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ゼロ年代批評を再交差させよ──東浩紀/宇野常寛/低志会のディソシエーション|杉田俊介

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オタク批評とロスジェネ批評がともに勃興し、並行・交錯していた2000年代。あれから四半世紀が過ぎたいま、当時のダイナミズムは失われてしまったのか。過去と現在、リアルとフィクション、労働とセクシュアリティを再び交差させるべく、批評家の杉田俊介が「ゼロ年代批評」のクリティカル・ポイントへ遡行する。

文:杉田俊介

──ところが、神々のプロレタリアートであるシーシュポスは、無力でしかも反抗するシーシュポスは、自分の悲惨な在り方をすみずみまで知っている。まさにこの悲惨な在り方を、かれは下山のあいだ中考えているのだ。かれを苦しめたにちがいない明徹な視力が、同時に、かれの勝利を完璧なものたらしめる。侮蔑によって乗り超えられぬ運命はないのである。

アルベール・カミュ(清水徹訳)『シーシュポスの神話』

 ゼロ年代批評においては①オタク/ネット的なもの②ロスジェネ/社会運動的なものが交差していた。少なくとも簡単には切り分けられないものとしてそれらはあった。

 ところが、近年のゼロ年代批評への回顧や参照においては、①の側面が強調され、②の側面が忘却されがち、または排除されがちになる。東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)や宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(2008)や濱野智史『アーキテクチャの生態系』(2008)については言及されるが、平井玄『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』(2005)や雨宮処凜『生きさせろ!』(2007)や杉田俊介『無能力批評』(2008)や中島岳志『秋葉原事件』(2011)については言及されない。これはどういうことか。②は社会運動の書ではあるが批評の書ではなかった、あるいは批評の名に値する達成を残せなかった、ということなのだろうか。

 もちろん価値観は人それぞれである。しかし考えてみる。上の①、②のような二元論的な区別ははたして自明なものだろうか。たとえば東浩紀の『一般意志2.0』(2011)や『クォンタム・ファミリーズ』(2009)などは明らかにゼロ年代の労働・格差・政治問題との緊張関係の中で書かれている。『ロスジェネ 別冊 2008  秋葉原無差別テロ事件』(2008)に収録されたシンポジウムには、赤木智弘や大澤信亮らとともに、東もパネリストのひとりとして参加していた。

『ロスジェネ 別冊 2008 秋葉原無差別テロ事件』目次より、シンポジウムの登壇者たち
撮影=編集部

 あるいは宇野の『ゼロ年代の想像力』は、「新しい歴史教科書をつくる会」と「フリーターズフリー」を串刺し的に批判しつつ、資本主義経済と法システムの「ゲーム」から降りるという選択肢は存在しない、ゆえにこの社会を決断主義的にサバイブせよ、と読者をアジテートしていた。そしてその上で、決断主義をも超えて、島宇宙同士のコミュニケーションを試み、複数の物語に接続可能な開かれた日常を肯定せよ、他者に手を伸ばせ、という主張に至っていた。

 あるいは大澤真幸や鈴木謙介などの社会学者たちがゼロ年代に刊行した著作は、①と②を切り離さずに論じるものだった。ホリエモンが象徴するような新自由主義的な加速主義(?)の戦略、あるいは若年起業(言説)ブームなどのポジティヴで自己啓発的な言説を思いだしてもいい。

 このような事実を淡々と列挙していくだけでも、価値づけの重みは人それぞれであれ、①と②の領域を恣意的に切り離すことはできそうにない。にもかかわらず、近年のゼロ年代批評への参照においては、①ばかりが強調されて②の側面がしばしば切り落とされているとすれば、それはどういうことだろうか。労働問題や貧困問題、実存問題などを回避したい、そんな暗いものは見たくない、という現代的な欲望の表れなのかもしれない。

 これは労働や貧困の方がネットやオタクカルチャーより重要だった、という意味ではない。しかし見たいものだけを見ようとするとき、ゼロ年代というディケイドの本質は決して見えてこないはずだ。

 このエッセイのタイトルの〈ゼロ年代批評を再交差させよ〉には、ゼロ年代批評におけるオタク/ネット的なものと労働/運動的なものを再交差させよ、という意味と、ゼロ年代の批評と現在(2020年代)の批評を再交差させよ、という意味との、二重の意味を込めたつもりである。とはいえ、「どちらの視点も必要」「中立的な立場が重要」と言いたいわけでもない。

 重要なのは、それらが切り分けられず交差していた時代のクリティカルなポイントに遡行しつつ、そのポテンシャルを引き出してみることであり、そしてそこから何らかの解放的なイメージ──政治的かつ理念的なイメージ──を練り上げていくことである。

目次

【1】ゲーム的リアルと労働のメタリアル

 東浩紀は、2007年の著作である『ゲーム的リアリズムの誕生』──ちなみに2007年とは「ロスジェネ」という言葉が朝日新聞の紙面に登場した年でもあるのだが──において、『ALL YOU NEED IS KILL』『九十九十九』『ひぐらしのなく頃に』『時をかける少女』など、登場人物が人生のリセットとリプレイを繰り返すタイプの小説・アニメ・ゲームの形式の中に「ゲーム的リアリズム」という新たなリアリズムの形式を見出そうとした。

 東が理論的に参照するのは大塚英志である。大塚は、様々な著書の中で、旧来の自然主義リアリズムと新たな「まんが・アニメ的リアリズム」を区別した。日本の伝統的な自然主義リアリズムは、自然・風景・心理などを客観的に、そのまま模写しようとする。これに対し、まんが・アニメ的リアリズムは、まんが・アニメの中に登場するような「キャラクター」(宇宙人や超能力者や未来人)を写し取り、それを作品化しようとする。まんが・アニメ的リアリズムを代表するのはライトノベルであり、大塚はその感覚の原型を、新井素子の「ルパンのような小説が書きたい」という言葉に見て取った。

 東はこうした大塚の議論を発展させ、「ゲーム的リアリズム」という概念を提示したのである。東が参照するのはシナリオ分岐型の美少女ゲーム/ギャルゲーであり、またそれと類似した世界観・構造を備えたライトノベルや文学作品である。その場合、東は、萌えキャラに対する動物的欲望をそのままベタに肯定するタイプのアダルトゲームよりも、リセット&リプレイを繰り返すようなメタフィクショナルな批評性を備えた作品たちの中に、ゲーム的なリアルが発生している、と分析する。それらの作品では、メタフィクショナルなねじれや解離をはらんだ形式を通してのみ表現しうるような、新しいタイプのリアルが描かれている、と。

東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』と桜坂洋『ALL YOU NEED IS KILL』
撮影=編集部

 しかし、こうした無限のリセット&リプレイの感覚は、たんに「オタク的なもの」「ゲーム的なもの」だけからもたらされるのだろうか。そこには別の次元の「リアル」が混在し、侵入し、交差しているのではないか──端的に言ってそれはロスジェネ的な労働感覚であり、しかも自然主義的=プロレタリア文学的な労働感覚ではなく、ゼロ年代に発生していた新たな労働のメタリアルとも言うべき感覚である。

  『ゲーム的リアリズムの誕生』が詳細に分析する桜坂洋の小説『ALL YOU NEED IS KILL』(2004)は、次のような戦場の描写からはじまる。

 遠く離れた弾が奏でる音は低くにごっている。腹を揺り動かす乾いた音だ。近くをかすめる弾は高く澄んだ音を発する。頭蓋をびりびりと震わす金切り声をあげて、そいつは、ぼくに向かってくる。地面に突き刺さる。土埃をまきあげる。埃のカーテンに次の一弾が孔をあける。

 空を焦がす幾千幾万のうちたった一発、指ほどの塊が体を通り抜けるだけでヒトは死ぬ。ついさっきまで動き、笑い、冗談を投げつけていたあいつが、次の瞬間なまあたたかい肉の塊になる。

 死というやつは、唐突で。あっという間で。容赦を知らない。1

 この小説の戦争や日常の描写には、奇妙なほどリアリティがない。記号的であり、ペラペラである。批判しているのではない。重要なのはこうした記号的なリアリティのペラペラさが、ワーキングプアのライター、赤木智弘が「「丸山眞男」をひっぱたきたい──三一歳フリーター。希望は、戦争。」(2007)という論考を書いた時の、奇妙なリアリティの欠落と不思議に共鳴している、という事実である。

夜遅くにバイト先に行って、それから八時間ロクな休憩もとらずに働いて、明け方に帰ってきて、テレビをつけて酒を飲みながらネットサーフィンして、昼頃に寝て、夕方頃目覚めて、テレビを見て、またバイトに行く。この繰り返し。2

 職場と自宅の間で単調な往復を続ける日々。この無限ループの中ではすべてが偶然的で取り替え可能にしか感じられない。実際に赤木は、ワーキングプアとしてこれ以上苦しめられるのなら、あとは戦争を希望するしかないと主張しながら、日本国の戦争相手(敵国)の具体的イメージがあるわけではなく、戦争相手はべつに「宇宙人」でも構わない、と言っていた。それはほとんど、ゼロ年代を象徴するライトノベル、「涼宮ハルヒ」シリーズのハルヒの言動を思わせる。

 いいかえれば、彼らの言説においては、日々のひりつくような労働(現実界としての労働のリアル)と抽象的でペラペラな空想(想像界としてのゲーム的リアル)が、不思議な形でねじり合わされているのだ。赤木が希望しているのはまさしく『ALL YOU NEED IS KILL』のようなゲーム的戦争であり、戦争を通して実存的に回復されるメタリアルである。逆にいえば、桜坂作品のゲーム的リアリティもまた、赤木のフリーター的な労働感覚とじつは地続きになっているはずなのだ。

 事実、桜坂の『スラムオンライン』(2005)では、主人公の青年の存在感覚が以下のように描かれる。

 ゲームに時間を費やすのは無駄だ。保証する。ネットゲームは特に無駄だ。これも保証する。だけれど、ゲームに時間を費やすのが無駄というのなら、リアルな世界で時間を費やすほうがゲームより有意義な理由はあるのだろうか?  とぼくらは考える。〔略〕

 ぼくらは、ゲームとともに育ちゲームをやりながら大人になる最初の世代だ。〔略〕

 たとえばの話だが、リアルRマネーMトレーディングTをすればゲームの世界でだって金を稼ぐことは可能だ。ネットのオークションを検索してみれば、ネットゲームのマネーをリアルマネーで売っているのがすぐ見つかる。レアアイテムがとんでもない値段で取り引きされていたりもする。買う側は、リアルな世界で金を持っているけれどゲームをする時間がない人間。売る側は、リアルな世界で金はないけれど時間があり余っている人間。自分が「ゲームに費やした時間」を切り売りすることにより、リアルな世界で生きていくためのマネーを手にいれることだって可能なのだった。

 それは、ブルーカラーと呼ばれる労働者が普通にやっていることだ。バーチャルは無価値という人がいるけれど、そんなことはない。〔略〕

 バーチャルの中は楽しいのではなく、リアルと同じくらいつまらなく平凡であり、リアルと同じように無価値だ。RMTをしてしまった瞬間、リアルの価値観とバーチャルの価値観が数学的な記号で結ばれてしまう。3

 現実の生きづらさを回避してバーチャルな世界に逃避する、というのとは少し違う。それらの2つの次元はフラットであり、同程度の価値しか持たない。そう言われている。『スラムオンライン』の主人公は、同級生の女の子から一方的に好かれるのだが、リアル恋愛よりもオンラインゲームの世界で「辻斬りジャック」を探し出すことの方を優先する。現実と虚構のいずれに価値があるか、というのではなく、あくまでもそれらは優先順位の問題なのである(ただし青年は最終的にはリアル恋愛にコミットするのだが──その点で『スラムオンライン』は、現実/虚構の狭間で揺れ動き、最後は虚構の側に「あえて」コミットする、という村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(セカイ系の起源的小説)の水準からむしろ後退しているようにも見える)

  『ALL YOU NEED IS KILL』の主人公の青年キリヤは、ギタイとの戦闘で死ぬたびに、約30時間前の時間に連れ戻される。そのループ感覚はこう説明される。

 だけれど、ぼくは戦場から逃げだすことができない。タテヤマの先に大きな滝があって、世界がそこで終わっていたとしても気づくことができないのだ。前線基地と戦場を往復し、地を這う虫のように殺される毎日。風が吹いたら生き返り、また、死ぬ。次のループには何もぼくは持っていくことができない。持っていくことができるのは、孤独と、誰にも伝えられない恐怖と、手に染みついたトリガの感覚──。

 このクソったれな世界には、どうやらクソったれなルールがあるらしい。

 いいだろう。〔略〕

 持っていってやろうじゃないか。この世界で最高のものを次の日に持っていってやる。敵弾を紙一重でかわし、ギタイを一撃で屠る。もしもリタ・ヴラタスキがとてつもない戦闘技術を身につけた人間であるなら、無限の時間を使ってぼくもそこまで到達してやろう。

 それだけがぼくにできることなら。

 なにも変わらぬ毎日を変化させる方法なら。

 クソったれな世界に対する、唯一の反抗であるのなら。4

  「前線基地と戦場を往復し、地を這う虫のように殺される毎日」。赤木は「クソったれ」な「この繰り返し」のワーキングプア的ループを破壊し、何もかもを流動化=偶然性のレベルに引きずりおろすために、「希望」としての「戦争」が不意打ち的な出来事としてこの国に到来するのを夢見たのだった──ある種のロマン的なアイロニーとして。逆にいえば、赤木が最後の希望を戦争に見出したいと欲動するのは、そもそも、ワーキングプア階級の人々は、日々の派遣労働やバイト生活の中に疑似的な「戦争」の痛みを感受しているからだ、とも言える。

イラクの首都バグダッドで銃撃戦を行う米軍兵士(2007年3月)
public domain

 雨宮処凜は、ある知人が、戦時下のイラクで沢山の人の死を目撃した後に日本に帰国してみると、数人の友人が自殺していて、「ああ、日本にはこれがあったんだ」と感じた、というエピソードを紹介していた。フリーター的なリアリティにおいては、空から爆弾が降ってくるわけではなく、米軍に射殺されることもない「平和」な日本で、それでも若者たちは自分自身に殺されていくのである、と。国内の労働状況はほとんど内戦のそれに近い、というのである。小説家・批評家の笠井潔は、新自由主義化していくゼロ年代のリアリティを端的に「世界内戦」と呼んでいた(『例外社会』、2009)

 そこにあるのは、ゲーム的なリアルであると同時に、グローバルな派遣労働者や周縁労働者たちが日々の労働環境の中で強いられるリアルであり、ゲーム的な記号(コマ)に生身の実存が絶え間なく還元されていくようなメタリアルなのだ。一定のバブル的な上げ底を前提とする岡崎京子『リバーズ・エッジ』(1994)の「平坦な戦場」すらも、どこか牧歌的に感じられるような、世界内戦的な状況下のメタリアル……。

 生きているのか死んでいるのかわからない。過剰流動性という社会学の言葉もどこか遠い。自分が日々、一回一回、死んでいる。殺されている。にもかかわらず本当には死ねない。「前線基地と戦場を往復し、地を這う虫のように殺される毎日」は何も変わらない。また明日も殺されるために戦場=職場へと足を運ばねばならない。切り刻まれ、分人化(平野啓一郎が言うのとは違った意味で)せざるをえない。そうした現代的な労働力商品化=記号化の痛みである。

桜坂洋『スラムオンライン』と雨宮処凛『生きさせろ!』(文庫版)
撮影=編集部

 では、こうしたゲーム的で労働的なメタリアルは、どこへ向かっていくのか。たとえば東は『ALL YOU NEED IS KILL』の核心を「選択の残酷さ」に見出した。

無数のループを経験したリタは、人々の運命がいかに多様で、かつ偶然に左右されているかを知っている。ヘンドリクスは生きることも死ぬこともある。あるループでは彼が幸せになり、別のループではほかのだれかが幸せになる。にもかかわらず、彼女がループを抜け出し、「明日へと進む」とき、傍らにあるのはひとつの可能性でしかない。もしかりにヘンドリクスが生き残ったとしても、そこで傍らにいるのは「この」ヘンドリクスでしかなく、ありえたかもしれない無数のヘンドリクスは消えてしまう。リタの嘆きはここでは、彼の死そのものにではなく、むしろその残酷な条件に、すなわち、ヘンドリクスの生が多数的であり、彼女にはその多数性が見えているにもかかわらず、結局はそのひとつの生しか、したがってひとつの死しか選べないことに向けられている。5

 主体の選択の偶然性という恐ろしさと残酷さ。東の批評は確かにそれを射貫いている。しかし、そこにはまだ、自分が現実の何事かを選択しうる、という余裕が残されている。そこでは、他者が「生きることも死ぬこともある」のは「私」のメタな「選択」の結果である、とされるのだから。東のいう「残酷な条件」は、フリーター的な現実の残酷さ、「剝き出しの生=ただの生」(アガンベン)の残酷さに十分に見合ったものとは言えない。日常的に無意味なリセットの永劫回帰を強いられるメタリアルの経験と、「プレイヤー視点」の超越論的な選択の偶然性はやはり違うのだ。

 たとえば佐藤友哉の『水没ピアノ』(2002)、滝本竜彦のメタエッセイ『超人計画』(2003)などにはそうしたメタリアルの手触りがある。ここでそれらのテクストの具体的分析を試みる余裕はないが、それらの作品では、日々の痛みがあまりに不毛で取り替え可能なために、通常の自然主義的リアリズムでは描写しえない。メタフィクション的な小説形式で表現するしかない。日々のリアル(現実的なもの)を表現しようとすると、小説の形式が不思議に壊れていくのだ。この現実がくだらないゲームなのか切迫した労働なのかをそもそも決定しえない、というメタリアルは、「プレイヤー視点」としての「ゲーム的リアリズム」には還元し尽くせないのである。

 では、こうしたリセット&リプレイの悪無限を断ち切って「この世界で最高のものを次の日に持っていってやる」には、どうすればいいのか。そうしたゲーム=労働的なメタリアルを引き受けつつ、その先にあるはずの根本的な自由を飢渇するような政治的欲望とはどのようなものか。

【2】オタク的解離は倫理たりうるか

 ゼロ年代を代表する批評家である宇野常寛の姿勢は、(新)自由主義的な「強い主体」の肯定+PC(ポリティカル・コレクトネス)的な倫理性を融合させる、という方向性を指し示すものだった。

 たとえば宇野は、『ゼロ年代の想像力』で、東浩紀の美少女ゲーム論を批判しつつ、そこに見られるのは安全に痛い自己反省パフォーマンスを隠れ蓑とした「レイプファンタジー」であり、ひそかにマチズモを温存している、と痛烈に批判した。さらに宇野は、『母性のディストピア』(2017)でも、男性オタク的自己像に象徴される自己否定的でアイロニカルな主体(=不能な父)のあり方を批判している。それらは母的存在や女性的存在に対する甘えと搾取を無意識のうちに前提としている、と。

 そうした前提の上で宇野は、『母性のディストピア』で、現実への屈託を抱えながら不能な父として成熟する道ではなく、オタクたちはオルタナティヴな成熟を目指すべきだ、と提案する。

宇野常寛『ゼロ年代の想像力』と『母性のディストピア』(文庫版)
撮影=編集部

 宇野が想定するオルタナティヴなオタクとしての成熟──それはいわばニュータイプ的な感性の復権であり、正しい意味でのカリフォルニアン・イデオロギーを再設定することである。ここではないどこか(外部)をロマン的に夢見るのではなく、今ここにある現実を拡張し重層化するような成熟のあり方。経済的/倫理的に「強い主体」(母にも女性にも共同体にも依存しない主体)として自立するためにこそ、ネットやシステムは十全に活用されるべきなのだ。その限りで当時の宇野は、自立的な強い主体=男性どうしによるホモソーシャルな空間には比較的寛容であったように見える。

 これに対し、ゼロ年代の東の代表的著作『ゲーム的リアリズムの誕生』は、オタク男性のセクシュアリティのねじれを批評的に再検討するものでもあった。そこには「不能な父」たちの「レイプファンタジー」にすぎない、という宇野による批判によっては片付けられない欲動論の可能性があったように見える。重要なのは、先述したようなゲーム的/労働的なメタリアルの問題は、男性たちのジェンダーやセクシュアリティの問題──男性主体の屈折した脆弱性と暴力性のあり方──とも交差的に絡み合っていた、という点である。見てみよう。

  『ゲーム的リアリズムの誕生』の「付録B」の「萌えの手前、不能性に止まること──『AIR』について」というエッセイは重要である。これはもともと東が責任編集を務めた『美少女ゲームの臨界点』(2004)に収録されていた。この短い「付録」は、ある面では、東の代表作のひとつ『動物化するポストモダン』(2001)の内容ばかりか、『ゲーム的リアリズムの誕生』全体の死角をも、内側から食い破るように自己批評しているように見える。それはどういうことか。

 東はオタク論を展開する際にしばしばエロゲー/美少女ゲームを論じる。にもかかわらず、エロゲーのポルノ的な側面、性暴力的な側面には積極的に触れてこなかった。それを不自然なまでに避けて通ってきた。しかし──これがどんなに素朴でベタな批判であるとしても──男性のセクシュアリティやポルノ的な側面を無視して、物語構造やメタフィクション性、萌え要素やデータベースの問題だけを論じることには、やはり問題がある。それらの不可分な関係そのものを批評すべきだろう。

 しかし「付録B」では、エロゲーを嗜好し消費する男性オタクたちのねじれたセクシュアリティのあり方が、内側から分析されている。重要なのは、それが『ゲーム的リアリズムの誕生』というテクストにおいて、ゲーム的&ロスジェネ的なリアリティの分析と同時的に発見されていることではないか。

 たとえば、ササキバラ・ゴウは、次のようなことを論じていた──1970年代以降、日本の男性たちは、かつての政治的理想や経済的成功のようなはっきりとした生の目的(大きな物語)を見失い、自分たちの中の「男性的(マッチョ)」な側面に耐えられなくなった。だからこそ女性たちの中に、男性からの暴力を受けた「可傷性」を見出したのであり、その反作用として、「男」としての自分たちを「傷つける性」として自覚していったのだ、と(『〈美少女〉の現代史』 、2004)

東浩紀『動物化するポストモダン』とササキバラ・ゴウ『〈美少女〉の現代史』
撮影=編集部

 24年組のマンガや村上春樹の小説の中には、自らの暴力性におののく「男の子」たちが登場する。それは一面では、男たちが繊細な優しさを獲得することだった。しかしそれは同時に、男性たちにとっての政治的・経済的な「敗北=転向」をも意味した。『ルパン三世  カリオストロの城』(1979)のルパンが象徴するように、男の子たちはもう、社会的な立身出世や政治的闘争ではなく、美少女(『カリオストロ』のクラリスや『うる星やつら』のラム)から承認されることによってしか自分(たち)のアイデンティティを支えられない。

 そして1990年代以降のエロゲー的な男性主体は、こうした70年代以降の挫折と不能感を、再びひっくり返し、男たちの全能性をねじれた形で回復しようとする。そこでは男性=プレイヤーは、少女たちを一方的に「陵辱する視線」を獲得し、自らを「(女性から)見られずに(女性を)見る」「透明な存在」と化したのだった。

 彼らは一見、ひ弱で無能な男の子に見える。女の子に繊細に優しく振る舞いもする。能動的で主体的なのは女の子たちの側である。男たちは女性の行動や騒動に巻き込まれているだけだ、という受動的立場にある。しかし、まさにそうした無力さと受動性こそが「零落したマッチョイズム」(更科修一郎)の裏返しなのである。

 1990年代以降のエロゲー的な欲望の主体は、たんに全能なマッチョなのではなく、ある種の無力さ(非モテ、受動性、繊細な優しさ)と全能感(複数の女性から不自然な形でモテる、女性を性的に凌辱しうる)を構造的に両立させることによって、男性たちのねじれを解除し、主体的なアイデンティティを回復しようとしたのだ。そこにはその後の非モテ/弱者男性/インセルをめぐる難問にもつながるような、男性学的/メンズリブ的な主題が横たわっていたと言える。

 東が批評的に分析するのは、この、オタク的な男性主体の不能性&マッチョ性という「二面性」である。東は書く。「美少女ゲームとは、まずは、プレイヤーを男性の等身大のキャラクターに同一化させ、仮想空間のなかで異性の承認を与え、「モテる男」にしたてあげる、すなわち、「父」にさせる﹅﹅﹅﹅ジャンルだと定義づけることができる」6。こうしたねじれたアイデンティティを回復した男性主体を、東は端的に「父」と呼んだ。しかし東のここでの論点は、先ほどのササキバラの論点とは微妙に異なる。どこか違うのか。引用しよう。

そこでは、プレイヤーは、オヤジになれない弱さを自己肯定してもらうとともに、オヤジ以上にオヤジ的に振る舞うことができる。美少女ゲームを、単純に「父にさせる」ジャンル、すなわち家父長制補完的なジャンルだと捉えるだけでは不十分なのは、このような二面性を捉え損なうからだ。

〔略〕

  『動物化するポストモダン』で記したように、美少女ゲームのユーザーは、ひとりのキャラクターと擬似的に恋愛し、泣き、笑い、責任を感じておきながら、同時にほかのキャラクターにも萌えることができる。その節操のなさ、同書の表現を借りれば「解離」(多重人格性)が彼らの本質である。そのメンタリティは思春期の男性であればだれでも備えているものだが、キャラクター・レベルとプレイヤー・レベルの分離を特徴とする美少女ゲームは、その解離を構造的に強化してしまう。7

 ひとりの異性を深く愛する。その次の瞬間に別の異性を欲望しうる。複数の他者を同時に愛することが道徳的に批判されるべきだというのではない。その場合の不思議な葛藤の無さが謎なのである。

 こうした「父親=弱者男性」的な男性主体は、他者への愛や欲望ゆえに、その相手に性暴力を振るったり強姦したりすることができる。そしてそれらの感情と行動の間に(表面的な悩み方はするにせよ)深刻な矛盾を感じない。それが「解離(ディソシエーション)」である。それはキャラクター/プレイヤーの分離というゲーム的解離と関連する。ポイントは、ササキバラがそれを「凌辱する視線」、「見られずに見る」ような窃視症的な眼差しに対する道徳的批判として展開したのに対し、東がそのことを主体に解離をもたらす「構造」の問題として分析したことである。

 ここでは、プレイヤーは虚構やゲームをあくまでも現実社会とは異なるフィクションと分かった上で受容して楽しんでいるのだ、という差異化(ロジカルタイピング)が無効化されざるをえない。ポストモダンなオタク的主体においては、人間的道徳と動物的欲望とが分裂的に共存してしまっているからである。道徳的批判を「二面性」によってつねにすでに否認するように構造化されているのだ。

 ササキバラがいうような「凌辱する視線」がはらむ「零落したマッチョイズム」(現実的には無力な存在だからこそ無限に窃視症的な権力を持ちうる)に対しては、その欺瞞性を突いて、道徳的な批判を加えることによって打撃を与えうるだろう。あなたの言動は矛盾している、と。しかし、東がいうような解離=分裂についてはそれだけでは足りない。人間主義的なモラリズムによる正しい批判は、オタク的プレイヤーの人格的な解離=分裂に絡めとられ、むしろそれを支える構造的現実を一層強化してしまうからだ。

 それでは、そうしたゲーム的リアル(解離)を不断に再生産する現実的構造そのものを批評するとは、どういうことか。ゲーム的&ロスジェネ的なリアルの無限反復を強いる構造を変革するためには、何が必要なのか。

 先の引用のあとで、東は次のように書く。

解離を解離のままに受け入れること、自らの分裂をはっきり認識することは、ひとつの倫理へと繫がる。しかし、オタクたちの多くは、むしろ、その分裂を強引に埋め、アイデンティティを捏造している。そこでしばしば使われるのが、「ダメ」という言葉である。私たちは「ダメ」だから、父になるつもりはないけれどオヤジ的欲望は抑えられない、と彼らは自虐的に語る。彼らは、二つの基準のあいだを恣意的に往復し、一方では少女マンガ的な内面に感情移入しながら、他方では一般のポルノメディアをはるかに凌駕する性的妄想に身を委ねる。8

 男性主体の「分裂」や「解離」を「強引に埋め、アイデンティティを捏造」することは「零落したマッチョイズム」の回復になってしまうが、そうではなく、「自らの分裂をはっきり認識」し続けるならば、男性オタクたちは自らのオタク性を否定しないままに「倫理」的な男性オタクになれるかもしれない。東はそのようなオタク男性たちのありうべき「倫理」について論じているのだ。前述したササキバラ的な道徳性とは別の次元において、東は主体的な倫理性を導入するのである。

 もちろん、ここは難しい。東の論述もこの辺りでかなり難解な動揺、揺れ動きを示しているように見える。オタク的主体の内なる解離=分裂に対して「批評的」であるとは、どういうことか。

 東は『AIR』(2000)は「批評的」なエロゲーだと述べる。「筆者がここで「批評的」という言葉にこだわるのは、「批評的=臨界的」(critical)とは、本来、明示的な批判や非難を指すのではなく、文学でも美術でもアニメでもゲームでも、とにかくなにか特定のジャンルにおいて、その可能性を臨界まで引き出そうと試みたがゆえに、逆にジャンルの条件や限界を無意識のうちに顕在化させてしまう、そのようなアクロバティックな創造行為一般を指す形容詞だったはずだからである」9

  『ゲーム的リアリズムの誕生』の「付録B」に、オタク男性たちが自らの暴力性を超えて「倫理的」な主体性──それは「零落したマッチョイズム」としての「道徳性」とは別様の何かであるはずだ──を獲得するための、具体的な方法や道筋が描かれているわけではない。しかし、オタク男性たちが置かれた困難と現実的構造を「批評」することによって、その先の進むべき道をかすかに照らし出している、そう思われる。

 必要なのはおそらく、政治のオタク化ではなく、オタク的主体の政治化である。つまり、解離的オタク論をさらに展開させることであり、オタク的欲望のねじれ(メタリアル)を抹消することなくそれを政治化し、アディクション的な悪循環のループを強いる構造・環境の変革を目指すような欲動を私たちが獲得していくことなのだ。

 次のチャプターへ進む前に、少し回り道をしたい。

 ゼロ年代のメタリアルを象徴する新海誠の『秒速5センチメートル』(2007)は、非モテやオタクたちの聖典であると同時に、ひとつのロスジェネ映画でもあった、ということを思い起こしておきたいのである。

 実際に『秒速5センチメートル』第3話の主人公・遠野貴樹は、都心で荒廃した労働生活とメンタルの病の中に(おそらく)落ち込んでいる。彼の荒んだ姿は、失恋のロマン的痛みの問題であると同時に、労働と貧困の問題でもある。ここでもまた、労働とセクシュアリティとゲーム的な次元が重層的に交差していたのだ。

『秒速5センチメートル』より、労働で消耗する主人公・遠野貴樹
© Makoto Shinkai / CoMix Wave Films

 これは不思議な符号であるが、ロスジェネ運動を代表する雨宮処凜の著作『生きさせろ!』の刊行は、『秒速5センチメートル』公開と全く同じ2007年3月だったのである。そして翌2008年には「超左翼マガジン」を謳う雑誌『ロスジェネ』が創刊され、また加藤智大による秋葉原無差別殺傷事件が起こった。

 ちなみに貴樹の年齢は、秋葉原殺傷事件の犯人・加藤智大と同じか、もしくは1歳違いのようである。貴樹が自らの欲望を断念して、鬱屈からきれいに訣別できたようには(少なくとも私には)思えない。桜の舞い散る中で踏切の方を振り返ると、彼女はそもそもいなかった、という第3話の有名なラストシーンのあとに、鬱屈を深めた貴樹が、あるいはダガーナイフを手にして、自爆的な暴力犯罪に手を染めたとすれば──。

 そのような可能性を想像してみることができるのではないか。ちなみにラストの春のシーンは2008年3月のことで、凄惨な秋葉原事件が起こったのはあのシーンから約3カ月後、2008年6月8日のことだったのである。

『秒速5センチメートル』のラストシーンと秋葉原無差別殺傷事件の発生現場(2008年6月)
© Makoto Shinkai / CoMix Wave Films
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 情報資本主義の疎外された都市労働者として心が摩耗していくのであれば、真に残酷で暗鬱なセカイのメタリアル(現実的なもの)に目覚めたい──という、作中では描かれなかった貴樹のオタク的でロスジェネ的な欲望は、のちのインセル/弱者男性たちの正典ともなった映画『マトリックス』(1997)の主人公ネオの欲望にも似ている。つまり、ネオが過酷な真実=セカイに目覚めるためにレッドピルを飲んだように、貴樹はいわばインセルの「ブラックピル」を飲んだのかもしれない。

 これは曲解かもしれないが、そもそも、貴樹の少年時代を描いた『秒速5センチメートル』の第1話と第2話の内容は、第3話の大人になった貴樹が遡行的に捏造した幻想であり、妄想だったという可能性もあるだろう。そのような構造的な屈折を『秒速5センチメートル』はじつははらんでいたのではないか。第1話や第2話の美的な恋愛とすれ違いは、教室でハブられたぼっち少年が、誰にも見せずケータイに書き込んだ妄想の物語の類いだったのかもしれない。つまり第3話の状況こそが彼が生きるリアルであり、崩壊した精神が過去を勝手に捏造して美化して、存在しない少女たちを幻視させたのかもしれない……。

 いいかえれば、資本主義で擦り切れたロスジェネ的な疎外された感覚が、いわばラカンの現実界のように、こんなひどい現実を生きるくらいならもっと鬱的でずっと酷い「現実それ自体」に逃避したい、明るく楽しい未来ではなく暗鬱で地獄のようなザ・リアルに目覚めたい、という幻想を呼び起こすのだとすれば、どうだろうか。貴樹的な鬱屈がそんなに簡単に癒やされ、断念され、自己肯定されるとは私には思えないのである。

【3】来たるべき政治的欲望のために

 さて本稿の【1】では、ゲーム的+ロスジェネ的なメタリアルについて論じた。【2】では、オタク的な男性主体の解離的セクシュアリティについて論じた。それらを統合的に考察するための視座を手に入れるために、あらためて、次のような問いを提示しよう。ロスジェネ/オタク的な主体たちの〈政治的享楽〉、ときに苦痛すら快楽となるほどの政治的な執着はいかに組織されうるのか、と。突き詰めていけばそれは、記号的なリセット&リプレイを主体に強いる現在的な社会環境≒資本主義の形態変化(構造的変化)を理論的に分析する、ということに関わってくるだろう。

 すでに見たように、2000年代の文脈において東浩紀は、『ゲーム的リアリズムの誕生』等の著作で、オタク的な男性たちの解離的にねじれた欲望をアクロバティックに肯定しようとした。これに対し、東への象徴的な父殺しを敢然と試みた宇野常寛は、そんなものは安全に痛い自己反省のパフォーマンスにすぎない、レイプファンタジーへの居直りでしかない、と痛烈に批判してみせた。

 こうした宇野による東批判は、その後の2020年代のリベラリズム&フェミニズム的な批評の勝利を予告するものでもあった──と、「週末批評」の管理人てらまっとは「敗北を抱きしめて:ゼロ年代批評と「青春ヘラ」「負けヒロイン」についての覚え書き」の中で論じている。

 てらまっとによれば、近年のたとえば「感傷マゾ」「青春ヘラ」等をめぐる若者たちの活動は、男性性のねじれや敗北感を戦略的にサークル化/ホモソ化して、それを現実社会に対する防波堤となし、メンヘラ化/インセル化という転落の道を回避しようとする活動である。

 長くなるが、そのまま引用する。

  「青春ヘラ」も「負けヒロイン」も、それらに執着してしまう「ダメな僕ら」のごく個人的な問題にすぎず、ポルノグラフィックな美少女ゲームと同様、もはや社会的に正当化するのが困難であることを、両研究会はおそらく完全に理解している。だからこそ、彼らは「批評」という論争的なフォーマットを採用せず、あくまで「自分語り」的な文体にこだわることで、2000年代に比べてはるかに道徳化・倫理化した社会から身を守ろうとしているのではないか。つまり、宇野による「安全に痛い自己反省パフォーマンス」批判に反論するどころか、逆にそうした批判を「正論」として受容し内面化した結果として、「2020年代の批評ライン」が形成されているように思えるのだ。私のいう「ゼロ年代批評との断絶にして継承」とは、おおよそこのような意味である。

〔略〕

 私の印象では、いま最も強力な批評的=批判的言説はフェミニズムである。これはフェミニズム批評が他の方法論よりも優れているということではなく、個人と社会とをダイレクトに接続する回路としてきわめて効果的に機能しているということだ。「個人的なことは政治的なこと」という1960年代の有名なスローガンのとおり、フェミニズムは女性ひとりひとりが抱えている生きづらさを、そのまま社会全体の問題へと引き上げることができる。「あなたが苦しいのはあなたのせいじゃない、女性差別的な日本社会のせいだ。一緒に社会を変えていこう」というわけだ。こうした傾向は近年、SNSの活用によって劇的に加速し、ハラスメントなどの問題を起こした男性を集団で追い込んで「キャンセル」したり、女性に対する「性的消費」を促進すると判断した図像を撤去させたりする「ハッシュタグ・ポリティクス」として結実する。

 その一方で、私の見るかぎり、男性には女性にとってのフェミニズムのような、個人と社会とをつなぐ回路が「仕事」以外に存在しないか、存在したとしてもほとんど機能していない。そこからドロップアウトした一部の男性がどれほど自分の生きづらさに悩んでいても、それはいわば「自己責任」であって、社会的に解決されるべき問題とはみなされない。男性にとってはあくまで「個人的なことは個人的なこと」なのだ。10

 政治的なものやフェミニズムの圧力から意図的に撤退し、あらかじめ無力化された自虐的でホモソーシャルな「安全に痛い」空間の中で相互ケアを行いながら平和的に滅びていくこと──もちろん「敗北」そのものは全く恥じることではない。現代社会はつねに誰かを敗者とし、誰かを勝者とするのだから。しかし、問題なのは、そこでは「敗北」という言葉と身振りがある種のロマン的イロニー(つねにすでに敗北しているがゆえに無敵、という日本浪曼派的なレトリック)として機能してしまっているのではないか、ということだ。そのとき敗北は二重の敗北、歴史と社会に対する真の〈敗北〉になってしまうのではないか。

 かつてフェミニストの上野千鶴子は、ゼロ年代の文脈で、オタク男性たちは「ギャルゲーでヌキながら、性犯罪を犯さずに、平和に滅びていってくれればいい」という残酷な言葉によって容赦なく切り捨てたが(『バックラッシュ!』 、2006)、現代のオタクたちの一定層は、皮肉でも何でもなく、むしろ「そうです、それこそまさに僕たちの理想的な人生であり、ユートピアなんですよ!」と、上野の言葉を心から本気で祝福として受け止めるのではないか。上野の発言からさらに時が過ぎ、労働・経済状況はさらに過酷になり、オタクは中高年化し、「ギャルゲーでヌキながら、性犯罪を犯さずに、平和に滅びてい」くことすらもハードルの高い夢物語に感じられるのだから。

 終わりなき日常をまったりと生きるだけで素晴らしい(宮台真司)、だめなままでいい(だめ連)、志が低いままでいい(低志会)等々の1990~2000年代に獲得されて現在まで持続してきたオルタナティヴな価値観を、私たちは手放すべきではない。とはいえ、歴史や社会から完全に切り離された安全なシェルターが存在しうるわけでもない。たとえば、誰かを殺さないためにオタクの聖地に通ったり深夜アニメを仲間と視聴したりする、というささやかな「日常」のシェルターに、秋葉原事件や京アニ事件が象徴するような致命的暴力が侵入してくるのかもしれない。

京都アニメーション放火殺傷事件により全焼した第1スタジオ(2019年7月)
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 そしてその致命的な暴力もまた、犯罪者個人の自己責任的な問題であると同時に、社会的で歴史的な問題でもある。たとえば障害者運動/だめ連/ロスジェネなどの生存運動では、能力主義や労働生産性や社会貢献から切り離された、ただの生存/たんなる生が無条件肯定されたのだが、それらはやはり、自助団体/コンシャスネス・レイジング(自己発見)の機能を果たすと同時に、それぞれの日常に根差した社会運動でもあったのである。当事者たちには余裕がないのだから、彼らにはシェルターの中での自由を与えて、あとは余裕ある徳の高い者たちのノブレス・オブリージュ的な社会改革を待ち望むしかない──それはやはり非民主的なエリート主義や権威主義への自発的隷属であり二重の〈敗北〉なのだろう。

 すると重要なのはやはり、オタクや弱者男性をふくめた、ゼロ年代的な男性性のねじれや解離を何らかの形で「政治化」していくことなのではないか。そしてそこから、消費的=ゲーム的な欲望を規定する構造・環境について想像力をめぐらせることである。それは「意識の高い」リベラルエリートだけに可能な行いではない(はずだ)。解離的なねじれを抱え込んだ敗北感に苦しむ的な男性たちの方が、かえって、時代状況について根源的に思考し、想像力を発揮していけるのかもしれない、と私は考える。

 東が論じたようなゼロ年代的な解離的倫理の戦略を継承し、そこにオタク的なものとロスジェネ的なものを交差=混在させつつ、それを2020年代以降の現実の中でさらに展開していくこと。ゲーム的リアルと(新)自由主義の時代の労働者のメタリアルの交点に遡りつつ、その可能性を「政治化」してみせるということ(私は『男がつらい!』という著作の中でそれを「インセルレフト」という社会変革的な集団性として展望した)。繰り返すが、特定個人による暴力的な暗殺や大逆(父殺し、母殺し、神殺し)に期待するだけでは足りないのである。

 最後に、東浩紀によるゼロ年代の総括とも言えるフィクション『クォンタム・ファミリーズ』冒頭の「夢」を思い出してみたい。主人公・葦船往人は、自身のブログ「葦船住人の網上地下室」で、次のように書いた。「永遠に続く日雇労働、廃墟と化したショッピングモール、毎年のように制度が変わる社会保障、そして、そんな次世代の苦しみを横目に国外脱出を図る高齢富裕層──。その荒れ果てた光景のなかで、いちどでも暴力の誘惑に駆られたことのない人間がいるとすれば、それは夢も理想も最初からもたない人間だ」11

 ニートや引きこもりのような〈地下室の住人たち〉は、人生の尊厳や承認を決して所有できない者たちであり、それゆえに暴力やテロリズムへと誘惑されていく。そんな彼らを救うとは、何を意味するのか。

 この世界が生産し分配しうる富の総量には限界があるように、尊厳や承認の総量にも、おのずと限界があるだろう。誰もが世の中から尊敬され、十分な承認を得られる人間になれるわけではない。ならば、政府の再分配によって人々の生存を保障しながら、尊厳や承認の問題は、量子的な可能世界(インターネット)から調達するほかない。それが葦船の結論である。「だからぼくたちは、グローバル化、新自由主義化、監視社会化を押しとどめるのではなく、むしろその流れをはるかに徹底して、臨界まで推し進めなければならない。マルクスがかつてブルジョワ資本主義について述べたように」12

マルクス&エンゲルス『共産党宣言』と東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』(文庫版)
撮影=編集部

 東はここで、格差や貧困の問題を(ソーカル&ブリクモンの『「知」の欺瞞』のように?)パロディ化するというパフォーマンスを行っているのだろうか。私はそうは考えない。この世界の片隅で「生まれてこなければよかった」と絶望し続ける者たちの、その声なき声に寄り添って、正面から、社会変革の必要性を考えぬこうとするときに、このような革命的で加速主義的な〈理論〉が要請されるのではないか。そしてマルクス&エンゲルスの『共産党宣言』(1848)がそうだったように、このような〈理論〉は、特定の個人の脳内で捻出されたものではなく、その時代と歴史における人々の集団的な政治的欲望を(集合知のように)具現化したものである、と考えられるべきだろう。

 本稿もささやかなアジテーションによって筆を擱くことにしよう──万国の負け犬たち、ゾンビたち、弱者男性たち、団結せよ。おそれずに構造的現実を分析せよ。自分たちの解離してねじれた政治的欲望を連合させ、この世界を変革せよ。

著者

杉田 俊介 SUGITA Shunsuke

批評家。『対抗言論』編集委員。
著書に『糖尿病の哲学』(作品社、2024)、『男が男を解放するために』(Pヴァイン、2023)、『神と革命の文芸批評』(法政大学出版局、2022)、『ジャパニメーションの成熟と喪失』(大月書店、2021)など多数。

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脚註

  1. 桜坂洋『ALL YOU NEED IS KILL』、集英社スーパーダッシュ文庫、2004年、10頁。 ↩︎
  2. 赤木智弘『若者を見殺しにする国』、朝日文庫、2011年、211頁。 ↩︎
  3. 桜坂洋『スラムオンライン』、ハヤカワ文庫、2005年、51–52頁。 ↩︎
  4. 桜坂『ALL YOU NEED IS KILL』、78–79頁。 ↩︎
  5. 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』、講談社現代新書、2007年、179頁。 ↩︎
  6. 同書、311頁。傍点は原文。 ↩︎
  7. 同書、313–316頁。 ↩︎
  8. 同書、316頁。 ↩︎
  9. 同書、323頁。 ↩︎
  10. てらまっと「敗北を抱きしめて:ゼロ年代批評と「青春ヘラ」「負けヒロイン」についての覚え書き」、てらまっとのアニメ批評ブログ、2021年11月26日。強調は原文。 ↩︎
  11. 東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』、河出文庫、2013年、23頁。 ↩︎
  12. 同書、27頁。 ↩︎

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