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静止した闇の中で──『闇の自己啓発』書評

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※本記事は『フィルカル Vol.6 No.3』(ミュー、2021年)所収の書評を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。

文:倉津拓也

『闇の自己啓発』の著者のひとりであるひでシスは、2021年3月、Twitterで「『闇の自己啓発』のPOPがクルクル回っている動画が友達から送られてきました。ヤバです」と呟き、動画を投稿している。ポップが回っている書店は京都の大垣書店 烏丸三条店で、回したのは私である。

“闇” と不自由

 2021年初頭に刊行された『闇の自己啓発』(江永泉+木澤佐登志+ひでシス+役所暁著、早川書房)は、Amazonの「現代思想」カテゴリーでベストセラー1位を獲得するなど、商業的に大きな成功を収めた。その要因の一つとしては、本書が現代の日本における“売れる哲学”の潮流と共鳴していたことが挙げられる。

 哲学者の山口尚は『日本哲学の最前線』(講談社現代新書、2021年)のなかで、日本の哲学界には世界に伍する普遍的な哲学として「J哲学」という営みが存在し、現在のJ哲学の特徴は「不自由」論である、とする。

J哲学の二〇一〇年代は「不自由論」の季節であった。ただしその議論は、人間の不自由を強調してばかりの悲観的露悪ではなく、真に自由であるために不自由を無視しないという〈自由のための不自由論〉である。

(『日本哲学の最前線』p. 4)

 ここで山口は國分功一郎、青山拓央、千葉雅也、伊藤亜紗、古田徹也、苫野一徳を代表的な「J哲学者」として挙げる。そして千葉は『闇の自己啓発』に推薦の帯文を寄せている。

「世界には不快な〈闇〉がある。本書は、その〈闇〉をたんに批判するのでも面白がるのでもない。生きて死ぬことの意味を問い直すために、〈闇と共に〉思考する必要があるのだ」

(千葉雅也『闇の自己啓発』帯文)

 それでは本書の“闇”とは何か。

「それがもっぱら “闇” と呼ばれるのは、ただ既知を「わかる」と呼び、「わかりみ」を明るさで語る習慣からでしかない。“ここ” からの距離が遠くなるほど、言い換えれば不可知の圏域に私たちが近づけば近づくほど、光の速度が及ぼす支配力は弱まり、逆に闇はその本来の力能を増していくことだろう。」

(木澤佐登志『闇の自己啓発』カバー袖)

 ここで木澤は未知のもの、自己から遠いもの、自由意志によってコントロールできないもの一般を指して “闇” とする。ならばここでいう “闇” は、そのまま山口の「不自由」に置き換えることができるだろう。

“闇” と悪趣味

 一方、山口は先に引用した文章のなかで、J哲学が「人間の不自由を強調してばかりの悲観的露悪」ではないことに注意を促している。ここで想定される「悲観的露悪」の哲学として、例えば決定論の現代的展開としての「遺伝決定論」「脳決定論」「環境決定論」などが挙げられるだろう。「露悪」に関連し、木澤は本書で以下のように述べる。

その点、僕が気になっているのは、日本のインターネット文化に90年代の悪趣味(バッド・テイスト/テイストレス)カルチャーがどの程度影響を及ぼしたのか、あるいはまったく及ぼしていないのか、という問題についてです。「悪趣味」というのは、文字通り「悪趣味」とされるものを露悪的に享楽することを志向しており、そこにはいわゆる60年代的なカウンターカルチャーに見られる既存の支配的価値の反転や転覆といった反体制的なメッセージ性が欠けています。日本のインターネットにカウンターカルチャーの精神が本当に根づくことがなかったとすれば、そこに悪趣味カルチャーの影響がいまも根を張っているからではないか。

(『闇の自己啓発』p. 38)

 90年代の悪趣味・鬼畜系文化の流行については、ミュージシャンの小山田圭吾が過去に障害のある同級生へのいじめを武勇伝として語っていたことが問題視されたのをきっかけに、さまざまなメディアで検討された。このことに関して小山田は『週刊文春』のインタビューで以下のように述べる。

「自分についていたイメージを変えたい気持ちがあった。そこで敢えてきわどいことや、露悪的なことを喋ってしまいました」

「当時、アイドル的というか、軽くてポップな見られ方をしていました。極めて浅はかなのですが、それをもっとアンダーグラウンドの方に、キャラクターを変えたいと思ったのです」

(『週刊文春』2021年9月23日号)

『闇の自己啓発』が書店で置かれる場所のひとつは「サブカルチャー」の棚になるのではないかと思うが、本書の商業的成功の背景として、「悪趣味カルチャー」を露悪的に享楽する一定の層の読者を摑んだことがある。帯文に露悪的に示される様々な意匠は、「こんな変なものがあったのか」という人々の覗き見趣味を満たすだろう。

 例えば本書ではレオ・ベルサーニ/アダム・フィリップス『親密性』(檜垣立哉+宮澤由歌訳、洛北出版、2012年〔原著:2008年〕)を引用しつつ、以下のような会話が交わされる。

江永 「想像してみよう」。

ひで パンチライン強いですね。

木澤 良い「イマジン」ですね。

ひで 「想像してみよう。30代の、かなり魅力的な男性が、ショッピングモールで出会った若い男性を、一緒に来るよう口説いている。家につくやいなや、彼は少年を写真に撮り、薬漬けにして首を絞め、のこぎりでからだを切断する。」

 ベルサーニはこういう悪ノリが好きなんだなとわかってきましたね。

(『闇の自己啓発』p. 341)

 ここで語られているのは愛と攻撃性の関係という普遍的な問題だが、その問題を論じるために「悪趣味」な例が要請される。「悪趣味」でしか得られない会話のノリやつながりというものがあるのだ。

“闇” とゼロ年代批評

 評論家の宇野常寛に従い、オカルト的なものやSF的なものによって「ここではない、どこか」に “闇” を求めるのが90年代の想像力で、「いま、ここ」を多重化していくのがゼロ年代の想像力だとすれば、本書の雰囲気は全体的に90年代寄りである。『闇の自己啓発』所収の「雑談③ ゼロ年代から加速して──加速主義、百合、シンギュラリティ」のなかで、木澤が「僕はゼロ年代批評をスルーしてきた」と述べるように、本書ではいわゆる「ゼロ年代批評」への若干の距離感が表明されているようにも思われる。この雰囲気は『日本哲学の最前線』にも共通している。「J哲学」には柄谷行人も浅田彰も東浩紀もいないのである。

 ゼロ年代批評の問題点について、著者のひとりである江永泉は「『12歳の少年』の末裔たち(前編):ゼロ年代批評の男性性論的側面の意義と限界」と題されたnote記事において、「大きく問題視されたのは理論的言説の是非というより、それをつむぎ発する場や、ファンダムにおける嫌悪と差別であったと思う」と述べる。つまり彼らのゼロ年代批評への距離感は、東浩紀や宇野常寛のテクストそれ自体によるものではなく、主にネット上で公開されていた彼らの振る舞いや、彼らの言説の受容者への嫌悪に由来するのではないかと思われる(なお、ここで江永はてらまっと「敗北を抱きしめて:ゼロ年代批評と『青春ヘラ』『負けヒロイン』についての覚え書き」を批判しつつ、ゼロ年代批評を男性学的なアプローチとは別の仕方で展開していくべきだとして、様々な論点を挙げる)。

 また山口は『日本哲学の最前線』のなかで、日本の哲学の言説について〈海外の哲学者の議論を紹介する文章〉と〈アーティストとして自分の表現を彫琢する文章〉を区別し、両者に優劣がないことを強調したうえで、J哲学は後者に焦点を合わせる、としている(p. 9)。柄谷、浅田、東については前者として位置づけられたか、またはそもそも「哲学」ではない何か、例えば「批評」とみなされたのではないかと思われる。

“闇” の読書会へ

 ところで私自身も「関西クラスタ」という読書会グループを運営しており、『闇の自己啓発』第4章 「宇宙開発」で取り上げられた社会学者の稲葉振一郎を招いて読書会 1 を、第5章「反出生主義」で取り上げられた哲学者の戸谷洋志を招いてトークイベント 2 を実施したことがある。本書の問題意識には共有するところが多く、大変楽しく読んだ。まえがきで役所暁は「ビッグブラザーの支配する世の中で、自己を奪われないために何をすればよいのか。私は読書会こそがその答えであると思う」と述べる。私も賛同する。

 かつてゲンロンカフェで批評家の仲山ひふみと対談したとき、ハキム・ベイ『T.A.Z.──一時的自律ゾーン 』(箕輪裕訳、インパクト出版会、1997年〔原著:1991年〕)を引用し「読書会とはT.A.Z.である」と論じたことがある 3

 T.A.Z.(Temporary Autonomous Zone)は「一時的自主管理空間」と訳される。国家や警察といった公権力の影響が無効化されつつも、別の秩序によって非暴力と平和が維持される空間のことだ。政治学者の五野井郁夫は現代の祝祭的で非暴力的なデモを論じる上でこの概念を用いるが、私はこの用語をさらに広く、学校や会社や地域社会などの通常の「世間」とは別の秩序が成立している空間として捉えたい。そして私の考えでは、その代表的な例が読書会なのだ。

 読書会とはT.A.Z.の体験である。そこで参加者は、読書という目的を共有するからこそ生まれる、オルタナティブな秩序を現実に体験するのである。私の経験によれば、読書会において重要なのはテクストの選択や読解だけではなく、読書会が行われる「形式」である。形式こそが読書会の個性を決める。参加費はいくらか、参加条件に読了を求めるのか、時間帯はいつ頃か、最初に自己紹介をするのか、終了時間は厳密に守るのか、終了後の打ち上げは……。そこは日常とは異なる「不自然」な空間である。

 『闇の自己啓発』第1章の冒頭で、江永が突然「そういえば最近、初めて親知らずを抜いたんですが、見ますか?」と写真入りで抜いたばかりの親知らずを紹介するところなどは、この場の雰囲気を規定するための「ネタ」「アイスブレイク」として、とても巧みだと思う。この場ならどんな「悪趣味」で「露悪的」な話をしても否定されない、というオルタナティブな秩序の体験が読書会の最大の魅力であり、本書を読むことでその読書会を追体験することができる。


 先ほど「露悪」について触れた。厳密に言えば、露出すべき本来の自己として想定されるような「悪」などない。この点について思想家の東浩紀は『郵便的不安たちβ』(河出書房新社、2011年)所収の「写生文的認識と恋愛」で夏目漱石『三四郎』(1908年)を引用し、「内面」こそ「近代文学」が制度的につくり上げたフィクションであることを論じる。

ほかの言葉でいうと、偽善を行うに露悪をもってする。まだわからないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。──昔の偽善家はね、なんでも人によく思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないようにしむけてゆく。相手はむろんいやな心持ちがする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善に違いないから、──そら、二位一体というようなことになる。

(『三四郎』新潮文庫、2011年、p. 197)

 社会の様々な “光” のなかで萎縮してしまい、自由に思考し表現することが困難になるなかで、具体的に目の前にある〈テクストと共に〉オルタナティブな秩序を再創造し、そして自分自身をも再創造していく試み──それこそが読書会なのだ。本書ではそのような生の戯曲が、きわめて切実に演じられている。

付記

 木澤佐登志は『闇の自己啓発』の翌年に上梓した『失われた未来を求めて』(大和書房、2022年)のなかで、ポスト・トゥルース的な情況について論じたあと、公的空間なき世界に“仮固定”される準−公的空間の実験として依存症などの自助グループや当事者研究といったコミュニティを挙げ、「一時的自律ゾーンとしての公的空間?」と問う(p. 101)。ここに「読書会」を付け加えることもできるだろう。

 また木澤は、やはり同書でヴァルター・ベンヤミン『一方通行路』(1928年)から「人間は共同体のなかでのみ、宇宙と陶酔的にコミュニケーションできる」4 という箇所を引用する。私たちは “闇” に覆われた「宇宙」に正しくアクセスするためにこそ、読書会という「共同体」を必要とするのである。

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著者

倉津拓也 Takuya Kuratsu

1979年愛媛県生まれ。京都大学法科大学院法学研究科法曹養成専攻修了。書店員。関西クラスタ。じんぶんTV。主な論考に「幽霊に憑かれた『存在論的、郵便的』」(『はじめてのあずまんω』)、「金森修「動物に魂はあるのか」サマリー」(『ゲンロンサマリーズセレクション25』)、「静止した闇の中で」(『フィルカル Vol.6 No.3』)など。『読書会の教室』(晶文社)にコラム執筆&対談者として参加。

Twitter:@columbus20

YouTubeチャンネル:じんぶんTV

関連リンク

脚註

  1. 稲葉振一郎「『資本』論」読書会@GACCOH(2013年11月2日)。[]
  2. 戸谷洋志「『終わりなき日常』とは何か──邦ロックで考える哲学」(大垣書店高野店、2019年11月30日)。[]
  3. 仲山ひふみ×倉津拓也「2014年の柄谷行人、あるいは回帰する『政治と文学』」(ゲンロンカフェ、2014年2月23日)。なお木澤は晶文社のウェブサイトで連載している「ビューティフル・ハーモニー」第9回「もうひとつの現実世界──ポスト・トゥルース時代の共同幻想(前編)」で、代替現実ゲーム(alternate reality game:ARG、現実と虚構を意図的に混ぜ合わせることを特徴とする参加型ゲーム)の起源のひとつとして「オングズハット(Ong’s Hat)」を紹介し、その創始者のひとりとしてハキム・ベイを挙げる。[]
  4. ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション3』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1997年、pp. 138−139。[]

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