いわば変数としての「移動し続ける場所」であり、そしてそのかぎりで「どこにでもある場所」なのである。
とはいえそれは〈いま・ここ〉を軽視することではないし、また〈かつて・あそこ〉を忘却することでもない。むしろ事態は逆なのであって、現在や過去は絶えず「痛み」としてミカコの意識を引き裂き、彼女を〈いつか・どこか〉へと駆り立てる。それは一方でタルシアンとの接触=戦闘による身体的負荷としての「現在の痛み」であり、他方で失われた日常に対するノスタルジーとしての「過去の痛み」でもある。前者は〈かつて・あそこ〉への逃避を妨げ、後者は〈いま・ここ〉への没入を阻む。ミカコはそのどちらにもとどまり続けることができない──しかしだからこそ「ほかの銀河へもほかの宇宙へだって」行くことができるのだ。したがってそれは現状肯定でも現実逃避でもなく、対位法的に生起する現在と過去の「痛み」にさらされ続けることである。あるいはそうした「痛み」を抱えたまま、離接的な時間と多層的な空間を生きる──とはつまり移動し続ける──ことである。「たぶん、わたしたちは、痛がりだからこんな遠くにまで来られたのだと思う」41。
加納は『ほしのこえ』のノベライズを手がけるにあたって、随所にさまざまなアレンジを加えているが、なかでも問題のラストシーンはかなり大胆に再構成されている1 。しかしそれは「もうひとつの結末(アナザー・エンド)」というよりも、むしろ原作の曖昧さを払拭した「真の結末(トゥルー・エンド)」と呼ぶにふさわしいものだ。ミカコはタルシアンとの戦闘を通じて「彼らもわたしと同じ」であることに気づき、ついに自らのエグザイル状況を引き受ける──「わたしは、どんな遠くだって行くことができる」42。移動し続けることを選択した彼女にとって、いまや地球もアガルタも「同じ宇宙」の一部である。ホームレスであると同時にホームフルでもあるということ。それは確信をもって「どこだってここなんだ」と言えるような、いわば「どこにでもある場所」としての「ここ」に住まう=移動することを意味している。
ここも宇宙だし、
あの街も宇宙なんだ。
人がいて、
同じことを感じていて。
わたしは、生まれたその瞬間から宇宙に住んでいたのだし、これからだってそうなんだ。
同じ場所──
ああ、
ノボルくん──
わたしたちは、いまもいっしょにいるんだよ。
わたしは、ここにいるよ……。43
ミカコからのメールを受けとったノボルもまた、彼女とまったく同じ境地に到達する。彼は自分の住んでいる「スペースコロニーみたいな」郊外の街が、「この地上でいちばん宇宙に近い場所だった」ことに気づかされる。「そういえば、地球だって、宇宙の一部だった。/ここだって宇宙なんだ」44。しかしだからといって、ノボルは宇宙としての郊外にとどまり続けるわけではない。むしろ「ここだって宇宙」だからこそ、逆にどこへでも行くことができるのである。こうして彼はミカコの後を追い、宇宙船の乗務員として地上を離れることを決意する(交際相手とはそのことが原因で破局する)。けれどもノボルの動機は、最終的に運命の相手と結ばれるという「ロマンチック・ラブ」イデオロギーによるものでは決してない。新海は『星を追う子ども』の舞台挨拶のなかで、彼の他の初期作品の登場人物たちがそうであるように「『ほしのこえ』でもノボルとミカコは結ばれない」と明確に述べている。むしろ重要なのは「“ロマンチックラブ” らしきものをつかみかけた彼らだけど、それを手に入れることはできなかったけども、でもその先に出て歩いて行」45くことであり、そうすることができるという確信をもつことなのだ。
過去と現在を携帯しながら、2人はそれぞれの未来へと押し流されていく。それはたしかにハッピー・エンドではないかもしれないが、しかし決してバッド・エンドというわけではない(というかそもそも「エンド」でさえない)。なぜなら移動し続けることではじめて、逆説的に彼らは「いっしょにいる」ことができる、すなわち「どこにでもある場所」としての宇宙にともに住まうことができるからだ。〈いま・ここ〉にありながら〈かつて・あそこ〉にあり、また〈いつか・どこか〉にあるということ。そのような「ここでもあるどこか」においてのみ、ミカコとノボルは互いの存在を感じとることができる。だからこそ、彼らは移動し続けることを選択する──「わたしたちはとおくとおく──/すごくすごーくとおく離れてくけど」「でも想いが時間や距離を超えることだってあるかもしれない」。
雨上がりの雲間からまっすぐに差しこむ「天使のはしご」が、遠く離れたミカコとノボルを照らしている。それはひとつの希望でなければ何だろうか。ただ「ここにいる」ことが、この宇宙のどこかにともに存在する/したという確信が、2人をさらなる宇宙の果てへと導いていく。2000年代初頭に公開されたわずか25分の映像作品は、それからおよそ20年を経てなお、下り坂にある私たちの生そのものに遠く反響している──まるで「ほしのこえ」のように。
著者
てらまっと teramat
「週末批評」管理人。志の低いアニメ愛好会(低志会)メンバー。〈バーチャル美少女セルフ受肉アニメ批評愛好家〉として労働の合間にアニメを見る日々。
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脚註
- 「東日本大震災から11年:被災地と復興の現状」、nippon.com、2022年3月9日付。 ↩︎
- 「ウクライナから出国1千万人超え、多くは難民に ロシアへ195万人」、朝日新聞デジタル、2022年8月3日付。 ↩︎
- 「ロシア、20万人超が国外脱出か 動員令後1週間で周辺国に」、毎日新聞、2020年9月30日付。 ↩︎
- ビル・アッシュクロフト、ガレス・グリフィス、ヘレン・ティファン『ポストコロニアル事典』、木村公一編訳、南雲堂、2008年、111頁。 ↩︎
- 同書、86頁。エグザイルとディアスポラは正確には同じものではない。後者の代表的な事例はユダヤ人やアフリカの奴隷貿易、紛争による難民などであり、他方で前者のそれは国外に亡命した反体制的な政治家や作家、芸術家などである。しかしながら、本稿では「やむを得ない理由で故郷を離れる」という状況一般について考えるために、両者を厳密には区別せずに用いることにする。 ↩︎
- ジェイムズ・クリフォード『ルーツ──20世紀後期の旅と翻訳』、毛利嘉孝ほか訳、月曜社、2002年、299頁。 ↩︎
- エドワード・サイード『故国喪失についての省察 1』、大橋洋一ほか訳、みすず書房、2006年、174頁。 ↩︎
- 同書、193頁。ただし当然ながら、サイードはエグザイルをいたずらに理想化しているわけではない。彼は引用箇所に続けて次のようにも述べている。「しかしながら、これ〔=エグザイル〕には危険がつねにともなう。まやかしの習慣は心労を蓄積させ神経をさかなでする。エグザイル状態とは、満足も充足も安心もない状態である。〔…〕エグザイルは、習慣的な秩序の外で起こっている生活である。それはノマド的で、脱中心化され、対位法的である。またそれに慣れてしまうやいなや、その静まることのない力が安定した生活をふたたび揺さぶるのである」。 ↩︎
- クリフォード、前掲書、291頁。 ↩︎
- 本稿はより大部の論考の第1章として構想されていた。当初の思惑では、第2章に『映画けいおん!』論が収録される予定だったが、さまざまな事情により断念せざるを得なかった。2011年の冬コミで頒布したペーパー「ロンドン、天使の詩──『映画けいおん!』と軽やかさの詩学」は、その簡単なスケッチである。現在は拙ブログに掲載されているので、合わせて参照してほしい(「ロンドン、天使の詩:『映画けいおん!』と軽やかさの詩学 ver. 3.5」)。なお本稿に「セカイ系」という言葉が登場しないのは、セカイ系/空気系(日常系)という問題含みの対立図式に回収されることを避けるためである。この点に関しては、志津A「日常における遠景──「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」(『アニメルカ vol.2』、2010年)と拙稿「ロンドン、天使の詩」および「ツインテールの天使──キャラクター・救済・アレゴリー」(『セカンドアフター vol.1』、2011年)が参考になるかもしれない。 ↩︎
- もっとも『星を追う子ども』には、それまでの新海作品とくらべて大きく異なる点がひとつある。それは登場人物のモノローグが封印されていることだ。この問題については、藤津亮太「モノローグのなくなった世界で」(『SFマガジン』 2011年6月号、早川書房、74−78頁)を参照。 ↩︎
- 藤津亮太「二〇四六年夏へのモノローグ」、『「アニメ評論家」宣言』、扶桑社、2003年、260頁。 ↩︎
- 柄谷行人『日本近代文学の起源 原本』、講談社文芸文庫、2009年、33頁。 ↩︎
- 藤津、前掲書、259頁。 ↩︎
- 新海は大学時代に「感銘を受けた」本として、柄谷の『日本近代文学の起源』を挙げている。『星を追う子ども』公式サイトより「『星を追う子ども』公開記念『秒速5センチメートル』上映&ティーチイン@キネカ大森(5月12日)」を参照。 ↩︎
- 加藤幹郎「風景の実存──新海誠アニメーション映画におけるクラウドスケイプ」、加藤編『アニメーションの映画学』、臨川書店、2009年、127頁。 ↩︎
- 同書、121頁。 ↩︎
- 加納新太『ほしのこえ──あいのことば/ほしをこえる』、エンターブレイン、2006年、6頁。なお『ほしのこえ』には、加納によるものを含めノベライズが2つ(大場惑『ほしのこえ』、MF文庫J、2002年)とコミカライズがひとつ(佐原ミズ『ほしのこえ』、講談社、2005年)存在する。細部や結末はそれぞれ微妙に異なっているが、とりわけ本稿では加納が手がけたノベライズに多くを負っている。というのも残りの2つが原作の補完程度の内容であるのにくらべて、加納のそれは原作に対するかなり踏みこんだ──しかも後で見るように、きわめて正確かつ説得的な──解釈が含まれているからだ(続く『雲のむこう、約束の場所』と『秒速5センチメートル』のノベライズも彼が担当している)。ところで加納は、ミカコとノボルそれぞれの視点から2つの章(「あいのことば」と「ほしをこえる」)に分けて物語を再構成しているが、それよりも宇宙と地上に対応させるかたちで、同じ頁の上下にそれぞれの物語を記したほうがよかったのではないだろうか。そうすれば原作のラストシーンで重なり合う2つのモノローグも、より印象的にノベライズすることができたように思われる。 ↩︎
- 柄谷、前掲書、38頁。 ↩︎
- 加納、前掲書、13頁。 ↩︎
- 同書、231頁。 ↩︎
- 同書、55頁。 ↩︎
- 藤津、前掲書、254頁。 ↩︎
- カレン・カプラン『移動の時代──旅からディアスポラへ』、村山淳彦訳、未來社、2003年、124−125頁。 ↩︎
- 同書、246−247頁。 ↩︎
- ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、浅井健二郎編訳『ベンヤミン・コレクション 1』、ちくま学芸文庫、1995年、592頁。 ↩︎
- ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』山田登世子訳、国文社、1987年、229頁。場所を「幾層にも重なった断片からな」るものと見なすド・セルトーの考え方は、アニメやAR(拡張現実)技術におけるレイヤー構造ときわめて相性がいいように思われる。この点については、佐々木友輔「拡張された郊外におけるアート」(佐々木編『floating view “郊外”からうまれるアート』、トポフィル、2011年、50−59頁)および拙稿「多層化する世界──魔法少女とマルチレイヤー・リアリズム」(『魔法少女のつくりかた』、こうさくらぶ、2011年、58−68頁)を参照。また本稿では扱うことができなかったが、新海作品を特徴づける強烈な光の効果──レンズフレアやスミア、ブルーミングなど──は、重ね合わされた無数のレイヤーをなじませるだけでなく、それ自体ひとつの光源として私たちの網膜にふれ、その傷つきやすい表面を──ときには涙のヴェールでさえも──画面を構成する諸レイヤーのひとつに変えてしまうだろう。そのとき冷静な観察者と彼の眼前に立てられた像の関係はもろくも崩れ去り、連続的に折り重なった複数のレイヤーだけからなる多層的な空間が出現する。キャラクター作画と背景画、前景と後景、リアルとフィクション、現在と過去/未来──入れ子状に重ね合わされたいくつものレイヤーを同期させるもの、それはこの直進する光である(『けいおん!』の教室の窓から漏れ出てくる、フェルメールの絵画のように柔らかな光とは対照的だ)。ディスプレイの彼方から届く光が、遠い星のまたたきが、こうして私たちの現在を音もなく切り裂いていく。 ↩︎
- ド・セルトー、前掲書、230頁。 ↩︎
- 新海誠、西島大介、東浩紀「セカイから、もっと遠くへ」、東浩紀『コンテンツの思想──マンガ・アニメ・ライトノベル』、青土社、2007年、77頁。 ↩︎
- 大塚英志、ササキバラ・ゴウ、大野修一、川中利満「「ほしのこえ」座談会」、大塚英志ほか『「ほしのこえ」を聴け』、徳間書店、2002年、217頁。 ↩︎
- 同書、210頁。 ↩︎
- 藤津、前掲書、261頁。 ↩︎
- 同書、254頁。 ↩︎
- 同書、261頁。 ↩︎
- 大塚は『ほしのこえ』と現代の引きこもりの環境が「パラレルのような気がする」と指摘している(大塚、ササキバラ、大野、川中、前掲書、230頁)。 ↩︎
- 加納、前掲書、122−123頁。映像では一時停止しないかぎり確認できないが、じつはミカコは地上で一度タルシアンと遭遇している。アガルタでタルシアンと再び接触することで、彼女はようやくそのことを思い出すのである。 ↩︎
- 同書、124頁。 ↩︎
- 新海、西島、東、前掲書、77頁。 ↩︎
- 同書、77頁。 ↩︎
- 同前。 ↩︎
- 加納、前掲書、149頁。 ↩︎
- 同書、154頁。 ↩︎
- 同書、153−154頁。 ↩︎
- 同書、252頁。 ↩︎
- 「『星を追う子ども』公開記念『秒速5センチメートル』上映&ティーチイン@キネカ大森(5月12日)」、『星を追う子ども』公式サイト ↩︎
- もしかしたら加納はノベライズにあたり、大塚や東、藤津らの議論を参照しながら、新海の意図をより明確化させるかたちで物語を再構成していったのかもしれない。 [↩]