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あたかも治者のように──江藤淳における擬態の論理|砂糖まど

近年再び注目を集めている批評家・江藤淳(1932–99)。 「成熟」の困難と向き合い続けた江藤は晩年、世間の風潮に逆らって妻への末期がんの告知を拒む。 その決断の背後にはどのような論理があったのか。 2024年12月の文学フリマ東京39で頒布された評論誌『mimetica vol. 1(鹿島隆生 責任編集)より、自身でアニメ批評誌も主宰する砂糖まどが、江藤思想に内在する「擬態」の論理を読み解く(同誌所収「治者という擬態──江藤淳論」を一部加筆・修正のうえ転載)

文:砂糖まど

はじめに

 1999年に発表された『妻と私』は、江藤淳という批評家の最晩年の作品である。 「私がこれまでに書いて来た文章のなかで、これほど短期間にこれほど大きな反響を生んだものは、ほかに一つもない」1と江藤自身が認めているように、『妻と私』は江藤の生涯のキャリアの中でも特に広く読まれた著作のひとつにあたる。

妻と私・幼年時代 (文春学藝ライブラリー)

  • 著者:江藤淳
  • 出版社:文藝春秋
  • 発売日:‏2024/2/6

  『妻と私』は末期がんと診断された妻・慶子を看病し、その最後を看取るまでの日々を江藤の視点から描いたエッセイであるが、この文章を読んだときまず最初に引っかかるのは「妻が末期がんであることを本人に伝えない」という江藤による決断の倫理的な是非である。

 患者に余命を伝えるか否かという難題については、医療の伝統的には隠すことに優位性があった。 しかし、現在、生命倫理学の立場から、伝えないという判断には主に3つの点で問題があると指摘されている。

 まず①患者の家族らが、患者に対して「演技」しなければならないという点である。 実際は先の短い患者にまるで未来があるかのようにふるまうことは、家族に重い心理的負担を背負わせることになる。 また患者の側が仮にその「演技」に気がついたとしても、あえて知らないフリをする場合が少なくないだろう。 このように互いに噓をつくことによって、大事な終末期における会話が損なわれてしまうという問題がある。

 次に②真実を伝えないことが、真実を伝えることに比べて本当に患者の負担を減らすことに役立っているかわからないという点、そして最後に③それが患者の自己決定権を奪っているのではないか、という点である。 自分のことは自分で決めることができる、という現代社会の原則に立って言えば、人生の最後でどのように生きるかを決める機会を奪うというのは倫理的な問題がある、というのである2

江藤淳の妻・慶子が入院していた済生会神奈川県病院
wikimedia commons

 文庫版解説で批評家の與那覇潤も指摘している通り、日本で臓器移植法が成立したのは1997年の夏であり、慶子が亡くなったのは1998年11月。 上記で言えば③にあたる「死をめぐる自己決定」という問題がこの国で浮上してくるちょうどその時期に『妻と私』は書かれたことになる3

 江藤にもこの「倫理」は共有されている。 しかし、江藤は妻に末期がんを「告知」することを拒否する。

 これは患者にとってはもちろん、家族にとっても残酷きわまる方法ではないか。 しかも「告知」の責任だけを負わされて、患者を救うことのできない家族にいたっては、あまりに惨めというほかないではないか。 その反面医者はといえば、「告知」の責任は一切家族に任せて、万事お見通しの絶対者の立場に立つことができる。 あなたの余命は何ヶ月しかありませんよ、まあ、せいぜい有意義にお過し下さい。 ……

 いくら現代流行であるにせよ、このからくりには容易に同調できない。 現に家内は何も知らずに、あんなに安らかな寝息を立てて眠っているではないか。 人の生きたいという意欲と希求とを、そう易々と奪い去ることができるだろうか。 まして私は家内にとって、たった一人の家族であり、夫だというのに。4

 そして江藤は逡巡した末、このように決断する。

家内と犬の寝息を聴きながら、そこまで考えたとき、曲りなりにも決心が定まった。 「告知」はしない。 しかし、その責任はもちろん私自身が取らなければならない。5

 しかし、その直後「それが何を意味するのか自分でもよくわから」ないという江藤は、自分がいかなる「責任」を取ろうとしているのかわかっていない。 もちろん、ここに江藤の往年のテーマであった「家長の不可能性」をみることは可能である。 「家内にとって、たった一人の家族であり、夫」であると自任する江藤は、「家族」「夫」である自分にしか取れない「責任」を取ろうとしているように見える。 だが、それが病を伏せるという結論に行き着くのはなぜか。

目次

神なき国の近代

 1967(昭和42)年に刊行された『成熟と喪失』は江藤の代表作のひとつであり、現在に至っても参照される重要文献である。 安岡章太郎、小島信夫、遠藤周作、吉行淳之介、庄野潤三といった「第三の新人」と呼ばれる戦後の小説家たちの作品を通じて、日本社会における「成熟」の可能性を模索したと言われている。

成熟と喪失 –“母”の崩壊– (講談社文芸文庫

  • 著者江藤淳
  • 出版社講談社
  • 発売日1993/10/4

  『成熟と喪失』における問題設定は、まとめるとこうなる。 まず江藤は、近代化以前の日本を「母なる自然」に守られていた農耕文化の母子密着型社会として記述する。 しかし2度にわたる「近代」の到来(開国と敗戦)、そしてそれに伴う戦後の発展によって、その「自然」が破壊されていったと指摘する。

〔…〕昭和三十年代は、まさに日本全国が「近代化」、あるいは「産業化」の波にまきこまれて、ついに近代工業国に変貌をとげた時代である。 この全面的な産業化の過程で、一番大きな心理的原動力となったのが、「置き去りにされる」不安だったことはいうまでもない。 エリクソンは、あらゆる女性的な不安のなかでもっとも根源的なものは、この「置き去りにされる」不安だといっている。 それが女性が幼児期に経験する、もっとも深い性徴の自覚と結びついているからというのである。 だが、それにしてもいったいなぜこの女性的な不安が、ほかならぬ昭和三十年代の日本人の心をあれほど強くとらえたのだろうか。

 いうまでもなく、それはまずもともと日本の社会の根底をしめていたのが女性的、あるいは母性的な農耕文化だったからにちがいない。 それに加えて敗戦とそれにつづいた占領が、「アメリカ」の代表する近代産業社会と日本の農耕社会との落差を、誰の眼にも明らかなものとした。6

 昭和30年代は、経済官僚の後藤譽之助が『経済白書』序文で述べた「もはや戦後ではない」という有名な一節とほぼ同時にスタートを切っている。 つまり、敗戦で焼け野原になった日本が高度経済成長の波に乗って急速に発展し、都市化・工業化によって風景が一変していくまさにその時期にあたる。 江藤には、経済的な発展と同時並行して日本社会を「近代」(≒アメリカ)が覆っていくように見えた。 そうした変化は日本の「自然」「母子密着型社会」の破壊を代償として進む。

1960(昭和35)年の東京・丸の内
wikimedia commons

 近代化は、この「自然」の解体なくしては成立し得ない。 しかし、アメリカや西洋の社会と違って「近代」というシステムが日本社会においてはうまく機能しないというのが江藤の論である。 なぜなら、日本には西洋のような「個人」を成り立たせる超越的な視点が存在しない──というよりも、アメリカが日本にあった超越的な視点を消してしまったからである。

 日本において、こうした視点は明治期までは儒学的な「天」としてかろうじて存在していた。 しかし、ペリー来航からじわじわと浸透していった近代産業社会化と、敗戦という決定的な事態によって根こそぎにされてしまう。

 一神教的な「神」なき国に「近代」を導入しようとしても当然うまくいかず、「個人」も「他者」もなしくずしになり、「成熟」の不可能性に突き当たる──これが江藤の指摘であり、そうではないやり方で日本を近代化させることは可能か、というのが『成熟と喪失』の問題提起であった。

 では、超越も神もない国での「成熟」はいかにして可能か。 江藤の答えは、「治者」として生きることである。

もしわれわれが「個人」というものになることを余儀なくされ、保護されている者の安息から切り離されておたがいを「他者」の前に露出しあう状態におかれたとすれば、われわれは生存をつづける最低の必要をみたすために「治者」にならざるを得ない。7

 江藤の言う「治者」とは、大摑みに言えば「父」として生きる、社会化するということだが、しかしそれは具体的には何を意味するのだろうか8

ふるまいとしての治者

 江藤は1962年から64年にかけて、ロックフェラー財団研究員としてアメリカのプリンストン大学に留学する。 その3年後に発表された『成熟と喪失』には、このアメリカ留学の影響があるといわれる。 では、江藤はアメリカで何を見たのか。

江藤淳が留学した米プリンストン大学のナッソー・ホール
wikimedia commons

 帰国後、江藤は『アメリカと私』(1965)という留学体験をもとにしたエッセイを書いている。 この本は冒頭、アメリカに着くやいなや妻が体調不良に陥り、不慣れな英語で病院を探して奔走する江藤の姿から始まる。 「適者生存」と題された第1章の最後で、江藤は高額な入院費を工面するための計画を練りながら、唐突にアメリカ社会の「論理」に気づく。

しかし、妙に冴えた頭のなかに、アメリカ合衆国の社会を現実に支えているひとつの単純な、しかしその故に強力な論理が浮かび上がって来た。 それはもちろん適者生存の論理である。 合衆国はおそらく今日まで依然としてソーシャル・ダーウィニズムが暗黙の日常倫理になっている唯一の国である。

〔…〕

ところで、自分が、適者であることを証明するのもまた自分以外になく、この国では他人の行為というものを前提にしていたら、話ははじまらない。 自分のことは黙って自分で処理するほかないのである。 〔…〕この国で自己を主張しようとしたら、まず適者でなければならない9

 江藤の目には、アメリカは「適者生存」の論理を体現した社会に映った。 適者生存とは、簡単に言えば「力がなくては生きていけない」ということであり、たらい回しにされる病床、高額な医療費、そしてままならない英会話を通じて、江藤はアメリカの厳しい「倫理」を思い知ったのである。10

 しかしこの論理/倫理は、ベタなものと言うよりは、ある種の演技、全体が「擬態」としてあることに注意しなければらない。 どういうことか。

 江藤が「適者生存」というアメリカ社会の論理の基盤として据えるのは、「英語」という言語の運用能力である。 適者生存の論理はアメリカ社会全体に及んでおり、英語が話せなければ文字通り「生存」できないという厳しさがある。 しかし、これは裏を返せば、英語さえ習得すれば誰であれ「アメリカ人=適者」になることができる、ということでもある。

米国にやって来た移民は、まず英語の習得からはじめ、無限に自分をアングロ・サクソン化しようとする努力をつづける。 そして「アメリカ」社会は、先に来たものが新参者をいじめるというかたちで作用する社会的圧力を通じて、絶えず「お前は本当に米国人になっているか」──つまりどれだけアングロ・サクソン化したか──と問いつづける。11

 その一方で、日本人がアメリカ人になれるのと同じようには、アメリカ人が日本人になることはできない、と江藤は言う。 なぜなら、日本人と外国人との間にはもっと別の、いわば質的な違いがあるからである。

だからヴィリエルモ氏〔=アメリカの日本文学・哲学研究者〕の不幸は、氏が、人は米国人になれる﹅﹅﹅ように日本人にれる﹅﹅という前提から出発したところにあった。 だが、氏が、浴衣を着、下駄をはき、銭湯につかり、日本語の本を電車の中で読むという努力を重ね、日本人らしく振舞おうとそればするほど、当の日本人は、氏の皮膚が白く、そのよく動く眼が薄青く、その髪が黒くて真直な日本人の髪ではなくて、鳶色の波をうった「外人」の髪であることを意識せざるを得ない。12

 つまり、江藤が見たアメリカ社会において、アメリカ人とは皮膚や髪の色のような「属性」ではなく、あくまで「ふるまい」なのである。 したがって適者生存の論理/倫理とは、たんに自助努力を重視するということにとどまらない。 そもそもアメリカではそうした努力なしには生きていけず、そしてその選別の結果、生き残った人間たちを「アメリカ人」と言うのである。

アメリカと私 (講談社文芸文庫

  • 著者江藤淳
  • 出版社講談社
  • 発売日2007/6/10

 アメリカ人を規定するものが「ふるまい」であって「属性」ではない以上、そこに確固たるパーソナリティは存在しない。 それは逆に言えば、次の日には自分が突然「アメリカ人」ではなくなってしまう可能性が常に残されている、ということでもある。

つまりこの社会は間断なく模倣を強制する。13

 ところで、前章で私は「治者」という生き方が実際には何を意味するのか、という問いを残していた。 結論から言えば、治者とはふるまい──「アメリカ人」と同じ意味で──である

  『成熟と喪失』とアメリカ体験の関連はすでに指摘した通りだが、もっと踏み込んで言えば、「治者」と「適者生存」にもきわめて強い影響関係があるように思われる。 この2つはどちらも、一種の「社会化」を志向する点で一致している。 さらに、適者生存の論理に基づく「ふるまい」がアメリカ人の条件であり、それゆえ「アメリカ人」そのものが絶えざる「模倣」によって成立するのだとすれば、江藤の言う治者もまた「ふるまい」「模倣」でしかないのではないか。

 事実、『成熟と喪失』において、治者はしばしば「あたかも」「かのように」といった言辞とともに語られる。 それは江藤の見た「アメリカ人」と同様、治者がもっぱら「意志的な生きかた」、すなわち「ふるまい」によって規定されることを示唆している。

 大浦〔=庄野潤三『夕べの雲』の主人公〕の前からにわかに実在が遠のいて行くこの幻覚が、彼の家のある丘が団地造成のために切り崩されて行く描写につづいて現れるのは、象徴的である。 彼の内にある「母」が崩壊して行ったように、彼の周囲の「自然」も破壊され、一切は「もうこの世には無いもの」のように見える。 大浦が実はそういう、「幻」の世界に向って立っている「治者」なら、彼はあたかも世界が実在するかのように﹅﹅﹅﹅﹅、そして秩序がそこに実現されるかのように﹅﹅﹅﹅﹅、しかもそのいずれをも少しも保証されずに生きているのではないであろうか。

 これはいうまでもなくきわめて意志的な生きかたである。 大浦にこういう生きかたを選ばせているのは、あの怯えにほかならない。 彼はその怯えを内に隠して、あたかも「天」によってその権威を支えられた「父」であるのように﹅﹅﹅﹅生活している。14

成熟への駆り立て

 前章で見た江藤の「社会化」への欲望は、幼年時代にまで遡ることができる。 「成熟」「治者」といった、ある意味では男性的な思想で知られる江藤だが、幼い頃は病弱で、学校に通うことに強い拒否感を持っていた。 例えば、自身の年譜にはこう書かれている。

学校のない国に行けたらと夢想する。 しかし父より義務教育は国法によって定められていると言い聞かされ、暗澹とす15

 幼少期から大学時代までの江藤は、結核による度重なる病臥や4歳半での母との死別、家庭内の不和のためにきわめて内向的で、むしろ「成熟」を拒否し「他者」のいない世界にとどまろうとする少年だった。

私が最初に文学書に接したのは、学校から帰って来てもぐり込んだ納屋の中でである。 実際この納屋は、母のいない現実の敵意から私を保護してくれる暗い胎内であり、私にもうひとつの魅惑的な現実、つまり過去と文学の世界を提供してくれる宝庫でもあった。16

  「文学と私」(1966)と題されたエッセイにおけるこの記述は、江藤の「世界」への原風景を明瞭に映し出している。 学校という「現実」から逃げ帰り、亡き母の疑似「胎内」としての納屋で文学に耽溺する江藤には、『成熟と喪失』を書いた批評家の姿は見られない。

 詳述はしないが、江藤のこうした傾向は、1956(昭和31)年の『夏目漱石』でデビューする前に同人誌に書いた『フロラ・フロラアヌと少年の物語』という小説で、ひとつの結実を果たしている。 『フロラ・フロラアヌ』は、おそらく江藤本人と思われる重い病に罹った少年が、虚実の曖昧な景色の中でフロラ・フロラアヌという少女と恋に落ちるメルヘンである。

 作家・堀辰雄に強い影響を受けて書かれたこの小説には、結核、死んだ母、祖父と海軍といった江藤の思想の骨格をなす重要なモチーフが次々と現れる。 だが、ここで目を向けるべきは、少なくとも『フロラ・フロラアヌ』を発表した19歳頃までの江藤には、まだ内的な世界へと引きこもるような性質があったということだ。

 しかし、江藤の「社会化」への転機は突然訪れる。

六月、ある朝喀血し、愕然とする。 結核の再発なり。 義母は依然として病床にありしため、ふたたび家に二人の病人ある状態となり、暗澹たる心境となる。 「文学的」なものへの嫌悪生ず。 最も辛き夏を送る。 九月、父高熱を発し、病臥すること数旬、ついに家に三人の病人ある状態となる。 ひそかに父亡き後のことを考える。 しかし安静度三度にて起つ能わず、切歯扼腕す。 仕方なく天井を眺め、耐える。 洋書の他にはなにも読まず。 十一月、「pureté」第三号に『マンスフィールド覚書・補遺』を書く。 この療養中に一転機を得る。 堀辰雄、立原道造及びその亜流を贋物と感じ、ジョン・ダンの〈Love’s not so pure and abstract / as they use to say.〉に共感す。17

 年譜によると21歳の6月、江藤はそれまで抑え込んでいた結核を再発し、さらに父親も相次いで倒れたことで、江藤家は一時的な危機を迎える。 結果的に江藤も父も回復したが、この「危機」を境に、江藤は「堀辰雄、立原道造及びその亜流を贋物と感じ」「『文学的』なものへの嫌悪」を抱いてしまう。 ここでいう「堀辰雄」「文学的なもの」とは当然『フロラ・フロラアヌ』を包み込んでいた病と死の世界であり、江藤が学校という社会から逃げ帰って閉じこもったあの「納屋」にほかならない。

 であるとすれば、江藤の「成熟」への第一歩は、この「文学」への嫌悪から、つまり内的な世界の否定から踏み出されたと考えるべきだろう。 そしてそれは、自身と家族の病という外部からのどうしようもない「強制」によって規定されている。 柄谷行人はこう述べている。

おそらく氏〔=江藤〕のなかの「旺盛な生活欲」は、思想的な過程からくるものではない。 事実「生活」を支えるのは「思想」でもなく「意味」でもなく、ただの強制である。 氏が文学・思想上のニヒリズムを冷笑したのは、意味があろうがなかろうが生きていかねばならぬ大多数の生活者の地点に降り立ったときであった。18

  『成熟と喪失』における、傍から見れば空転しているようにすら映る「成熟」への固執は、おそらくは江藤自身と家族が病に伏した21歳の頃の経験が根底にある。 当然そのような環境下では「なぜ『成熟』しなければならないのか」という問い自体が成り立たない。 そうしなければ生きていくことができない、という切迫感こそが江藤を「成熟」へと、すなわち「治者」へと駆り立てるからである。

 もちろん、ここから『成熟と喪失』へひとっ飛びするのはいささか性急ではある。 だが、事後的な解釈にせよ、私たちはそこに江藤固有の問題意識の源泉を見ることができるし、また見なければならない。 というのも、これによって初めて『成熟と喪失』を、さらには『妻と私』における江藤の決断を理解することができるように思われるからである。 「治者」とは何よりも、江藤にとって生存のための必要条件であった。

沈黙という贖い

私が母を亡くしたのは、四歳半のときである。 つまりそれが、私が世界を喪失しはじめた最初のきっかけである。 正確にいえば、私が生れたときすでに、私の家族はひとつの大きな喪失、あるいは不在の影をうけていたのかも知れない。 父はまだ十一歳のときに祖父を亡くしていたからである。19

 これは江藤が自身の母について回顧した文章の冒頭の一節である。 『一族再会』(1973)というエッセイは、すでに多くが亡くなっている江藤自身の親族の歴史を叙述することで、自らのアイデンティティを確かめようとする試みだった。

一族再会 (講談社文芸文庫

  • 著者江藤淳
  • 出版社講談社
  • 発売日1988/9/1

 江藤には「世界」が「喪失」しているように感じられる。 つまり自身と世界のあいだに大きな乖離を感じており、この隔たりをなんとか埋めようとしている。 そして世界とつながりなおすために江藤が着手したのは、自身がそこから疎外されつつある世界を、「言葉」という形で再構成することであった。

ところで、それではそうして世界を喪失しつつあると感じている私が、生きているのはなぜだろうか。 この問題はもちろん簡単には答えられない。 しかしおそらく私は、自分から剝落して行ったものを言葉の世界に喚び集めようとして生きているように思われる。 世界を言葉におきかえること──それは実在を不在でおきかえることだ。20

 続けて江藤は「この言葉はもとより私の言葉でなければならない。 もし世界が完全なかたちで実在していたなら、当然そう感じられたであろうような親密な感触を、私とのあいだに持ち得る言葉でなければならない」と述べる。 しかし「私の言葉」とは何であろうか。

 本来「言葉」とは他者から与えられるものであり、他者との関係の中でその力を発揮するものだというのが、私たちの通常の考えである。 よって江藤がここで言っている「言葉」とはおそらく、そのままの意味での言葉ではない。 それはむしろ「沈黙」に近いものである。

このことをできるかぎり厳密に考えようとするなら、やはり私は自分との言葉との出逢いから、いや「私」という個体の核をかたちづくるものと言葉の源泉をなす薄暗い場所に充満した沈黙との出逢いから、考えはじめなければならないであろう。 この出逢いがおこり得たのは、言語の習得がはじまるより前、つまり私が母のふところに抱かれていた嬰児の頃だったにちがいない。 ここで私は、嬰児にとって一般に言語活動とはなにかというような発達心理学上の問題を、自分を実例にして考えてみたいわけではない。 しかし成長して言葉の洪水のなかに身を投じる前に、私にもまたひとつの充実した沈黙があったはずである。 それがなんであったかをたしかめるところから、私ははじめなければならない。21

 江藤にとって「私」を確かめるために必要なものが「言葉」であり、しかもその「源泉」は幼少期に逝ってしまった母との「沈黙」を介した会話なのである。 この「沈黙」は、母と子の関係において記述されていることから明らかなように、コミュニケーション不要のコミュニケーションという、ほとんど不可能な、しかし私たちが欲してやまない、理想的な交信である。

 とはいえ「沈黙」に満たされた世界とは、つまるところ「他者」のいない世界にほかならない。 『成熟と喪失』でそれを否定した江藤が、一方でそうした自閉的世界を望んでいたことはすでに見た。 しかし『一族再会』のこの記述は、江藤のそうした生来の性格上の問題を超えているようにも見える。 なぜか。

  『一族再会』は『成熟と喪失』の刊行と同時期、アメリカから帰国した後の1967年に書き始められている(刊行は6年後)。 社会学者の小熊英二が指摘している通り、江藤が自身の母について積極的に言及し始めたのは帰国後であり、『一族再会』はその最も大きなもののひとつとしてある22。 そして「治者」を提唱した江藤が、同時に「沈黙」を求めてしまうのは、江藤思想の必然的な帰結であるように私には思えてならない。

  「治者」がその「ふるまい」によってのみ可能な、ほとんどやせ我慢と同質の思想的態度であるならば、「沈黙」はその「ふるまい」によって自分からかけ離れていく世界を埋め合わせるものである。 つまり「成熟」するために露出された「他者」と向き合うことと正反対のものとして、あるいはその孤絶を贖うために、この「沈黙」はある。 そこでは「他者」の他者性が融解し、何を話さずとも、相手と通じ合うことができる。

 例えば、江藤は生前折り合いの悪かった祖母が亡くなる直前、祖母が夢に出てきたと述懐するが、そこにも「沈黙」が満ちている。

しかし夢にでてきた祖母は無言の言葉にみちていて、その言葉を私はのこらず理解できた。 それはいわば、私たちの存在をみたしている暗い淵から湧いて来るものである。 そこには血なまぐさいものすら澱んでいるのに、そこからは激情ではなくて言葉が、つまり存在の触手がさしのばされている。 そういう言葉で眼覚めているときの祖母と私が語りあえなかったのはなぜだろうか。23

 そしてこの「沈黙」「無言」は、『妻と私』においても現れる。 慶子の死の1週間ほど前、かろうじて意識のある妻の手を握りながら、江藤は「無言」の会話を交わす。

慶子は、無言で語っていた。 あらゆることにかかわらず、自分が幸せだったということを。 告知せずにいたことも含めて、私のすべてを赦すということを。 四十一年半に及ぼうとしている二人の結婚生活は、決して無意味ではなかった、いや、素晴らしいものだった、ということを。24

 当然この「無言」は、江藤が母との間に見出そうとした「沈黙」と同質のものである25

『妻と私・幼年時代』文庫版復刊時の帯より、江藤淳(右)と妻の慶子

おわりに

 私は本稿の冒頭で、江藤が妻・慶子に「告知」をしないことで「夫」としての責任を取ろうとしていること、にもかかわらずその「責任」とは何なのか、江藤自身がわかっていないということを指摘した。 しかし、ここまでくればその答えは明白である。

 江藤が『妻と私』で半ば無意識に行ったのは、「治者」としての実践である。 それは冒頭で触れた通り、余命宣告の拒絶が妻に対する「演技」、すなわち「擬態」を伴うものだからである。 よって江藤はあたかも「父」であるかのように、告知しないことの「責任」を引き受けなければならない。 しかし、「治者」とはそもそも「ふるまい」でしかない以上、そこに引き受けるべき責任など本来存在しない。 よって江藤は自分が何をしているのか、自分でもわからない。

  そして江藤は「治者」としてふるまうさなか、ほとんど不可避的に慶子との間に「沈黙」を見てしまう。 それは『成熟と喪失』を書き上げたその勢いで「母」という安息の地への欲望を吐露してしまった『一族再会』における態度と激しくオーバーラップする。 『妻と私』は、江藤の思想的態度、屈折の凝縮されたエッセイである。 「成熟」はおそらくこのような屈折の上にしか成し得ないと、江藤は最後に暗に言っているのである。

著者

砂糖 まど SATO Mado

アニメ批評同人誌『ブラインド』主宰。 大学院生。 就活中。

@mado_014

Booth:アニメ批評誌『ブラインド』販売所

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関連リンク

脚註

  1. 江藤淳『妻と私・幼年時代』、文春学藝ライブラリー、2024年、108頁。 ↩︎
  2. アラステア・V・キャンベル『生命倫理学とは何か』、山本圭一郎ほか訳、勁草書房、2016年、120頁。 ↩︎
  3. 初出は『文藝春秋』1999年5月号。江藤が自裁する直前の同年7月に単行本として刊行された。 ↩︎
  4. 『妻と私・幼年時代』、28頁。 ↩︎
  5. 同書、29頁。 ↩︎
  6. 江藤淳『成熟と喪失 –“母”の崩壊–』、講談社文芸文庫、1993年 、111–112頁。 ↩︎
  7. 同書、243頁。 ↩︎
  8. とはいえ、この「治者」としていかに生きるかという問題設定は、2020年代を生きる我々にとってはおそらく馴染まない、ということも指摘しておきたい。まず、現在このようなアイデンティティ形成はほとんど必要とされていない、どころか有害なものですらある。後述する通り「治者」として生きるとは、成立しえない「父」の役割を敢えて引き受けるという「ふるまい」を指すが、そのような男性的なポジション取りは「ケア」の役割を女性に押し付けることによって成り立つ独善的なものに過ぎない、というのが現在の常識的な感覚だろう。 ↩︎
  9. 『江藤淳著作集 4』、講談社、1967年、16頁。強調引用者。 ↩︎
  10. ところで、文芸評論家の三宅香帆は、光文社のnoteでの連載「失われた絶版本を求めて」の第8回「大塚英志がよみがえらせた江藤淳の現在性(2022年11月1日)において、江藤が語る「適者生存」の論理を(大塚英志『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』から孫引きする形で)ネオリベラリズムの先駆けとして捉えているが、これは(そのように戦略的に誤読することの是非は一旦脇に置くとして)江藤自身の問題設定とはズレている。批評家の西村紗知が指摘するように(西村とは別の文脈になるが)、江藤は、明治の海軍中将であった父方の祖父の影響から、日本の近代化(とその没落)を自身と地続きのものとして感じられる特異な人物であった(西村紗知「成熟と〇〇」、『文學界』2023年2月号)。例えば「戦後と私」というエッセイの中で江藤は、日本という国家について「ある意味で祖父がつくったもののように感じられた」とすら回想している(江藤淳『戦後と私・神話の克服』、中央公論新社、2019年、29頁。原文では強調部傍点)。 つまり、江藤にとっての「適者」の問題はある程度の上層階級に当てはまるものであり、いわゆる「ネオリベ」にさらされる弱い個人を対象にはしていなかったのではないかと思われる。 ↩︎
  11. 『江藤淳著作集 4』、121頁。 ↩︎
  12. 同書、59頁。傍点原文。 ↩︎
  13. 同書、121頁。強調引用者。 ↩︎
  14. 『成熟と喪失』、245–246頁。傍点原文。 ↩︎
  15. 『江藤淳著作集 6』、講談社、1967年、328頁。 ↩︎
  16. 江藤淳『戦後と私・神話の克服』、中公文庫、2019年、15頁。 ↩︎
  17. 『江藤淳著作集 6』、332頁。 ↩︎
  18. 柄谷行人『畏怖する人間』、講談社文芸文庫、1987年、176–177頁。 ↩︎
  19. 江藤淳『一族再会』、講談社文芸文庫、1989年、7頁。 ↩︎
  20. 同書、9頁。 ↩︎
  21. 同書、11頁。強調引用者。 ↩︎
  22. 小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉──戦後日本のナショナリズムと公共性』、新曜社、2002年、924頁。 ↩︎
  23. 『一族再会』、60頁。強調引用者。 ↩︎
  24. 『妻と私・幼年時代』、78頁。強調引用者。 ↩︎
  25. ところで、この「沈黙」にはここまで述べてきたこととは別の側面があることにも触れておくべきだろう。そもそも江藤が最初に「沈黙」という言葉をこのような文脈で用いたのは「アメリカ通信」においてであり、そこで江藤は英語に対置される日本語を「沈黙」と呼んだのだった。「習慣と努力によって、私は自分の不完全な英語をかなり完全なものにすることが出来るかも知れない。今ですら、必要に迫られて、私はしばしば英語でものを考えている。しかしリチャード・ブラックラマーが『沈黙の言語』と呼ぶところのもの──思考が形をなす前の淵によどむものは、私の場合はあくまでも日本語でしかない。そして、言葉は、いったんこの『沈黙』から切り離されてしまえば、厳密には文学の用をなさない。なぜなら、この『沈黙』の部分を通して、私は日本語がつくりあげて来た文化の堆積につながっているからである」(『江藤淳著作集 4』、講談社、1967年、142頁)。さらにそれを「万葉集以来明治・大正にいたる日本文学の総体が、私に向かって来る」「自分を含む全体を垣間見るというような経験」だったと江藤は記している。本稿で述べた通り、江藤にとって英語とは「適者生存」の論理の世界であるアメリカで「適者」たるための必要条件でしかなかった。しかしそのスキルとしての「言語」を身につけ「適者」としてふるまえるようになり始めたとき、江藤はそれとはまったく別のレイヤーの言語、つまり自らの認識を規定する、言語以前の言語である「沈黙」になぜか到達してしまったのである。そしてこの問題は、後の江藤の活動に決定的な影響をもたらしていると言えないだろうか。例えば『閉された言語空間』(1989)で江藤が提起した、GHQによって「検閲」される「言語」の原型になったアイディアはこの「沈黙」ではないだろうか。上記をまとめると「沈黙」という江藤の概念はある側面においてはきわめてナショナリスティックなものであり、それが後に江藤を「保守」に向かわせた可能性すらあるのである。 ↩︎

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