※本記事は、すぱんくtheはにー「一周遅れの映画評:『バブル』跳ぶために、壊されるもの。」を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。なお『バブル』(2022)の結末に関する情報が含まれます。
文:すぱんくtheはにー
たぶんこれ、事前情報ゼロで見たとしたら「原作はレベルファイブかな?」って勘違いしたと思うんですよ。
というのも、作品の中心となるアクションシーンが「パルクール」(街の中の壁や手すりなどを跳び越えたり乗り移ったりして移動するスポーツ)なんですけど、これがねぇ、いまいちパッとしないんですよ。今期『おにぱん!』っていうアニメの1話でもパルクールっぽいシーンが出てくるんだけど、正直そっちのほうが面白い。Netflixで全世界同時配信&劇場でも上映っていう鳴り物入りで公開された『バブル』と、『おはスタ』内の1コーナーとして放送されてる『おにぱん!』を比較して「あれ……? アクションシーン、『おにぱん!』の方が面白……い?」みたいになるのって(別に『おにぱん!』を舐めてたわけじゃないけど)、ちょっと問題だとは思うんです。
都市をハックする想像力
たぶんこの問題の根底にあるものって、パルクールは「生きている街」で行われることに意味があって、こう、普通に生活している道路とか階段とか壁とかによって私たちの動きって制限されてるわけですよね。都市の構造が人間の通過可能域を決めている。パルクールはそこに別の可能性、つまりは「あそこで跳んでここを蹴って、あの隙間から落ちて受け身をとればいける」みたいなオルタナティブな通過可能域を見つけ出して、想像力と身体能力で都市機能をハックしていくわけですよ。それがまずパルクールを見ていて面白いところで、さらにそこには現在進行形で普通に生活してる人間もいるという不確定さがある。
私は『おにぱん!』1話のパルクールシーンで、3人の「おにっ子」たちが路地裏を走ってるときに急にドアが開いておばあちゃんが出てくる、それをすんでのところで「ごめんなさい!」って叫びながらかわすところがめちゃくちゃ好きで、ここにいま言った「生きている街」でやる意味が出てるんですよね。
それに対して『バブル』でパルクールが行われる場所って、半ば崩壊した誰も普通には生活していない都市で、しかもかなり水没している……つまりは通常の道路とかが使用できない状態になってる、いわば「死んでいる街」なわけで、そこで飛んだり跳ねたりして移動するのは、むしろその構造が要請する行動に素直に従っちゃってる。「そうなってしまったから、そうしてる」動きなんですよ。だからそこには想像力と身体能力で都市をハックするみたいな面白さってあまりなくて、たんに動きが派手なだけで、普通に道を歩くのとさして意味は変わらないっていうか……まぁ一応レース競技にはなってるから、障害物競走みたいなもんなのかな?
PlayStation 5版『バブル』
ただ『バブル』で主人公とヒロインが2人でほぼ並走するようにパルクールをしてるシーンが2回ぐらいあるんですけど、ここはちょっと面白かった……んだけど「ちょっと」なんですよね。で、その理由を考えたとき、私には「これはレベルファイブ原作だ」って勘違いしそうになる部分が見えてきて。
以前『二ノ国』(2019)って作品の話をしたんだけど1、最初は車椅子に乗ってた主人公が、異世界転生したら普通に歩いたり走ったりできるようになる。その部分を「もしこれがゲームだったらめちゃくちゃ面白いと思う」って評したのね。つまり車椅子での移動っていう不便なステータスでキャラクターを操作する(階段どころか小さな段差にすら難儀する)状態から、ダッシュして柵を跳び越えて、みたいな自由な動きを操作できるようになったら絶対楽しいはずだ、ということをしゃべったわけ。
で、そういう視点で『バブル』の2人パルクールシーンを見てみると、まぁ言ってみればPlayStation 5版『バブル』ですわね。最初はチュートリアルみたいに「レバー右+△ボタンで壁を蹴ってジャンプの軌道を変えられるぞ!」とか「R2トリガーで“音を聴く”ことで乗れる泡がわかるぞ!」ってな感じで、指示にしたがっていくとシュババババッとかっちょいいパルクールができる。後半はそういう操作に慣れたプレイヤーが難度の高いコースをうまく操作して切り抜けていく真横を、ヒロインが同じ動きで付いてくるときの相棒感とかシンクロ感とかあったらたぶん、超面白い気がするんですよ。
ほら、PlayStation 4と5で出た『Marvel’s Spider-Man』(2018)っていうスパイダーマンのゲームで「街の中をスイング(クモの糸出してぐぃーん!って跳び回るやつ)して移動してるだけで楽しい」みたいな評判があったけど、あれとほぼ同じ話なわけですよ、これは。それで、たぶんゲームの『バブル』にはテクニックが必要だけどすげぇショートカットできるルートとかがあって、通常プレイだと5分のコースを2分とかに短縮できるみたいな、まぁ最初に言った「パルクールで都市をハックする面白さ」をそこで実感できたりする。
だから「これゲームだったら面白いんじゃないかなぁ……」って感じはすごくあって、そこがねぇ、ゲーム制作がメインのレベルファイブがやりがちな失敗っぽくて、勘違いやむなしというかw
そういう意味では、これ最後ヒロインが消えちゃうんですけど。こう「分かり合えたヒロインが、それでも失われてしまう」ってちょっと「ゼロ年代エロゲ」感があって……えっとね、ゲームって自分でボタンを押して、自分で選択肢を選んで話が進んでいくわけじゃない? だからどんな終わりを迎えても「これは “自分” が選んだ結末だ」って呑み込まされる部分がある。それが、物語の終わりが悲劇でもかまわないっていう作品受容のあり方を広げたと思ってるんだけど。その点においては「あ、やっぱりレベルファイブじゃなくて(というか日野晃博じゃなくて)虚淵玄の脚本だわ」感があるかな。
あとラストで、ヒロインが四肢欠損した状態で溶けて消えていくんだけど、そこがこう、かなり執拗に描かれていて……ちょっとニッチな、だけどジャンルとして存在してるぐらいにはメジャーなフェティシズムに「ダルマ」と「溶解」ってのがあるんだけど、ここには完全にそのエロ文脈がありましたね。ごめん、私は結構興奮した。四肢欠損好きなのよ。
ミームとしての「泡」
ええと、そう、たぶん今回から私のnoteだけじゃなくて「週末批評」にも載ってるはずだから最後に真面目な話をしておくと。
さっきも言ったとおり、最終的にヒロインは泡になって消えてしまう。ただもともとこのヒロインは泡の本体(?)から切り離された端末みたいなもので、人の形をしたヒロインは消えてしまうけれど、その存在そのものは泡として拡散されて世界のいたるところに宿る、という結末になっている。
これってめちゃくちゃ「ミーム」の話で。あ、一応ミームっていうのは、人から人に伝達・拡散されるネタとか物語とかの文化的情報のことね。それでなんでミームの話かっていうと、ヒロインはたしかに人としての生をまっとうしたり、生殖して遺伝子を残したりすることはできないんだけど、それでも彼女の存在はそれとわからないような形で広がって、主人公や周囲の人間たちの関係性を不可逆的に変えてしまう。そうやって影響を与え続けていくことをポジティブに捉えるような結末を迎えるわけ。
それって虚淵玄が『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)で翌年の「東京アニメアワード」の脚本賞を受賞したときに、コメントで「自分はアダルトゲームが出身で、そこで培ったものがこの作品につながっている」2みたいなことを言ったこととか、あとはn次創作に対する許容みたいな話にもつながってきていて……そこまで話を広げなくても『魔法少女まどか☆マギカ外伝 マギアレコード』っていうソーシャルゲームへの展開(2017–)とそのアニメ化(2020–22)とか、そういった「本人(泡の本体)にすらコントロールできない拡散と継承」に対する意志表明、つまりはミームとして広がることを前向きに評価する、みたいな態度が表れているように見えました。
そういったことを念頭に置いて「重力は壊れた、好きに跳べ。」というキャッチコピーを読み直してみると……ひとつの作品の中だけで完結するのではなく、そこからいろいろな要素が解放されて広がっていくことを積極的に受け入れたい、という『バブル』に込められた想いが、ようやくわかるような気がしますね。
著者
すぱんくtheはにー Spank “the Honey”
色々なところで、色々なことをやっています。最近Vtuberになりました。よろしくおねがいします。
Twitter:@SpANK888
note:https://note.com/spank888/
YouTubeチャンネル:Eye of the すぱんく
関連商品
関連リンク
脚註
- すぱんくtheはにー「一週遅れの映画評:『二ノ国』の事はどうしても悪く言えない。」、『ゲームばっかりやってきました』、2019年9月3日。 ↩︎
- 虚淵玄のコメント全文は以下のリンクより。http://ow.ly/i/t2Zo/original ↩︎