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脚本家・會川昇とフィクションの戦後〈1〉美しい戦争、美しい物語──『機動戦艦ナデシコ』|ねりま

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※本記事は、ねりま『未来のほんのすこし手前──10年代アニメと過去・未来のイメージ』(2019)所収の「第二章 戦後と一人の脚本家──會川昇と読むこと、語ること」を一部加筆・修正のうえ、連載として再構成したものです。

文:ねりま

はじめに

 會川昇は戦後の脚本家である。それは無論、我々が「戦後の人間」であるというのと同じ水準において「戦後の脚本家」である、というのではない。會川昇という脚本家は、物語を語ろうとするとき、しばしば戦後というモチーフを意識的にか無意識的にか導入してしまう──そのような意味で「戦後の脚本家」なのである。

 會川は脚本家として、これまでさまざまな作品に関わってきた。『鋼の錬金術師』(2003)や『十二国記』(2002)などの原作付きアニメから、『天保異聞 妖奇士』(2006)をはじめとするオリジナルアニメ、さらには『仮面ライダー剣』(2004)や『轟轟戦隊ボウケンジャー』(2006)といった特撮ヒーローものまで、ジャンルに縛られずに数多くの仕事を残している。

 會川の手がけた作品群には、戦争ないし戦後というモチーフがしばしば見出される。それはたびたび用いられるメタフィクショナルな仕掛けと同様に、會川の「作家性」と言ってもいいだろう。本連載は、そのようにして一人の作家の作家性をある意味では “捏造” し、摘出しようという試みである。取り上げる作品も決して網羅的ではない。『機動戦艦ナデシコ』『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』『UN-GO』『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜』──會川昇の数多い仕事のうち、本連載で扱うのはわずかにこの4作品である。おおよそ無謀な試みであることは承知している。だから、ここで論じようとするのはあくまで、積極的に捏造された「作家性」にほかならず、見出されるのはある作家のフィルモグラフィをめぐる “偽史” である。

 會川昇という脚本家をめぐる語り=騙りを通して、我々はおそらく、我々の生きる戦後とときに重なり合い、ときに逸脱する「オルタナティブな戦後」のヴィジョンを見出すだろう。ありえたかもしれない/決してありえなかったそれらの戦後のなかで、會川はつねに、フィクションを読むこと、語ることの意味を問い続けた。我々はフィクションをいかに読み、また語りうるのか。その読みと語りのなかで、我々とフィクションとはいかなる関係を取り結びうるのか。

 本連載は、一人の脚本家の思考の軌跡を辿ることで、読むこと、語ることが〈いま・ここ〉においてもちうる価値、その一欠片を提示しようとする試みである。

目次

『機動戦艦ナデシコ』、あるいはパロディとしての戦争

 「戦後」はそれ単独では成り立ちえない。それはなによりも戦争と分かちがたく結びついている。戦後とは文字通り戦争の「後」であり、戦争なしに戦後はありえない。だから、戦後の脚本家たる會川が、戦争をどのような仕方で語ったのかをまず確認しておくことは、有益な作業であろう。彼が戦争を語る仕方、それが端的に表れているのが、1996年から1997年にかけて放映されたテレビアニメ『機動戦艦ナデシコ』である。この作品において會川はストーリーエディターとしてクレジットされており、物語の骨格を形作ることに大きな役割を果たしたと推察される。

 『ナデシコ』の舞台となるのは、科学技術が発展し、月や火星に人類が進出している22世紀末。木星方面から突如現れた兵器群「木星蜥蜴」によって、地球に住む人類は危機に瀕していた。そんな折、コックを目指す青年テンカワ・アキトは、木星蜥蜴への反攻のためにつくられた最新鋭の宇宙戦艦「ナデシコ」に偶然乗り込んでしまい、戦争の渦中に巻き込まれていく。

 おおよそこのような筋立てをもつこのテレビアニメは、まずそのあからさまなパロディとしての性格を我々の目にさらす。タイトルから想起されるのは無論『機動戦士ガンダム』(1979−80)であり、物語の導入──軍人ではない青年が偶然軍艦に乗り込み、ロボットのパイロットとして戦うことになる──も同作の主人公、アムロ・レイをめぐるそれの反復に見える。さらに各回のタイトルを眺めてみれば、SF小説の古典や往年の戦争映画のオマージュがちりばめられていることにも気づく。こうしたある種のパロディ性に加え、ヒロインのミスマル・ユリカの能天気さも手伝って、作品全体の雰囲気は明るく、軽い。

 しかし、物語の序盤で非業の死を遂げる同僚のダイゴウジ・ガイことヤマダ・ジロウに象徴されるように、この作品世界では死が唐突かつ剝き出しのかたちで登場人物を襲う。その犠牲となるのは作中ではおおむね、名もなき市民やパイロットであるわけだが、そうした時折画面を横切る死のありようが、これはパロディの戦争であっても確かに戦争なのだ、ということを雄弁に語りもする。パロディによって戦争の酷薄さを完全には消去しきらなかったところに、『ナデシコ』の美点の一つがあると言えるだろう。

 戦争の悲惨。それ自体は古今東西、無数のフィクションが語ってきたことでもある。それではこの『ナデシコ』のもつ批評性はどこにあるのかと言えば、それはある種の「メタフィクション性」にあるだろう。『ガンダム』の主人公・アムロはアニメも見ないしマンガも読まない。このキャラクターのある種の「おたく性」ないし「ナード/ギーク性」は、あくまで機械いじりへの愛着として画面に描かれる。アムロはフィクションを基本的には必要としなかったのであり、同作の宇宙戦艦・ホワイトベースの他の乗組員たちもそうだった。

 しかし『ナデシコ』では、フィクションを摂取せずにはいられない者たちによって物語が進んでいく。オールドファッションなロボットアニメのパロディである劇中劇『ゲキ・ガンガー3』は、作中で登場人物たちの生の指針となり、またこの戦争を駆動する「大きな物語」のひとつでもある、ということが中盤以降に明らかになる。それゆえ、この劇中劇はロボットアニメのパロディであると同時に、いわばフィクション一般のメタファーとして作中に描き込まれていると考えるべきだろう。

『機動戦艦ナデシコ』第14話より、ゲキ・ガンガー3
©ジーベック/ナデシコ製作委員会

「美しいフィクション」による動員

 敵勢力の「木星連合」にとっては『ゲキ・ガンガー3』が彼らに遺された唯一のフィクションであったために、それが国家の聖典となったと作中では語られる。単純明快な正義の論理が支配する、良識ある大人が本気で受け取るのはいささか滑稽にも感じられるようなお話が聖典として崇められているという転倒は、この作品世界の軽さを象徴してもいるのだが、しかしそれは我々が軽々に笑い飛ばしてよい事態でもない。そのことは歴史が明瞭に物語っている。

 かつてこの列島には、「万世一系」の神話を一笑に付すことなど許されもしなかった時代があった。一人の人間の単なる肖像を「御真影」と崇め奉り、万一それが毀損されたときには一個人の命によって贖われる、ということさえ起こりえた。自身を文明、他者を未開とみなし、絶えざる収奪を行う植民地主義は「大東亜共栄圏」という美しい物語によって塗り替えられ、血みどろの戦争に人々を動員していった。あるいは遙か海の向こうの「血と土」の神話を思い起こしてもよい。国家は美しいフィクションを援用して、戦争を華々しく飾り立てた。国家は美しい物語を利用して、人々を戦争に駆り立てた。こうした構図を『ナデシコ』は、あくまで喜劇めいた調子で反復してみせる。

 それはまた、レニ・リーフェンシュタールの手になる『意志の勝利』(1934)や『オリンピア』(1938)に象徴されるような、あからさまなプロパガンダ映画の記憶を喚起するものでもあるだろう。この列島においても、日中戦争・アジア太平洋戦争のさなかに、戦意高揚のためのフィクション作品が数多く生み出されたことを想起しないわけにはいかない。こと国産アニメーションという文脈においては、瀬尾光世の手がけた『桃太郎の海鷲』(1943)および『桃太郎 海の神兵』(1945)がすぐさま脳裏に浮かぶ。

『桃太郎 海の神兵』
©1945 2016 松竹株式会社

 しかし、それらのプロパガンダ映画と『ゲキ・ガンガー3』とでは、微妙にニュアンスを異にするということもまた、確認しておかねばなるまい。企画された段階から、戦時下の「大きな物語」に奉仕することを宿命づけられていたプロパガンダ映画に対し、本来『ゲキ・ガンガー3』は、おそらくは単なる子ども向けの娯楽でしかなかっただろうから。言うなれば『桃太郎』がただ『桃太郎』として、つまりは「海鷲」や「海の神兵」といった翻案を伴わずに戦争に奉仕させられるような事態が生起しているのだ。『ナデシコ』の悪役は『ゲキ・ガンガー3』を極めて虚心坦懐に読み、かつその物語を生きることによって、フィクションと動員との関係をつくり上げている。そこにこそ、単にグロテスクなプロパガンダの戯画にとどまらない、フィクションと我々との関係を問い直す契機が宿っているのである。

 木星連合の事実上の指導者として登場する草壁春樹は、美しいフィクションの効用を知悉し、美しいフィクションのように我々も生きるべきである、と檄を飛ばす。自身の陰謀を「美しい犠牲の物語」に仕立て、その物語によって人々を無残な死に向けて動員していく。地球と木星との和平交渉を決裂させるべく暗躍したこの男が、『ゲキ・ガンガー3』と素朴に戯れてきたテンカワたちにとって真の敵たりうるのは、まさにひとつのフィクションを戦争に徹底的に奉仕させる、その身振りによってであろう。

 このとき『ゲキ・ガンガー3』は、単に血沸き肉躍るフィクションであることを超え、木星の軍人たちに対し「そのように生きよ」と要請するひとつの「規範」となっている。物語は単に読まれるのではなく、いわば生きられるべきものとして立ち現れるのである。プロパガンダとはまさしく、この物語を生きよ──しかも単に一人でそのように生きるのではなく、みなで共に生きよ──と人々に命ずるものなのだ。

物語を自身の生のうちに掬い取ること

 無論、草壁に対抗するため、プロパガンダとして利用されるフィクションそれ自体を否定する、という理路はありうる。『ゲキ・ガンガー3』そのものを捨て去る、という態度はありうる。しかし『ナデシコ』は、そうした安易な回答を否定する。抵抗の一つの方途を明瞭に示したのは、主人公のテンカワ・アキトではなく、彼と同じく戦艦ナデシコのクルーで、しかし『ゲキ・ガンガー3』を軽侮している男、アカツキ・ナガレだった。

「美しいアニメのように生きよ」という要請に対して、「アニメなんて見るな」という醒めた説教をベタに返すのではなく、「もっといろんなアニメを見るべきだったね」と返してみせる、アカツキの軽薄な誠実さ。これは一つの決定的なアンサーとして提起された振る舞いだろう。生の規範をただ一つの美しい物語に求めるのではなく、「いろんなアニメを見る」ことによって複数の物語を比較・検討し、より望ましい規範へと不断に訂正していくこと。それは「みなでこの物語を生きよ」という全体主義的な要請に抗う、一つのたしかな方途であるはずだ。

 しかし一方で、テンカワ自身がそのような戦略を取ることはない。その理由は、彼にとってかけがえのないアニメが『ゲキ・ガンガー3』であったという、その一点に尽きるだろう。たとえ「いろんなアニメ」が世に存在したとしても、他の作品にはかえがたい強い思い入れをひとつのアニメに抱くことは、ありふれた経験である。つまり『ゲキ・ガンガー3』は草壁にとってのみならず、テンカワにとってもまた、交換不可能な固有の価値を帯びているのだ。それゆえに、この作品をいかに読み、語りうるかが『ナデシコ』という作品において決定的な意味をもつ。フィクション内フィクションをめぐる読み/語りの抗争こそが焦点化されるのである。

 テンカワは草壁のプロパガンダ的解釈を退け、『ゲキ・ガンガー3』自体は愚にもつかない作品であることを認める。しかし同時に彼は、この作品に言語化しきれない “何か” があることを看取し、それだけは自身の心のうちに掬い取ろうとする。ここでは作品を読む/語ることは──草壁のように公的に、声高に語られるものとしてではなく──あくまで自らの心のうちにとどめる私的な営為として、いわば閉じている。ひとつの物語にみなで熱狂するのではなく、その長所も短所も引き受けながら、それでもたしかに自分の人生と深く交差したかけがえのない物語として胸に抱いてゆくこと。テンカワが掬い取った “何か” とは、つまるところ『ゲキ・ガンガー3』と並走した自身の生の一部だったのかもしれない。

「ひどい話だった」と評しつつ、しかし作品に対する深い愛着がにじむ、最終話のテンカワの告白。それは『ゲキ・ガンガー3』をみなの規範たる「美しい物語」ではなく「愛すべき駄作」として取り戻す、そのような所作にほかならない。草壁が物語のうちに自身の、そして人々の生を溶かし込もうとするのに対し、テンカワはむしろ自身の生のうちに物語を掬い上げるのである。

『機動戦艦ナデシコ』の戦後

 こうして、フィクションと絡み合う兵士たちの物語はひとまず閉じられる。テンカワが最後に辿り着いた場所において、国家による動員に奉仕させられるフィクションの問題は解消されたのか、それは判然としない。テンカワの所作が、はたして草壁の読解に対する抵抗として機能しうるのか、それも危ういだろう。このことは、會川昇という作家が戦争の後もなお、フィクションをめぐる問いを反復し続けることを予告し、また「美しいフィクション」とシステマティックな動員のメカニズムが、戦争が終わったからといって消え去りはしないことを示唆している。

 『ナデシコ』にとって、あるいは會川にとって戦争とは、美しいフィクションを生み出し、その美しさによって無残な死の無残さを隠蔽し、新たな美しいフィクションへと仕立て上げていく、そのようなシステムのことだった。そしてそのシステムの駆動は、単に血と殺戮の連鎖が中断したからといって止まりはしない。たとえば、本連載の次回で扱う論点を先取りするなら、戦間期ドイツでユダヤ人や共産主義者に敗戦の原因を求める「物語」が流布したのは、まさに第一次世界大戦の「後」であったのだし、戦争から遠く離れた我々の〈いま・ここ〉にあっても1、ある特定の属性をもった人々こそが諸悪の根源なのだとする荒唐無稽な「物語」のバリエーションには事欠かない。物語はときに、他者に対する攻撃へと人々を駆り立てる強力な装置として機能する。そうした動員とフィクションとの絶えざる緊張関係こそが、戦争の「後」において問われなければならない。脚本家は「戦後」という特異な時空に、その問いを賭けたのだ。

 さて、『機動戦艦ナデシコ』で描かれた戦争のその後──すなわち戦後は、続編である劇場用アニメ『機動戦艦ナデシコ -The prince of darkness-』(1998)で語られた。しかし、この作品に會川の名はクレジットされていない。戦争の尾を引きずる戦後という時空の困難が、そこに書き込まれてはいる。野放図なやり方で戦争の原因たる超技術を彼方に放り出し、戦争の意味を無化してどうにか衝突を収束させた『ナデシコ』の結末のある種の無責任さのツケを、この劇場版でテンカワが支払わされている、という見方もできる。その意味で、極めて真摯な仕方で戦後を語ろうという試みではある。

『機動戦艦ナデシコ -The prince of darkness-』より、テンカワ・アキト
©ジーベック/ナデシコ製作委員会・テレビ東京
©ジーベック/1998 NADESICO製作委員会

 とはいえ、そこに會川の名がないこと、そしてそのことによってオミットされたであろう何事かを、我々は見ずに済ますことはできない。『ゲキ・ガンガー3』の存在感は一気に後退し──それは作中におけるフィクションの役割そのものの後退を意味することは言うまでもない──、テレビ版ではアニメを見る兵士たちの物語であったものが、この劇場版においては、アニメを必要としない人間たちのドラマへと変貌している。

 再び黒幕として立ちはだかる草壁は、もはやテレビ版のようにはフィクションを必要とせず、単に理想を語ることでクーデターを引き起こす。ゆえに「戦後」が引きずる戦争の悲惨さ自体は書き込まれていても、『ナデシコ』において立ち現れた問い、すなわちフィクションと動員をめぐる問題系がここで問われることはない。それが脚本家・會川昇によってこそ問われた問いだったと考えれば、そのことにも納得がいく。そして本連載の次回で見ていくように、會川は『ナデシコ』の作品世界とはまったく異なる舞台で、その問いを鍛えていくことになる。

〈第2回に続く〉

連載 第2回

著者

ねりま nerima

ブログを書いたり、同人誌に寄稿したり、個人誌を出したりしています。アニメ『氷菓』に強い思い入れがあります。個人誌をお求めの方はTwitterのDMでご連絡ください!

最近書いたもの:「黄昏どきをとぼとぼと歩く―『氷菓』と世界/歴史の終わりに続く道」『アニクリ vol.2s_β 特集〈彼方〉の歴史/記憶 』 (2022年5月、文学フリマ東京にて頒布)

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Blog:宇宙、日本、練馬

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脚註

  1. 本連載の元となる文章は、2019年に頒布された個人誌に収録されたものである。連載にあたって一部加筆・修正を行っているが、この改稿作業は、2022年2月以降のロシアによるウクライナへの侵攻が続く只中で進められた。そのような情勢の中で、我々の〈いま・ここ〉が戦争から遠く離れていると果たして言いうるか、という疑問はありうるだろう。それはいま確かに起こっている戦争と我々とを安易に切断する非倫理的な所作ではないか、という指摘もまたありうる。しかし私は、この私、すなわち日本列島に暮らす一個人としての私と、彼の地での戦争とが空間的に遠く隔たっている──物理的な意味で戦争の「後」にいる──という、その事実こそが決定的な意味を持つと考える。戦争と私との隔たりは、我々にとっての「戦後」という時空を特徴づけるしるしの一つなのだ──ときにその隔たりが、日本列島と朝鮮半島のあいだほどしかなかったとしても。だからこの連載では、空間的かつ/または時間的に隔たったものとしての戦争=戦後をこそ問題としたい。 ↩︎

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