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ウィズ・ザ・ビートルズの消失──村上春樹『一人称単数』装画を読む|倉津拓也

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代表作『アンダーカレント』などで知られ、寡作ながら国内外で高く評価される漫画家・豊田徹也(1967–)。 豊田は村上春樹の短編集『一人称単数』の装画も手掛けているが、そこではある謎めいた「消失」が起こっているという。 2023年11月の文学フリマ東京で頒布された同人誌『豊田徹也  友の会(かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン編)より、この消失事件の謎を追う書店員・倉津拓也のテクストをA/B両面に再構成してお届けする。

文:倉津拓也

目次

A-Side:消えたレコード

 漫画家・豊田徹也はあるインタビューのなかで、村上春樹からの影響について以下のように述べている。

村上春樹さんの小説は初期のころから大好きで繰り返し読んできましたが、まだろくに漫画を描いていなかった自分にとってあまりにも影響が強すぎると感じ、「ねじまき鳥クロニクル」以降の長篇は読まないようにしていました。それでもこれまで描いた自分の作品には、どこか村上作品の残響を感じます。1

 豊田は村上の短編小説集『一人称単数』(2020)の装画を手掛けている。「村上春樹と装丁」という特集が組まれた『illustration』誌のNo. 239(2023)によれば、豊田への依頼は、担当編集者が推薦し、村上が了承したという経緯のようだ。

 映画化もされた豊田によるコミック『アンダーカレント』(2004–05)には、「ドルフィン」という喫茶店が登場する。おそらくこれは村上の長編小説『ダンス・ダンス・ダンス』(1988)に登場する「ドルフィン・ホテル」へのオマージュだろう。他にも「失踪する夫」など、『アンダーカレント』には村上作品を連想させる道具立てが見られる。

 また、『一人称単数』に収録されている「ウィズ・ザ・ビートルズ」という短編には、芥川龍之介の「歯車」から、「誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」という一節が引用されている。そして『アンダーカレント』にも、主人公・かなえが自分を絞め殺してくれる人をずっと待っていたことを告白するシーンがある。このような作品に見られる共通性から、豊田への依頼が決定したのではないかと思われる。

 豊田はカバーの装画として「歩いている少女」と「ベンチが2つ並んだ公園」、そして扉絵として「レコードをかける猿」を描いた。それらを着色し、デザインしたのは、村上作品の装丁を数多く手掛けている大久保明子だ。

村上春樹『一人称単数』表紙。右上隅にあるのが「ウィズ・ザ・ビートルズ」のレコード
撮影=筆者

 少女、公園、猿、レコード。これらのモチーフが『一人称単数』の装画に選ばれたのはなぜだろうか。

 豊田によれば、装画の少女は「ウィズ・ザ・ビートルズ」に登場する少女のイメージ、公園については『一人称単数』のそれぞれの登場人物がやって来て、座ったり通り過ぎたりするようなイメージで描いたという。言及はないものの、「レコードをかける猿」については、本書に収録された「品川猿の告白」に登場する猿をイメージして描かれていると考えられる。

  「品川猿の告白」は、村上の他の短編集『東京奇譚集』(2005)に収録された「品川猿」の関連作品である。「品川猿」には「松中優子」という人物が登場し、以下のような発言がある。

嫉妬の感情を経験したことのない人に、それを説明するのはとても難しいんです。ただひとつ言えるのは、そういう心とともに日々を送るのは、まったく楽ではないってことです。それは実際のところ、小さな地獄を抱え込んでいるようなものです。2

 また、「ウィズ・ザ・ビートルズ」には、主人公のガールフレンドであるサヨコ(サヨコには「品川猿」の「松中優子」と同名の「ユウコ」という妹がいる)との、以下のような会話がある。

「ねえ、知ってる?」と彼女はソファの上で、僕に打ち明けるように小さな声で言った。「わたしって、すごく嫉妬深いの」  

「ふうん」と僕は言った。  

「それだけは知っておいてほしかったから」  

「いいよ」  

「嫉妬深いってね、ときにはすごくきついことなの」3

  「品川猿」と「ウィズ・ザ・ビートルズ」に登場する嫉妬深い女たちは、どちらも嫉妬が原因で自殺していることが示唆されている。このように、豊田によって描かれた2つの絵、「レコードをかける猿」(「品川猿の告白」)と「歩いている少女」(「ウィズ・ザ・ビートルズ」)には、「嫉妬深い女」という共通項を介した関係性をみることができる。

 それでは「ウィズ・ザ・ビートルズ」の少女について、小説中での登場部分を引用してみよう。

彼女は美しい少女だった。 少なくともその時の僕の目には、彼女は素晴らしく美しい少女として映った。それほど背は高くない。真っ黒な髪は長く、脚が細く、素敵な匂いがした(いや、それは僕のただの思い込みなのかもしれない。匂いなんてまったくしなかったのかもしれない。でもとにかく僕にはそう思えたのだ。すれちがったときにすごく素敵な匂いがしたみたいに)。僕はそのとき彼女に強く心を惹かれた──LP「ウィズ・ザ・ビートルズ」を胸にしっかりと抱えた、その名も知らない美しい少女に。4

  『一人称単数』のカバーでは、少女と「ウィズ・ザ・ビートルズ」のLP盤レコードだけがクリーム色で着色されている。本書の他の短編「クリーム」では、クリームとは「人生のいちばん大事なエッセンス」5のことであり、「それ以外はな、みんなしょうもないつまらんことばっかりや」6とされている。ここから、表紙の少女とレコードのクリーム色には、「人生のいちばん大事なエッセンス」が表現されていると考えられる。

 しかしカバーを外す(discover)と、表紙の公園に少女の姿はなく、裏表紙ではレコードも消えている。この消失は、何を表現しているのだろうか。

村上春樹『一人称単数』カバーを外した表紙と裏表紙
撮影=筆者

  「ウィズ・ザ・ビートルズ」では、少女を目にしたのは一度だけで、それも実際に存在した出来事だったのかどうかはわからない、白日夢だったかもしれない、と回想されている。

 しかし、そんな現実だったのか夢だったのかもわからない、あやふやな記憶のなかの出来事が、登場人物によって以下のように語られる。

そのようにして、あるときには記憶は僕にとっての最も貴重な感情的資産のひとつとなり、生きていくためのよすが・・・ともなった。7

 ここで小説の中には登場しないものの、村上春樹によるものと推測される、『一人称単数』帯文の文章を引用してみよう。

短編小説は、ひとつの世界のたくさんの切り口だ8

一人称単数とは世界のひとかけらを切り取る「単眼」のことだ。しかしその切り口が増えていけばいくほど、「単眼」はきりなく絡み合った「複眼」となる。そしてそこでは、私はもう私ではなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。そこで何が起こり、何が起こらなかったのか?  「一人称単数」の世界にようこそ。9

 この短編集では、どの作品にも主人公の固有名が出てこない。語り手には漢字の「僕」、ひらがなの「ぼく」、そして「私」という一人称単数が使用されている。

 一般に一人称の物語を読む、ということは、現実にはばらばらに存在する読者が、物語のなかの「私」の状況に同化(assimilate)10して読むということだ。そこで読者である「あなた」は現実の「あなた」ではなくなり、さらに物語のなかで「あなた」は「あなた」という人間の核となるような「最も貴重な感情的資産」、「クリーム」としての記憶が、現実に存在していたのかわからなくなるような、あるいはずっと現実に底流(undercurrent)していたことに初めて気づくような、特殊な経験をすることになる。

 この特殊な経験は、例えば自分の妻や娘と積み重ねてきたかけがえのない記憶が、実はついさっき脳にプログラムされたばかりの偽の記憶だったのではないかと疑うような体験のことだ。そして「あなた」はこれまでの「あなた」ではなくなっていく。

 豊田によって描かれた表紙の少女の、そして「ウィズ・ザ・ビートルズ」の消失には、そのような『一人称単数』の読書体験が表現されているように思う。  

 それではそのような読書体験は、読者に何をもたらすのだろうか。

  「品川猿」は、その読書体験を寓話的に表現したものとして読むことができる短編である。品川猿は愛する人間の名前を盗んでしまう。自分ではその衝動を抑えることができない。盗まれた人間は自分の名前を思い出せなくなる。そこでは「私はもう私ではなくなり、僕はもう僕でなくなっていく」。

 そのような名前を盗む行為に対して、品川猿は以下のように弁明する。

〔…〕わたしはたしかに人さまの名前を盗みます。しかしそれと同時に、名前に付帯しているネガティブな要素をも、いくぶん持ち去ることになるのです。これは手前味噌かもしれません。しかしもしわたしが松中優子さんの名前を、あのとき盗み出すことに成功していたなら、あくまでひとつの小さな可能性としてですが、松中さんはあのように自らの命を絶たずに済んだかもしれないのです」11

「もしわたしが松中優子さんの名前を盗むことに成功していたら、わたしはそれと一緒に、あの人の心に潜む闇のようなものをも、いくらか取り去っていたかもしれません。わたしはそれを名前ごと、地下の世界に帯同していくこともできたのではないかと思うのです」12

 私たちは物語を読む。そのなかで名が、還元不可能で特異な存在である「この私」とその名前が、一人称単数の「私」の意味するところで欺かれ、盗まれる。同時に、私の心に潜む闇──死に至るような嫉妬心──も併せて盗まれ、「地下の世界」へと持ち去られることになる。

 そのような物語経験が、「品川猿」では猿の形を借りて表現されているように思う。物語を読むということは、名の盗みによってもたらされうる、治癒の小さな可能性なのだ。

 もしかしたら扉絵に描かれた「レコードをかける猿」がかけようとしているレコードは、カバーの装画から盗まれた「ウィズ・ザ・ビートルズ」なのかもしれない。

村上春樹『一人称単数』扉絵
撮影=筆者

B-Side:哲学の始源

 批評家の東浩紀は『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)で、物語内の「虚構」と物語外の「現実」を繫げる所作として「感情のメタ物語的な詐術」という技法を紹介している。

 一般の小説で用いられる「三人称客観」描写は、物語内と物語外、虚構と現実の境界を画定させる。例えば太宰治「走れメロス」で「メロスは激怒した」というとき、その語り手は物語外から物語内の出来事について著者=立法者の視点から語ることになる。

 このような描写に対して、『ゲーム的リアリズムの誕生』で取り上げられる美少女ゲーム、竜騎士07『ひぐらしのなく頃に』のラストシーンについて、東は以下のように論じている。

竜騎士は「私たち」と「あなた」を区別せず使っており、そこにさらに、前述のメタ物語的錯覚の梃子だった特殊な登場人物、「羽入」を登場させている。語り手の感情はいつのまにか読者の感情とすりかえられ、それはさらに羽入の感情とすりかえられていく。13

 東によれば、ここでは語り手の一人称複数(私たち)と読者の二人称単数(あなた)、そして「詐術」によって、あたかも読者自身であるかのような位置に置かれた三人称単数(羽入)の位置がすりかえられていくことになる。

 このような物語外の現実とつながった感情操作のメカニズムについて、東は「私たちはそこにこそ、作家の現実観や世界観、多少おおげさな言葉を使えば、一種の『哲学』を読み取ることができる」14と述べる。

  「哲学」とは何か。

 人称によって感情移入の場所を操作する技法について語った東は、自身の『存在論的、郵便的』(1998)において、一貫して「私たち」という一人称複数を用いる。一人称複数を用いる効果としては、個人ではなく共同体の一員として語ることで、仮に設定された解釈集団、「東浩紀によるデリダ」への帰属感を高める効果を持つだろう。

 しかしラストシーンの332頁以降、『存在論的、郵便的』は「私たち」から「私」という一人称単数へと移行する。そのことは東自身の内面や感情が直接表現されているかのような「錯覚」をもたらし、読者は東の思考過程や感情に深く同化することになる。また、これは読者である「私」自身が考えることでここに到達したのだ、と錯覚させるような効果も合わせて持つだろう。ここにも人称の操作による感情の「詐術」を読むことができる。

 このような操作によって生まれる感情移入について、フロイトは「転移(Übertragung)」、もしくは「感情関係(Gefühlsbeziehung)」と表現する。『存在論的、郵便的』によれば「転移=無意識的条件の整備が、知=意識に先行する」15。そして、「思弁の可能性そのものが転移=郵便により開かれる」16。この「思弁(Spekulation)」は、「哲学」と等値されると考えてよい。

 この「詐術」から、哲学が始まる。

 このような「詐術」は、政治哲学でも見ることができる。哲学者のジャック・デリダは「タイプライターのリボン  有限責任会社II」(『パピエ・マシン  上』所収)のなかで、批評家のポール・ド・マンによるルソー『社会契約論』の以下の部分の読解に触れ、「ド・マンは素晴らしい解釈を示しています」と述べる。

一般意志が常に正しいのはなぜか。また、すべての人が各人の幸福を絶えず望むのはなぜか。誰もがこの各人という言葉をこっそり自分のことと考え、すべての人のために投票する際にも自身のことを考えずにいられないからではないか。17

 ルソーの「一般意志」とは「みんなの意志」という意味である。そして「みんな」には「この私」も含まれるため、それに基づいて政治が行われることで「みんな」と「この私」、国家と個人の対立は消失する、というのがルソーの考えである。

 では「一般意志が常に正しい」のはなぜか。ここには大きな謎があり、これまでに様々な解釈が展開されてきた。『社会契約論』のこの部分について、ド・マンは以下のように論じる。

先の一節が明示するように、法の錬成と適用(あるいは正義)の不適合性を乗り越えることができるのは欺瞞行為だけである。「この各人という言葉をこっそり自分のことと考え〔る〕」というのは、まさにわれわれには受け取る資格がないとこのテクストが言明している意味──すなわち、テクストの一般性を破壊する個別的な私〔I/Je〕──を当のテクストから盗み取ることにほかならない。18

 ここでド・マンは、『社会契約論』というテクストの効力として、個別的で交換不可能な「この私」を一般的で交換可能な「各人」というテクストのなかに読み込ませてしまう、という欺瞞について論じている。上記のド・マンのルソー解釈について、デリダは以下のように論じる。

欺きによらなければ、この矛盾を、この両立し難さを解決することはできないのです。ところでこの欺きの暴力は、盗みにあります。言語における盗みであり、語を盗むことであり、語の意味するものを勝手に自分のものとすることです。どんな語でも勝手に自分のものにすればいいというわけではありません。これは絶対的な〈置き換え〉であり、主体の盗みなのです。正確には、各人という語を盗むことです。この語が「わたし」を意味するとともに、すべての「わたし」の一般性を意味するところで、この語を盗むのです。19

 政治とは、集合的な決定のことだ。複数いる人間の、集団としての統一した決定が必要な場合に、政治が要請される。言い換えれば、政治とは公と私を結びつける営みである。しかし、公と私を結びつけることは不可能である。この不可能を可能にする際に、「詐術」が用いられる。

 この「詐術」から、政治哲学が始まる。

著者

倉津 拓也 KURATSU Takuya

1979年愛媛県生まれ。京都大学法科大学院法学研究科法曹養成専攻修了。書店員。関西クラスタ。じんぶんTV。週末批評。うすもの談話室。

主な論考に「幽霊に憑かれた『存在論的、郵便的』」(『はじめてのあずまんω』)、「金森修「動物に魂はあるのか」サマリー」(『ゲンロンサマリーズセレクション25』)、「静止した闇の中で」(『フィルカル Vol.6 No.3』)、「エビデンスは、もうええでしょう」(『羅』2号)。『読書会の教室』(晶文社)にコラム執筆&対談者として参加。京都新聞「本屋と一冊」。SOCIALDIA『AMAUTA』参加。

@columbus20

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脚註

  1. 豊田徹也が村上春樹の短編小説集の装画を担当『うれしいというより厳しい体験』」、コミックナタリー、2020年6月30日。 ↩︎
  2. 村上春樹『東京奇譚集』、新潮文庫、2005年、209頁。強調は引用者。 ↩︎
  3. 村上春樹『一人称単数』、文藝春秋、2020年、87頁。強調は引用者。 ↩︎
  4. 『一人称単数』、75頁。 ↩︎
  5. 『一人称単数』、42頁。 ↩︎
  6. 同前。 ↩︎
  7. 『一人称単数』、77頁。傍点は原文。 ↩︎
  8. 『一人称単数』、表側帯文。 ↩︎
  9. 『一人称単数』、裏側帯文。 ↩︎
  10. ノエル・キャロル『ホラーの哲学』、高田敦史訳、フィルムアート社、2022年、210頁。 ↩︎
  11. 『東京奇譚集』、236頁。 ↩︎
  12. 同前。 ↩︎
  13. 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』、講談社現代新書、2007年、244頁。 ↩︎
  14. 『ゲーム的リアリズムの誕生』、246頁。 ↩︎
  15. 東浩紀『存在論的、郵便的』、新潮社、1998年、286頁。 ↩︎
  16. 『存在論的、郵便的』、328頁。 ↩︎
  17. ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー』、土田知則訳、講談社学術文庫、2022年、478頁に引用された『社会契約論』第2編第3章より。ド・マンによれば、ルソーは最終稿で「こっそり」という言いまわしを削除している。 ↩︎
  18. 『読むことのアレゴリー』、479頁。補足は訳者。 ↩︎
  19. ジャック・デリダ『パピエ・マシン  上』、中山元訳、ちくま学芸文庫、2005年、182頁。強調は引用者。 ↩︎

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