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蛇行する勇気──『キングコング対ゴジラ』にみる本多猪四郎の倫理|朝松雨音

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1962年に公開された映画『キングコング対ゴジラ』。初代『ゴジラ』とはうって変わってコミカルな作風で人気を博したシリーズ3作目だが、ゴジラに「被爆のトラウマ」をみる後世の批評家からはほとんど評価されてこなかった。その一方で同作には、核の問題にとどまらない複雑な陰影と確かな批判精神が息づいている。「怪獣プロレス」に託された監督・本多猪四郎の倫理を、在野研究者の朝松雨音が読み解く。

文:朝松雨音

「十年一昔っていいますが、
──二十年たつといろいろあります」

『北の国から 2002遺言』

あのひとつひとつに
人の暮らしがあって
夢も噓も現実も
あの街の一部なのさ

世田谷ピンポンズ「紅い花」

目次

うつし世の厄介

  「人生は選択の連続である」とは、よく耳にする格言であります。一説には、シェイクスピア『ハムレット』が出典である、と何者かが由来をこしらえた名言(迷言?)であるそうな。400年前を生きた沙翁がどうだったかは知らないが、我々が相も変わらず選択する日々を生きていることは争われないでしょう。情報化社会といわれて久しい今日、むしろガワから選択が強いられる機会は増えているのではないかしら。戦後80年、アメリカさんのお世話になって以来、お上も下々も方々から「あーだこーだ」いわれながらヨタヨタ歩いてきたわけではないですか。まあ、ここ四半世紀では、選び疲れた人々がまたぞろ「大きな物語」という乗り物に身を委ねて、決断なんて面倒は御免こうむるという趣向も見えてきている。それもしようがないでございましょう。もちろん、自分の領分で収まることならばよろしいが、実のところ、そうは問屋が卸しませんわね。上の小言に耳を防いだのも束の間、下から突き上げられる。んでもって、商いでヘロヘロになった夜の憩いのひとときを削りながら、詳しくもないことに算盤を弾かねばならん。それにね、子供がいてごらんなさい。おまんま食わせて、風呂に入れて、寝かしつけて、なんてやっていたら、ますます時の余裕なんてございませんよ。そりゃあね、子供と過ごすひとときの充実は確かですよ。とはいえ親も人の子、雑事諸々をうっちゃってしまいたいときもあるんです。が、どれだけ頭を抱えたところで、決断が止まぬのは世の常。なのでね、うつし世を生きるコツのひとつは、選択の負担を如何にオミットするのかにかかってくる。まぁ、事がそれほど簡単だったら私どものような会社員をはじめ多くの人々が困りやしませんわね。もっとも、かような状況は現代の問題だけではありませんで。時は、戦中日本、治安維持法に、隣組と、お上だけではなくご近所さんまでピリピリ聞き耳立てている。ちょいと与太郎な仕草をすれば、やれ「非国民!」と非難の雨、「とんとんとんからり」なんて口ずさんでる場合じゃない。前線の兵士ともなればなおさらで、上官、先輩による体罰の恐怖はついて回る。不条理を避けようと立ち居ふるまいには気をつかう。おやおや、今も昔もさして変わりはしませんな。人間、心身がやられてはいけませんで、かような厄介ごとを蹴散らそうとか、痛みを癒やしたいと考える。そんなときに大きな乗り物に仲間たちとドンと乗り込んで、ご利益にあずかり真っ直ぐ進むことができりゃ、どれほど楽でありましょう。とはいえ先の大戦時、けったいな乗り物を転がして大惨事となったのは教科書にも載っている事柄。じゃあ徒歩ですかね、と独りで人生を歩くのなんて無理無理。無人島で生活するのは大変だ。独りでもなけりゃ、大きな群れでもなく、ほどほどに寄りかかりながら進むことができればいいのにさ。

 さあさあお立ち合い、ここで振り返ってまいりますのは、映画監督・本多猪四郎(1911–93)でございます。1954年公開の『ゴジラ』のメガホンをとり、以後、田中友幸、円谷英二とともに昭和東宝特撮の立役者となった人物だ。2013年公開のギレルモ・デル・トロ『パシフィック・リム』では、献辞が捧げられるほどの偉人でございますよ。

「ゴジラ」シリーズを手がけた本多猪四郎監督
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  「ゴジラ」は、日本が世界に誇る一大コンテンツでありますが、原典である1954年公開の『ゴジラ』は日本が受けた原爆の被害と、ブラボー実験による第五福竜丸の被曝という痛ましい事件が制作者側にも明確に意識されておりまして、影としてのアメリカがフィルムに焼き付けられた、素晴らしい傑作でございます。

 しかしですね、今回お咄ししたいのは、伝説となった初代『ゴジラ』ではなく、第3作『キングコング対ゴジラ』であります。北極海の氷山に閉じ込められていたゴジラが復活し、たまたま、製薬会社のPRのために南海の孤島から連れてこられていたキングコングと激突するという本作。斜にかまえて初代『ゴジラ』を避けているんじゃございませんよ。先だってつらつらとお咄ししてまいりました「うつし世を渡る困難」、こいつにシリーズ3作目にして直面していたのが『キングコング対ゴジラ』だから、というのがその訳。

 この映画、題名通り日米を代表する怪獣が直接対決いたします。ルパン VS. ホームズ、座頭市 VS. 用心棒、馬場 VS. 猪木のようなドリームマッチ。しかも東宝創立30周年記念作品とあって、田中友幸、本多猪四郎、円谷英二、伊福部昭というオリジナルの製作陣を配し、ゴジラシリーズ発の総天然色作品である、という力の入れようで、観客動員数もゴジラシリーズ歴代1位の1,120万人を数える大ヒット作という、非常に素晴らしい成績を収めているわけですが、後世の評価は芳しくない。

 例えば、社会学者の吉見俊哉は「一九六〇年代のゴジラ映画では、こうした原水爆の圧倒的な破壊力のイメージが徐々に背景化されていくことになる」と述べておりまして、『ゴジラ』『ゴジラの逆襲』と重要な要素であった「被爆のトラウマ」喪失の起点として『キングコング対ゴジラ』を位置付けております1

『キングコング対ゴジラ』予告編
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 おおむね批判の主眼にあるのは、被爆国日本が生み出した初代『ゴジラ』が有していた反核メッセージが後景に退いたことでありましょう。まぁ、いわんとすることはわかりますがね、むしろこの批判によって、『キングコング対ゴジラ』を測る尺度として、初代『ゴジラ』が有していたとする「反核メッセージ」しか念頭に置いていないことが露呈しているのではないですかね。さもそこに犯すべからざる純粋性があるかのように思考するのは結構なことでありますが、さようなまなざしでは、1950年代から60年代にかけての「ゴジラ」シリーズに機能した力学の綾を見落としてしまうのではなかろうか。

 翻ってみれば、制作者が何ゆえに重要なテーマを希釈して、蛇行を余儀なくされたのかを問うことが肝なのではないですか。戦後でございますから、単純に国家の意向が作品の内容を左右することはございません(はず)で、方々のおあにいさん、おあねえさんによるありがたーいご助言が、複雑な場をこしらえまして「うつし世を渡る困難」を現出せしめたのでございましょう。

 と、以上の事情から『キングコング対ゴジラ』の監督・本多猪四郎について考えてみたいのです。え、「何で製作陣には田中や円谷もいるのに本多だけなのか」ですか。ごもっともな疑問で。でもですね、外野の騒々しさがある一方で、制作陣内部にも綾があるわけです。プロデューサーの田中友幸、特技監督の円谷英二という2人は、作品のために執念深く己を通す剛の者。これには方々に証言がある。プロデューサーから東宝の社長となった富山省吾は、真夜中にまで長電話をかけてくるような田中のパワフルな仕事ぶりから、「決して見た目もしゃべり方も華々しくはないが、力強く、決してあきらめずに前に突き進み続けるという」意味で「ウシの田中」と呼ばれていたとの逸話を語っております2

 その田中をして舌を巻かせたのが円谷英二。1954年版『ゴジラ』当時を述懐する田中友幸の言葉を引いてみましょう。

 円谷特技監督は、私見だが、とにかく好きなだけおやりになったと思う。折から日本映画界は急上昇の時期であったし、もともと職人芸と凝り性の円谷氏にかなり好条件の、働く場が用意されたのだ。撮影所の作業時間は基本的に9時から5時と決められていても、円谷さんはいい画を撮るためなら、平気で午後3時頃撮影をはじめ、徹夜作業をやってしまう。翌日は今度は夕方から、などという仕事を平然とやられた。当然時間外の経費が雪だるまのように膨れ上がる。3

 かようなスタンスで同じシーンを納得いくまでリテイクする円谷に対し、田中は「その根性に私は絶句した」と振り返っております。

特技監督の円谷英二
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 畏怖される東宝の「ウシ」に特撮の神様とパワフルな2人に挟まれて、傍から見ても本多猪四郎は大人しく見えたようで、

 彼〔円谷英二:引用者注〕は無類のアイデアマンで、東宝の怪獣を生み、日本の特撮を世界的にしたが、それだけに仕事にはうるさかった。この円谷監督とずっとコンビを組んで特撮映画を作ってきたのが本多猪四郎監督だが、うまく協力して作ってこられたのは、この本多監督の円満な人格が大いにものをいっているように思われる。4

 という第三者からの意見も残されておるのであります。

 では本多猪四郎は単なる調整役だったのか、というとそうでもございませんで。押しの強い仲間2人の力を大いに引き出して、蛇行しながらも前進するという熱い監督だったのであります。評論家の切通理作は、「当の東宝が、本多猪四郎監督でアメリカとの合作作品を制作した時、作品作りの決定権は監督にあるという条項を、アメリカ側に認めさせてから撮影に入った 」5 ことを挙げまして、「映画は一人で出来るのではないが、色んな要素、人材を最終的に一体化させてまとめあげるのは監督なのだ 」6と本多の作家性を強調しております。

 ただ、のちのち見ていきますが、本多が熟考の果ての決断に強い責任を自覚していたとしても、同時に、決断した事柄に悔いを残していたのも確かなのであります。今と過去を引き受けつつも、後ろ髪を引かれるという揺らぎ。この揺らぎにこそ、本多猪四郎を「うつし世を渡る困難」と真摯に向き合った人物として、お咄ししていく意義があるのであります。『シン・ゴジラ』や『ゴジラ-1.0』は楽しかったけど古い作品なんて知らないよ、という方もいらっしゃるかもしれませんが、ひとまずお付き合いつかぁさい。

コメディとしての怪獣映画

  『キングコング対ゴジラ』、前2作品と作風が変わったという物言いに否を突きつけるつもりは毛頭ございませんが、「反核メッセージ」が希釈されてしまった、という意見を鵜呑みにしていいのか。

 ちょいと整理しましょう。『キングコング対ゴジラ』のストーリーは2つの軸から構成されておりまして、ひとつが氷山から復活したゴジラが帰巣本能で日本に向かっていて危うい、というゴジラの脅威のストーリー軸。そしてもうひとつはパシフィック製薬が低迷する提供番組の視聴率の立て直しとして、集客力のある戦略を打たんとする軸であります。キングコング氏は後者の事情で無理矢理日本に連れてこられておりまして、自ら日本を観光してやろうという意思はこれっぽちもありません。ただただ広告のためという従属的な理由によって日本に連れてこられておりました。この2匹が偶然にして日本で鉢合わせまして、愉快な戦闘を繰り広げるわけです。

 前者の軸で重要な要素となるゴジラの脅威、その前提となっておりますのは当然のことながら東京を火の海にした1954年版『ゴジラ』、続いて翌年に公開の大阪を舞台とした『ゴジラの逆襲』の存在。『キングコング対ゴジラ』において氷山からお出ましのゴジラ氏、この演出は雪崩の下にゴジラを封印するという『ゴジラの逆襲』の結末を受けてのものと考えられまして、ゴジラが東京とともに大阪をも灰燼に帰したという記憶の継承を端的に示しているといえましょう。

『ゴジラの逆襲』より、大阪城の前で対峙するゴジラとアンギラス
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出典:WIKIZILLA

 脅威のイメージを起源となる作品に関連づけることで醸成するのは、キングコングにしても同様で。1933年に公開された『キング・コング』では、ジャングル映画の監督とヒロイン役の女性が映画撮影のために髑髏島に赴き、島の様々な脅威に襲われつつもコングを生け捕りにする。見世物興行の動物としてコングはニューヨークに連れてこられてしまう。人間側の興行的な意図から近代社会に連れてこられるというギミックを『キングコング対ゴジラ』も踏襲しているわけです。

 オリジナルの『キング・コング』では、エンパイア・ステートビルに上りプロペラ式戦闘機と戦うクライマックスで有名ですが、本作でもかなりスケールダウンしてはいるものの国会議事堂によじ登り、自衛隊と向かい合う趣向でインスパイアしております。どうせエンパイア・ステートビルを模した演出にするならば1957年に完成していた東京タワーが適しているのに、というお声がありましょうが、そちらは同じく東宝が制作した『キングコングの逆襲』(1967)においてキングコングとメカニコングの戦いの場所として採用されているのでご覧ください。ゴジラのサイズに合わせて60メートルにされた巨体よりも、オリジナルに近い20メートルの体躯を採用しまして、これまた原典を思い起こさせる愛嬌のある顔つき。本多猪四郎や円谷英二が愛したオリジナル『キング・コング』へのオマージュが色濃く反映されております。

『キングコング対ゴジラ』より、国会議事堂に登るキングコング
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 このようにみてまいりますと『キングコング対ゴジラ』という作品は、先行するゴジラ作品、あるいは1933年公開の『キング・コング』のエッセンスを明確に引き継いでおりまして、悪くいえば単純に2つを接ぎ木したように見えようというもの。そもそも力業のような組み合わせですから、先ほどキングコングの体躯について少々触れましたが、両者の体格からして変わってしまっている。まぁ、意外な副産物もありまして、ゴジラも、キングコングの体格に合わせるかのように、『ゴジラの逆襲』までのデザインとは異なり、ボディが太くなっているおかげで、二大怪獣のパワフルな肉弾戦を楽しむことができるようになったともいえる。

 しかしながら、本作はいずれの先行作品とも大きな差異がございます。 それは「コメディ」の要素がふんだんに盛り込まれていること。1954年の『ゴジラ』は核の危険をシリアスに描き、また1933年版『キング・コング』は未知なる自然の驚異を体現した「史上最高のホラー映画」にも数えられる作品であります。ところが『キングコング対ゴジラ』の作風は過去と断絶しているかのように明るい、娯楽作品として成立している

 ゴジラのテーマ云々への批判があることは先刻述べましたが、実際、過去作の継承は明確に示されているわけでして、批判されうるきっかけがあるとすれば、キングコングと組み合わされたことによるゴジラ成分の削減であり、何よりも、深刻な問題を笑いに変えてしまう作風にあったのではないか。とはいえ、それすら単純に否定されるものなのでしょうか。隅々にちりばめられた「コメディ」が、いかなる役割を果たしているのかを考えてから結論を出しても遅くはないのでは?

「明るい日本」の怪獣プロレス

  『キングコング対ゴジラ』はアメリカのRKO社より東宝がライセンス契約を取得して製作した映画でありますが、なにゆえに悲惨な都市の壊滅を描いた前2作品とはうって変わって、コメディテイストへと転換することになったのか。

 路線変更のプロセスは定かではございませんが、ライセンスの取得に多額の契約金を支払っていた経緯からすると、『キングコング対ゴジラ』というプロジェクトは、ライセンス料をペイして、なおかつ採算のとれるヒット作にせねばならないというハードルがあったことは確かでしょうな。だから東宝としては必ず売れるための要素を惜しげもなく注ぎ込む必要があったのではないか。と考えますのも、パシフィック製薬の多湖部長と部下たちのやり取りに見られるようなコメディ調の作風に、同時代の東宝のドル箱シリーズとして人気を博した喜劇映画たちとの類似性がうかがえるからであります。

『キングコング対ゴジラ』より、パシフィック製薬の多湖部長(中央)と部下たち
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 現代でもお笑いコンテンツは人気ですが、当時の人々もまたコメディないしお笑いを求めておりました。1950年代のラジオを中心とした落語・演芸ブーム、初期テレビ放送から人気となった松竹新喜劇など、枚挙の暇はございません。時流に合わせたかのように、1950〜60年代にかけて東宝は複数のコメディ映画を製作していきます。森繁久彌が出演した「社長」シリーズ(1956–70)、「駅前」シリーズ(1958–69)。加山雄三主演の「若大将」シリーズ(1961–71)。『ニッポン無責任時代』に始まるクレージーキャッツもの(1962–71)などが代表的なタイトルですかね。

  『キングコング対ゴジラ』が公開された1962年は、東宝コメディ映画が人気を集めた時代のちょうど真ん中。1961年公開の『サラリーマン弥次喜多道中』でコンビを組んでいた高島忠夫と藤木悠が桜井修と古江金三郎をそれぞれ演じていることからして、「社長」シリーズにはじまる東宝の特色としてのサラリーマン喜劇の影響を明確にうかがわせるものでしょう7。ちなみに多湖部長による「キングコングに製薬会社のPRをさせる」という提案もまたユーモアにあふれたものですが、1960~66年頃まで放送されたバヤリースのCMにはチンパンジーを起用して結婚式や就職試験を演じさせるという趣向がありますんで、映画制作陣がCMから着想を得ているところもあるんではなかろうか。

 1964年前後、東京オリンピックが開催された頃合いには、総合ビタミン剤のコマーシャルがブームとなったそうですが、当時は会社名よりもタレントなどに付与した別のイメージを全面に押し出して製品のイメージを訴える作りになっているというのは評論家・上野昂志の弁8。キングコングを企業PRに使って製品を売ろう、という発想そのものが、消費社会、資本主義経済の様相を表象してしまっているわけですが、キングコングというタレントに面白おかしいことをさせるCM、というアイディアは如実に同時代を活写してしまっているわけです。

チンパンジーを起用したバヤリースCMの一場面
出典:アサヒグループホールディングス「バヤリース」の歴史

 日本文学研究者・坂堅太「二重化された〈戦後〉」では、「社長シリーズ」の原作となった源氏鶏太のヒット作『三等重役』において、生活の合理化を図る「新生活運動」が指針として示されることを政治的な背景として「古い戦後」/「新しい戦後」を分かつ思考が働いていた、と指摘されております。『三等重役』では、源氏の初期作品にあった敗戦の影が払拭されることで、「経済的観点だけでなく、道徳的観点からも」「明るい日本」が描かれたというわけです9

 東宝映画のドル箱となった「社長」シリーズ、「駅前」シリーズ、「若大将」シリーズ、クレージー映画などは、源氏作品が提示した 「明るい日本」を基礎として展開されたものと見ていいでしょう。同様の流れの中でドラマパートが演出された『キングコング対ゴジラ』 にも「明るい日本」 が色濃く表れているのは必定なのであります。

 また『キングコング対ゴジラ』において描かれる「明るさ」に、プロレスブームを重ねることも可能でしょうな。1950年代は、日本プロレス史に燦然と輝く大看板・力道山の活躍に人々が沸いた時代でもあります。『キングコング対ゴジラ』公開の翌年に急逝するまで、外人レスラーをなぎ倒す力道山の姿は、力強い日本の象徴として人々を勇気づけておりました10。ちなみに何の因果か、キングコングというプロレスラーがおりまして、力道山とも対戦しているのであります11。2人の闘いをもとに実況映画と銘打って製作された『力道山対キングコング』(伊勢プロ製作、松竹配給)なる作品もあるようなのですが、DVD化されているのかいないのか。当方未見です。

日本中を熱狂させた力道山
wikimedia commons public domain

 プロレスと怪獣、といいますと「怪獣プロレス」という言葉を思い起こしますな。命の取り合いではなく、小競り合いのような怪獣映画の作り物然とした戦闘を揶揄して使われることが多いわけですが、その端緒を『キングコング対ゴジラ』に見出すことができる。実際、『ゴジラの逆襲』におけるゴジラとアンギラスとの戦いと、ゴジラとキングコングのそれは大きく趣を異にしているのですから。

 原口智生も指摘しているように、獣同士の戦いとして相手の喉笛に嚙みつくことで勝負を決する『ゴジラの逆襲』に対して、放射熱線や帯電体質を活かした格闘、さらにはジャイアントスイングといったプロレス技などを繰り出す『キングコング対ゴジラ』の戦闘は非常に人間臭い動きによって構成されております12。先にキングコングとの対比においてゴジラのデザインが太く変更されたことを指摘いたしましたが、変更にはプロレス演出に適合させる、力道山化を意図していたともいえるのでしょうな。

『キングコング対ゴジラ』より、前作より腕が太くなったゴジラ
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 本多猪四郎が『キングコング対ゴジラ』の戦闘場面について語った言葉からは、ゴジラ映画の演出上の転換をうかがうことができようというもの。

もう、ぬいぐるみの中に入る演技者連中が対決するみたいな気持ちで動くからね。まことに擬人化しちゃってるわけですよね。そういうものがありありと眼に見えるようになってきているんですよね。13

 二大怪獣が最初に対峙したシーンを思い出してみましょう。那須高原での第1ラウンド、ゴジラもキングコングも互いを威嚇し合う。ゴジラは万歳をして跳び跳ね、体を大きく見せようとするが、その姿勢はいかにも人間臭い。さらに放射熱線を浴びたキングコングは、ただ撤退するだけでなくて、わざわざ頭をかいて去っていく。2体の怪獣の戦闘からは、命を賭した闘いではなく、時にコミカルで、エンターテインメントとしてのプロレスらしさがにじみ出ているわけで、大阪を壊滅させた凄惨な決闘という空気は『キングコング対ゴジラ』には微塵もなく、闘いひとつとっても同時代の諸文化に見られる「明るい日本」の反映が見て取れるわけです。戦争の記憶を惹起させる悲壮感漂う前作までと比して、これほど明るいイメージを打ち出されたら、「ゴジラ」が変質してしまったと捉えられても仕方ないですわね。

戦争・オカルト・アメリカの「影」

 しかしです、いくら「明るい日本」を押し出していようとも『キングコング対ゴジラ』には、楔を穿つように初代『ゴジラ』の暗い影が顔を出しているのです。キングコングとゴジラが東京に向かっている、との警戒情報が流布されますと、多くの人々が「疎開いたします」といって電車に殺到しております。このくだりから思い出すのは1954年版『ゴジラ』のワンシーン。

女「いやぁね、原子マグロだ、放射能雨だ、その上今度はゴジラときたわ。東京へでも上がりこんできたら一体どうなるの」

男1「真っ先に君なんかは狙われるクチだね」

女「やなこった。せっかく長崎の原爆から命拾いしてきた大切な体なんだもの」

男2「そろそろ疎開先でも探すとするかな」

女「私にもどっか探しといてよ」

男1「あーあ、また疎開か。まったく嫌だなあ」

 会話はゴジラ初上陸直前、電車の中で交わされた、名もなき男女のやり取りであります。戦争、原爆、第五福竜丸、といった事件を我が事として体験してきた世代の言葉だと考えると興味深いやり取りでありますが、一方で彼らにはゴジラの上陸が迫っていることへの危機感がございません。ゴジラの脅威を知らないのですから仕方ない。しかし『キングコング対ゴジラ』 で登場する人々は違うのですね。「ゴジラが来る」、と聞いて「やれ疎開だ」と飛んで出て、駅のホームは大混雑なわけ。つまるところ、1962年の皆々様は、戦争、原水爆と同等のものとして「ゴジラ」を理解しておるわけです。

 ゴジラに対する認識の変化は、国内だけにとどまりません。ゴジラの存在は、1954年版『ゴジラ』と『ゴジラの逆襲』において日本国内の災難として描かれて、これっぽっちもGHQは出てこないのでありますが、本作では国連による怪獣への水爆使用要請にみられるように国外の視線が挿入されてくる。では、「はい、そうですか」と水爆を用いるか、といえばそうではない。『ゴジラの逆襲』のようにゴジラの息の根を止めるのではなく、ゴジラの足止めをしたり、都市へと近づけない策を弄するのであります。

 すると『キングコング対ゴジラ』 には、明るく新しい日本を象徴するコメディエッセンスと、乗り越えたはずの「古い戦後」、敗戦の影が同居していることになりやしませんか。いや、むしろ原爆から水爆への発展とともに表現されることを考慮しますと、1954年から62年に至る状況の変化や問題の複雑化を映し出しているといえましょう。

 ところで『キングコング対ゴジラ』 に描かれる影は、なにも過去に起因するだけではありませんで、新たな影を表象しているところにも目を向けねばなりません。パシフィック製薬がスポンサーとなっているテレビ番組は『世界驚異シリーズ』でありますが、番組名およびファロ島、キングコングの探索という内容からは、1950年代後半から60年代にかけての「秘境ブーム」の影響がうかがえる。

『キングコング対ゴジラ』より、ファロ島の住民たち
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 民俗学者の飯倉義之によると、1950年代後半以降「秘境」をキーワードとした著作が爆発的に増え、中尾佐助『秘境ブータン』(1959)、川喜田二郎『鳥葬の国──秘境ヒマラヤ探検記』(1960)などのベストセラーの他、二見書房の翻訳「秘境」シリーズ(1960–64)や朝日新聞社「アサヒ・アドベンチャア」シリーズ(1963–66)といったシリーズが連続刊行される。なかには浪速書房「秘境の女」シリーズといった、秘境を舞台としたエロ小説まであったそうな14

 かような「秘境」ブームを生み出したのは単にマスコミの戦略ではなくて、マスコミとアカデミズムとのつながりから立ち上がってきたというのが面白い。人類学者の飯田卓は、1950年代の人類学とマスコミの関係について次のように述べております。

 海外渡航がきびしく制限されていた昭和20–30年代、海外フィールド調査を志す人類学者の多くが、マスメディア企業の後援を受けたエクスペディションを組織した。こうしたエクスペディションには映画カメラマンが同行することが多く、長編記録映画の興行的成功がエクスペディションの採算を合わせていた。また、新聞記者が同行することも多かった。新聞の紙面では、調査活動が速報されるほか、めずらしい写真や専門的な発見・知見が伝えられ、学術活動の広範なアウトリーチがおこなわれた。また、新聞社主催の展示会や講演会、映画会なども盛んにおこなわれた。15

 耳慣れぬエクスペディションという文句は、文化人類学の調査研究の基盤として整備された組織のこと。そのエクスペディションには東宝も関わっておりました。1956~57年に、国際地球観測年(1958年)の準備のために第1次南極観測隊が派遣されておりますが、この際、日本映画新社が同行して『南極大陸』が制作されまして、同映画は東宝が配給して劇場公開されております。以降、第1次南極観測隊の一部隊員が越冬を試みた様子を記録した『十一人の越冬隊』(日本映画新社・朝日新聞社共同製作)、1958 年にAACKによるヒマラヤのチョゴリザ峰初登頂を撮影した『花嫁の峰  チョゴリザ』(日本映画新社製作)を東宝は劇場公開している。

1959年に公開された『花嫁の峰 チョゴリザ』
出典:国立映画アーカイブ

 飯田によると、ニュース映画は、日本映画新社-朝日新聞社-東宝などのように、制作会社-新聞社-映画会社のつながりが基礎となり、そこに実際に調査に向かうグループが結びつくことでエクスペディションは構成されたとのこと16。なお、日本映画新社は東宝の資本によって日本映画社が改組されたグループ会社17。つまるところ東宝は極地調査や秘境調査のニュース映画に長じていたわけです。

 ファロ島におけるキングコング探索という描写には、大なり小なり秘境ブームと密接なかかわりを持った東宝のノウハウが活かされているのでしょう。『世界驚異シリーズ』 という企画名称そのものが秘境をエンターテインメントとして受容することができた社会状況を示していて、『キングコング対ゴジラ』に先立つ『大怪獣バラン』(1958)の予告に「日本のチベットと呼ばれる東北地方」という惹句が選ばれたのも同様の理由でありましょう。

 まぁ、かように通俗的な秘境の利用から皆さんも想像されたかもしれませんが、先に触れた飯倉氏も指摘しております通り、秘境ブームは徐々に学術の手を離れてまいります。「世界の秘境シリーズ」(1962–72)などを企画した竹下一郎によって設立された大陸書房がオカルトブームを牽引したように、秘境は「グロテスク奇習を目玉」とするようなオカルト・エンターテインメントの流れに取り込まれていきまして、1970年代の超能力ブーム、オカルトブームと結びついていくわけです。要するに、秘境関連の書籍こそがオカルトブームの土台を作る一翼を担ったということ18。学術研究としての秘境探索が、オカルトという影の基盤に転じてしまうとはね。

 ご承知の向きも多いでしょうが、オカルトブームは、澁澤龍彥らに代表される異端文学・幻想文学であったり、暗黒舞踏とも親和性を持つものであります。秘境・異境に限ってみても、小栗虫太郎・橘外男・南洋一郎の諸作品が、同運動を展開した人々に愛好されていたことはよく指摘されております19。そのような磁場からは『大怪獣バラン』で「日本のチベット」とされた「東北地方」の土着性をも武器とした寺山修司や土方巽の存在も想起されますし、土方だけでなく大野一雄、笠井叡など暗黒舞踏に近い人々の肉体表現を、明るく溌剌とした力道山の肉体と対置すれば、陰陽の対立構造も浮かび上がろうというもの。

『疱瘡譚』より、土方巽
撮影:鳥居良禅 出典:慶應義塾アート・センター

 然し、いや然しですよ、事はそれだけにとどまりませんので。『キングコング対ゴジラ』では同時代の表象として描きこまれてしまった日本の影は、同作では直截的に描かれることのないアメリカの姿を、キングコングの存在を通じて浮かび上がらせてしまうのであります。

 1933年版の映画を中心に「コング」という存在はこれまで様々な分析が試みられておりまして、日本国内だけで見ても、コングが有する「猿と人間のハイブリッドとしての性質」やゼウスのような性欲を持つ側面(高橋ヨシキ)20、「ヒロインのアンのラブストーリー」を展開する相手役としてのコング(山崎智之)21、「美女と野獣」のモチーフとの関わり(八本正幸)22、等々が指摘されております。そのような中で英米文学者の宮本陽一郎はキングコングにさらなる背景を見出しております。宮本によると、開拓精神や博物学への関心が混ざり合った「調査旅行」には、原始的な自然を調査という方法によって征服していく「帝国主義的な文化」の側面があり、その象徴が力強い英雄としての合衆国大統領セオドア・ローズベルトだったのだそうな。そしてマンハッタンに連れてこられるキング・コングは帝国主義の成果であるとともに、引き起こされる騒動は「経済的な繁栄と人種的・文化的な多元化」を取り込んでしまったアメリカ内部の不安が象徴されているといいます。ところが不安を引き起こすキング・コングの野蛮さが一方で魅力ともなっておりまして、「アメリカが失おうとしている純粋さを、プリミティヴな空間に補完する論理」が働いているのだという23

 宮本が指摘する、文明/野蛮、あるいは科学/自然といった対立項は、アメリカ側のゴジラ観にも垣間見えるものであります。1956年、初代『ゴジラ』にオリジナルのカットを追加し、再編集した『怪獣王ゴジラ』がアメリカで公開されておりますが、日本版のラストシーンで山根博士が語った「あのゴジラが、最後の1匹だとは思えない。もし、水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類が、また、世界のどこかへあらわれてくるかも知れない……」という箴言はカットされてしまいまして、アメリカ人記者による「脅威は去った、偉大な男も、そして地球は救われた」と明るい未来が想像される語りで幕が下ろされる、という改変の憂き目にあってしまう。オチを変えればあら不思議、ゴジラは科学で乗り越えられるものになっちまう。

 映画研究者の池田淑子によりますと、アメリカ版『キングコング対ゴジラ』では、アメリカ人が日本の当局に科学的な知見を与える存在として登場するそうで、ゴジラよりもキングコングの脳がより発達していると語るシーンが追加されているとのこと24。野性を象徴するキングコングにすら知性を付与するという滑稽な操作を行うことで、アメリカさんは自らの科学力の優位性を謳うのであります。

アメリカ版『キングコング対ゴジラ』のポスター
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 以上のキングコング論をもとに『キングコング対ゴジラ』という作品を考えてみますと、まことに奇怪な様相を呈するとは思われませんか。1950年代後半から60年代前半にかけて、日本という国家が敗戦後の復興を試みるプロセスの中で行われた極地・秘境への調査研究が、オカルトブームの起源となる秘境ブームを生み出す一要素となるわけであります。キングコングというキャラクターをフィクションとしてレンズに収め得たということは、アメリカの占領というプロセスを経て、戦後復興を推し進めた日本において、1930年代のアメリカと同等の社会的・文化的土壌が整備されつつあり、ひいてはキングコングを受け入れる環境が完備されたことを示すわけです。

 さらには、そもそもキングコング自体が、植民地主義の被害者の象徴でありながら、アメリカ自身が渇望していた心身を体現してしまっているという捻じれた事態を考慮しますと、科学力で核を生み出したアメリカと、ロマンティックでオカルティックな植民地主義のアメリカが、二大怪獣の体を借りて日本という占領国のスクリーン上で闘わされる、ということになりましょう。要は己が己を殴りつけるという態になるわけですから、シリアスとは無縁の、コミカルなプロレスになってしまうのは必定。『キングコング対ゴジラ』には、日本の影を用いてアメリカの影を深く照射するという試みが秘められていたといえるのであります。しかも、占領によって「アメリカ」をインストールしてしまった日本にとっては、我が身のことでもあるという。

  「明るい日本」を映し出したようにみえる『キングコング対ゴジラ』には、冒頭でお示ししました通り、1954年版『ゴジラ』から後退しておるぞ、という指摘が多方から寄せられておりまして、確かにご高説もっとも、と頷く側面もあるわけですが、「後退した」というだけで終わらせるには済ませられない影が挿入されているのであります。影には、復興のために切り捨てたはずの戦争の影があり、帝国主義と核開発というアメリカの影もあり、アメリカを受容する中で醸成された現代へも通底するオカルトの影もあると。

 いずれの影もただただ邪な意図から生じたわけではございません。復興にしろ博物学にしろ核開発にしろ、いずれも善し悪しで一刀両断することはかなわない類のものでして、むしろ「明るさ」も含めて折り重なることで、社会の複雑怪奇な様子を鮮明に浮き上がらせるものでしょう。ゴジラが恐怖の対象から子供たちのヒーローに転じて受容されたように。

 1954年から62年に至る日本とアメリカ2国間の新たな展開と錯綜を、現代に至る問題として『キングコング対ゴジラ』は鋭く活写してしまっているのであります。

本多猪四郎の(非)作家主義

 という塩梅で、ここまで初代『ゴジラ』に対して多くの論者が試みてきたように、同時代の現象を踏まえて対象のゴジラ作品を扱うという試みを、1962年の『キングコング対ゴジラ』にも施してきたわけであります。では本作に見出される陰陽の錯綜はいかに語りうるのか。1954年版『ゴジラ』にまで遡りながら、監督を務めた本多猪四郎の言葉を巡ってみようではありませんか。

 そもそも『ゴジラ』は、日本とインドネシアとの合作で企画された映画が頓挫したために、急遽製作された作品。制作は『太平洋の鷹』と同じ田中友幸、監督に本多猪四郎、特殊技術の円谷英二、原作は奇怪な生物が登場する探偵小説で人気を博していた香山滋が担当いたしました。監督を依頼された本多は『ゴジラ』の概要を聞き、復員時のことを考えていたそうな。

 これがきたときには、ぼくは絶対面白いものをつくろうと思いましたね。

 原爆については、これは何回も言っているけど、ぼくが中国大陸から帰ってきて広島を汽車で通過したとき、ここには七十五年、草一本も生えないと聞きながら、板塀でかこってあって、向こうが見えなかったっていう経験があったんです。その原爆によってゴジラが生まれたってことね。25

 そして本多はゴジラという存在について以下のように言いきっております。

 ただ『ゴジラ』のときには、水爆というものの恐ろしさの象徴としてゴジラがあるという設定があることは確かなんでね。それと人間との関わりであるわけですから、民衆というものが、戦争という暴力にあったときに、いかに何らなすことがなく徹底的にいじめられるものであるかっていう片鱗だけでも、あそこに出ればと思ってね。26

 ゴジラという存在に原水爆や戦争のメタファーが込められていたのは確かだということです。

マーシャル諸島ビキニ環礁で行われた水爆実験(1954年)
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 本多の『ゴジラ』に対する意気込みは凄まじく、香山滋の原作を再検討し、自らのテイストにするために原案を所々カットしたと証言しております。

 実際に死の灰を被った人がいるというのに、その実験場と同じところにゴジラが出たというのでは、ぼくは作品としてあまりにもこじつけだと思ったんです。直接的に水爆実験で生まれたという事が原作には徹底的に書かれていたけれど、それ自体でもあまりにも生々しすぎてね。だけどぼくは、ゴジラが生まれたのは水爆実験の影響によるものらしい。それで火を噴いてたりする。それだけは取り入れたけれどね。ぼくは、ゴジラの最初の出に関しては意見を通したんですよ。27

 戦争の経験、同時代の核開発問題を背景としながら作られた『ゴジラ』は、公開当時の映画評では散々にこき下ろされていながら、ご存じのように満員御礼の大ヒット、アメリカ様でも再編集された『怪獣王ゴジラ』が公開されて、批判を吹き飛ばします。一部の文化人からも注目されまして、三島由紀夫と東山魁夷は『ゴジラ』を評価する往復書簡を残し、武田泰淳はオマージュ小説「ゴジラの来る夜」を執筆し、花田清輝は「原子時代の芸術」28にて丸木位里・丸木俊《原爆の図》と『ゴジラ』を比較検討しておりました。

 と、いいましても好意的な意見はどこまでも一部の人々に限られまして、日本の評論文脈においてゴジラが盛んに取り上げられるようになったのは、世界的評価が定着した1990年代以降のこと。ようやくにしてゴジラが省みられ、ゴジラを肴にして核や戦争、アメリカの影を論ずるようになったわけであります。

 こうした流れは、ゴジラを作り上げてきた先人たちの願いにも叶う誠に結構な実践なのでありますが、いささかゴジラの強大さに圧倒されてしまうのか、英霊などといったさらに大きな何かを幻視してしまったお咄しもしばしば目に留まるのであります。加藤典洋は「ゴジラが亡霊であること、ゴジラが第二次世界大戦の日本における戦争の死者、より具体的には戦場に行ってそこで死んだ死者たちの相同物(体現物)にあたっている可能性を、示唆しているのである」と語っている29。そして加藤が肯定的に参照しているのが、赤坂憲雄の次のような主張であります。

 ゴジラはなぜ、はるかな南の海の底から黄泉がえり、皇居のある東京に襲来するのか。『ゴジラ』という映画の基層には、おそらく無意識の構図として、あの太平洋戦争末期の南の海に散っていった若き兵士たちの、行き場もなく彷徨する数も知れぬ霊魂の群れと、かつてかれらを南の戦場に送りだし、いま死せる者らの魂鎮めの霊力すら失って人間に返った、この国の最高祭祀者とが、声もなく、遠く対峙しあう光景が鎮められているはずだ。ゴジラは皇居の周囲をあてどなく巡った末に、不意に背を向けて、ふたたび南の海へ還ってゆく、もはやここには、かれらの魂の悶えを鎮めてくれるものがいないことを悟ったかのように。30

 実は、似たようなゴジラ論は『ゴジラ』公開直後から見られまして、1955年に北垣照雄は精神分析を駆使して、「人類の集合無意識において、大爬虫類が恐るべき邪神であることは、全世界に弘布する神話伝説がこれを証明している」として、水爆という「偉大なる悪の象徴」が水神である龍神神話を模倣する形でゴジラの造形に至ったのだと語っております31

 以上のような幻視的ゴジラ論に対しまして、社会学者のましこ・ひでのりは「因果関係はないとしてもなどと議論をねじまげ、英霊犬死などになんら道義的責任など感じる必然性も倫理性もないはずの戦後世代に負の遺産をおしつけるばかりか、自然災害(津波被害と原発震災に人災的要素がからまるとはいえ)とアジア太平洋戦争に対する清算意識とを直結させる非倫理性=知識人たちの業。それは、世代(加藤・笠井はともに1948年うまれであるが)の病理であろうか?」と述べ、「そもそもファミリー層(児童)むけのB級エンターテインメントに、科学性や政治的な現実性だとか整合性・一貫性などを要求するおとなげなさこそ、子供じみたオタクそのものだ」と一蹴しております32

 ここで今一度省みなければならないのは、本多猪四郎の言葉であります。先に触れたように本多はゴジラと核を結びつけて考えていたわけですが、一方でゴジラを即座に広島や長崎と結びつける態度には否定的であったことに注意せねばなりません。

結局ね、放射能の怖さみたいなものを、どうしたら一番わかるか。それを人間の小ささ、弱さというかたちでシーンを考えたんで、広島、長崎の悲惨さなんてあんなものじゃない、もっとすごいものだと思うし、それはあまりにもすごくなりすぎると。33

 本多は核の脅威をゴジラに仮託しておりました。しかし引き揚げの最中、2つの眼に焼き付いた、灰燼に帰した広島の光景が、彼に『ゴジラ』を撮らせるとともに、ゴジラによって核の脅威を描くことの限界をも自覚させたのであります。これは見方を変えますと、核のメタファーとしての限界を知っていたからこそ、ひとつの比喩だけに執着することなく、他の要素との融合が可能になったと理解することもできるのではないでしょうか。すなわち『キングコング対ゴジラ』において、コメディへの路線変更ができてしまうということが、本多のスタンスを示しているともいえましょう。

原爆投下後の広島市内(1945年11月)
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 ここで肝なのは、テーマを描き尽くすことは不可能だと知りながら、そのテーマで撮ることの意義を堅持していることですな。例えばですよ、作家性を強調した盟友・黒澤明のような制作スタイルであれば、ゴジラの意味こそを徹底的に描き尽くそうとするのではないか。けれども、本多の立場では、己は映画を構成するひとつのエッセンスでしかなく、関係者の意図を汲み、調整しながら、要望された枠にあえて収めにいく。

  「そのときは最善を尽くしてますから、そのことに関しては悔いはないけど、あとから観て、ここはこうしたかったとか、会社と喧嘩しても通せばよかったというような悔しさはあるけどね」と自らの映画人生を回顧した本多ではあるが、「やっぱり甘さというか、作品の中で徹底的に自分のテーマを追求するという気負いは、ぼく自体の中にはなかったような気がする。それが、ぼくがもっているひとつの生き方だと思うんだよね」と語り34、以下のように自らの創作姿勢を総括している。

映画というものに対するぼくの理解、解釈というかね。だれが何と言おうと、これこそが映画であって、これが俺の生きざまだっていう姿勢ね。それができる立場じゃなかったというか、ある意味では商業主義的な撮影所の中で育って、その中でどういうふうに自分の主張を作っていくかという、この作り方ね。その考え方が、ぼくのある意味での厳しさのなさなのかもしれない。35

 実に明快に、作家主義との差異が表明されております。このような創作姿勢には足掛け8年にもわたり、後輩にキャリアを追い抜かされることにもなった、従軍経験があると推察。

 だから、戦争なんか嫌だからといって、射撃の訓練を投げるんじゃなくて、今、弾丸があって、銃を撃たせるという、これは訓練としては面白いんだから、自分の気持ちを納得させるために、うまくなれば射撃記章だってもらって、人に負けないくらいやりました。そういうことをやれば上官だってなぐるわけにはいかないから、なぐられなかったし。そういう考え方だから、なぐったこともないですよ。36

 作家性に固執しなかった創作態度があればこそ、本多はゴジラを揺るがぬ象徴や記号として杓子定規に用いることをいたしませんでした。これはひとつの倫理と言い得るのではないでしょうか。

 ここで改めて『キングコング対ゴジラ』を振り返ってみましょう。企画はアメリカ側から持ち込まれたものであり37、同時に東宝創立30周年記念作品でもありまして、自然、会社側に著作権保有者などなど関わる取り巻きは無数におりまして、プロデューサー・田中友幸以外からも内容や演出に関わる多くの要望が本多猪四郎にもたらされたに違いない。実際、RKO社からは「美女をコングに乗せること」等々の要望があったそうな38。結果、『キングコング対ゴジラ』は前作までまとっていた空気を変質させてしまう。当時から批判もあったようで、本多は次のように語っています。

 ええ、確かに〔怪獣同士の対決ありきの「怪獣映画」へと変質したと:引用者注〕言われても仕方ないし、そういう見方の方が作る側の気持ちをわかっているということですよね。東宝の怪獣ものの路線の作り方っていうのは、こういうことだと。戦わせたら面白いだろうというだけのものでしょう。

 ただし、こういうものであっても、監督というのは自分の作品になるからね。それで手を抜くということにはならないんですよ。手を抜いたら、そんなものできるはずないんですよ。

 だから、その意味では覚悟というのかな……。よし、この中でどうやっていこうか、ということが問題になってくるんでね。39

 どうやら怪獣をどのように描くのか、という点については監督でも手が出せない領域で決められてしまったということでしょう。田中友幸が喜劇よりも活劇を得意としたことを考えますと40、東宝創立30周年ということで田中の一存でもすまない議論だったのかもしれない。

 そんなこんなで、少なくとも「ゴジラ」の怪獣像や演出方針は本多自身が抱いていたイメージを損ねるものになってしまった。そう、広島・長崎の代理表象とまではいかないが、核への警鐘を内包した怪獣像が、会社組織やら諸々の都合によって本多の望まぬ変化を遂げてしまったのであります。先に挙げた怪獣が擬人化してしまうことなどは、本多のうちにあった不満のごく一部だったと。しかし、本多は仕事をなげうつことなく厄介と向き合いまして、後景化を余儀なくされた反核のメッセージの代わりを探し出すんですな。

 ストーリーのベースになっているのはテレビの視聴率競争でね。この頃からテレビ業界で、どう思いがけない新手を発見するかっていう競争が相当熾烈になってきた頃でね。そこに話を絞っていってね。これに関しては、演出家としては皮肉も込められるしね。

 結局は、われわれ自身も、そういうものに踊らされているんじゃないかというかたちで、ぼくはそれを演出の起点にしたんですよ。41

 1958年に約11億人とピークを誇った日本映画の観客動員数も、テレビの爆発的な普及を受けて『キングコング対ゴジラ』公開の翌1963年には約5億人と半減しております。それと反比例するかのようにテレビが家庭の必需品と化していきまして、1958年に普及していたテレビは100万台であったところ、1961年には700万台を突破しております42。同時にテレビの広告費は1065億円から3年間でおよそ2倍の2110億円に急増43。本多は映画のおかれた状況から、テレビへの皮肉、また皮肉を言ってしまう己も含めた映画制作者自身をも射程に収めながら、『キングコング対ゴジラ』のコメディ路線の物語を作っていったということでしょう。

街頭テレビに集まる人々(1964年)
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 ところで『ゴジラ』および『ゴジラの逆襲』の原作を担当した香山滋は、ゴジラを恐怖の対象として創造しながら怪獣がエンタメ的な人気を得てしまったことを悔いていたからか44、『キングコング対ゴジラ』には関わっておりません。香山は影が光へと転じてしまうことに耐えられなかったのでありましょう。けれども、本多猪四郎は核の脅威というテーマ性が減じたとしても、1954年版の『ゴジラ』にも存在した疎開という人々の行動や、カラー映画によって初めて可能となったチェレンコフ光表現などを加味することによって不足したテーマ性を補い、さらにコマーシャリズム批判という新たなメッセージを加えることによって、初代『ゴジラ』にも劣らぬ映画を作ろうと試みたのであります。

 また幸いというべきか、本多は元々チャップリン、キートン、ロイドに代表される喜劇映画を愛好し、「娯楽のなかに芸術性を盛り込んだような作品が、一番興味」をもつ人物でありまして45、『キングコング対ゴジラ』はゴジラ映画としては路線変更であったかもしれませんが、それは本多猪四郎が好みとする作風でもあったのであります。

 本多の証言を踏まえて『キングコング対ゴジラ』を振り返ってみましょう。核の象徴であるゴジラと、コマーシャリズムによって連れてこられたキングコングが暴れまわり、決闘する。ところがゴジラは自衛隊の装備や電車を破壊しているものの、自衛隊の高圧電流作戦の効果もあり、人が少ない山を歩いて都市に辿り着くことがない。一方キングコングはゴジラが突破できなかった電流を突破し、東京に被害をもたらす。核が科学で封じられる可能性を示唆する一方で、コマーシャリズムは科学をものともせず、一国の首都をも脅かす。広告競争および背後にある資本主義経済の恐ろしさが強調されていると見てとれましょう。

 映画のラストでは、ゴジラとキングコングが抱き合って戦場からリングアウトし、海に転落したのちは何事もなかったかのように2匹は咆哮して引き揚げていく。核とコマーシャリズムはプロレスを演じるだけで、血みどろの決着をつけることなく、我が道を行く。そもそも人為的に結びつけられねば両者の化学反応など起きもしなかったわけだが、キングコング自体がコマーシャリズムの象徴ではなく、意図せず連れてこられた被害者であることを考慮すると、本質的に闘う理由なんて存在しないわけだ。ゴジラもコングもコマーシャリズムに踊らされていただけと受け取れるし、視聴率のために日本を巻き込んで大暴れするパシフィック製薬の多湖部長のキッチュなまでの姿は46、コマーシャル自身が踊り踊らされる様を見るようではないですか。

 するってぇとコマーシャリズムなるものは、核やら植民地を手玉にとるけったいな代物か、というと世の中そうそう単純ではございません。力道山は確かに復興の象徴で、多くの人々に活力と興奮、外国人にも負けないぞ、という勇気を与えたのは確か。ご存知のようにプロレスはブック(台本)でありまして、観客が喜ぶ演出が意図されているからこそ、後々、ショー性を排して真剣勝負(シューティング)を志向したUWFが登場し、「プロレスラーは本当は強いんです」なる言葉が意味を持つようになりもする47。しかしながら、コマーシャリズムだからこそ力道山は人々の希望足り得たわけです。

 演出家としての本多は、意味のある批判が同時に批判対象であるコマーシャリズムに回収され、「踊らされ」ることを重々理解しておりましたので、踊り踊らされながら着実にコメディに影を挿入したり、アメリカによってトリガーを引かれた2匹の怪獣にプロレスを演じさせていく。『キングコング対ゴジラ』でなされた捻れた演出は、『ゴジラ』で成し得なかったアメリカと同時に日本を撃つという離れ業。「反核メッセージ」というテーマだけで「ゴジラ」シリーズを眺めていては捉えられない代物なのであります。

 本多猪四郎は『キングコング対ゴジラ』の制作において、己と映画関係者たち、そして把握すらできない無数のコマーシャリズムとの緊張関係を想定しておりました。ゆえに『キングコング対ゴジラ』は「光と影」の二元論で成り立つ作品ではございません。さりとてコマーシャリズムの一元論でも、相対主義でもありません。個々の要素に目を凝らせば、それぞれに歴史や強固な体系を有しているからであります。これらを意図的に林立させることによって錯綜を生じさせ、さらに想定不可能な外部も許容する、というのが本多の自覚的なスタンスにして倫理。故に資本主義が隅々までいきわたる空間において日米の関係を遠景としながら、自然科学、学術研究、大衆文化等々が所々で結びつく、楽しく、滑稽で、残酷な世界が形づくられることになったのでありましょう。ただ、形づくるのは「そうしたい」と抗弁するだけで可能になるものではありませんで、不満も呑み込みながら可能な範囲で妥協を許さぬ制作を行うという、「うつし世を渡る困難」の果てに本多がやり遂げた成果であるといえましょう。

「疑似免責のプロトコル」の罠

 先に触れましたように、ましこ・ひでのりは、様々なゴジラ論が過剰なまでの飛躍した解釈を提示していることを批判しております。ですが、なぜかくも多くの論者がゴジラに対してスピリチュアルな意味を幻視してしまうのか、という問題をそのままうっちゃってしまうのはよろしくない。なんせ本多猪四郎は平和を実現できないことを問いとして抱き続けた監督ですからね、幻視する人々を外部として切り捨てるなどもってのほか。看過せずに我々は考えねばならんでしょう。さすれば『ゴジラ』という作品によって炙り出される、戦争表象の解釈における隘路も明らかになるというもの。

 さて、ましこは、ゴジラ論者たちを批判する文脈のなかで、核に関する言説がアクロバティックになってしまうことには理解を示しております。その際にましこが参照するのが、カトリック信者で自身も長崎で被爆した、医師・医学者の永井隆が主張した「浦上燔祭説」であります。「長崎への原爆投下をホロコーストとして位置づけ、神が与えた試練であり、神に感謝すべきといった」永井の解釈について、「原爆の圧倒的な破壊力が、超越的な存在がもたらした劫火と受けとめられたからであろう」とましこは述べております48

 同じく「浦上燔祭説」を扱い、アニメ『きみの色』を論じたてらまっとは、永井の原爆解釈が、原爆被害者たちの苦悩を和らげるためのものであったと捉え、その思考の流れについて以下のように語っております。

つまりこのプロトコルは、多くの人が合意しうる間主観的な「正しさ」によっては決して作動しない。むしろ世間的にはただちに訂正される側、すなわち詭弁や屁理屈、陰謀論、さらには作り話(フィクション)に近いと言うべきだろう。にもかかわらず、というよりだからこそ、それは理不尽な現実に打ちひしがれた人々を癒やすことができる。自分が正しくないことを、間違えてしまったことを悔やむ人々を慰め、励ますことができる。ほんの一時にすぎないとしても、耐えがたい罪悪感や自責感を和らげることができる。わたしはこれを「免責のプロトコル」と呼ぶことにしたい。49

  「免責のプロトコル」はゴジラ言説のなかにも見出すことができまして、例えば赤坂憲雄は、「わたしはくりかえすが、三・一一後の言葉を奪われた不安のなかで、『ゴジラ』と『風の谷のナウシカ』をすがるように観たことをけっして忘れないだろう。この本は、わたしにとっての東日本大震災をめぐる思索の出発点を、自分なりに明らかにすることを目指して書かれた、といってもいい」と語っております50。赤坂が『ゴジラ』を英霊の象徴として捉えたのは実は1990年代のことでして、彼は自らの資質でもって東日本大震災に直面した自身の苦しみを癒やすための「免責のプロトコル」を先回りして準備し、さらに展開させたことになるのでしょう。

爆発する福島第一原発3号機(2011年3月)
出典:oztvwatchers’ channel

 戦争を経験し、1954年『ゴジラ』の公開をリアルタイムで体験した当事者も、終戦から9年後というタイミングに鑑みれば、「免責のプロトコル」として自らの戦争経験を省みる人々が少なからずいたことでありましょう。先の北垣照雄は好例であります。

 しかし、現代のゴジラ論者の多くに「免責のプロトコル」を見出すことはできるのか。そりゃ個人レベルでの問題はあるかもしれないが、コミュニティ以上の規模で共有される危機が、彼らの言説の底流に控えているのか否か。個人の問題か、社会的な問題なのかは、簡単に線が引けないがゆえに丁寧な議論が必要でしょう。仮にですよ、個人的な危機に促されていたのであれば、ゴジラ論としてではなく、別の位相での議論が必要なのではございませんか。

 先行するゴジラ論を見るに「免責のプロトコル」が伝播することには2つの問題がございます。1つは人々を癒やすためのロジックであった「免責のプロトコル」が、本来の目的を喪失して表層だけを受け取られることで、詩的飛躍として理解され、さらなる詩的営為に組み込まれてしまう危うさを帯びていること。2つ目は、表層的な詩的営為の連鎖の中で、論者によっては疑似的な「免責のプロトコル」を生み出してしまうこと。

 ゴジラという存在に則していえば、日中戦争や太平洋戦争を経験した世代が語る言説は「免責のプロトコル」といえよう。しかし、戦後に生まれた世代が先行世代のゴジラ論を踏まえつつ「免責のプロトコル」に酷似した主張を行う場合、多くは「疑似免責のプロトコル」である可能性を考慮しながら扱うしかありますまい。「免責のプロトコル」から触発を得る時点で、過去に思いを馳せんとする論者の真摯な思いがあるのでございましょう。が、あにはからんや、反ってその姿勢こそが、本来当人が持ちえない「免責」されるべき罪責感を、継承したかのような錯覚に陥らせてしまうわけさ。故に過剰な解釈の氾濫が生じる、という寸法。

 無論、歴史を踏まえて鑑賞することで、人々を「疑似免責のプロトコル」へといざなう回路たり得てしまうことは、『ゴジラ』という作品の懐の深さを改めて示しているといえましょう。

 一方で、2001年の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ  大怪獣総攻撃』でゴジラが太平洋戦争の怨霊と位置づけられたように、戦争を経験していない世代にも英霊・怨霊説が語り継がれたことで、同内容の台詞が本編に現れた。それをうけて小野俊太郎『ゴジラの精神史』では「要するに太平洋戦争の記憶が映画の制作者と当時の観客のあいだに共有されていて、ゴジラのなかに英霊を読みこむのははっきりしていたわけだ」と語られるなど、英霊・怨霊説を公式見解と捉えようとする向きもございます51。かように『ゴジラ』を論じる方々が「疑似免責のプロトコル」に陥るということは、限界の自覚に基づく非作家主義的な本多猪四郎の倫理から見て後退しているといえますまいか。

  「ぼくなんて、最も作家らしくない作家に見えるんじゃないかな」というように作家性を過度に強調しようとしなかった本多猪四郎でございますが、「監督するなり、物を作るときに、その目で見ればいいんだ、見なくてはいけないんだと、そういう生き方というか進み方がぼくの作品を支えているんだと思うんですよ」とも述べておりまして、描かれる内容よりも対象を見つめるまなざしに重きをおいている52。脚本でもなく、演技でもなく、カメラで撮り、編集された映画という表現とリンクする考えである。前節では本多が対立項との緊張関係によって『キングコング対ゴジラ』を監督していたことを指摘いたしましたが、そもそも映画という表現は多くの仲間たちとの関わりによって可能になるものであります。

 宇宙の中では、自分の、人間の世界とほかの生命とは何ら変わるところはない。そのかかわりの中で生きているんであってね。

 ぼくが作った、誰が作ったということを言うけれど、ぼくがある発想で作ろうとした、あるいはプロデューサー、脚本家が作ろうとしても、それぞれのものが住んでいる世界から、何とはなしにできあがったものが、そこにかたちになってくるんであってね。53

 本多猪四郎は、自らが監督した作品が己を多分に表現したものとしては考えておりません。人や社会との関わりの中で生まれる作品には、個性が含有されているが、関わった人々や背景にある社会との共作であるとの創作姿勢があり、だからこそ本多には己の解釈を立ち上げて作品を完結させようという態度もございません。このような認識には戦争を経験し、会社の中で映画を作ってきたことで培われた「うつし世を渡る困難」への理解があります。

結局、ぼくは本当の「悪」というものを描けないんですよ。本当の悪というのは、ぼくはとても……。だから、殺人鬼みたいなかたちでも、ぼくのもっているものの中からすると、それぞれが一所懸命生きながらぶつかっていくみたいなものでね。54

 という言葉にみられるように、本多には語ることと、真の何かがあると言い切ることへの躊躇がある、だから代わりにまなざしを提示する。このためらいこそが「疑似免責のプロトコル」に陥ってしまう方々との差異ではなかろうか。

 お断りしておきますが、戦争や天変地異を前にして「免責のプロトコル」が生じることは自然なこと、「うつし世を渡る困難」を蛇行して歩むための糧であります。本多は「とにかく自然に関わったら、人間の力のおよばないところは祈りしかない」とも語っておりまして55、『ゴジラ』においてゴジラの被害に対して神楽舞や若者たちの合唱が挿入されておりますし、『キングコング対ゴジラ』ではファロ島民が魔神・キングコングに向けた儀式を執り行っている。

 ですが、非当事者が錦の御旗として「免責のプロトコル」を掲げることは、綾がついた社会、錯綜した状況を単純化して快感を得ることにしかなりゃしませんので、ためらいをもってなされるべきでありましょう。「免責のプロトコル」にご登場願うときは、自意識ばかりと戯れるのではなく、気心の知れぬ組織や環境の中に置かれた「私」を問い直し、仲間と頭を突き合わせ、控えめにまなざしを差し出すことが、過剰な解釈への対処法となるにちがいない。

 戦後80年が経過した今だからこそ、本多猪四郎の倫理を今一度省みてはいかがだろうか。

著者

朝松雨音 ASAMATSU Amane

在野研究者。専門は日本近現代文学、探偵小説。

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脚註

  1. 吉見俊哉『夢の原子力』ちくま新書、2012年、231頁。 ↩︎
  2. 富山省吾「プロデューサー・田中友幸の想い出」、木原浩勝、清水俊史、中村哲編『「ゴジラ」東宝特撮未発表資料アーカイヴ プロデューサー田中友幸とその時代』角川書店、2010年、138頁。 ↩︎
  3. 田中友幸「特撮映画の思い出」、東宝株式会社出版事業室 企画・編『東宝特撮映画全史』東宝出版事業室、1983年、53–54頁。 ↩︎
  4. 鈴木一八『映画裏方ばなし』講談社、1980年、47頁。 ↩︎
  5. 切通理作『本多猪四郎──無冠の巨匠』洋泉社、2014年、76頁。 ↩︎
  6. 同書、79頁。 ↩︎
  7. 小林淳は、1958年のピークを境に需要が下降する映画界で、東宝・松竹・大映・日活という大手5社が熾烈な競争を繰り広げる中で、各社が独自色を打ち出していき、東宝がサラリーマン喜劇を看板のひとつとしたことを指摘する。そして『キングコング対ゴジラ』という一大プロジェクトにシリアスな物語ではなく、サラリーマン喜劇を充てたことを英断として評価している(『本多猪四郎の映画史』アルファベータブックス、2015年、371–372頁)。 ↩︎
  8. 上野昂志『肉体の時代──体験的’60年代文化論』現代書館、1989年、357–358頁。 ↩︎
  9. 坂堅太 「二重化された〈戦後〉」、『日本文学』 64巻2号、日本文学協会、2015年、41頁。 ↩︎
  10. 力道山の生前に刊行された金田達夫作、森熊猛画『王者力道山──世界選手権をわが腕に』(紫生書院、1955年、5–6頁)には、カナダ人の巨漢を圧倒した力道山の活躍を受けて「もう誰も、日本人がプロレスに向かないなどと考える者はなかった。日本人でもできる。いや、日本人は強いという確信だった」という文章が見える。 ↩︎
  11. 同書の巻頭グラビアでは、蔵前国技館で行われた力道山 VS. キング・コングの模様が掲載されている。 ↩︎
  12. 原口智生「『キングコング対ゴジラ』(62年)」、神武団四郎編『キング・コング入門』洋泉社、2017年、51頁。 ↩︎
  13. 本多猪四郎『「ゴジラ」とわが映画人生』 実業之日本社、1994年、160頁。 ↩︎
  14. 飯倉義之「美しい地球の〈秘境〉──オカルトの揺籃としての一九六〇年代〈秘境〉ブーム」、吉田司雄編『オカルトの惑星』青弓社、2009年、23–24頁。 ↩︎
  15. 飯田卓「昭和30年代の海外学術エクスペディション──「日本の人類学」の戦後とマスメディア」、『国立民族学博物館研究報告』31巻2号、国立民族学博物館、2007年、227頁。文中のカンマを読点に変更した。 ↩︎
  16. 同論文、240–242頁。 ↩︎
  17. 東宝三十年史編纂委員会編『東宝三十年史』東宝、1963年、208頁および326–327頁。 ↩︎
  18. 飯倉、前掲論文、26–27頁。 ↩︎
  19. 橋本順光「山田長政の秘宝譚──『日東の冒険王』からオーストラリアの伝説まで」(『日本研究論集』第12号、2015 年、103–104頁)では、三島由紀夫、澁澤龍彥、寺山修司らが、南洋一郎・山中峯太郎らの南方冒険譚に夢中になっていたことを指摘している。また松岡正剛「732夜 ジェームズ・チャーチワード「失われたムー大陸」」(『松岡正剛の千夜千冊』2003年3月13日、 2025年11月15日最終閲覧)では澁澤龍彥・寺山修司・荒俣宏らが大陸書房を収集していたことが語られている。 ↩︎
  20. 高橋ヨシキ「『キング・コング』(33年)   Vol. 1」、『キング・コング入門』、10頁。 ↩︎
  21. 山崎智之「『キング・コング』(33年)   Vol. 2」、『キング・コング入門』、22頁。 ↩︎
  22. 八本正幸『ゴジラの時代』青弓社、2014年、71頁。 ↩︎
  23. 宮本陽一郎『モダンの黄昏──帝国主義の解体とポストモダニズムの生成』研究社、2002年、21–46頁。 ↩︎
  24. 池田淑子「ゴジラ映画に見るアメリカ人の心情──『怪獣王ゴジラ』から『モスラ対ゴジラ』まで」、池田淑子編『アメリカ人の見たゴジラ、日本人の見たゴジラ』大阪大学出版会、2019年、76頁。 ↩︎
  25. 本多、前掲書、89頁。 ↩︎
  26. 同書、93頁。 ↩︎
  27. 同書、84–86頁。 ↩︎
  28. 花田清輝「原子時代の芸術」、『花田清輝全集 第5巻』講談社、1977年、273-275頁。 ↩︎
  29. 加藤典洋『さようなら、ゴジラたち──戦後から遠く離れて』岩波書店、2010年、148頁。 ↩︎
  30. 赤坂憲雄『ゴジラとナウシカ──海の彼方より訪れしものたち』イースト・プレス、2014年、38頁。 ↩︎
  31. 北垣照雄「水爆怪獣映画と竜神伝説」、『精神分析』東京精神分析学研究所、1955年、16–21頁。 ↩︎
  32. ましこ・ひでのり『ゴジラ論ノート』三元社、2015年、62頁。 ↩︎
  33. 本多、前掲書、90頁。 ↩︎
  34. 同書、240頁。 ↩︎
  35. 同書、240–241頁。 ↩︎
  36. 同書、224頁。 ↩︎
  37. 『キングコング対ゴジラ  コンプリーション』ホビージャパン、2021年、64頁。 ↩︎
  38. 同書、65頁。 ↩︎
  39. 本多、前掲書、159頁。 ↩︎
  40. 田中文雄は「藤本真澄は喜劇がうまく、一方田中友幸は活劇が得意だった」として、田中と先輩プロデューサーである藤本との差異を指摘している(『神(ゴジラ)を放った男──映画製作者田中友幸とその時代』キネマ旬報社、1993年、132頁)。 ↩︎
  41. 本多、前掲書、159頁。 ↩︎
  42. 佐藤忠男『日本映画史 3』岩波書店、1995年、17頁。 ↩︎
  43. 上野、前掲書、344–346頁。 ↩︎
  44. 香山滋「『ゴジラ』ざんげ」、東雅夫編『怪獣談』平凡社、2025年、410–411頁。 ↩︎
  45. 本多、前掲書、24頁。 ↩︎
  46. 樋口尚文は、「大まともで淡々とした本多演出が期せずしてキッチュな面白さを持ってしまうこと」を指摘している(『グッドモーニング、ゴジラ──監督本多猪四郎と撮影所の時代』国書刊行会、2011年、200頁)。 ↩︎
  47. 1997年12月21日に開催された「UFC Japan: Ultimate Japan」第6試合 UFC-Jヘビー級トーナメント 決勝戦マーカス・コナン・シウヴェイラ VS. 桜庭和志、試合後におこなわれた桜庭の勝利者インタビューより。 ↩︎
  48. ましこ、前掲書、31頁。 ↩︎
  49. てらまっと「救済のパラフレゾロジー──長崎、京アニ、きみの色」『週末批評』2024年9月20日(2025年7月19日最終閲覧)。 ↩︎
  50. 赤坂、前掲書、189頁。 ↩︎
  51. 小野俊太郎『ゴジラの精神史』彩流社、2014年、83頁。 ↩︎
  52. 本多、前掲書、244頁。 ↩︎
  53. 同書、247頁。 ↩︎
  54. 同書、88頁。 ↩︎
  55. 同書、94頁。 ↩︎

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