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脚本家・會川昇とフィクションの戦後〈2〉故郷喪失者のフィクション──『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』|ねりま

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※本記事は、ねりま『未来のほんのすこし手前──10年代アニメと過去・未来のイメージ』(2019)所収の「第二章 戦後と一人の脚本家──會川昇と読むこと、語ること」を一部加筆・修正のうえ、連載として再構成したものです。

文:ねりま

連載 第1回

 會川昇を「戦後」の脚本家として読む。その試みの端緒として、本連載の第1回目では『機動戦艦ナデシコ』(1996)を取り上げ、戦争という出来事のなかで、フィクションを読むこと、語ることにおいて生じる緊張関係を論じた。政治的動員とフィクションとが絡み合う「戦争」の局面をくぐり抜け、第2回目でいよいよ我々は「戦後」の時空へと導かれる。『ナデシコ』の作品世界では、戦後という時空を十全に語る機会を得られなかった會川は、しかしまったく別の作品世界においてようやく、戦争の “あと” のフィクションを語る機会を得ることになった。そこで彼が投げかけた問いは、おおむね次のようなものである──戦後を生きる「故郷喪失者」たちにとって、フィクションはいかなる役割を果たしうるのか

 この問いの舞台となったのは、荒川弘による原作漫画をベースに、2003年から翌年にかけて放映されたテレビアニメ『鋼の錬金術師』、その続編にあたる『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』(2005)である。會川はこの2つの作品にシリーズ構成・脚本として参加している。両作品を鑑賞された向きには、それらが「戦後」という問題系といかに関わっているかは自明のことであろう。とはいえ、荒川の原作を読み、かつ水島精二が監督を務めた最初のテレビアニメを見ていない人にとっては「『鋼の錬金術師』と戦後」という主題はおおよそ理解しがたい、突飛なものと感じられるかもしれない。そこでまずは、その成り立ちとあらすじを簡単に示しておこう。

目次

もうひとつの『鋼の錬金術師』

 荒川弘による漫画『鋼の錬金術師』(2001)は、近代ヨーロッパを思わせる異世界を舞台に、ある物体を別の物体へとメタモルフォーゼさせる術=錬金術を操る兄弟、エドワード・エルリックとアルフォンス・エルリックの活躍を描くファンタジー作品である。原作漫画は2010年に完結し、また同時期には原作の展開をおおむね忠実になぞった新たなテレビアニメ『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』(2009)も制作・放映された。しかし、水島監督による最初のテレビアニメ放映時、原作はいまだ物語の半ばにも至っていない状況だった。

 この水島版『鋼の錬金術師』を企画するにあたっては、原作の展開を忠実になぞり、中途までをひとまずアニメ化するという選択肢も当然あったはずだ。例えば『週刊少年ジャンプ』の連載漫画をアニメ化した近年の事例を眺めてみても、そうした選択がある種の商業的な「安全策」としてありうることは容易に推測できる。

 しかしながら、水島版『鋼の錬金術師』はそのような結末を選ばなかった。原作の設定を踏襲し、物語の中盤まではおおよそ同じ展開をなぞりながらも、それ以降は原作とは大きく異なるオリジナル展開になだれ込み、そしてオルタナティブなエンディングを提起してみせたのである。

 それはある種の批評といっていい。あるフィクションを異なる媒体で語り直すこと、それ自体が批評性をまとわざるを得ない営為なのだから。そして優れた批評は、ユニークな「問い」なしにはありえない。そうした意味で、水島版『鋼の錬金術師』が問うた問いのひとつは、度外れてユニークなものだった──「なぜ〈彼ら〉の世界は〈我々〉の世界と、こうまで似通っているのか?」 同作はこの問いに対し、きわめて明快な答えを用意した。それは、彼らの世界と我々の世界とがつながっているからなのだ、と。

 水島版『鋼の錬金術師』の終盤では、あるきわめて重要なオリジナル設定が明かされる。エルリック兄弟たちの生きる世界における錬金術は、もうひとつの世界における死者の魂をエネルギー源としていることが判明するのだ。そして、この「もうひとつの世界」とはすなわち、我々の生きる現実とほとんど同じ歴史を持つ世界なのである。エドワードは長い旅路の果て、弟のアルフォンスを救うためにこの「現実世界」へと自らを投げ打つ。その後、彼は生まれ故郷の世界に帰るためにロケット工学・宇宙開発に関する勉強に励んでいるらしいことがほのめかされ、物語は終わる。

 水島版『鋼の錬金術師』最終話のタイトルは「ミュンヘン1921」。何の因果か、エドワードがたどり着いた場所は、第一次世界大戦で深く傷ついたドイツ──すなわち「戦後」の時空にほかならなかったのである。そして、このテレビアニメの続編にして完結編ともいうべき劇場版『シャンバラを征く者』は、前回取り上げた『機動戦艦ナデシコ』の時空と奇妙なまでの共振を見せる。『ナデシコ』の劇場版では果たせなかった「戦後」について語る機会を、會川は改めて手にすることになるのだ。

 エルリック兄弟の生まれ育った〈錬金術世界〉と、我々の世界ときわめて似通った〈現実世界〉。『ナデシコ』における劇中劇『ゲキ・ガンガー3』がそうであったように、この二重構造は『シャンバラを征く者』という作品にメタフィクショナルな読解の可能性を呼び込む。

 科学の代わりに(現実においてはすでに滅び去ったはずの)錬金術が大きな位置を占める〈錬金術世界〉は、〈現実世界〉に生きる人々にとっては奇妙な絵空事でしかありえない。実際、〈錬金術世界〉でのエルリック兄弟の往時の活躍を伝える作品冒頭の挿話は、1923年のドイツに生きるエドワードが、弟の面影を感じさせる〈現実世界〉で生まれ育った青年(彼の名もまたややこしいことに「アルフォンス」である)に対して語られるという構図を取り、しかもこのもうひとりのアルフォンスにはたんなる「ホラ話」として一笑に付されてしまう。

〈現実世界〉のアルフォンス(右)
©荒川弘・HAGAREN THE MOVIE.

 このような仕方で、互いの世界を「本当ではない世界」と見なし合う奇妙な関係が『シャンバラを征く者』の基本構造を形作っている。実をいえば、こうした世界同士の関係性とはまた違ったところにも、フィクションと我々の関係性を問うためのギミックが仕掛けられているのだが、それについてはまた後で語ることにしよう。

故郷喪失者たちの物語

 1923年のドイツ・ワイマール共和国。彼らの〈錬金術世界〉からも、我々のいる〈いま・ここ〉からも、遠く離れたもうひとつの「戦後」。第二次世界大戦を経た我々から見れば、それは歴史のなかの「戦間期」としてまなざされる。しかしながら、世界戦争の再来をいまだ知らない、当時を生きた人々にとってはまぎれもない「戦後」といえる。その〈現実世界〉における戦後がいかなるものとして経験されるかといえば、それは端的に「故郷が失われた世界」として立ち現れてくる。

 「故郷の喪失」は当初から、水島版『鋼の錬金術師』の重要なテーマのひとつだったといっていいだろう。錬金術によって亡き母を取り戻そうとして果たせず、自らの身体の一部と全部とをそれぞれ喪失した兄弟は、生まれ育った家を焼き捨て、自分たちの身体を取り戻す方法を探すために旅に出る。あるいは母との死別というモチーフそれ自体に「故郷の喪失」の暗喩を見てとることもできるかもしれない。とはいえ、この挿話自体は原作漫画に準拠したもので、原作の結末ではエドワードがヒロインのウィンリィ・ロックベルと結婚することで家族的な紐帯を取り結び、物語が閉じられることになる。そこでは失われた故郷の「再建」こそが主題化され、ひとまず成し遂げられたといっていい。

 一方、水島版『鋼の錬金術師』の結末は、エドワードが自らの身体を「門」の向こう側のもうひとつの世界、すなわち〈現実世界〉へと投げ捨てることによって、アルフォンスの命を救うというものだった。兄弟は離れ離れになり、アルフォンスは兄との旅の記憶を失う。〈現実世界〉のエドワードは、ロケット工学がもとの世界への帰還の助けになるのではないかとの希望を抱き、他方で〈錬金術世界〉のアルフォンスは、兄の面影を追って錬金術の修行を始める。故郷の再建はいまだ果たされない夢としてそれぞれの胸に抱かれていることが示唆され、テレビシリーズは幕を下ろす。そして物語は、劇場版『シャンバラを征く者』へと続くのである。

 テレビアニメの結末から2年後のエドワードはしかし、すでにロケット工学への情熱を失いつつあった。同じ〈現実世界〉のアルフォンスが熱心に研究に打ち込んでいる一方で、エドワードは露骨な倦怠感をまとい、この世界は自身に罰を与えるための「地獄」なのではないか、とまで口にする。ここで彼にとっての「故郷」は、決定的に失われてしまったものとして感覚されている。

 そしてエドワードをとりまく環境もまた、「故郷」を失った人々であふれている。画面には、第一次世界大戦後の混沌としたドイツ社会の様子が印象的に映し出される。ハイパーインフレによって紙屑同然と化した紙幣の山、戦争によって精神的にも身体的にも傷ついた人々、そしてまことしやかに語られる、ユダヤ人と共産主義者のせいでドイツは敗北したのだという「背後の一突き」論。こうした戦後の混乱に生きる人々も、広い意味では、敗戦によってあの美しく誇り高い国家という「故郷」──それは無論、多分に美化されたものではあるにせよ──を喪失したといっていいだろう。

 さらに『シャンバラを征く者』には、もうひとりの重要な故郷喪失者が登場する。物語の序盤でエドワードが出会う「ジプシー」と名指される集団、「ロマ」の少女ノーアである。各地を放浪するロマの生活様式そのものがすでに故郷喪失者としてのイメージを色濃く漂わせているが、とりわけノーアは「千里眼」と呼ばれる読心術をもっているため、ロマの仲間からも気味悪がられ、疎外されている。つまり、彼女はいわば二重の意味で故郷を喪失しており、それゆえ平穏に暮らせる居場所を探し求めていた。千里眼でエドワードの心に触れたときに見出した「もうひとつの世界」、すなわち〈錬金術世界〉こそ、自身が迫害されずに生きられる新たな「故郷」なのかもしれない──そうしたかすかな希望が、ノーアに芽吹く。

ロマの少女ノーア(左奥)
©荒川弘・HAGAREN THE MOVIE.

 エドワード、ドイツ・ワイマール期の人々、ノーア。それぞれに「故郷」を失った人々が、再び「故郷」を取り戻そうとする運動。それが『シャンバラを征く者』の物語を駆動させる。なかでも、当時のドイツ社会でうごめき始めていた国家社会主義ドイツ労働者党──我々が「ナチス」と呼ぶ集団──が、もうひとつの世界=〈錬金術世界〉を「故郷」の再生に利用しようとしたことで、我々の知る歴史とオカルト的な偽史とが複雑に交錯していく。こうして再び、我々とフィクションとの関係が問い直されることになるのだ。

フィクションとしての〈錬金術世界〉

 〈現実世界〉とは異なるもうひとつの世界、すなわち〈錬金術世界〉は、ここでは西洋の神秘主義者たちが東洋の伝承のなかに見出した理想郷「シャンバラ」に重ね合わされる。ナチスはこのシャンバラの力を利用し、ミュンヘンでクーデターを起こそうとたくらむ。この計画を主導するのが秘密結社トゥーレ協会であり、その首魁であるデートリンデ・エッカルトである。シャンバラ=〈錬金術世界〉というフィクションを我がものとし、その力を軍事利用して自らの目的を果たそうとすること。これは舞台こそ違えど、本連載の第1回目で取り上げた『機動戦艦ナデシコ』における草壁春樹の振る舞いと相似形であり、エッカルトはある意味で、草壁の後継たる人物として我々の前に登場することになる。

 デートリンデ・エッカルトは架空の人物 1 であるが、トゥーレ協会自体は実在した組織である。もっとも『シャンバラを征く者』においては、ナチスの母胎となった政治結社というよりも、オカルティズムに傾斜する団体としてフィクショナルな装いをまとっている。しかしその周辺には、ナチスに理論的支柱を提供した地政学者カール・ハウスホーファーや、のちにナチス政権で重要な地位を占めるルドルフ・ヘスなど実在の人物たちも登場し、現実の歴史とフィクションとが奇妙に混じり合う。こうした虚実混淆的な「歴史」の時空を、會川はまた別の機会にも語ることになるのだが、それについてはひとまず措こう。

 トゥーレ協会およびエッカルトの目的は、フィクションの隠喩ともいうべき「もうひとつの世界」を利用した〈現実世界〉の制圧にあった。だが、ロケットの力で門をくぐり〈錬金術世界〉へとたどり着いたエッカルトは、当初〈現実世界〉のために利用しようとしていたはずの〈錬金術世界〉を攻撃し、破壊しようと試みる。なぜ彼女は唐突に〈錬金術世界〉の殲滅を目指したのか。エドワードにそう問われたエッカルトは「恐ろしいからだ」と返す。同じ姿かたちでも、もうひとつの世界の者たちは化け物なのだ、と。

 この時点でエッカルトは、フィクションを自らの目的に奉仕させようとした『ナデシコ』の草壁とは方向性をたがえる。現実とは異なるフィクション=〈錬金術世界〉を利用するのではなく、そのような世界が存在すること自体に脅威を覚える「敵」として、彼女はエドワードたちの前に立ちはだかるのだ。皮肉なことに、最終的にはエッカルト自身が「化け物」じみた姿に変わってしまい、彼女が属していた〈現実世界〉の人間に恐怖され、撃ち殺されることで彼女の物語は終わる。

 〈我々〉と〈彼ら〉とのあいだにはっきりと線を引き、〈彼ら〉には人間性を認めないというエッカルトの言葉には、のちに政権を掌握したナチス・ドイツによる数々の蛮行を予告するような響きがある。あるいはそこに、ナチスが「退廃芸術展」(1937)で行った、体制にとって善い芸術と悪い芸術とを峻別する態度を見てとることもできるかもしれない。なお我々は、エッカルトの後継者とも言うべき存在を別の作品に見出すことになるのだが、これについても回を改めて取り上げることにしよう。

故郷なき世界の「白昼夢」

 『シャンバラを征く者』の結末において、〈現実世界〉と〈錬金術世界〉とをつなぐ門は破壊され、現実とフィクションとが切り離されて物語は終わる。しかし、それでも「もうひとつの世界」が我々の世界から消え去ることはない。同作には、そのような世界を紡ぎ出さずにはいられない、ひとりの男の姿が描き込まれていた。〈錬金術世界〉の強力な人造人間(ホムンクルス)、キング・ブラッドレイそっくりの風貌をもちながら、しかし我々の歴史にその足跡を残す映画監督──フリッツ・ラングその人である。

フリッツ・ラング
©荒川弘・HAGAREN THE MOVIE.

 作中でも言及されるとおり、フリッツ・ラングはユダヤ人としてのアイデンティティをもち、それゆえ第一次大戦後のドイツに居心地の悪さを感じている。本作では狂言回し的な役割を担い、エドワードをたびたびサポートする彼もまた、ひとりの「故郷喪失者」としてシャンバラから何かを得ようと画策する。しかし、ラングがシャンバラを求めるのは、あくまで映画というフィクションをつくるためであって、そこにトゥーレ協会のように、現実にシャンバラを奉仕させるという政治的な思惑はない。

 『シャンバラを征く者』の幕引きにおけるラングの独白は、門の破壊により〈錬金術世界〉と切り離されたこの〈現実世界〉にあってもなお、もうひとつの世界、すなわちフィクションが消え去りはしないことを我々に教える。

「映画も兵器も、等しく科学技術の賜物だ。ならば私は、映画をつくり続けよう。絢爛たる白昼夢を。ありうべからざる、もうひとつの世界を」

 Blu-ray版付属の小冊子に掲載されたインタビューによれば、會川自身には当初、フリッツ・ラングに物語上の大きなテーマを象徴させる意図はなかったらしい。水島監督にも先の台詞はカットしてもよいと進言したが、しかし監督の強いこだわりによって残されることになったのだという。

 こうして作品の末尾に響くことになったラングの台詞は、脚本家としての會川昇の「作家性」をまさに象徴しているといえるだろう。フィクションを映画監督にとっての「故郷」と見立てるならば、扉の向こう側のシャンバラへの道が閉ざされるより前に、ラングにとっての「故郷」はすでに失われていた。戦争という時空のなかで、フィクションへの熱狂こそが人々を殺戮へと駆り立てうることを、我々は本連載の第1回目で確認した。当時の最も現代的なフィクションの担い手たる映画監督が、そのことに無頓着でいられるはずはない。愛すべき「故郷」としてのフィクションは戦争とともに燃え上がり、やがてこのユダヤ人監督もナチスに追われ、フランスへ、そして米国へと亡命することになるだろう。

 だが、そのような留保を踏まえてなおラングは、あるいは會川もまた、映画/アニメに、フィクションに、何かを託さずにはいられない。それはエッカルトのように、フィクションの力によって「故郷」を取り戻そうとするのではなく、むしろ「故郷」から遠く離れた〈いま・ここ〉を生き、あてどない旅を続けるためのよすがとしてフィクションの力を借りることだろう。だからこそ會川は、失われた「故郷」を探し求める果てしない旅路そのものを、ひとつのフィクションへと織り上げたのではなかったか。かくして、フィクションは何度でも〈現実世界〉に回帰する──夢と現とのあいだでたゆたう我々が束の間、その目に映すかもしれない「絢爛たる白昼夢」として。

 失われた「故郷」を求める旅路の果てに、エルリック兄弟は決定的に「故郷」に別れを告げ、そしてナチスの野望はつかの間くじかれた。エドワードはようやく、この〈現実世界〉こそがさしあたっては自分の生きるべき場所なのだと認める。そうして彼ら兄弟とノーアはいずこかへと旅に出る──〈錬金術世界〉から持ち込まれてしまった「ウラニウム爆弾」を追って。

 テレビシリーズで「あいつは胡散臭い」と一蹴されたアルベルト・アインシュタインの存在を想起するとき、この兄弟の前には再び、虚構と現実の歴史とが混淆する大いなる冒険が待ち受けているであろうことを予感せずにはいられない。だが、それはいまだ語られない物語である。さらに、この「ウラニウム爆弾」は、會川のキャリアのなかで再び大きな役割を果たすことになるのだが、それについては本連載の別の回で触れることになるだろう。

 「故郷」を求めて旅した兄弟の物語は、また新たな旅への出発をもってひとまず終わる。つまるところ『シャンバラを征く者』で問われていたのは、物質的な意味でも象徴的な意味でも「故郷」に安らうことのかなわない「戦後」という時空で、失われた「故郷」といかなる関係を結びうるのか、そしてそこでフィクションはどのような役割を果たしうるのか、という問いだった。さしあたってはその場にとどまることを選んだ映画監督も、やがてエルリック兄弟と同様に祖国を遠く離れ、海の向こうの新天地でいくつもの「白昼夢」を生み出すことになるだろう。それらは「故郷」と呼ぶにはあまりに儚いものだが、それでもスクリーンに揺らめいているわずかな時間、我々の狂おしいまでの郷愁を和らげてくれる。故郷喪失者の終わりない旅路はつねに、フィクションという道連れを伴いうるのだ。

 こうして會川は「故郷(の喪失)」という観点から、「戦後」においてフィクションが果たしうるひとつの役割を照らし出したといっていい。彼のその後のフィルモグラフィでは、それゆえ故郷の喪失はもはや自明の前提となっているように思われる。「ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから」と、ある作家は書いた 2 。その作家の名は坂口安吾。我々が次に語るべき作品『UN-GO』と分かちがたく結びついた人物である。

〈第3回に続く〉

著者

ねりま nerima

ブログを書いたり、同人誌に寄稿したり、個人誌を出したりしています。アニメ『氷菓』に強い思い入れがあります。個人誌をお求めの方はTwitterのDMでご連絡ください!

最近書いたもの:「黄昏どきをとぼとぼと歩く―『氷菓』と世界/歴史の終わりに続く道」『アニクリ vol.2s_β 特集〈彼方〉の歴史/記憶 』 (2022年5月、文学フリマ東京にて頒布)

Twitter:@AmberFeb201

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脚註

  1. ナチス最初期の主要メンバーのひとり、ディートリッヒ・エッカートがモデルと考えられる。[]
  2. 坂口安吾「文学のふるさと」『堕落論・日本文化私観 他二十二編』岩波書店、2008年、100頁。[]

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