※本記事には、関係者の名誉やプライバシーの保護等に鑑み、当サイト管理人による検閲(伏字)が一部施されています。また、刺激的な画像や表現が含まれる場合があります。連載第1回は以下よりお読みください。
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文:壱村健太
万人のために彼の人物像を描き、しかもこの肖像画がけっして彼の眼にだけは触れぬようにせねばならない。全世界に彼の罪を教えながら、ただし彼だけは知らない秘密であるかのようにせねばなりません。だれもが彼の後ろ指をさしながら、しかも彼には誰からも見られていないと信じさせねばならない。ひとことで言えばこれは、全公衆に打ち明けねばならないけれど、その的となっている者には決して知られてはならない秘密なのです。
ルソー『ルソー、ジャン゠ジャックを裁く──対話』1
とにかく、他人から実行者が見えない、でも実行者にとっては目標を狙撃しやすい場所、そして実行後に容易に姿をくらませられる場所──これが絶対的に必要なのだ。
土田宏『秘密工作 ケネディ暗殺』2
Chapter 4:パス(PASS)〔「たいへん しそうな内容ですが、個人的にはとてもおもしろく読ませていただきました。 までには掲載できるように進めたいと思います」(批評サイト「 」管理人より筆者宛のEメール、2022年10月31日、伏字編集者)〕
4−1. 批評家(=探偵)ごっこ(「ドクター江藤、あなたが発表しているとき、射ちに来る人があるという情報がはいっています」3)
のち統合参謀本部の議長となったラドフォード提督宛ての解禁覚書によると、「1956年2月6日、海軍作戦の参謀[アーレイ・A・ 提督]は、核部分を装着した兵器ひとつが、父島の貯蔵庫に置かれたと述べた」。
ロバート・ノリスほか
「核兵器はどこにあったのか 『日本はどこまで知っていたか』」4
『死を与える』においてデリダは、不可視性の二つの様態、すなわち不可視なものが現れる二つの方法を記述している。そのうち一つはハイフンつきの「不-可視性〔in-visibility〕」と称される。この不可視性の第一の次元について、デリダは次のように述べている。「まず可視的な不-可視なもの、可視的なものの次元にある不可視なもの、視覚から逃れさせることによって秘密のままにできるような不可視なものがある。こうした意味での不可視なものを人為的に視覚から逃れさせることは可能だが、その一方でそれは外部性と呼ばれるもののうちに留まり続ける」。秘められていて外側にあり不可視であるのは、デリダによれば、視覚から逃れているからだ。彼は長く続く括弧のなかで二つの例──原子的なものと身体的なもの──を提示している。
(例えば核兵器を地下に隠したり、爆発物を貯蔵庫に隠したりする場合には、まだ表面が問題になっている。また私の身体の一部を衣服やヴェールの下に隠す場合にも、表面の下に表面を隠すことが問題になる。このように隠されるものはすべて見えなくなるが、可視性の次元にとどまる、すなわち構成的に可視的なものであり続ける。また別の次元の例、別の構造を持った例を考えてみても、たとえば身体の内部──私の心臓、腎臓、血、脳など──はむろん不可視だと言われるが、可視的なものの次元にある。それらは手術や事故によって露にされ、表面にもたらされうる。その内面性は暫定的なものであり、その不可視性を視覚にもたらすことは、なにか提案したり約束したりできる事柄である。)
身体の内面性は、地面の下、地中に隠された核兵器と同様、暫定的なものである。それらは視覚から隠されているものの、依然可視的なものの次元に属している。いずれの場合も、可視性はそこに存在するが、隠され秘められているのだ、したがって、「これらはすべて可視的な不−可視なものの次元に属する」とデリダは結論づける。5
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ラロック:とても驚きましたよ。
実は私はわが軍の内部に見られることのある偽善的態度を、決して快く思っていませんでした。直截な返事をことさら避けながら、知らぬふりをするあの姿勢のことです。海軍がこのディセンブル(dissemble)ということば〔真実を隠す、偽る、しらばっくれる、などの意〕を最初に使ったと思います。
〔中略〕
新原:私も、アメリカの米国立公文書館で調べたことがありますが、米艦船などにおける核兵器の存在について「否定も肯定もしない」(NCND)という対処のしかたをするというアメリカ海軍の内部規則は、1958年1月にはじめて内部的ルールにされていました。
ラロック元米海軍提督とのインタビュー(聞き手=新原昭治)
(2002年3月1日・ワシントンD.C.にて)6
〔…〕新しい海軍作戦部長のアーレイ・A・ は、原子力潜水艦とは地上の目標を潜水したまま攻撃するミサイル運搬艦であると考えていた。しかしながら、海軍が主に取り組んでいたミサイルは、水上艦艇や浮上した潜水艦を攻撃する巡航ミサイルの「レグルス」だったので、地上目標を攻撃するミサイルを保有していなかった。1957年、 は、海軍がそれまで進めていた中距離弾道計画を潜水したままの潜水艦から発射できる固体燃料ミサイルの開発に方向を転換した。〔…〕1960年までに、特別プロジェクトのスタッフ、原子力委員会とロッキード社は、1500マイルの射程の「ポラリス」ミサイルを開発した。
アラン・R・ミレット、ピーター・マスロウスキー
『アメリカ社会と戦争の歴史』7
不可視性の第二の次元をデリダは「絶対的な不可視性」と呼ぶ。〔…〕不可視性のこの次元は決して視覚に与えられることがない。それは不可視なものとして他の諸感覚に宿るのだ。それは現象学的な意味において絶対的に視野の外側にある。絶対的な不可視性が確立するのは、他の諸感覚のうちに保持された秘匿性の一形式である。〔…〕別様に見ること、別の感覚で見ること、秘密のうちに見ること。8
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©青山剛昌/小学館
Chapter 5:一部削除(DELETE/DELETION)〔「また への検閲は原則行いませんが、 が実装されているかどうか、といった点についてはある程度細かく見る場合があります」(批評サイト「 」管理人より筆者宛のEメール、2022年10月28日)〕
無意識の意図からは露出は継続されるべきだとされ、検閲の要求からはそれは中断されるべきだとされるのである。
フロイト『夢解釈』9
5−1. 灯台もと暗し(Unverborgenheit)
〔…〕国防長官の核兵器・原子力特別補佐ジェラルド・W・ジョンソン〔…〕は、実験用の装置や製造中の兵器を含め、世界中にある一つひとつの核兵器の現在の所在地を把握する責任を負っていた。ジョンソンの手元にある巨大なルーズリーフ・ノートには、世界中の運用可能な兵器一つひとつについて報告された現在の所在地が掲載されていた。日本には兵器の記載は一つもなかった。兵器を積載した船で日本に停泊と記載されたものは一隻もなかった。
ダニエル・エルズバーグ『世界滅亡マシン 核戦争計画者の告白』10
暗いところに、光を当てると、確かに今まで見えなかったものが見えるようになります。しかし、光に伴って影も生じます。灯台もと暗しという日本の諺があるように、光源の近くの方がかえって暗くなる場合もあります。
仲正昌樹『現代ドイツ思想講義』11
前世紀末、日本の映画監督、小説家、批評家たちが、同時代のアメリカ映画の現状をめぐって座談会をおこなった。
おもに、20世紀後半のハリウッドに起こった(と彼らが考える)なにがしかの変化について交わされる議論のなかで、映画監督の黒沢清は次のように述べている。
黒沢──どうしても作る立場からの発言しかできないので申し訳ないのですが、僕もつい50年代、40年代というような言い方をして、それはそれで語りやすかったりもするんですね。40年代から見て今のアメリカ映画が低下しているとか。まあ、そういうことは言えるかもしれないし言えないかもしれないけれども。ただやはり、僕はそういうふうに分けたくないと思っている。何年代であろうが何だろうがつねに変化しつつ、今日までアメリカ映画は撮られていると考えます。直観的に言ってしまうと、その変化というのは、何を見せ、何を見せないか、ということではないかと思う。40年代はこんなのは見せなかった。それこそスタジオ・システムにおいては、これを見せていればよかったじゃないか、というような。それはある倫理規定が外れたとか、いろんな要素があるんでしょう。これを見せ、これを見せないという基準がいつの時代もあってですね。例えばですよ、40年代の映画はこれだけ見せていればよかった。それがひとつの規範であると。しかし、それからすると現代の映画は、見せ過ぎているという言い方は違う。今でも見せられないものもあるし。でも、アメリカ映画と限定して言っていいかどうか困るんですが、映画は常に何か見せようとしてきたと思うんです。12
問われるべき問いは、ひとつである。
「ハリウッドで、アメリカで、欧米で、地球で、太陽系で、いや銀河系で、最も成功した映画監督」であるスティーブン・スピルバーグは、みずからが撮影する映画において、観客である私たちに、いったい何を見せようとしているのか。
そして、戦後日本政治における「王」のごとき存在である安倍晋三の「暗殺自体をみごとなスペクタクルへ仕立てあげてしまった」13「キモくて金のないおっさん」(そして、おそらく足も臭いであろうおっさん)の出現。
「見えない弱者」14であったはずの山上徹也が見えるようになってしまったこと(現象 phenomenon:「輝き出ること」「自己を開示すること」15)によって、前代未聞の思想的大混乱(国家規模での象徴的な失明状態)に陥ってしまった現在(いま)の日本において、私たちが、それでもなおスピルバーグの「映画を見る」とき、監督であるスピルバーグが観客である私たちに、決して「見せられないもの」とは、いったい何か。(「僕が言いたいのは、むしろ、『映画を見る』という行為自体の変化なんですよ。」16)
まとめると、問われるべき問いは、「ある倫理規定が外れた」現在(いま)の日本において、私たちは、スティーブン・スピルバーグの映画に、いったい、何を見て、何を見ないか。
5−2. shoot:射撃/撮影(「スティーブンはいつもカメラを手にしていました」とリアはいう17)
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おもに右頭頂骨を含む右の頭皮および頭蓋骨、つまり幾分か側頭骨から後頭骨にかけての領域に大きな不定形の欠損がある。このあたりには実際に頭皮も頭蓋骨もなく、最大直径13センチの欠損となっている。
J・J・ヒュームズ、J・ソートン・ボズウェル、ピエール・A・フィンク
「検視報告書」18
脳波上側頭部に焦点放電を示すいわゆる「側頭葉癲癇(そくとうようてんかん)」(temporal lobe epilepsy, Temporallappenepilepsie)は、痙攣発作(けいれんほっさ)や意識喪失発作(精神停止発作 psychoparetic attacks)以外に、多彩な自覚的・他覚的精神症状を伴う「精神運動発作(psychomotor attacks, psychomotorische Anfälle)を有している。
木村敏『自己・あいだ・時間』19
5−2−1. はじめての mass shooting(「ライフルは眼と歯の拡張である。」マーシャル・マクルーハン20)
I must fire my rifle true.
I must shoot straighter than my enemy who is trying to kill me.
I must shoot him before he shoots me.
わが銃を正確に撃つべし。
われを殺さんと試みるわが敵よりも正確に撃つべし。
われ彼を撃つべし、彼がわれを撃つ前に。
U.S. Marine Corps「Rifieman’s Creed」
(米海兵隊「ライフルマンの誓い」)21
オリヴァー・ストーンが『JFK』を撮った時に、安井さんがあの映画のカットの速さ、カメラの視線の在り方みたいなことで『JFK』を取り上げましたよね。で、あの物語というのは、誰がどこからケネディを撃ったのか? ということに終始するわけじゃないですか。ミステリーというか謎解きとしては。つまり、視線の位置を疑う物語ですよね。
青山真治22
5−2−1−1. 二人のスティーヴン23(「──確か『A. I. 』の頃だったか、スピルバーグが「自分は映画監督にならなかったら、連続殺人鬼になっていたかもしれない」とか言ってたんですが」24)
映画『シンドラーのリスト』(スティーブン・スピルバーグ監督、1993年)のなかで、高台に建てられた邸宅のベランダみたいなところから眼下に広がる強制収容所内のユダヤ人を遊び半分でつぎからつぎに撃ち殺すのは(レイフ・ファインズ演じる)ナチス親衛隊の将校アーモン・ゲートだが、2017年10月1日、ラスベガスのリゾート施設、「マンダレイ・ベイ・リゾート アンド カジノの32階のスイートから大通りラスベガス・ストリップ沿いのラスベガス・ヴィレッジで開かれていたThe Route 91 Harvest カントリー・ミュージックフェスティバル会場に向け1049発を発砲し」25、60人を殺害、数百人を負傷させたのはスティーブン・パドックである。
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「警察によると、パドックは62歳のアジア系女性と交際している。しかし、この女性は『パドックの犯行計画についてはまったく知らない』と答えた」26。
ところで、宮本ゆきによれば、アメリカ合衆国における「核兵器」に関する議論(「核兵器は自衛の武器」という論説)と「『銃の所持・携帯に関する規則』などは全く同じ論理で語られています」27。
〔銃乱射事件等の──引用者注〕こうした悲劇が起こるたびに銃規制反対派とNRA〔全米ライフル協会──引用者注〕は「武器自体は悪くない、それを持つ人に十分な理性や管理能力がないことが悪い」という主張をしてきました、この考えは「兵器自体は悪くない。それを持つ国に十分な理性や管理能力がないことが悪い」といった核兵器論と全く呼応しています。28
そして「マイク・モラスキーや鈴木直子、佐藤泉をはじめとして日米の多くの論者が指摘するように、日本とアメリカの関係を語る際には二つの国を男女関係になぞらえる『性=国家のメタファー』が頻繁に見られる。このような比喩によって始動する想像力のなかで、アメリカは常に強者である男性の位置を占め、日本は女性=弱者の側へと重ねられる」29。
* * *
スティーブン・パドックの恋人であるアジア系女性が、パドックの「犯行計画」について、言い換えれば「男性」の「暴力性」について、「まったく知らない」などとすっとぼけているように、「強者である男性」「暴力的な『アメリカ』のイメージが顕在化しないよう」「原爆を投下したアメリカを名指すことを避け、批判的な感情表現を抑える」30ことで80年近くすっとぼけてきたのは、アメリカ合衆国の東アジアにおける最も重要な「女性的」同盟国である「日本」の「言論空間」を支配してきた、知識人、言論人たちだ。
しかし、「それは原爆という出来事において、『アメリカ』が眼に見える存在ではなかったことにも因るだろう。多くの原爆の語りがピカッと光る峻烈な光にドンという轟音を伴う視覚・聴覚イメージから始まるように、原爆体験者の多くは爆撃機を眼にしていない。またデーヴ・グロスマンは、地上戦とは異なり高度から行われる空爆においては、敵との物理的距離が遠く離れているため、爆撃を自然災害のように捉える傾向が見られることを指摘する」31。
5−2−1−2. 聖なる動物:奈良のバンビ(「決定的な瞬間に、暴力と、暴力がねらう人間との間に、動物がいつも介入している」32)
スピルバーグ自身の言葉によれば、彼の劇場長編デビュー作である『激突!』(1971)は、「いってみればあれはゴジラ対バンビ」35である。
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『激突!』のなかで「主人公を追い回すトラックの運転手が、決して姿を見せない」ように、『バンビ』(1942)のなかでは「森に暮らすバンビの母を撃ち殺すのは人間だが、ディズニー映画にその姿が映し出されることはない」36。
ディズニー版『バンビ』には肉食動物は登場しない。いや正確にはフクロウが登場するが、フクロウは肉食動物としてではなく、知の象徴であり、冷静に森の調和を保つためのシンボルとしての役割を担っている。そのため、バンビが暮らす森では、弱肉強食からなる自然界の生態ピラミッドが後景化し、動物/人間、自然界に生きる弱者/銃=武器(テクノロジー)を手にして殺害を行う強者という構図が強調されるつくりになっている。37
ここで注目したいのは、『バンビ』のなかで銃を撃つ(shoot)ハンターの姿を直接描くことはしなかった、スピルバーグが「尊敬するディズニー」38自身は、『バンビ』の制作時、生きた鹿を何度もカメラで撮影(shoot)していることだ。
ディズニーは「〔オーストリアの作家フェリックス・ザルデンの──引用者注〕原作にこめられた死、生命、苦悩、神、というテーマをかたちにするために、以前とはまったく異なる幻想的な新しい描画法に取り組んだ。まずはシカの生態を徹底的に研究しようと、数多くの資料や動物の生態映画を収集した。ほかのプロダクションからシカを撮影したフィルムを借り、カメラマンのモーリス・デイをメイン州に送ってシカの生態を撮影させた」39。
* * *
ところで、2022年7月8日、奈良県奈良市内で発生した安倍晋三元首相銃撃事件の社会思想的背景として、「弱者男性論」の中心的論客のひとりである批評家の杉田俊介と山上徹也という戦後日本政治史上最大最強の政治家を自作拳銃で殺害した「強者男性」(自然界に生きる弱者/銃=武器(テクノロジー)を手にして殺害を行う強者)が対立する構図に、少なくない数の論者が注目したことはいまだ記憶に新しい。
杉田俊介/山上徹也、この弱者/強者という思想的対立が生じるに至った詳しい経緯は別のところに書いたので40、ここでは繰りかえさない。
本稿で注目したいのは、山上徹也が自身のツイッターアカウントに投稿した、あるツイートだ。
2021年1月18日。「ダム沿いの道で子鹿が柵から抜け出せずに死んでいた。ほんの少しの手助けがあれば死なずに済んだのだろうか?」というコメントが、柵にはまり込んで死んだ子鹿〔奈良のバンビ──引用者注〕の死体の写真に添えられていた。41
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「『柵』とは、スピルバーグのフィルモグラフィの総てを通して、この映画作家のとても重要なモチーフとなる」42以上、私たちは、山上徹也によってshoot(撮影/射撃)された、もうひとつの被写体/犠牲者である、この、かわいそうな奈良のバンビが「はまり込んで」「抜け出せずに死んで」しまった「柵」についての思索を迂回することはできない。
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ティラノサウルスの柵と山羊(の一部)
5−2−2. 柵=スリット(「ケネディはジョンソンの牧場を訪問するのを嫌っていた。〔…〕ここでジョンソンの誘いで鹿狩りに出掛け、彼の「残酷な趣味」に辟易したという」43)
さて、スピルバーグのフィルモグラフィの劈頭を飾る『激突!』の、いちばん最初のショットには何が映っているだろうか。それは、暗闇である。開巻すると、真暗な画面が続き、やがてその外から靴音が聞こえてくる。車のドアが開かれる音、エンジンが掛かる音、それに続いてようやく画面のなかに光が挿し込んでくる。キャメラは車からの視点であり、車が後退し始めたからだ。薄暗がりのなかで白い壁に立てかけられた自転車が映り、白い壁がガレージのそれであることが判り、さらに、今この車が出てきた、いかにもアメリカ郊外の建売住宅というふうな白い家の全体が、道路と家の間に拡がる小さな芝生の庭とともに映る。車は、そのまま車道へ滑り出して、やがて街中を通り抜けてゆく……。
〔中略〕
やがて車は街中を抜けて、荒野を貫く道路に出る。そしてキャメラもまた、ここでようやく車の外へ出る。初めて、車からではない場所に設置されたキャメラが捉えるのは、画面の手前から奥に向かって、道路に沿ってずっと打たれた杭と、杭と杭の間を繋ぐ有刺鉄線でつくられた防護柵である。ここに、さっそく「柵」が登場していることを、しっかりと記憶しておこう。
〔中略〕
さて、それでは「柵」とは何なのか? それは殊のほかにスピルバーグ好みの道具立てである。彼のつくる画面には、頻繁に「柵」が登場する。たとえば『戦火の馬』(2011)は20世紀初頭のヨーロッパにおける「柵」の百科全書のようだ。
〔中略〕
これは『激突!』だけでみられるモチーフではない。『ジュラシック・パーク』(1993)がそうであり、『ミュンヘン』(2005)の冒頭ではパレスチナのテロリストたちが、親切なアメリカ人たちに助けられて(!)、オリンピック・スタジアムの宿泊施設の「柵」を乗り越えることで、殺戮が始まる。さらに、『太陽の帝国』(1987)では、まず上海の租界そのものが大きな「柵」であり、日本軍の侵攻後には、「柵」の張り巡らされた収容所が舞台となる。『ターミナル』や『シンドラーのリスト』や『アミスタッド』も、それぞれで起こる事件のレベルでは異なるが、しかし巨大な収容所施設と法という「柵」をめぐる映画という点で共通している。
スピルバーグの「柵」でもっともよく知られているのは、『1941』(1979)で彼自身がパロディとして反復することになる、『ジョーズ』の冒頭だろう。人喰鮫の最初の餌食となる若い娘は、海岸線に沿って打ち立てられた何本もの杭と杭──その間にできる隙間は、まるでゾエトロープのスリットを思わせる──の前を、着ているものをどんどん脱いでゆきながら、鮮やかな速さで走り抜けてゆき、そのまま「柵」の向こう側のビーチを駆けおりる。そして薄闇の海に入り、あの惨劇が始まるのだ。
どちらも空間に隔たりをつくる「柵」と「壁」が、決定的に区別されるのは、『ジョーズ』冒頭での、ゾエトロープのようなそれが明示しているように、杭と杭との間に拡がるスリットの存在においてなのである。つまり「柵」であることとは、空間を隔てる杭と杭の隙間から射し込んでくる「光」と、分ち難く結びついている。「光」の射してくるスリットがあるからこそ、「柵」は「壁」のように或る空間を区切りながら、しかし同時に、その隔ての向こうにある「外」の存在も画面に収めることができるのだ。だから、「柵」に遮られ/守られながら、その隙間から覗く者は、「外」の光景をみつめることができる。44
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さて、美術史の研究者であるロザリンド・クラウスは、あるところでゾエトロープをふくむいくつかの19世紀後半の光学装置を紹介したのち、次のように書いている。
たしかに、このような装置は現代の映画へとつながっていくものである。しかし、ジョナサン・クレーリーが光学装置の考古学を論じるさいに指摘したように、これらの装置が映画とは異なる固有性を持っていることに、目をふさぐべきではない。〔…〕これらの光学装置はイリュージョンを生じさせると同時に、そのイリュージョンを作り出す仕掛けもあらわにしているのである。したがって、観客は二つの位置を同時に占めるといってよい。第一は、イリュージョンと想像的に同一化したり、イリュージョンの世界に閉じこめられたりする位置。われわれ観客は、ステレオスコープによって立体化した幻のような川の流れを背に雌牛が牧草を食べているところや、ガチョウの群が元気に餌をついばんでいるところを、あたかもその場にいるかのような思いで眺めるのである。第二は、光学装置そのものを見させられるような位置。この位置は、光学装置がそこにあるということや、その装置のメカニズムによって断片が見かけのうえでだけ一つの見せ物になるということを、絶えず思い出させずにはいない。イリュージョンを経験すると同時に、その経験を外側から見させるという二重の効果、これが、見せ物に魅せられた19世紀後半の特徴であった。45
本稿において探求されるべき問いは、次のようなものである。
- 「イリュージョンと想像的に同一化したり、イリュージョンの世界に閉じこめられたりする位置」
- 「光学装置そのものを見させられるような位置」(「断片が見かけのうえでだけ一つの見せ物になるということを、絶えず思い出させずにはいない」位置)
クラウスがいうところの「原-映画装置の観客が占めたこの二重の立場」46、このふたつの位置の関係は、スティーブン・スピルバーグという映画作家において、いったい、いかなるありかたをしているのか。
「回転する円筒に開けられたスリットが、リズミカルに両眼の前を通過していく。円筒の外側からスリットを通して、そのなかを覗き見る。すると、静止した何羽もの鳥の列が、一羽の鳥の映像へと総合されて、その翼を大きく羽ばたかせているのが見える。しかしながら、この一つながりの映像も、円筒の内側から見ると解体され、断続的な多数の構成要素(運動の連続性を、クロノフォトグラフィによって機械的に分断して記録したもの)に分解されてしまう」47。この、「ゾエトロープ=回転する円筒」の「外側」と「内側」の関係は、スティーブン・スピルバーグという映画作家において、いったい、いかなるありかたをしているのか。
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ゾエトロープ
- 「イリュージョンと想像的に同一化」するために、回転する円筒の外側からスリットを通してそのなかを覗き見る位置
- みずからは ① の位置にありながらも、そこから覗き見ている映像、イリュージョンが、ほんとうのところ(円筒の内側から見れば)、分解された断片的な多数の構成要素にすぎないということを知っている位置
ここで参考になるのは、20世紀の映画批評に多大なる影響を与えた、精神分析理論である。
先に黒沢清の発言を引用した座談会のなかで、安井豊は精神分析家のジャック・ラカンを引きながら次のように述べている。
〔…〕人間というのは独りでは決して生きてはいけない動物で、必ず模範となるモデルを必要する。で、そのモデル、例えば先生なら先生を尊敬し、同一化することによってヒトは大人になっていくと。ところが、ラカンは「それだけではない」と言っている。まあ、世の中には尊敬できるサッカー選手とか、尊敬できない映画監督(笑)とか、いろいろな生き方をしている人がたくさんいる。それなのに「なぜ先生なのか」と問われた時に「いやいや、君の選択は正しい。大いにその先生を尊敬してよろしい」と言ってくれる、目に見えない何者かが同一化の対象の背後にいる。つまり、ヒトは先生に同一化すると同時に、意識していないかもしれないけれど、その選択を保証してくれる、目に見えない何者かにも同一化するという二重のプロセスによって、大人になっていくというのがラカンの考え方なんです。48
クラウスが19世紀の光学装置(の観客)に見いだした二重の立場は、精神分析でいうところの主体(化)の二重構造と同型のものである。
つまり、先に立てた問いを言い換えると、スピルバーグにおいて、その気になれば、柵=スリットの隙間からではなく、直接「外」の光景を見ることができるにもかかわらず、みずからが柵に遮られ/守られながら、そのスリットの隙間からのみ「外」の光景を覗き見ているということ、この選択自体を保障する(「いやいや、君の選択は正しい。」と言ってくれる)目に見えない何者かとは、いったい誰なのか、ということだ。
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扉のスリットの隙間から覗き見るE.T.とエリオット少年
スピルバーグが「ゾエトロープ=円筒」の「外側からスリットを通して、そのなかを覗き見る。すると、静止した何羽もの鳥の列が、一羽の鳥の映像へと総合されて、その翼を大きく羽ばたかせているのが見える」。しかし、スピルバーグ自身、みずからが同一化しているイリュージョンが、(ほんとうのところは)「ゾエトロープ=円筒」の「内側から見ると解体され、断続的な多数の構成要素(運動の連続性を、クロノフォトグラフィによって機械的に分断して記録したもの)に分解されてしまう」ような代物にすぎないことを知っている。それにもかかわらず、みずからが「ゾエトロープ=円筒の外側」からスリットの隙間を通してのみ、そのなかを覗き見ている(「イリュージョンと想像的に同一化」している)ということ、この選択自体を保障する(「いやいや、君の選択は正しい。」と言ってくれる)目に見えない何者かとは、いったい誰なのかということだ。
現代世界最高の映画監督であるスティーブン・スピルバーグにとって、みずからが「映画を観る」49/撮影(shoot)するという選択(「『柵』を通して洩れてくる『光』を」50「覗き見る」という選択)、この選択自体を保障する(「いやいや、君の選択は正しい。」と言ってくれる)目に見えない何者かとは、いったい誰なのかということだ。
(そして、安倍晋三を銃撃(shoot)するという選択を、おそらくは躊躇したこともあったであろう山上徹也に「いやいや、君の選択は正しい。」と囁いた「目に見えない何者か」とは、いったい誰なのか……)
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「有刺鉄線で閉じられた窓(『柵』=スリット)を通して」51外を見つめる
イザック・シュターン(ベン・キングズレー)
* * *
なによりも問われるべき問いは、スティーブン・スピルバーグと山上徹也、このふたりの関係はいったいどうなっているのか、ということである。
「柵」をモチーフにした優れた映画、写真の撮影者である、という点に関しては共通する両者が、それにもかかわらず、なぜ、「片方が逮捕され、もう片方は何の問題もなく幸せに暮らしている」52のか。
スピルバーグと山上、そのうちのひとりは、現在「柵=スリット」のこちら側、「ゾエトロープ=円筒」の外側に存在しているにもかかわらず、もうひとりは「柵=スリット」の向こう側、「ゾエトロープ=円筒」の内側(というか獄中)に存在しているのは、いったいなぜなのか。
否、そもそも、ほんとうの意味で獄中(ゾエトロープ=円筒の内側)に存在しているのは、スピルバーグと山上のうち、いったい、どちらなのか。
みずからは「ゾエトロープ=円筒」の外側からスリットの隙間をとおして「一つながりの映像」を見ている、撮影していると思いこんでいるにもかかわらず、その彼が見ている、撮影している映像は、ほんとうのところ、「ゾエトロープ=円筒」の内側から見る、「運動の連続性を、クロノフォトグラフィによって機械的に分断して記録した」「断続的な多数の構成要素」にすぎないのは、スピルバーグと山上のうち、いったい、どちらなのか(「私たちの社会には記憶がない。理想もないし伝統もないし目標もない」53「時間の流れもひどくおかしい。時間がばらばらになってしまって、ちっとも先へ進んで行かない。てんでばらばらでつながりのない無数のいまが、いま、いま、いま、と無茶苦茶に出てくるだけで、なんの規則もまとまりもない」54)。
ひょっとすると、2022年7月8日以降、安倍晋三銃撃事件の歴史的意義、評価をめぐって混乱のきわみにある私たちの社会は、ギリシア語の zoe(生命、動物)と「 trope(回転)を組み合わせた言葉で、『生命の輪』あるいは『生きている輪』という意味がある」55ゾエトロープの「内側にいると思っていたらいつの間にか外側にいて、外側のはずが内側になるという状況」56に陥ってしまっているのではないか。
これを言い換えれば、現代「アメリカの夢が、ケネディ暗殺以降の陰謀論噴出に象徴されるアメリカの悪夢に転じ、外宇宙がたちまち内宇宙に反転せざるをえないという逆説」57それ自体が、「柵」とおなじように(「或る空間を区切りながら、しかし同時に、その隔ての向こうにある『外』の存在も」見ることが可能である)特定の「空間を分割する線」58である国境線(もしくは太平洋)を挟んで、「アメリカの鏡・日本」(ヘレン・ミアーズ)に、そして「日本の鏡・アメリカ」に、その「分裂した」アメリカ合衆国の自己イメージが、2枚の合わせ鏡の鏡面において「鏡映の無限反射(リフレクション)」59を繰りかえすなかで、戦後日本政治史上最大のスペクタクルである安倍晋三銃撃事件は現実化しているのではないか。
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すくなくとも、現代世界最高の映画監督であるスティーブン・スピルバーグがその隙間から「外」の光景をのぞき見る「柵」と、安倍晋三の殺害者である山上徹也がその隙間から「外」の光景をのぞき見る「柵」、この「二つのつながりに向かいあうことは私たちの生活の底にある恐怖に直面することである」60ように思われる。
否、より正確にいえば、スピルバーグと山上がそれぞれの手にカメラと自作拳銃を構えて、ひとつの「柵」を挟んで正面から向かいあう瞬間、そこにおいて両者の眼差しは、交差的かつ二重化する視線によって、その関係性自体が鏡像的でもある「『双数的(=決闘的)関係〔relation duelle〕』(E,30)と呼ばれる関係を帰結せざるをえない」61ように思われる。
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サミー・フェイブルマン(ガブリエル・ラベル)
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決闘……?
relation duelle……?
そういえば……スピルバーグの劇場長編デビュー作『激突!』の原題は……『Duel』(決闘)である……
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「決闘裁判の興隆期は中世の12~13世紀におとずれた。」
あぁ……まただ……
「そこでは決闘者同士が競って、勇敢さと豪胆さとを発揮した。」
また、「あれ」が始まる……
「決闘裁判においては、決闘者双方は、まず黒で覆われた椅子に座り、宗教的な典礼様式にしたがい、魔法の手段や薬を使わないことを最初に誓わされた。」
自分は、ただたんに好きな映画やアニメや小説について、軽い気持ちで「批評」を書こうと思っただけなのに……
「その間に裁判官は、風向きや太陽の位置を考えながら、戦う場所を定めた。」
そもそも、こんなに苦しい思いをしながら、安倍晋三銃撃事件について「批評」を書く理由なんか、自分には1ミリもない、だって、安倍晋三を◯した山上徹也と自分はなんの関係もない、赤の他人なのだから……
「そして裁判官の『それでは、いい戦いを!』の言葉とともに決闘が始まった。」
だいたい、ケネディ暗殺事件の背後に〈陰謀〉なんかあるわk
陰謀論者の夢──アーレイ・バーク試論 (3)王殺し
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Chapter 6:公表禁止(SUPPRESS/SUPPRESSION)〔「これを掲載すると、 も問われることになるだろう。」(雑誌『 』編集部より筆者宛のEメール、2022年10月13日、伏字編集者)「 をいうと、 であるわたし自身ではおそらく引き受けきれないという もあります」(批評サイト「 」管理人より筆者宛のEメール、2022年10月31日)〕
29日午後2時10分ごろ、東京都新宿区西新宿1のJR新宿駅南口付近の歩道橋で、男がペットボトルに入れたガソリンのような物を自分にかけ、火をつけて自殺を図った。警視庁新宿署によると、男は重傷。他にけが人はいないという。
新宿署によると、男は50代とみられる。歩道橋で拡声器を使って「集団的自衛権反対」などと騒いでいた。110番通報を受けて駆けつけた新宿署員が騒ぐのをやめるよう説得したところ、男が自分に火をつけたという。
「新宿駅南口で焼身自殺図る 男が重傷」
日本経済新聞、2014年6月29日
政府は20日、安全保障法制をめぐる与党協議で、自衛隊の海外活動について現行の周辺事態法と国連平和維持活動(PKO)協力法を改正し、新たな恒久法(一般法)を制定する方針を示した。周辺事態法では事実上の地理的な制約を撤廃し、恒久法は国連安全保障理事会の決議がなくても後方支援が可能とした。ただ自衛隊の活動に歯止めがかからなくなるとの懸念から公明党側で慎重論が出ている。
「自衛隊活動 大幅に拡大 与党協議に政府案 公明に慎重論」
朝日新聞、2015年2月21日
2015年2月20日、午前6時頃。神奈川県川崎市川崎区港町(みなとちょう)で、多摩川沿いの土手を散歩中の地元住民が、河川敷に全裸で転がっている遺体を発見した。被害者は中学一年生の少年X。全身に痣や切り傷といった暴行の跡が見られ、特に首の後ろから横にかけては頭部の切断を試みたのではないかと思えるほど、深く傷つけられていた。
〔中略〕
また、少年Xの膝には擦り傷があって、加害者は彼を跪かせた上で首にナイフを当てたと見られたが、それはやはり当時話題だったイスラム国の処刑映像を模したのではないか、という憶測が “川崎国” なるキーワードを生み出し、下世話な興味を煽っていった。
磯部涼『ルポ川崎』63
6−1. トーテム饗宴:奈良のバンビ⇔多摩川のピノッキオ[反転する2001年のゾエトロープ/zoetrope(「生命の輪」)](トーテム饗宴は、この「記憶すべき犯罪行為の反復」、つまりは記念祭だというのである64)
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あの日、ビル突入の直前にアメリカン航空11便とユナイテッド航空175便のコックピットで操縦桿を握っていたテロリストたちは、目の前に世界貿易センタービルの壁面が迫ってくるのをはっきり眼差していたであろう。
吉見俊也『空爆論』65
〔…〕他者を見つめる広域的「視覚」のエリート主義および攻撃性が意味しているのは、他者の苦しみなど自己の超越的な欲望に比べれば取るに足らないということだ。そしてそのような超越的欲望はある特定の文化におけるテクノロジーへの狂信の産物であるにもかかわらず、利他的な普遍主義の装いをもって語られることを特徴とする。
レイ・チョウ『標的とされた世界』66
9・11米同時多発テロ事件後の喧騒は、戦後、誰も開けられなかったパンドラの箱を一つ開けてしまったのかもしれない。
NHK報道局「自衛隊」取材班『海上自衛隊はこうして生まれた』67
6−1−1. 「弱者男性論」のメルトダウン(つまり、概念的人物は二度現れる、二度介入する、ということだ68)
6−1−1−1. 総かり立て体制:Gestell71(1964年の3月までに、彼らは全員ベトナムへ送られていた72)
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1963年12月12日にロンドンで行なわれる予定だった『博士の異常な愛情』のワールド・プレミアは、ケネディ大統領に弔意を表して中止された。「現在、政治コメディを公開することは適切ではない」という理由で公開も延期された。
デイヴィッド・ヒューズ『キューブリック全書』73
そうこうしているうちに、1964年、とりあえずの進路が決定してしまった。そのとき彼はサンノゼの映画館で列に並び、スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』を見ようとしていた。そこへ父と妹が車で駆けつけ、彼に封筒を渡したのだ。選抜徴兵局からの通知だった。学生免除が適用されないため、1A種の第一兵士に分類されたという。そのまま映画を見たが楽しめず、笑えばいいのか怖がればいいのかわからなかった。「ベトナムに送られるかもしれないと思って、映画どころじゃなかった。だからあの映画は改めて見にいったよ。二度目は心から楽しめた」。
ジョン・バクスター
『地球に落ちてきた男 スティーブン・スピルバーグ伝』74
いまでも「ケネディが生きていたら」と夢想する者は多い。映画『ダラスの暑い日』(1973年)や『JFK』(1991年)がその典型である。核戦争一歩手前のキューバ危機を見事に解決し、ソ連との平和共存の道を開いたケネディなら、ベトナムを泥沼にしなかったはずだ。彼は対中関係改善も視野に置いていたし、1965年までに撤退を断行しただろう。ジョンソンはケネディ路線を継承したようだが、じつは後戻りのきかない介入を開始したのだ。ケネディ暗殺は、冷戦緩和に反対しベトナム撤退阻止を図る、軍産複合体や右派などの陰謀に違いない。
松岡完『べトナム戦争』75
6−1−1−1−1. 人間動物園、闘鶏場としてのベトナム
ふたたび猛射(もうしゃ)が起った。森そのものが猛射しているとしか思えなかった。ベトコン兵士の姿は黒シャツの閃きひとつ見えなかった。潰走(かいそう)が始まった。トゥ中佐が先頭にたって逃げだした。
開高健『ベトナム戦記』76
「でも、大尉」カパーゾがいった。「おれ……」
そのあとを聞くことはできなかった。ジャクソンの狙撃銃と似たような高性能の小銃の銃弾がうなりをあげて飛んできて、カパーゾの胸を貫通した。壁がなくなって露出した居間の家具に、血しぶきが飛び散った。〔…〕
「クソ!」ヒル軍曹は、瓦礫(がれき)に背中を預け、小銃を持って、ミラーととなりあって座っていた。「あの狙撃はどこから撃っているんでしょう?」
マックス・A・コリンズ『プライベート・ライアン』77
さて、スピルバーグが、ゾエトロープのスリットを思わせる「柵」(杭と杭との間に拡がるスリット)の隙間からのぞき見る「外」の光景とは、いったい、いかなる光景だろうか。
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映画『激突!』に関して、この問いは、はっきりと答えられる。
〔執拗に追いかけてくるトラックを一時的に振りきった、というか道路沿いのカフェの駐車場にみずから突っ込むかたちで難を逃れた主人公の──引用者注〕マンは車から降りて目の前のカフェに入り、脂汗で汚れた顔を洗いながら、鏡をみる。そして、彼の声で「いつものように道を走っていただけ/人殺しに出会うなどと考えもせずに/突然こんなことに/まったく何が起こるか/危うく命を落とすところだった/これじゃまるでジャングルと同じだ」と、ナレーションが指し込まれる。同様の台詞は既にリチャード・マシスンの原作の短編小説にもあり、彼は『激突!』の脚本にも参加しているが、これが書かれた1971年という時代に、「ジャングル」という語と、ヴェトナム戦争の戦場が通底して結び合っているだろうことは指摘するまでもない。78
映画のなかで、冴えない中年サラリーマンである主人公が、画面には決して姿をみせることがないトラックの運転手と命がけの「追いかけっこ」をしている、そのちょうど10年前の「1961年4月、ソ連はアメリカに先駆けてユーリ・ガガーリンによる有人宇宙飛行を成功させた」。「米ソ両国による核実験の激化、そして核兵器開発競争の激化、57年10月のソ連のスプートニクⅠ号の打ち上げによる宇宙開発競争の始まりと大陸間弾道弾の開発競争など、両国の対立は激しさを増していた時代だった」79。「フルシチョフは、ソ連経済は10年でアメリカに追いつき追い越すと豪語していた。こうしたソ連の攻勢にアメリカが応えるべき場、それがベトナムだった」80。
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一見したところまったくそうは見えないが、じつは「ベトナム戦争」を描いた作品でスピルバーグがデビューしているのであれば、彼の作品のいたるところに「柵」が現れるのも、なんら不思議ではない(「処女作にはその作家のすべてがある」81)。
というのも、すこし歴史を遡るが、1889年の「パリ万博では、会場内に植民地集落が再現され、連れてこられた原住民たちが展示させられていった。彼らは、必要な食料や生活用具を与えられ、数か月に及ぶ博覧会の開催中、昼も夜も柵で囲われた集落のなかで『生活』させられていくのであった」82。
「すなわち『人間の展示』、植民地の多数の原住民を博覧会場に連行し、博覧会の開催中、柵で囲われた模造の植民地集落のなかで生活させて展示していくという、19世紀末の社会進化論と人種差別主義を直截に表明した展示ジャンルの登場である」83。
そして、第二次世界大戦終結直後、「インドシナを含む海外植民地を、あくまで、帝国の領土として守り抜く構え」84を見せたフランスに、正直「インドシナのような辺境にあまり関わりたくない」と考えていたアメリカが妥協した結果として、植民地戦争の勃発、南北ベトナムへと分断(「1957年に訪米したジェム大統領が述べたように、北緯17度線は文字通り『アメリカのフロンティア』となった」85)。さらに1961年6月、「ウィーンでの米ソ首脳会談でもフルシチョフに押しまくられたケネディは、アメリカの力がいい加減なものでないことを示す舞台をどうしても必要とした。こうしてケネディの上院議員時代以来からの側近セオドア・ソレンセンによれば、ベトナムは米ソ対決の『闘鶏場』となっていく」86。
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フィリピン・ダバオの闘鶏場
映画『激突!』が、一見したところまったくそうは見えなくとも、「近代史を通じたヨーロッパの帝国主義的な意図と経路を継承し、さらにそれを先に押し進めた国」87であるアメリカ合衆国にとっての辺境=フロンティアでの戦争を描いたものだとすれば、色々と見えてくることがある。
そこにおいては「まぎれもなく西洋と東洋が真っ向から衝突し、相互に本質的な影響を与え合った瞬間」88を「姿なき狙撃者/撮影者」が目撃(shoot)した、「『民族の世紀』と『アメリカの世紀』が激突した戦場」。このベトナムの戦場を、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの政権が、「柵」で囲まれた「動物」の見世物である「闘鶏場=ゾエトロープ(の内側)」として理解していたのだとすれば、色々と見えてくることがある。
6−2. 反転するzoetrope:惨劇(「『柵』を乗り越えることで、殺戮が始まる」「黙示録は迫ってきている、戦争は避けられない」89)
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6−2−1. 自我の磔刑(たっけい)〔陰謀論者/批評家の夢 :弱い/強いつながり〕(「すなわち統合できない対立物のあいだに自我は宙吊りされて悶え苦しむのである」93)(「『 』の他の が得られました。正式に させて下さい」 氏より筆者宛のEメール、2022年8月3日、伏字編集者)
さて、歴史的にいえば、「アメリカが日本に対して関心をもつようになったのには、多くの理由がある」が、19世紀の「西洋列強の間には国家的競争という圧力があり、そのことがアメリカを駆り立てて、その〔「アメリカ合衆国の西部開拓を正当化する標語」である──引用者注〕『マニフェスト・デスティニー』の線に沿って太平洋に押し出させた」97ともいえる。
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ところで、アメリカ史における西漸運動(せいぜんうんどう)について書かれた有名な論文のなかで、著者のフレデリック・J・ターナーは次のように述べている。
合衆国では、拡張の過程で到達した西部の各地域において、進化の過程の循環が見られる。このようにアメリカの発展は、単に唯一の線に沿っている前進を示すだけではなく、たえまなく前進するフロンティア線上における原始状態への復帰およびその地域における新たな発展を示すものである。98
映画『激突!』において、走り慣れた道路が突如として原始状態=ジャングル(ベトナムの戦場)と化してしまうのは、いったいなぜなのか。
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このことを考えるうえで参考になるのは、19世紀から20世紀にかけて合衆国が拡張の過程で到達した西部の各地域のひとつにして、フロンティア線上でもある「日本」でもっとも影響力のある批評家、東浩紀が2001年に出版した古典的著作『動物化するポストモダン』だ。
『動物化するポストモダン』は薄い本の割には多くの事柄が語られていますが、その中軸を成す論旨は明快です。東はここで「オタク」という独特な存在を、21世紀初頭(「ゼロ年代」初頭)の「ニッポン」の「現実=現在」を読み解くための解読格子として用いています。「オタク」の様態を「動物化」と名付けたことが、この本の「核心」です。
佐々木敦『ニッポンの思想』99
〔…〕東は現代の世の中をデータベースと、そこから読み込まれる小さな物語として捉える。かつて──近代においては、(社会全体を説明する)大きな物語の集合部分として(個人が生きる)小さな物語が存在するツリー型の世界像が人々に共有されていた。
しかし、ポストモダン状況の進行に伴って、大きな物語は解体され、世界像は秩序だったツリーから無秩序なデータベースへ移行する。そんなポストモダンの時代、人々は歴史や社会の与える大きな物語ではなく、情報の海として静的に存在するデータベースから、自分の欲望するとおりの情報を読み込んで「小さな物語」を自身で生成する。そのため、人々は意味の備給にコミュニケーションを必要としなくなる──東はこれを「動物化」と呼んだ。
宇野常寛『ゼロ年代の想像力』100
すでに多くのことが語られている本書の内容に関して、いまさら細かい注釈をつけくわえる必要はとくにない。
本稿で注目したいのは、この現代日本批評の古典的著作のなかで、著者の東浩紀が、あくまで指摘をするだけにとどまっている、ある問題だ。
〔…〕オタク系文化の「日本的」な特徴は、近代以前の日本と素朴に連続するのではなく、むしろそのような連続性を壊滅させた戦後のアメリカニズム(消費社会の論理)から誕生したと考えたほうがよい。〔…〕オタク系文化の日本への執着は、伝統のうえに成立したものではなく、むしろその伝統が消滅したあとに成立している。言い換えれば、オタク系文化の存在の背後には敗戦という心的外傷、すなわち、私たちが伝統的なアイデンティティを決定的に失ってしまったという残酷な事実が隠れている。101
ここまでの議論でも明らかなように、オタク系文化についての検討は、この国〔日本を指す──引用者注〕では決して単なるサブカルチャーの記述には止まらない。そこにはじつは、日本の戦後処理の、アメリカからの文化的侵略の、近代化とポストモダン化が与えた歪みの問題がすべて入っている。したがってそれはまた政治やイデオロギーの問題とも深く関係している。〔…〕筆者はこの問題にも強い関心を抱いており、いつか機会があれば主題的に論じてみたいと考えている。
しかしそれは本書の主題ではない。102
著者である東が、「強い関心を抱いて」いる、と(一応は)記している「日本の戦後処理」「アメリカからの文化侵略」の問題を、その後の著作のなかで主題的に論じているのかどうか、私は知らない。
ここで指摘したいのは、そもそも、『動物化するポストモダン』という著作のなかで展開されている議論の(否、ひょっとすると東浩紀という批評家の言論、著述活動の)ほとんどすべてが、この、同書の中では比較的早い段階で指摘、記述されているにもかかわらず、「しかしそれは本書の主題ではない」というかたちで、一見したところ切り捨てられてしまっているかのように見える、「敗戦という心的外傷、すなわち、私たちが伝統的なアイデンティティを決定的に失ってしまったという残酷な事実」から、著者である東自身が眼を背ける(見て見ぬふりをする)ことによって成立しているのではないか、ということだ。
言い換えれば、「それは本書の主題ではない」と書いた直後に、「本書での筆者の関心はオタク系文化のまた別の特徴にあり、そちらは今度は日本という枠組みを超え、より大きなポストモダンの流れと呼応している」と書き記すことによって本格的な議論がはじまる「本書の主題」も、ほんとうのところ、日本とアメリカというふたつの特定の国家の歴史にその根拠をもつ「ある特定の文化におけるテクノロジーへの狂信の産物であるにもかかわらず、利他的な普遍主義の装いをもって」語られているものにすぎないのではないか。
はやいはなしが、現代日本でもっとも影響力のある批評家の東浩紀という人物も、なにか隠してはいないか。
6−2−2. フロンティアは不穏である103(「彼の殺意は、杉田の言葉を乗り越えていく」104)
僕と さんは基本的に であって、 でもなければ、 でもありません。( つもりだったのですが、伝わっていなかったでしょうか) が成り立つのは、あくまでも であるという においてである、と僕は思います。 と思っていたことですが、 でしょうか。
〔中略〕
今回の を読むと、 したくなり、 をしたくなるものですが、そこは 、自分の 、 して、 によって示してもらえないでしょうか。もちろん をするな、という意味ではありません。しかし、他者を するためには、やはり他者との が必要であり、それは であるはずだ、と僕は思います。
氏より筆者宛のEメール(2022年9月24日、伏字編集者)
「カールは殻に閉じこもり、食事を摂らなくなりました。子供たちと話をせず、わたしとも口を利かないし、しゃべろうともしませんでした」
──ドロレス・ヘンズリー
ニック・タース『動くものはすべて殺せ アメリカ兵はベトナムで何をしたか』105
「 は怒り狂っていた」とニッツはハリーに言った。 は激情に駆られやすいことで知られていたが、国防次官補を前にしてのこの激高はニッツには驚きだった。 は報告書の事実を否定しようとも何一つ弁解しようともしなかった。激怒した の言うことは一つしかなかった。「文民の君が、米国海軍の船舶の運用に介入するとは、一体何をしているかわかっているのか」
ダニエル・エルズバーグ『世界滅亡マシン 核戦争計画者の告白』106
さて、その戦場では、自分たちは「『インディアン』と戦っていると感じていた将兵が多かった」107、太平洋戦争中に配属された南太平洋はソロモン諸島周辺の海域では、日本軍を怖れて無様に逃げまわることしかできず(「陰謀論者の夢──アーレイ・バーク試論(1)」、3−6. 参照)、アメリカ合衆国のフロンティアラインである朝鮮半島は38度線を北朝鮮軍が超えることで勃発した、朝鮮戦争の真っ最中におこなわれたアジア視察旅行では、原因不明の高熱に襲われ(同前、1−1. 参照)、楽しみにしていた日本(と韓国)の訪問をキャンセルして、逃げるように帰国したジョン・F・ケネディ。
かつて、アメリカ合衆国のフロンティアにおける戦場において、二度も逃げたことのある人物が、第35代アメリカ合衆国大統領として、三度(みたび)、アメリカにとっての辺境=フロンティアでの戦争に向きあった際、彼の政権が、そのベトナムの戦場を理念上の「柵」で囲まれた見世物である「闘鶏場」になぞらえたのはなぜか(「二度あることは三度ある」)。
ここで参考になるのは、2011年3月11日、東アジアにおけるアメリカ合衆国のもっとも重要な同盟国(のひとつ)で発生した原発事故の現場を、文字通り「柵」で囲って見世物にすることを提唱した、現代日本でもっとも影響力のある批評家の東浩紀だ。
2013年に東浩紀が総合プロデュースした『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』『福島第一原発観光地化計画』は、私には面白かった。素直に、凄い、と思った。1986年のウクライナ(旧ソ連)のチェルノブイリ原発事故の「その後」について学ぶことによって、東日本大震災後の福島の未来について考えようとすること。それは具体的には、Jヴィレッジの跡地に「ふくしまゲートヴィレッジ」を建設し、福島第一原発をあえて「観光地化」する、というプランとして示された。
杉田俊介「東浩紀論──強制収容所とテーマパークのあいだを倫理的に遊び戯れる」108
「東日本大震災と原発公害事故の衝撃を正面から受け止めながら、この国の新しい未来のヴィジョンを『創り出す』こと。それは一つの文化的な運動でありながら、社会運動としての磁場をも生みださんとするものだった。おそらく東は、この20年に蓄えてきた知識と人脈のすべてを惜しみなくつぎこんで──しかも自らの初期批評の問いへと遡行しながら──宗教と娯楽と経済と文化が雑ざりあっていくような未曽有のゾーンを切り拓いたのだ。私には、そう思えた」109と、批評家の杉田俊介は東の『福島第一原発観光地化計画』をいまから10年ほどまえに絶賛しているが、はたして杉田のこの評価、判断は正しかったのか。
現代日本を代表する批評家の東浩紀は、ほんとうに「東日本大震災と原発公害事故の衝撃を正面から受け止め」ていたか。
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杉田の論考のなかでは批判的に言及されている批評家の大澤信亮は、あるところで次のように述べている。
たとえば東浩紀氏は、災害を通じて〈誇り〉を取り戻そうとしている日本人に〈希望の光を見たい〉と、海外紙である「ニューヨーク・タイムズ」に、地震直後に逃亡した伊豆で書いた。逃げるのが正しいか間違っているかという議論をしたいのではない。ただ、逃げられる者と逃げられない者がいるという圧倒的な現実、それを都合よく捨象して、自分だけは相対的な安全を確保したところから〈希望〉を語るという行為が、語る者自身の言葉を裏切っていると感じるだけだ。110
もちろん、私たちも大澤とおなじように、現代日本を代表する批評家、知識人である東浩紀が、10年以上前に起こった東日本大震災(原発事故)の直後に、放射能汚染の可能性をめぐって混乱のきわみにある首都東京から「逃げるのが正しいか間違っているかという議論をしたいのではない」。
というか、幸か不幸か、そのような呑気な議論が可能な段階、「位置」にすでに私たちはいない。(第二は、光学装置そのものを見させられるような位置。②「断片が見かけのうえでだけ一つの見せ物になるということを、絶えず思い出させずにはいない」位置。現代日本を代表する批評家、知識人である東の「眼」に映っている「光景」が「ほんとうのところ(円筒の内側から見れば)、分解された断片的な多数の構成要素にすぎないということを知っている位置」。)
* * *
強制収容所内のユダヤ人を遊び半分でつぎからつぎに撃ち殺していたアーモン・ゲート所長が、「ふと鏡に映った自分の姿が目に入り、鏡の中の自分自身〔「陰謀論者の夢──アーレイ・バーク試論(1)」、2−1−1. 参照──引用者注〕に対して『お前を許す』と語りかけたとき、すべてはもう遅いことに気づく」111。
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ここで指摘したいのは、そもそも、先に引用した文中で、批評家の杉田俊介が東浩紀の『福島第一原発観光地化計画』を絶賛するなかで記している、「未来について考えようとすること」「この国の新しい未来のヴィジョンを『創り出す』こと」「未曽有のゾーンを切り拓いた」……等の言葉使い、発想自体、かつて、アメリカのフロンティアにおける戦場から二度も逃げだした過去がありながら、「自分だけは相対的な安全を確保したところから」、傲慢にも「目標を失い、何をしたらよいのか迷っていた国民に明確な方向を与える」ことができるなどと思いあがって、「ニューフロンティアということばを持ち込んだ」((土田宏『ケネディ 「神話」と実像』、中公新書、2007年、118頁、強調引用者。)) 、ひとりのアメリカ合衆国大統領の思想に由来するものではないか、ということだ。
ぼくたちは、南相馬か、もしくは、より東京に近いいわきのほうになるかもしれませんが、ひとつビジターセンターを作ることを提案したいと考えています。〔…〕この計画のモデルのひとつは、アメリカのフロリダにあるNASAのケネディ宇宙センターです。112
福島第一原発のまわりに「柵」を張りめぐらせることがその基本的な目的である「福島第一原発観光地化計画」の提唱者である批評家の東浩紀(とそれを絶賛する批評家の杉田俊介)。彼(ら)の思想は、ベトナムの戦争、戦場を観光地(闘鶏場)化することによって、言い換えれば、「『軽薄』で『無責任』な」113観光客の立場に居直りつづけることによって、みずからが、かつて、フロンティアにおける「圧倒的な現実」のなかで晒してしまった醜態を隠しつづけようとした、その果てに、1963年11月22日、テキサス州ダラスの公道でパレード中に凶弾に倒れ、公衆の面前で脳漿(のうしょう)をぶちまけるという、考えうるかぎり最悪の醜態を晒すはめになってしまった、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの思想に由来するものではないか。
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* * *
さて、ここで気になるのは、安倍晋三政権下の日本でもっとも影響力のあった(そしておそらくいまもある)、批評家の東浩紀が張りめぐらせた「柵」の向こう側に「誰か」いやしないか、ということだ。
いうまでもなく、ベトナムの戦場に理念上の「柵」を張りめぐらせたケネディにとって、「柵」の向こう側は、所詮ただの「闘鶏場」、そこにはただの動物(というか鶏)しか存在しなかったように、『動物化するポストモダン』という著書がある東浩紀にとっても、「柵」の向こう側には「動物」しかいないはずである。
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あらためて問おう。
「柵」の向こう側に「誰か」いやしないか。
(「ここも条件としては最高だ。木の柵の陰に隠れれば、道路や広場からは非常に見えにくいはずだ。そのために、ここからならたとえ狙撃したとしても、恐らく誰にも見られないだろう」114)
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(「スティーブンはいつもカメラを手にしていました」とリアはいう)
6−2−3. 陰謀論者の夢 ② 捏造された心的銃創:逆行(これで囮となる人物を選択する基本線が決まったことになる。〔…〕それで私の陰謀は完成することになる115)
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逆行弾による銃痕
銃弾は入り口だけを残して、忽然と消えていたのだ。
デヴィッド・S・リフトン『ベスト・エヴィデンス』116
入口の傷を大きくするということは、その傷が「出口」の傷のようになるということで、それによって銃弾の飛来方向を逆転してしまうことが可能になるのだ。〔…〕方向の逆転こそ銃弾摘出の副産物となり、「真の狙撃手」を隠す働きをし、同時に囮を置いておくことの意義も出てくるのである。
土田宏『秘密工作 ケネディ暗殺』117
まず、いくつかの重要な証拠が失われている。① プラスチック盤に描かれた航海図が消されていた、② 事故直前までのソナー目標の録音テープが失われた、③ 潜望鏡での掃視を録画したビデオテープが「消えた」、④ 火器管制官が入力するソナー情報の解析結果表が、事故直後にありえない数値に書き換えられていた。
ピーター・アーリンダー『えひめ丸事件──語られざる真実を追う』118
批評家の東浩紀はいったい何を隠しているのか(「やはり、彼の行動を考える上で、『逃げる』という要素は重要である」119〔「陰謀論者の夢──アーレイ・バーク試論(1)」、2−1−1. および本稿 6−2−2. 参照〕)。
この問いは、かたちを変えるならば、東自身がそれを理想とする「『軽薄』で『無責任』な」観光客の立場では決していられないような出来事、彼自身が当事者でしかありえない出来事とは、いったいなんであったか、そして、ベトナムの戦争を観光地(闘鶏場)化することで「『軽薄』で『無責任』な」観光客の立場を取りつづけた、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディにとって、彼自身が当事者でしかありえなかった出来事とは、いったいなんであったか、という問いでもある。
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先に引用した論考のなかで、批評家の杉田俊介は次のように書いている。
福島第一原発とチェルノブイリに向きあうことは、東浩紀にとって、やはり、決定的な経験だったように思える。もしかしたら、彼自身が考えている以上に。なぜなら、そもそも、ソ連の強制収容所やスターリニズムの暴力に向きあうことが、東の初期哲学のクリティカルポイントだったのだから。120
東浩紀は1990年代にある場所を訪れる。
アウシュヴィッツ(オシフィエンチム)があるポーランドを訪れたのは、1990年代の半ばです。
〔中略〕
とにかく膨大な数のひとがここで殺されています。ぼくが行ったときは、焼却炉の周囲の地面を軽く掘ると人骨が見つかりました。本当です。
〔中略〕
あの空気は言葉では表現しがたい。「死」がむき出しにごろりと転がっているというか、とにかく異様でした。ぼくはオカルトは信じませんが、地縛霊という言葉を使いたくなる。生涯忘れがたい経験になり、のちの仕事に大きな影響を与えました。121
なるほど、確かに杉田や東本人がいうように、その著述活動の初期においてソ連の作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンやユダヤ系の哲学者ジャック・デリダを研究していた批評家にとって、スターリニズムや反ユダヤ主義(ラーゲリ、アウシュヴィッツ等の強制収容所)の暴力に向きあうことは、「のちの仕事に大きな影響を与え」たそれなりに重要なテーマであったかもしれない。
しかし、どう考えても、東浩紀という批評家のクリティカルポイント、決定的な経験というほどのものではない。
そもそも、私たちが東の書いたものを読み、そのなかでソ連の強制収容所やアウシュヴィッツが主題、問題となっていることが、読者である私たちに伝わっている以上、批評家の東浩紀にとって、スターリニズムや反ユダヤ主義の暴力に向きあうことは「あまりに深刻で複雑であるがゆえに、単純に記録に残したり物語にしたりするのでは本質が伝えられないような出来事」122では、断じてない(あたりまえのはなしだが)。
というか、ごく素朴に考えて、ソ連の強制収容所にもアウシュヴィッツにも収容された経験のない東にとって、スターリニズム、反ユダヤ主義の暴力などは、はっきりいってどうでもいい他人事(ひとごと)、まさに「『軽薄』で『無責任』な」立場しかありえないのは当然であるし、それ自体はとくに非難されるようなことでもない。
では、現代日本でもっとも影響力のある批評家の東浩紀にとって、「あまりに深刻で複雑であるがゆえに、単純に記録に残したり物語にしたりするのでは本質が伝えられないような出来事」とは、いったいなにか。そこにおいて、決してみずからは「『軽薄』で『無責任』な」観光客の立場ではいられないような出来事とは、いったいなにか。
批評家東浩紀にとって、ほんとうのクリティカルポイント、東浩紀という「主体にとっては一つの重大な転機(クリーゼ)であり、存続の危機(クリーゼ)」123でもあるような出来事とは、いったいなにか。
言い換えれば、一見したところ真摯にスターリニズムや反ユダヤ主義の暴力と向きあっているかのように見える東が、実は、「それ」から眼を背けている、否、より厳密にいえば、「それ」から眼を背けるということそれ自体が、スターリニズムや反ユダヤ主義の暴力に向きあうことを可能にしている「それ」とは、いったい、なにか。
東浩紀がそこから逃げだしてきた「フロンティアの圧倒的な現実」とは、いったい、なにか。
(「強大な新兵器をふりかざしてスターリンと交渉していたとき、ナイフ、銃、カウボーイ、インディアン、西部征服といった言葉が政府高官の議論でさかんに使われ、政府高官の考え方に浸透していた」124「トラウマとはあまりにも衝撃的な出来事を経験したときに生じる精神的外傷のことを指す。命を落とすかもしれないような出来事を生きのびた経験であり、言葉にすることは困難を極める。心の傷を引き起こした出来事の記憶は潜伏して、その人に影響を及ぼしつづける」125)
* * *
問われるべき問いはこうである。
その活動の初期において、ソ連の強制収容所やアウシュヴィッツの「暴力」に真面目に向きあっていた、とされている批評家の東浩紀。
では、現代日本を代表する批評家の東浩紀にとって、彼が正面から向き合っているスターリニズムや反ユダヤ主義の「暴力」から「逃げた」人々、言い換えれば、ラーゲリやアウシュヴィッツの「暴力」の恐ろしさを身をもって知っている人々が、それでもなお、逃げのびた先の地で行使せざるをえなかった「暴力」とは、いったい、なにを意味していたか。(銃弾の飛来方向を逆転してしまうこと〔…〕方向の逆転こそ〔…〕「真の狙撃手」を隠す)
6−3. 〈陰謀〉の祭りのなか(イントラ・フェストゥム126)へ [ピノキオの絶叫/「斧の一撃」127](「そもそも世界の危機を招いてきたのが大人の論理だとするなら、子供のうちに救いの手掛かりはないのか(Barros-Grela and Pérez)」128)
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重巡洋艦マヤ
©Ark Performance/少年画報社・アルペジオパートナーズ
絶対的な自信と確信のもとで引き金が引かれて、はじめてその他の計画が意味を持つようになるわけだが、それでも「あってないような計画」になるのだ。
土田宏『秘密工作 ケネディ暗殺』129
海上保安庁によると、10日午前8時47分、同庁がオアフ島南から遭難信号を受信。識別番号からえひめ丸と判明した。えひめ丸船長は、潜水艦がいきなり浮上してきたと、警備隊に話しているという。沈没地点の水深は550メートル。
「米原潜と衝突、日本船沈没」、朝日新聞、2001年2月10日
いまいちど、この批評家の書いたもののなかでも、おそらく、もっとも広く読まれている一冊であろう古典的著作、『動物化するポストモダン』に立ち戻ってみよう。
著者の東自身は、本書の内容について、つぎのように述べている。
〔『動物化するポストモダン』の──引用者注〕内容面にも触れますと、とにかく、僕の考えは、1970年代あたりを境に、私たちが触れる記号的世界の巨大な変容が始まったということです。たとえばカント的な理性、もしくはフロイト゠ラカンが言うところの超自我ですが、それを象徴的な疑似人格=父として捉える必要はない。ラカンは象徴界をコンピュータに喩(たと)えたことがあります。それがいったん動き出したら、イヤでも従わなければならない。カントの道徳法則はもともとそういうものです。リゴリスティックに勝手に動く自分より上位の存在というのは、単純に機械だと考えてもいい。
〔中略〕
だとすれば、ポストモダンになって社会の統合が象徴的媒介から工学的媒介によって担われるようになった、すなわち、超自我のイメージが「神」や「父」から自動機械的なネットワークに変わっていったというのも、それほど奇抜な主張ではないと思うのです。僕が「動物」とか「データベース」とかいってるのは、そういう文脈でのことなんです。130
ここで東が言及している精神分析家のフロイトは『トーテムとタブー』のなかで、「自分がそれまで扱ってきた臨床例から、子どもに見られる動物への恐怖に注目する。フロイトが考えるには、それは子どもの父親への恐怖が動物に転移したものであり、そこにはエディプス・コンプレックスが作用しているというのである」131。
つまり、いい年こいて「軽薄さと自由さ、無責任と責任の間の曲がりくねった裏路地を、遊びながら縫っていく子ども」132のような存在である東浩紀という批評家の「動物」や「機械」への関心は、「父」への関心が転移したものである。
* * *
では、いったい、東にとって、この「父」への関心はいかなるかたちであらわれるのか。
ここで注目したいのは、同時代の文化現象、作品が多く言及される『動物化するポストモダン』のなかで、著者が最後に取りあげる『YU-NO』というゲーム作品だ。
「この〔ポルノゲーム──引用者注〕作品では主人公の目的は、単にそれぞれの女性を攻略するだけでなく、各分岐にまたがってばらまかれたアイテムを集め、失踪した父親を探し出すことだとされている」。東が特に注目するのは、ゲームのなかでは「並列世界を移動するごとに主人公の記憶が部分的に失われる、という奇妙な設定の存在である」133。
この設定は作品のなかでは必然性が低く、むしろほかの設定と齟齬を起こしている。〔…〕しかしここで重要なのは、その状態が、たんなる制作上の失敗によるものではなく、むしろポストモダンの特徴をあまりにきれいに反映した結果として生まれているということである。〔…〕たとえばこの作品では、前述のように、主人公の目的は失われた父の捜索として設定されている。言い換えれば、主人公が並列世界のあいだを移動し、人格の分裂に曝される〔「記憶が部分的に失われること」を指す──引用者注〕のは、父が失われたことが原因なわけである。この設定はあたかも、大きな物語(父)が失われ、小さな物語が林立するポストモダンの特徴をそのまま寓話化したかのようだ。134
東が、「日本という枠組みを超え、より大きなポストモダンの流れと呼応している」とみなす、『YU-NO』というゲームの、この設定。
東が、ポストモダンの普遍的条件、特徴として挙げる、「父が失われたこと」と「記憶が部分的に失われること」。
東のなかで分かち難く結びついている、このふたつの経験。
問われるべき問いはこうである。
批評家の東浩紀は、「父=記憶」の喪失を、いったい、いつ、どこで、経験したのか。
東 すこし話が変わりますけど、僕はむかし、『ファイナルファンタジー』のⅥ〔1994年発売──引用者注〕だったかⅦ〔1997年発売──引用者注〕だったか、5、60時間ぶっ続けでプレイしたことがあるんです。でもそれは物語に惹かれていたわけじゃないと思うんですね。そういう種類のプレイをしたことがあれば誰でも感じるだろうけれど、ゲームのドラッグ性は物語の豊かさとかキャラクターの作り込みなんかとは関係ない。むしろ、チープな音楽やドット絵の点滅が麻酔効果を及ぼして、ふっと気がつくと5時間経っている、それが10回続いて50時間になっちゃいました、という感じなんです。135
1997年12月16日午後7時前、日本全国各地で、突然子どもたちがテレビの前でバタバタと倒れた。テレビ東京系で人気のアニメ番組「ポケット・モンスター」略して “ポケモン” 放映中、700人以上の子どもたちが、痙攣を起こしたり呼吸困難に陥ったり、あるいは意識を失って病院に担ぎ込まれ、入院にいたらずとも何らかの被害を被った人数は一万人を超えるという前代未聞のこの事件は、“ポケモン・パニック” として世界中で報道されることになった。
病院で手当てに当たった医師や精神科医の調査によって、原因は “光過敏性てんかん” と呼ばれる症状で、すべての子どもが番組の後半、派手な光の点滅を見ていて意識を失ったり気分が悪くなっていたことが判明した。〔…〕またこの事件では、子どもだけではなく若い女性がヒステリー性の症状を起こしていたことにも注目する必要がある。
港千尋『映像論』136
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現代日本を代表する批評家の東浩紀は、1990年代当時、すでに「成人」していた「男性」であるにもかかわらず、自国の子どもや若い女性たちとともに、“光過敏性てんかん” の発作を起こしていたのではないか(「癲癇(てんかん)の発作においては、環界との相即関係を保証している時間の連続性が唐突に中断され、短時間ののちに再び回復される」137)。
* * *
ところで、さきに写真家の港千尋の著作から一部引用したが、そのなかで著者は「“ポケモンパニック” は後述するように、世紀末日本に特有の文化現象が引き起こした事件ではない」138と述べ、日本以外の映像、視覚文化の歴史のなかから、類似した現象を、なぜか必死に探し出そうとしているが、いったい、なんのために、そのようなことをしているのか。
写真家の港千尋も、なにか隠してはいないか。
『バベル』(Babel)は、2006年のアメリカ映画。監督は、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ。
〔中略〕
同映画を上映していた愛知県名古屋市や三重県四日市市、ならびに都内の映画館で、「東京」でのストーリーの中でチエコがクラブで踊る場面で、クラブの照明が1分程度早い点滅を繰り返すシーンがあり、それを見た観客計9人が光過敏性発作(詳しい症例などはポケモンショックを参照)により吐き気などの体調不良を訴えていたことが明らかとなった。
配給元のギャガ・コミュニケーションズでは、日本に先行して公開された外国〔…〕でこのような問題がなかったことから、様子を見守るとしているが、体調を悪くした観客の出た東宝の映画館チェーンを中心に、点滅を繰り返すシーンで注意するよう呼び掛ける文書の配布や、館内に張り紙をして注意を呼びかけていた。
ここにおいて、私たちは、批評家東浩紀のクリティカルポイントを目撃(shoot)する。
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現代日本でもっとも影響力のある批評家、知識人である東浩紀は、世紀転換期に、「日本の子どもたち」をその攻撃目標として遂行された「ハイテク・ホロコースト」140、通称 “ポケモンショック” に、当時すでに成人していた男性であるにもかかわらず巻きこまれてしまった、数すくない「当事者(被害者)」の一人ではないか。
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父性的、男性的国家としてのアメリカ合衆国による日本への原爆投下の記憶。
その「暴力」を行使した、父性的、男性的主体が、決して「眼に見える存在ではなかった」暴力の記憶。
不可視の「父」によって行使される(父が「喪失」することによって到来した)「絶対的な暴力」の記憶=心的外傷。
いかなる理由でか実現してしまった、数十年間、日本人の国民的記憶の奥深くに秘匿されていた心的外傷の、それだけは決して起こってはならない集団的な「想起」。
白日のもとに曝されてしまった、国民的規模での心的外傷後ストレス障害(Posttraumatic Stress Disorder)の実在(リアリティ)。
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アメリカ合衆国による日本への原爆投下の国民的規模でのPTSDの発症として現実化してしまった、“光過敏性てんかん” の集団的発作である “ポケモンショック”(「破滅的な光(catastrophic light)」141)の渦中に批評家の東浩紀は「いた」のではないか。
『
』
(安倍晋三銃撃事件直後に登壇した選挙特番で、 、
東浩紀、伏字編集者)
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動物(ロバ)化する子どもの影
原爆炸裂の瞬間、閃光が放射状に広島中を走り抜け、そこら中で人間や橋の欄干やヤツデの葉などの「影」が背後の事物に写真として焼き付けられた。〔…〕とすれば、原爆自体が一種の写真撮影だったということになりはしないか。
長谷正人『映像という神秘と快楽』142
* * *
ここまでの議論をまとめておこう。
その論旨、主張は、あくまで日本とアメリカという特定のふたつの国家の歴史にその思想的な根拠をもつ「ある特定の文化におけるテクノロジーへの狂信の産物であるにもかかわらず」、その議論は「日本という枠組みを超え、より大きなポストモダンの流れと呼応している」などと、卑劣にも「利他的な普遍主義の装いをもって語られる」現代日本批評の古典『動物化するポストモダン』の著者は、隠しごとをしていた。
同書を主著のひとつとする、現代日本でもっとも影響力のある批評家、知識人である東浩紀の四半世紀に渡る言論活動、著述活動のすべては(否、東浩紀という批評家を輩出した第二次世界大戦以後の日本の批評史、思想史、歴史のすべては)、1945年8月6日の広島(と8月9日の長崎)を標的として遂行されたアメリカ合衆国による日本への原子爆弾の投下はもちろん、それから80年ちかい時を経たいまなお、自国の子どもたちを標的として行使されつづけている「神的暴力」143(ハイテク・ホロコースト)から、眼を背けつづけることしかできない「弱い父」の愚痴(ぐち)にすぎなかったのである。
たちが悪いのは、彼(ら)がそのことになんら倫理的な負い目を感じているようには見えないことだ。「実際、〔癲癇の──引用者注〕患者の中には自分で発見した確実な発作誘発法を用いて、ひそかに発作を楽しんでいるような人もいて、性的自慰行為との類似が問題にされることもある」144以上、おもにポルノゲームを取りあげた現代日本批評の古典『動物化するポストモダン』の著者が、「戦後日本」の歴史においては、第三次ベビーブームの到来を「拒否」することによって「未来」を全面的に否定した「世代」の人間である事実は見過ごすわけにはいかない(はっきりいって、批評家東浩紀の仕事が「この国の新しい未来のヴィジョンを『創り出す』こと」であるなどと評価されている現状は喜劇(comedy)以外のなにものでもない)。
現代日本でもっとも影響力のある批評家、東浩紀の仕事は、あくまで「それ」を「自然災害のように捉える」ことしかできない、言い換えれば、「主体の成熟=社会的領域への参入(「大人になること」)のために乗り越えられるべきはずの「父」との対決を回避し」、卑劣にも、「世界や社会の命運など、所詮は『天気』=自然のように人間の主体的な意志ではどうにもできない法則で確率的に決定されてしまうだけだ、わたしたちはその行く末にまさに日和見的(!)にうまく迎合していくしかなす術はない」145などと、くそしょうもない妄言(「つじつまのあわぬことをおこなったりしゃべったりして、あとからそれを想起できない」146)、まさにたわ言を「自分だけは相対的な安全を確保したところから」延々と垂れ流しつづけることしかできない、文字通り、愚鈍で白痴な「動物(ロバ)」の嘶き(いななき)にすぎなかったのである。
すくなくとも、現代日本批評の古典『動物化するポストモダン』の内実は、『動物化する「戦後日本」のポストモダン』にすぎなかったのである。
* * *
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カナダ軍は、「ポケモンGO」が爆発的な人気となった2016年当時、ポケモン目当てに基地の敷地内に侵入するプレイヤーに手を焼いていた。
〔中略〕トロントから北350キロにある空軍基地では、車に乗った2人組の男性が真夜中ごろに敷地内に侵入。職員が確認したところ、2人はピカチュウを求めてポケモンGOをしている最中だったという。
別の基地でも、ポケモンGOに夢中になっていた女性の3人の子供が戦車によじ登っていたほか、夫とみられる別の男性は、職員に呼び止められると「子供たちをゲームで打ち負かさないと」と言い放ったという。
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![](https://worldend-critic.com/wp-content/uploads/2023/06/image24-2.png)
![](https://worldend-critic.com/wp-content/uploads/2023/06/image33-1.png)
1月31日付の新聞では、「米スミソニアン博物館被爆資料展示せず」という記事が掲載された。日本の原爆に関する資料が、退役軍人の会などの圧力によって、展示されないことが決まったのだ。
速水健朗『1995年』149
今回の原稿は『 』という のものなので、当然、他の も壱村さんの原稿を読んで、 しなければなりません。 では何も決められません。
雑誌『 』編集委員 氏より筆者宛のEメール
(2022年9月24日、強調引用者、伏字編集者)
結論としては、「掲載不可」になります。〔…〕 の段階でもう少し ができていたら、とも思いますが、申し訳ありません。
同上(2022年10月13日、強調引用者、伏字編集者)
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だんだん目が見えなくなってきた。もうすぐ死ぬんだなと感じながらも、まだ、だれか情けぶかい人が通りかかって、助けてくれるかもしれない、というかすかな望みを、人形は抱いていた。しかし、待っても待っても、だれひとりあらわれない。ただのひとりも。その時、ピノッキオの脳裏に浮かんだのは、かわいそうな父の姿だった。……息もたえだえに、呟く。
「ああ、おとうさん!おとうさんが、ここにいてくれたら……」
息が詰まり、それ以上は何も言えなかった。目を閉じ、口を開け、両足をだらんと伸ばした。それから、大きく身ぶるいをしたかと思うと、凍ったように動かなくなった。
カルロ・コッローディ『ピノッキオの冒険』150
オズワルドは、逮捕直後から記者団の前で「過去の亡命につけこまれた」「自分は嵌められた」「身代わり(patsy)」と主張し、また弁護士不在についても異議を唱えている。
〔中略〕
逮捕から2日後の11月24日午前11時21分、ダラス警察の地下駐車場で、郡刑務所へ移送される車に乗る直前にジャック・ルビーによって銃撃された。すぐに救急車でパークランド記念病院へ搬送されたが救命できず、警察は同日午後1時7分に死亡したと発表した。
日本語版Wikipedia「リー・ハーヴェイ・オズワルド」の項目より151
![](https://worldend-critic.com/wp-content/uploads/2023/07/image11-2.png)
* * *
「すなわち犠牲となる動物〔奈良のバンビ⇔多摩川のピノッキオ(事物(もの))──引用者〕が破壊され、死んでゆくとき、それに立ち会う人間たちはその死をあたかも自分の死のように受け止め、『死にゆく動物と同一化しつつ、いわば自ら死ぬのを視つめながら死ぬ』経験をする。そういう瞬間には、人間たちは不安に戦慄しながら、もう日常的に労働したり、操作したりしている際の『人間』、〈俗なる〉生活を営んでいるときの『人間』のままではない。〔…〕もう〈私〉が意志するのでもなく統括するのでもない、いわば私-の-外であるようなパッションの動きに貫かれる。そういうパッションは〈内奥的な生の動き〉の最も強烈な露出の一つ〔「ちんこ、出しちゃお」152──引用者注〕だ。それは〈聖なる〉パッション〔受難──引用者注〕である。なぜなら『非連続な』個人の枠組が破られて、深い連続性の感情に浸されるから」153。
「死者の苦難を前に戦慄を覚えながらその出来事を想起する者は、根底から震撼させられながら一つの布置〔コンスタレーション──引用者注〕において死者と連帯するのである」154。
![](https://worldend-critic.com/wp-content/uploads/2023/07/image3.png)
「そんなわけの分からないことが起こるわけがない。だがスピルバーグの映画ではしばしばこうした不条理が発生する。宇宙船の閃光によって奇妙な形状の山のイメージに取り憑かれてしまうドレイファス〔『未知との遭遇』(1977)──引用者注〕がそうであるように、誰もが自分のものではなかった記憶やイメージに導かれていく。いくつかのキーワードによって、自分の母の記憶を植えつけられる『A.I. 』のオスメント」、「『プライベート・ライアン』(1998)において、老境に達した現在のライアンが第二次大戦で自分の救出作戦を指揮したトム・ハンクスの記憶をよみがえらせているかのように見えることもまた、自分のものではない記憶の想起といえるのではないか」156。そして「『暴力』を描かせたらペキンパーもイーストウッドも、スピルバーグの足許にも及ばない。なぜなら、スピルバーグは子供のような無邪気さで暴力を描く」157、その「歴史の再現の残虐性は、客観性よりも、むしろ自分のものではなかった『歴史』を背負いこんだひとりの男の不条理性に力点を置いている」158のだから……
* * *
さて、こちらの顔色を気にすることもなく、その主張のほとんどは意味不明、支離滅裂、はっきりいって「この著者は一体何が言いたいのか?」159といわざるをえない文章を私たちに容赦なく叩きつけてきた、もはや正気を失っているとしかいいようがない「私」のなかの「陰謀論者」の筆が(なぜか)停止したところで、ようやく「私」のなかの「批評家」による反撃がはじまる。
「批評家」として私は断言しよう。
ケネディ暗殺事件の背後に〈陰謀〉は存在しない。
すくなくとも、「私」のなかの「陰謀論者」がそう主張するように、1963年11月22日テキサス州ダラスで発生した、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ暗殺事件の首謀者は、アメリカ海軍の軍人アーレイ・バーク提督ではない。
?
えーと……だから……1963年11月22日テキサス州ダラスで発生した、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ暗殺事件の首謀者は、アメリカ海軍の軍人アーレイ・バーク提督ではない。
???
いや、だから、1963年11月22日テキサス州ダラスで発生した、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ暗殺事件の首謀者は、アメリカ海軍の軍人アーレイ・バーク提督ではない!!
?????
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何かがおかしい。
なぜ、「名前」が伏字にならないのだ……
アーレイ・バーク、アーレイバーク、アーレイ・バーク……
?
あーれい・ばーく、あーれい・ばーく、あーれい・ばーく……
???
Arleigh Burke、Arleigh Burke、Arleigh Burke……
?????
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まあ……いいか。
さて、くどいようだが繰りかえそう。
はっきりいって意味不明、支離滅裂、説得力ゼロ。たぶん、いままでの人生でまともに一冊の本さえ読んだこともなければ、文章を書く訓練をろくに受けたこともない、クッソキモイ低学歴の貧乏人、頭のおかしい野蛮な「陰謀論者」の主張に私たちが耳を傾ける必要は一切ない。
なぜなら「野蛮を克服する文明の勝利こそ、アメリカの真の天命(マニフェスト・デスティニー)である」160のだから。
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(Qアノン・シャーマンことジェイク・アンジェリ)161
壱村さん〔…〕には知性と暴力によってこの世界全体に反撃するような野蛮さがあったと思います。
杉田俊介162
私は「批評家」として、いまいちど断言しよう。
1963年11月22日テキサス州ダラスで発生した、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ暗殺事件の首謀者は、アメリカ海軍の軍人アーレイ・バーク提督ではない。
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名前は人間に強制的な想起の言葉と解放的な希望の言葉をともにもたせてやることによって、それ自身すでに人間におのれ自身を超えるよう指示するのである。
フランツ・ローゼンツヴァイク『健康な悟性と病的な悟性』163
バークが初めて日本にやってきたのは、朝鮮戦争勃発後の1950年9月である。当時の海軍作戦部長フォレスト・シャーマン大将じきじきの要請で、ターナー・ジョイ極東米海軍司令官の参謀副長として助言を与え、朝鮮半島の戦況をワシントンへ直接報告するのがその任務である。164
「『柵』〔国境線──引用者注〕を乗り越えることで、殺戮が始まる」
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第2ラウンド 批評家〇 陰謀論者✕
1963年11月22日テキサス州ダラスで発生した、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ暗殺事件の首謀者は、アメリカ海軍の軍人アーレイ・バー 提督である。
「実に優れた計画である」
アーレイ・バー 167
昨日のエンキリディオンていう批評文が未だに喉の奥に刺さってる。陰謀論的想像力を目的では無く手段として扱っている際どさ、「クズの俺たち」という排除された存在と、ついに同じ目線に降りたテクスト。
secilb168
……したがって彼(キリスト)は受難もしなかった。そうではなく、キュレネ人のシモンという者が徴用されて彼の代わりに十字架を背負ったのであり、この男が(人々の)無知と迷いのゆえに十字架に付けられたのである。彼(シモン)がイエスであるかのように見えるように、彼(イエス)によって姿を変えられた後で。他方、イエス自身の方はシモンの姿になり、立って彼らを笑っていた。
エイレナイオス『異端反駁』1. 24. 4169
著者
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壱村健太 Kenta Ichimura
批評家。
1989年神奈川県生まれ。
Twitter:@murumulu
E-mail:kenta.ichimura0926▲gmail.com
トップ画像制作=:mosawa:toton;(@tobutosho)
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脚註
- ルソー(小西嘉幸訳)『ルソー、ジャン゠ジャックを裁く──対話』『ルソー全集 第3巻』、白水社、1979年、60頁。 ↩︎
- 土田宏『秘密工作 ケネディ暗殺──天国からのメッセージ』、彩流社、2003年、39頁。 ↩︎
- 藤淳「ピストルと情報公開──検閲研究こぼれ話」、平山周吉『江藤淳は甦る』、新潮社、2019年、671頁より。 ↩︎
- ロバート・S・ノリスほか「核兵器はどこにあったのか 『日本はどこまで知っていたか』」、日本原水協ウェブサイトより、伏字引用者。 ↩︎
- リピット水田堯(門林岳史ほか訳)『原子の光(影の光学)』、月曜社、2013年、87–88頁、強調引用者。 ↩︎
- 新原昭治『密約の戦後史』、創元社、2021年、262頁、強調引用者。 ↩︎
- アラン・R・ミレット、ピーター・マスロウスキー(防衛大学校戦争史研究会訳)『アメリカ社会と戦争の歴史』、彩流社、2011年、688頁、強調・伏字引用者。 ↩︎
- リピット水田、前掲書、89頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- フロイト(新宮一成訳)『夢解釈』『フロイト全集4』、岩波書店、2007年、319頁。 ↩︎
- ダニエル・エルズバーグ(宮前ゆかりほか訳)『世界滅亡マシン 核戦争計画者の告白』、岩波書店、2020年、128頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- 仲正昌樹『現代ドイツ思想講義』、作品社、2012年、58頁。 ↩︎
- 黒沢清、青山真治ほか(稲川方人+樋口泰人編)『ロスト・イン・アメリカ』、デジタルハリウッド出版局、2000年、98–99頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- 巽孝之『リンカーンの世紀 増補新版』、青土社、2013年、165頁。 ↩︎
- 佐々木俊尚 ✕ 吉川ばんび「「キモくて金のないおっさん」と「見えない弱者」の話をしよう」、文春オンライン、2019年3月18日、強調、下線引用者。 ↩︎
- ジョージ・スタイナー(生松敬三訳)『ハイデガー』、岩波書店、1980年、96頁、強調引用者。 ↩︎
- 東浩紀『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』、講談社、2007年、21頁。 ↩︎
- ジョン・バクスター(野中邦子訳)『地球に落ちてきた男』、角川書店、1998年、47頁。 ↩︎
- 土田、前掲書、358頁。 ↩︎
- 木村敏『自己・あいだ・時間』、ちくま学芸文庫、2006年、178頁。 ↩︎
- 吉見俊哉『空爆論』、岩波書店、2022年、17頁より。 ↩︎
- かのよしのり『狙撃の科学』、SBクリエイティヴ、2013年、6–7頁より。 ↩︎
- 前掲『ロスト・イン・アメリカ』より、青山真治の発言、259頁。 ↩︎
- 同前、201頁、安井豊の発言より。 ↩︎
- 竹書房編集部「対談 中原昌也×柳下殻一郎[スピルバーグとは何者なのか]」『クリエイターズファイル:スピルバーグ 宇宙と戦争の間』、竹書房、2005年、19頁。 ↩︎
- 日本語版Wikipedia「2017年ラスベガス・ストリップ銃乱射事件」の項目より、2023年5月30日最終閲覧、強調引用者。 ↩︎
- 同前「スティーブン・パドック」の項目より、2023年5月30日最終閲覧、強調引用者。 ↩︎
- 宮本ゆき『なぜ原爆が悪ではないのか アメリカの核意識』、岩波書店、2020年、87頁。 ↩︎
- 同前、88頁。 ↩︎
- 金志映『日本文学の〈戦後〉と変奏される〈アメリカ〉』、ミネルヴァ書房、2019年、370頁、強調引用者。 ↩︎
- 同前、78、81頁、強調引用者。 ↩︎
- 同前、77頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- ルネ・ジラール(古田幸男訳)『暴力と聖なるもの』、法政大学出版局、1982年、10頁。 ↩︎
- 2023年6月11日最終閲覧。 ↩︎
- 東、前掲書、11頁。 ↩︎
- バクスター、前掲書、99頁、強調引用者。 ↩︎
- 清水知子『ディズニーと動物』、筑摩書房、2021年、120頁、強調引用者。 ↩︎
- 同前、強調・下線引用者。 ↩︎
- 筈見有弘『スピルバーグ』、講談社現代新書、1987年、104頁。 ↩︎
- 清水、前掲書、118−119頁、強調引用者。 ↩︎
- 壱村健太「《エンキリディオン Enchiridion》──山上徹也容疑者の未発表論文「哄笑」を読む」、週末批評、2022年12月3日。 ↩︎
- 河野真太郎「新自由主義、宗教右派、ロスジェネ──何が銃撃事件容疑者を生んだのか」『現代思想 2022年12月号』、青土社、137頁、強調引用者。 ↩︎
- 西田博至「スピルバーグの戦争と肯定の炎」、南波克行編、前掲書、148頁、強調引用者。 ↩︎
- 土田、前掲書、38頁、強調引用者。 ↩︎
- 西田、前掲論考、147、151–152頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- ロザリンド・クラウス「見る衝動(インパルス)/見させるパルス」 、ハル・フォスター編(榑沼範久訳)『視覚論』、平凡社ライブラリー、2007年、87頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- 同前、強調・下線引用者。 ↩︎
- 同前、90頁、強調引用者。 ↩︎
- 青山ほか著、稲川・樋口編、前掲書、166–167頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- 「【対談#2】藤田直哉×杉田俊介 2022年は、弱者男性やインセルの年だった?──『エヴ・エヴ』『別れる決心』ディズニー作品から考える「新しい男らしさ」」(作品社、note、2023年5月25日)より杉田俊介の発言、強調引用者。 ↩︎
- 西田、前掲論考、154頁。 ↩︎
- 同前、153頁。 ↩︎
- 東浩紀「ソルジェニーツィン試論」『郵便的不安たち』、朝日新聞社、1999年、81頁。 ↩︎
- 東、『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』、21頁。 ↩︎
- 木村敏『時間と自己』(中公新書、1982年、27頁)より、ある離人症患者の言葉。 ↩︎
- 日本語版Wikipedia「回転のぞき絵」の項目より、2023年6月16日最終閲覧、強調引用者。 ↩︎
- 杉田敦『境界線の政治学 増補版』、岩波現代文庫、2015年、「はじめに」より、強調・下線引用者。 ↩︎
- 巽孝之『パラノイドの帝国』、大修館書店、2018年、17頁、強調引用者。 ↩︎
- 杉田、前掲書、15頁。 ↩︎
- 今泉文子『鏡の中のロマン主義』、勁草書房、1989年、「序にかえて」より、強調・下線引用者。 ↩︎
- レイ・チョウ(本橋哲也訳)『標的とされた世界』、法政大学出版局、2014年、49頁、強調引用者。 ↩︎
- 荒谷大輔『ラカンの哲学』、講談社選書メチェ、2018年、52頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- 「中国で“山上容疑者フィギュア”販売 コスプレやイラストで“英雄視”も…反日だけじゃない背景とは」、FNNプライムオンライン、2022年7月19日より。 ↩︎
- 磯部涼『ルポ川崎』、新潮文庫、2021年、30–32頁、強調引用者。 ↩︎
- 島田裕巳『父殺しの精神史』、法蔵館、1993年、89頁。 ↩︎
- 吉見、前掲書、13頁、強調引用者。 ↩︎
- チョウ、前掲書、61–62頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- NHK報道局「自衛隊」取材班『海上自衛隊はこうして生まれた』、日本放送出版協会、2003年、21頁。 ↩︎
- ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ(財津理訳)『哲学とは何か』、河出文庫、2012年、132頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- 木村幹『韓国現代史』、中公新書、2008年、66頁より、強調引用者。 ↩︎
- 2023年5月23日最終閲覧、強調引用者。 ↩︎
- 山本與志隆「訳者解題」より、マルティン・ハイデガー「エルンスト・ユンガーへ」『現代思想 2018年2月号臨時増刊号』、青土社、16頁。 ↩︎
- 土田、前掲書、322頁。 ↩︎
- デイヴィッド・ヒューズ(内山一樹ほか訳)『キューブリック全書』、フィルムアート社、2001年、181頁。 ↩︎
- バクスター、前掲書、60頁、強調引用者。 ↩︎
- 松岡完『ベトナム戦争』、中公新書、2001年、37頁、強調引用者。 ↩︎
- 開高健『ベトナム戦記』、朝日文庫、1990年、252頁。 ↩︎
- マックス・A・コリンズ(伏見威蕃訳)『プライベート・ライアン』、新潮文庫、1998年、152、155頁。 ↩︎
- 西田、前掲論考、150頁、強調引用者。 ↩︎
- 土田、前掲書、84頁、強調引用者。 ↩︎
- 松岡、前掲書、18頁、強調引用者。 ↩︎
- lovelovedog「『処女作にはその作家のすべてがあると言われているが』って、いつ誰がどこで何時何分何秒に言った!」、はてなブログ、2006年8月27日。 ↩︎
- 吉見俊哉『博覧会の政治学』、中公新書、1992年、185頁、強調引用者。 ↩︎
- 同前、184頁、強調引用者。 ↩︎
- 松岡、前掲書、7頁、強調引用者。 ↩︎
- 同前、16頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- 同前、19頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- チョウ、前掲書、26頁、傍点原文。 ↩︎
- 巽孝之『『2001年宇宙の旅』講義』、平凡社新書、2001年、74頁。 ↩︎
- 「スティーブ・バノンの発言は終末論で塗り固められている 『黙示録は迫ってきている、戦争は避けられない』」、ハフィントンポスト日本版、2017年02月23日。 ↩︎
- 「『米議会襲撃から1年 暴徒は「アメリカの喉元に短剣を突きつけた』とバイデン氏」、BBCニュースJAPAN、2022年1月7日。 ↩︎
- 前掲「【対談#2】藤田直哉×杉田俊介 2022年は、弱者男性やインセルの年だった?」より、杉田俊介の発言。 ↩︎
- 山上徹也のものと思われるツイッターアカウントによる投稿、2021年4月28日、壱村、前掲論考より。 ↩︎
- C・G・ユング(野田倬訳)『ユング・コレクション4 アイオーン』、人文書院、1990年、63頁。 ↩︎
- 松田朱夏(吾峠呼世晴原作)『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編 ノベライズ みらい文庫版』、集英社みらい文庫、2020年、83頁、強調原文。 ↩︎
- 「『E.T. 』直後のインタビュー(インタビュアー:マイケル・スラゴウ)」、南波克行編、前掲書、67頁。 ↩︎
- 阿川尚之『海の友情』、中公新書、2001年、95頁、強調、下線・強調・伏字引用者。 ↩︎
- ジョン・W・ホール(尾鍋輝彦訳)『日本の歴史(下)』、講談社現代新書、1970年、22頁。 ↩︎
- 渡辺真治、西崎京子訳『アメリカ古典文庫9 フレデリック・J・ターナー』、研究社、1975年、64頁、強調引用者。 ↩︎
- 佐々木敦『ニッポンの思想』、講談社現代新書、2009年、304頁、強調引用者。 ↩︎
- 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』、早川書房、2008年、36頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- 東浩紀『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、2001年、23−25頁、下線・強調引用者。 ↩︎
- 同前、37−38頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- ヤクブ・グリギエル、A・ウェス・ミッチェル(奥山真司監訳、川村幸城訳)『不穏なフロンティアの大戦略』、中央公論新社、2019年、3頁。「日本語版まえがき」より。 ↩︎
- 「〈論壇時評〉安倍元首相銃撃事件 山上徹也容疑者の生きづらさ 中島岳志」、東京新聞 TOKYO Web、2022年8月1日、強調引用者、引用は壱村、前掲論考より。 ↩︎
- ニック・タース(布施由紀子訳)『動くものはすべて殺せ アメリカ兵はベトナムで何をしたか』、みすず書房、2015年、292頁。 ↩︎
- エルズバーグ、前掲書、130頁、強調、強調・下線・伏字引用者。 ↩︎
- ロナルド・タカキ(山岡洋一訳)『アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか』、草思社、1995年、160頁。 ↩︎
- 杉田俊介『戦争と虚構』、作品社、2017年、310–311頁、強調引用者。 ↩︎
- 同前。 ↩︎
- 大澤信亮「出日本記」『新世紀神曲』、新潮社、2013年、66頁、強調、下線引用者。 ↩︎
- 南波克行「スピルバーグとコミュニケーション」、南波編、前掲書、195頁、強調引用者。 ↩︎
- 東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』、幻冬舎文庫、2016年、39–40頁、強調引用者。 ↩︎
- 杉田俊介「解説──観光者にとって倫理とは何か」、東、前掲書収録、171頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- 土田、前掲書、41頁、強調、下線引用者。 ↩︎
- 土田、前掲書、66–67頁。 ↩︎
- デヴィッド・S・リフトン(土田宏訳)『ベスト・エヴィデンス──ケネディ暗殺の虚実(上)』、彩流社、1985年、127頁、傍点原文。 ↩︎
- 土田、前掲書、289頁。 ↩︎
- ピーター・アーリンダー(薄井雅子訳)『えひめ丸事件──語られざる真実を追う』、新日本出版社、2006年、118頁。 ↩︎
- 土田、前掲書、270–271頁、強調引用者。 ↩︎
- 杉田、前掲書、314頁、強調引用者。 ↩︎
- 東『弱いつながり』、58、61頁、強調引用者。 ↩︎
- 同前、62頁、強調、下線引用者。 ↩︎
- 木村『時間と自己』、143頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- タカキ、前掲書、158頁。 ↩︎
- 岩川ありさ「養生する言葉」『群像 2023年7月号』、89頁。 ↩︎
- 木村、前掲書、159頁。 ↩︎
- 江藤淳『閉された言語空間』、文春文庫、1994年、176頁。 ↩︎
- 岡田温司『映画と黙示録』、みすず書房、2019年、297頁。 ↩︎
- 土田、前掲書、56頁。 ↩︎
- 東『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』、90–91頁、強調引用者。 ↩︎
- 島田、前掲書、87頁、強調引用者。 ↩︎
- 杉田「解説──観光者にとって倫理とは何か」、東、前掲書収録、171頁、強調引用者。 ↩︎
- 東『動物化するポストモダン』、162、166頁、強調・下線引用者、傍点原文。 ↩︎
- 同前、166–171頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- 東『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』、158頁、強調、下線引用者。 ↩︎
- 港千尋『映像論』、NHKブックス、1998年、36、38頁、強調、下線引用者。 ↩︎
- 木村、前掲書、143頁。 ↩︎
- 港、前掲書、36頁、強調引用者。 ↩︎
- 2023年5月30日最終閲覧、強調・下線引用者。 ↩︎
- 巽、前掲書、68頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- リピット水田、前掲書、11頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- 長谷正人『映像という神秘と快楽』、以分社、2000年、31頁、強調引用者。 ↩︎
- ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論」、野村修編訳『暴力批判論 他十篇』、岩波文庫、1994年、60頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- 木村、前掲書、142頁、強調引用者。 ↩︎
- 渡邉大輔「父の不在と狂気の物語──『天気の子』試論」文學界10月号、本の話、2019年9月24日。 ↩︎
- 木村『自己・あいだ・時間』、178頁。強調・下線引用者。 ↩︎
- ライブドアニュース編集部「ピカチュウ、今年も1,000体以上で大量発生!“踊る?ピカチュウ大量発生チュウ!”8月8日より開催」、2015年6月18日より。 ↩︎
- ハフィントンポスト、2020年1月4日、強調引用者。 ↩︎
- 速水健朗『1995年』、ちくま新書、2013年、185頁、強調引用者。 ↩︎
- カルロ・コッローディ(大岡玲訳)『ピノッキオの冒険』、光文社古典新訳文庫、2016年、94頁、強調引用者。 ↩︎
- 2023年5月30日最終閲覧、強調引用者。 ↩︎
- 壱村健太のツイッターアカウント(@murumulu)、2023年4月21日のツイート、強調引用者。 ↩︎
- 湯浅博雄「聖なるもの/俗なるもの」『岩波講座 現代社会学 第7巻 〈聖なるもの/呪われた者〉の社会学』、岩波書店、1996年、71頁、強調、下線引用者。 ↩︎
- 柿木伸之「抑圧された者たちの伝統とは何か」『思想 2018年7月号 ヴァルター・ベンヤミン』、17頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- 「バイデン新政権発足で動揺と分裂 陰謀論Qアノン信奉者たち」、BBCニュースJAPAN、2021年1月23日。 ↩︎
- 大久保清朗「夜の暗がりの寄る辺なさとともに──スピルバーグ映画の子供たち」、南波編、前掲書、30頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- 伊藤計劃『伊藤計劃記録:第弐位相』、早川書房、2011年、229頁、強調引用者。 ↩︎
- 大久保、前掲論考、31頁、強調・下線引用者。 ↩︎
- 大澤信亮+杉田俊介+浜崎洋介+上田岳弘「2022すばるクリティーク賞発表 選考座談会」『すばる 2022年2月号』より、大澤信亮の発言。 ↩︎
- ジェームズ・ラッセル・オーウェル、 C・A・ビーアドほか(高木八尺ほか訳)『アメリカ精神の歴史』、岩波書店、1954年、112頁より、強調引用者。 ↩︎
- 「米議会乱入、暴徒のタトゥーや旗は何を意味するのか バイキング、架空の国、アウシュビッツ…一堂に会したことにも衝撃」、ナショナルジオグラフィック日本版、2021年1月17日。 ↩︎
- 前掲「2022すばるクリティーク賞発表 選考座談会」より、杉田俊介の発言。 ↩︎
- フランツ・ローゼンツヴァイク(村岡晋一訳)『健康な悟性と病的な悟性』、作品社、2011年、93頁、強調引用者。 ↩︎
- 阿川、前掲書、123頁、強調引用者。 ↩︎
- リチャード・マシスン「決闘」 、ピーター・へイニング編(野村芳夫訳)『死のドライブ』、文春文庫、2001年、154頁、傍点原文、太字強調引用者。 ↩︎
- 大場めぐみ/小畑健『DEATH NOTE』12巻、集英社、2006年。 ↩︎
- 増田弘『自衛隊の誕生』、中公新書、2004年、119頁より。 ↩︎
- secilb(@secilb)の2022年12月5日のツイート、強調・下線引用者。 ↩︎
- 筒井賢治『グノーシス』、講談社、2004年、121–122頁より、強調引用者。 ↩︎