2025年3月31日、国内有数の現代美術コレクションを擁するDIC川村記念美術館(千葉県佐倉市)が30年余りにわたる営業を終えた。同館を運営する化学メーカー・DIC株式会社が東京都内への縮小移転を決めたためだ。その決定は美術関係者や愛好家のあいだに大きな波紋を呼んだが、なぜこのような事態が起きたのか。休館の経緯と同館の文化的意義(1〜4節)を振り返りつつ、背景にある民間主導の美術館の在り方から近代以降の芸術概念・制度の限界(5〜8節)に至るまで、画家・批評家の永瀬恭一が論じる。
文:永瀬恭一
はじめに 佐倉、ロスコ・ルームの経験
シュルレアリスムの作品たちがある場所から、細い通路をすこし歩く。正面、やや高いところに、濃い緑の庭園が見える窓がある。右手には階段があり、左手に2つの穴のような開口部がある。そこへ、私は入っていく。
暗い。その部屋はけっして大きくはない。床は濃い茶色の木材。部屋の形に呼応した形のソファがある。天井も高くない。照明は、天井が2段になっていてその段差の中にあり、壁面方向をわずかに照らす。視界に広がるのは、変形した七角形をしている壁に1枚ずつ架かった、7枚の絵だ。白い壁からごく僅かに浮くようなキャンバスが、私を取り囲む。黒、褐色、オレンジ、赤といった色彩は、最初は溶け合うようでよくわからない。少し眼の悪い人なら足元が不安になるかもしれない。
手をつく。低いソファへ腰掛けてみる。視界に広がる画面を見る。一瞬、褐色が一面に塗られただけのように見える絵がある(《壁画 セクション1》 1959年)。しかし、よく見ると、明度・彩度を変えた矩形が、縁にやや鮮やかなオレンジをもって描かれていることがわかる。その隣には、赤いフレームを反復するような四角い黒の帯。中央にはその帯が縦にも走る絵がある(《無題》 1959年)。右を向けば、横幅の狭い画面にオレンジの四角が(《「壁画 No.1」のためのスケッチ》 1958年)、左を向けばもう少し大きな画面に、やはりオレンジの四角と中央に1本の縦線が描かれた絵がある(《「壁画 No.4」のためのスケッチ》 1958年)。

ロスコ・ルーム(撮影:渡邉修)
出典:『DIC川村記念美術館』、DIC川村記念美術館、2024年、74頁
3分。5分。時間の経過を待つ。徐々に自分の瞳孔が開いてゆくのがわかる。それに応じて、暗さがゆっくりと解像度をましてゆく。空調の音がする。このとき、スマートフォンを見てはいけない。照明を探そうとしてもいけない。覗き込めば光源が、せっかく開きかけた瞳孔を一瞬で閉ざすだろう。開いてきた私の瞳孔は、さっきまでは見えなかった、微妙な色彩を見つけ始める。ただの褐色の面に見えた《壁画 セクション1》の、絵具のトーンの差異。絵具たちは互いに浸潤し、その境界は複雑で、チラチラと、私の眼の中で明滅するように感じられてくる。
この微細さに比べれば、右手の《「壁画 No.1」のためのスケッチ》の、思わず正方形かと思える(実際には横が40センチほど長い)画面にあるオレンジの鮮やかさはむしろ強烈に見える。《無題》の黒も、今度はずっしりと重いコントラストに感じられる。左手の《「壁画 No.4」のためのスケッチ》のオレンジも、ちょっと眩しいくらいに感じられてきたとき、私は自分の眼の感受性が上がりきったことを自覚する。
自分の呼吸や鼓動まで意識に上がってくる。改めて《壁画 セクション1》を見る。見えそうで見えなかった色。ない、と思ったのにあった色。私は、不意に眼を閉じてみる。まぶたの裏に、赤い膜と、褐色の膜と、ちらちらゆれる何らかの光が見える。もう一度眼を開く。赤い色と、褐色の色と、ちらちらゆれる何らかの光。この絵には、眼を閉じた時と似た知覚がある。光を遮断した後に見える光。光が立ち去った後の光。
1. 何が起きたのか
DIC川村記念美術館は、千葉県佐倉市にDIC株式会社が持つ私立美術館だ。1990年に同社総合研究所敷地内に開館し、以後、充実したコレクションと企画展によって高い評価を得てきた。しかし2024年8月27日、DIC株式会社は同館について「東京への移転を想定した「ダウンサイズ&リロケーション」」もしくは「美術館運営の中止」を検討し、現行の美術館は翌2025年1月下旬に休館予定であることをアナウンスした1。
同館の重要性を知る美術関係者ならびに佐倉市ら地元行政から、美術館とコレクションの可能な限りの保全を求める声明2や署名活動3が相次いだ。あまりアクセスがよくないため、同館は普段はけっして混み合う施設ではなかったが、この件が報道されると来館者は増加した。レストランは予約で満杯となり、美術館も送迎バスを増便するなど対策に追われる。2024年9月30日にはDIC株式会社は休館開始の予定を2025年3月下旬からに延期するとした4。

DIC川村記念美術館付近に立てられた同館の存続を求める看板
撮影=編集部
美術館は最後の企画展となる予定であった「西川勝人 静寂の響き」展の後に急遽コレクション展を行うこととした。が、結局12月26日にコレクションを4分の1に縮小、都内に移設する「ダウンサイズ&リロケーション」が選択・決定された5。
さらに2025年3月12日、DIC株式会社はロスコによる「シーグラム絵画」コレクションを維持、国際文化会館が六本木に建設する新西館にロスコ・ルームを移転するとした(設計はSANAA)6。発表には「戦後アメリカ美術を中心とする20世紀美術品を所蔵」「そのコレクションを中核に国際文化会館に移転」とあり、コレクションの完全な散逸と美術館運営の中止という最悪の事態は避けられた。とはいえ、同社株主の投資ファンドからの異議申し立てが続くなど、今後も注視が必要である。
2. 縮小移転の背景と経緯
このような事態はなぜ起きたのか。それにはDIC株式会社の経営状態を見る必要がある。ひとまず同社が公開している「DIC レポート 2024」を見てみよう。12頁「キャッシュ・アロケーション方針」に注目すべき資料、ROEについてのグラフがある。ROEは「Return On Equity=自己資本利益率」のことだ。簡単に言えば株主が出資した資金を元手にどのくらい稼げているかの指標である。

「DIC レポート 2024」12頁より
2023年度は−10.6%で、22年度の+4.8%に比べても大きく落ち込んでいる。2024年度の見込みは+2.7%だが、それでも低い。最高財務責任者の浅井健氏は同レポートで「2023年は対前年で減収減益、特別損失により赤字化、と当社にとって厳しい結果となりました」と書き、いくつかの施策を述べた後、末尾に株主還元の強化を挙げている。
もうひとつ興味深いのは同26頁の「主要財務指標の推移」だ。「財政状況」の「総資産」で、もちろん経営状況から直近の増加幅は全く小さいのだが、それでも2012年度からみれば23年度は1.8倍程度にはなっている。

「DIC レポート 2024」26頁より(赤線は筆者)
この状況をまとめれば、DIC株式会社は「資産はあるが株主へ利益還元できていない」となる。単純な図式である。出資者=株主が出すお金を効率よく利益に結び付けられていない、資産を持った株式会社に「だったら資産を売ればいいではないか」という力がかかる。DIC川村記念美術館に起きていることは、これ以上の「裏」も「隠された陰謀」もない。
日本経済新聞web版(2025年2月12日付)に「DIC黒字回復 24年12月期、美術館縮小も資産圧縮は途上」の記事がある。それによるとDIC株式会社は23年の赤字から24年は黒字へV字回復、ROEも改善したものの、専門家のコメントとして「世界トップシェアのインキと顔料でこの利益水準は寂しい」としている。かつ、圧力をかけた株主として、DIC株を11.53%保有する香港の投資ファンド、オアシス・マネジメントを挙げている。この「モノ言う株主」に応答するようにDIC株式会社が立ち上げた「価値共創委員会」によって、美術館運営に関する報告書が出されたことになる。
このような流れの中で日本経済新聞web版は、2025年3月3日に「オアシス、DIC猪野薫会長の再任に反対 企業統治に問題」という記事を出している。これによれば投資ファンドのオアシスはDIC株式会社が最終報告として出した美術館の「ダウンサイズ&リロケーション」決定を含める企業ガバナンスについて疑義を呈し、「DICの猪野薫会長の取締役再任案について27日の株主総会で反対票を投じるよう、ほかの株主に呼びかけ」「10日までに公開質問への回答も要請」した。
結果としては先述のように3月12日、DIC株式会社はロスコに代表される戦後アメリカ美術を中心としたコレクションを4分の1に縮小しながら維持、国際文化会館と協業しつつ六本木に移設するとしたわけだ。
これに対しオアシス・マネジメントは14日、DICによる美術館の縮小・移転計画を非難する声明を発表した7。報道はブルームバーグである。同報道によればオアシス・マネジメントは「一連の戦後アメリカ美術は時価総額の3分の1以上を占めており、資本の使い方として極めて不適切」と指摘、国際文化会館とDIC創業家出身の川村喜久取締役の深い関係を含めて批判した。
DIC株式会社は同日、「株主の質問状に対する当社見解について」を公開した。結語は以下である。
提案株主様は、経済的価値と社会的価値を両立し得ないものと考えているようですが、当社としましては、速やかに一括して美術品を処分しなければその資産価値が失われるとは考えておりません。そのため、現時点においては、引き続き当社の社会的価値及びブランド価値向上のために美術品の1/4程度を保有し、活用することを選択させていただいた次第です。8
投資ファンドはコレクションをもっと売れといい、DIC株式会社はそれに反論している。ここまでの展開を公平に見るなら、同社は企業の論理の中で、自身の美術館と作品を投資ファンドから可能な範囲で守ろうとしている。
一部の美術関係者や愛好者は、DIC株式会社について、美術作品や美術館を経営資源としてしか見ない「悪玉」だというイメージを持っているかもしれない。過去のニューマンや等伯作品売却などの経緯もある故だが、この認識は注意を要する。一般に資本が投下した資金に対する付加価値を要求するのは普遍的事象である。また経営はそのようなサイクルを生み出すのが、いわば「仕事」とも言える。ここでの対立点は「価値」とは何かという問いだ。

DIC株式会社による株主優待の美術館入場券付き絵葉書など
撮影=筆者
早めの結論を明確に書き付けておけば、これまでのDIC川村記念美術館とその作品を愛し、尊重し、これからも極力その維持を願う立場のものは、現在のDIC株式会社経営陣の「ダウンサイズ&リロケーション」の決定をひとまず支持し、投資会社のさらなる影響力の行使への歯止めとなるような意見を発信することが望ましい。このアングルを見間違えてはいけない。もっと悲惨なことにだってなり得たし、引き続き今後もなり得る(投資会社の影響力は残存している)のが現状である。
3. この美術館がなくなって何が困るのか
とはいえ、今回の決定によって、一般の観客ならびに日本の美術界は何を失うのだろう。つらい作業だが、この確認は避けられない。近い将来に起こり得る、これ以上の損失を防ぐ意味でも必要である。
美術館を構成するのは、大雑把に言って作品(コレクション)および付属資料、学芸員(スタッフ)、そしてそれらを維持・保護するハードウエアとしての建築である。DIC川村記念美術館の特質としては、広大な総合研究所敷地内の素晴らしい自然も含めるべきだろう。建物入り口付近に置かれたフランク・ステラの彫刻《リュネヴィル》(1994年)の異形を記憶している来館者も多いだろうが、他にも庭園にはジョエル・シャビロ《無題》(1988–89年)やヘンリー・ムーア《ブロンズの形態》(1985–86年)などが置かれており、作品と周辺環境の相互作用は無視できない。加えて、都心からやや外れた千葉県佐倉市という立地での文化センターという役割も、この美術館の重要な意味であった。

DIC川村記念美術館の庭園に立つヘンリー・ムーア《ブロンズの形態》(1985–86年)
撮影=編集部
3a. 佐倉という地理条件
現在の美術館から確実に失われることが分かっているのは、千葉県佐倉という立地である。一部の美術ファンにはロスコ・ルームの六本木への移設を安直に喜ぶような意見が見られるが、ナイーブだろう。混雑する都心に美術施設を増やすことの、社会全体での意味は再考されるべきだ。また、東京はけっして安全な土地とは言えない。日本に安全な場所などないといえばそれまでだが、将来予測される首都直下地震などへの備えも含め、過度な美術資源の集積はリスクとして捉えられる。
作品に出会うために佐倉の地を訪れることの意味は、それを経験したものが声を大きくして語らなければいけない。最大のものは「国立歴史民俗博物館」とのリンケージである。DIC川村記念美術館と「民博」を続けて見た人は多いのではないか。実際に訪れると、どちらもそれぞれのミュージアムひとつを見るだけで一日消化してしまうことが明らかな充実した施設であって、川村で企画展があれば民博に寄り、民博で見たいものがあれば川村の企画展とのスケジュールが合う日程を探る機会を持った人は一定数いるだろう。

国立歴史民俗博物館の外観
© Sakura City Tourism Association
出典:https://www.sakurashi-kankou.or.jp/facility/rekihaku/
欧米中心の近代美術と、日本列島の長い時間で集積された文物を続けて見ることで得られるビジョンは代えがたい。とくに、明治以後の戦争の歴史、さらに第2次世界大戦中の資料を国立歴史民俗博物館で見ることは、DIC川村記念美術館での経験を改めて内省的に検討する大きな材料であった。我々はどのような国や文化と交流し、その中で自らの価値観を形成してきたのか。アメリカをはじめ、近代日本が規範としてきた西欧が政治的–文化的転換点を迎えている今、川村+民博の連携が失われることの意味は、今後時間が経つにつれて大きくなっていくだろう。
あえて私的な話をすれば、JR総武本線の四街道駅から物井駅、そして佐倉駅までの車窓は私にとって魅力的であった。とくに初夏から梅雨の時期は印象的で、濃緑の風景を思い出せる。この季節は総合研究所敷地の庭園も素晴らしい雰囲気に染まる。雨の日、池の水面に水輪が連なるなかを泳ぐ白鳥を横目にしつつ濡れた林を歩く時間は、明らかに自分の眼や耳や鼻を含めた身体全体を変化させてゆく。そのようにひらいた感覚器官をもって個々の作品に相対することは、もうできない。海老原一郎による建築は、そこここに庭園の緑への開口部を持っており、そこから見える景色と差し込む光は、佐倉でしかあり得ない。
3b. 近現代美術の展開をたどれる所蔵作品
美術館コレクションの価値について言えば「ヨーロッパから戦後アメリカへ移行する、近代~現代美術の展開が、質の高い実作によって概観できるまとまり」にある。フランス・パリを中心に展開した印象派から、抽象美術や後のシュルレアリスム運動を経つつ近代美術は前衛化する。この流れは世界大戦中アメリカへ亡命したアーティストを母体に抽象表現主義やポップアートへ引き継がれる。いわば文化・芸術の主導権が、ヨーロッパからアメリカへ移行した、その地政学的な変動が、DIC川村記念美術館の常設展を見ることで一気に体感できた。
常設の記憶を具体的にたどろう。同美術館の最初の展示室ではモネ、ルノワールといった印象派を中心にピカソ、マティス、シャガールらの作家が並ぶ。そこを出たところにあるのが印象派の前、オランダの市民社会を描いたレンブラント・ファン・レインの自画像である。ここでヨーロッパ近代美術の誕生と展開が「読める」。

レンブラント・ファン・レイン《広つば帽を被った男》(1635年)
出典:『DIC川村記念美術館』、DIC川村記念美術館、2024年、15頁
次に展示されるのがマレーヴィチやナウム・ガボといったロシア構成主義の作品だ。美術の抽象化のプロセスにおいてウクライナやロシアの作家の果たした役割は大きい。ロシア・フォルマリズムの作家をこのような順路の中で常設として見せている美術館は多くはなく、見逃されがちだがこれも同館の見どころである。

カジミール・マレーヴィッチ《シュプレマティズム》(1917年)
出典:『DIC川村記念美術館』、DIC川村記念美術館、2024年、47頁
その先にはかつて長谷川等伯などの日本美術コレクションが置かれていた部屋がある。すでに売却されてしまったが、以後ここにはカルダーのモビールや、リキテンスタインのポップアートなどが展示された。中庭を見ながら次の部屋へ移ると、マグリットやエルンストのシュルレアリスムの作品がある。ジョゼフ・コーネルの箱オブジェのまとまったコレクションを愛好した人も多いだろう。
デュシャンのようなコンセプチュアルな作品もあり、いわばここが、ヨーロッパからアメリカへ美術の中心が移行した転換点になる。少し離れてあるのが、冒頭に記述したロスコ・ルームだ。ユダヤ系ロシア人のロスコは迫害を逃れアメリカへわたってイェール大学に入っており、その意味でもヨーロッパ・ロシアからアメリカへという美術史的展開に沿っている。
階段を上がれば、以前はバーネット・ニューマン《アンナの光》(1968年)が展示されていた部屋がある。残念ながら2013年に海外に売却された。ここをすぎるとジャクソン・ポロック、フランク・ステラ、ロバート・ライマンらのアメリカ抽象表現主義とその後の作家たちの充実したコレクションが並んでいる。ここまでがDIC川村記念美術館の常設の、およその流れであった。そして、その先にいわゆる企画展が行われる空間がある。
このように、20世紀美術の先端的な展開を、ざっくり歩くだけで経験できる美術館を国内で見つけることは意外と簡単ではない。印象派のコレクションは国内に多々あるし、戦後アメリカ美術は東京都現代美術館でも見ることができる。だが、川村の強みは決定的な粒の揃い方だ。ロスコの、いわゆるシーグラム絵画と呼ばれるコレクションを、専用の部屋で展観できるのはイギリスのテート・モダン、アメリカのフィリップス・コレクションと並んで川村の3カ所しかない。言うまでもなくアジア唯一である。ステラのコレクションについても同館の右に出るものは国内にない。

ステラ・コレクション展示風景(撮影:渡邉修)
出典:『DIC川村記念美術館』、DIC川村記念美術館、2024年、130–131頁
これらの「まとまりと展開」は、実作だけでなく理論的な水準も付帯することは強調に値しよう。ヨーロッパからアメリカへ美術の「前衛」が戦線移動したことを明示したのが、戦後アメリカの美術批評を主導したクレメント・グリーンバーグであった。1960年代に「モダニズムの絵画」「抽象表現主義以後」9といった論考でメディウム還元主義的ドグマを打ち立てたグリーンバーグは、ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコを歴史的に位置づける。
このグリーンバーグのロジックを即物的に展開したのがミニマリズムであり、これを批判的に検証したのが「芸術と客体性」(1967年)を書いたマイケル・フリードだ10。そしてグリーンバーグに代表される原理主義的モダニズムに対し、シュルレアリスムなどを援用して批判を向けたのがロザリンド・クラウスであった11。
現在、こういった戦後アメリカ美術批評の水脈はすでに歴史化されているが、セオリーの批判点を検討していく梃子となるのが、川村で見られるような実作群であることは外せない。ポロックがグリーンバーグから「はみ出す」ポイント、クラウスの「政治利用」に抵抗するシュルレアリスム。こういった論点はヨーロッパ美術からポップアートまでのコレクションの「まとまりと展開」の中で、より精緻に検証することが可能だ。
現在発表されているコレクションの売却については戦後アメリカ美術は残されるようだが、私が懸念しているのは、上記文中に書いたロシア・フォルマリズムの作品に、報道の中で言及がないことだ。美術史上の重要性はすでに確認したが、現在のロシアによるウクライナ侵攻という悲劇の只中で、これらが売却されるということになれば、美術館のアクチュアリティの喪失につながる。シュルレアリスムの作品群についても重要性は変わらない。しつこく繰り返すが、同美術館のコレクションは近代ヨーロッパから戦後アメリカ美術への「展開」として見ることができる「まとまり」によって価値が増大していたのであって、アメリカ美術に偏重した内容になれば、いわば美術館の、美術史教育的な意義は毀損される。
3c. 充実した企画展と図録
では、これらのコレクションを軸とした学芸、企画はどのようなものであったか。学芸の精髄は作品の収集・管理・調査・研究・展示企画である。そしてその成果は企画展と、企画展に付随して作られるカタログ(図録)に集約される。DIC川村記念美術館は、ここにおいても大きな成果を示してきた。
まずは、特徴的な戦後アメリカ美術の、重要な展覧会を多々実施している。1991年の「フランク・ステラ 1958–1990」展からデイヴィッド・スミス、マーク・ロスコらコレクションにある作家個展はもちろん、2021年の「ミニマル/コンセプチュアル」展や2024年の「カール・アンドレ 彫刻と詩、その間」展といった、抽象表現主義以後の展開まで視野の広い企画を立てている。レンブラントやピカソといった展覧会も、主に初期に開催していた。
また、その一方で同時代の日本国内の現役作家の展覧会が行われていたことも見逃せない。1996年の「桑山忠明プロジェクト’96」展、2003年の「若林奮 振動尺をめぐって」展、2004年と2012年の中西夏之展などが大きな国内作家展だったが、グループショーとしては2012年の「抽象と形態 何処までも顕れないもの」展が印象的であった。一般に誰でも知っているとは言い難い戦後アメリカ美術の作家はもちろん、制作を続けている国内現役作家の紹介を継続していたDIC川村記念美術館の企画力は、改めて瞠目すべきものだ。同館はこれら同時代の国内作家の作品も収蔵した。戦後日本の、ヨーロッパやアメリカ美術との影響関係を見る上でも、単に作家支援というだけではない文化芸術史的意味が、これらの展示とコレクションにはある。

DIC川村記念美術館が開催してきた展覧会ポスターの一部
撮影=編集部
同館の学芸の在り方を象徴的に示すものとして、展覧会図録を見てみよう。目立つのは一部のブックデザインである。2010年に行われた「アメリカ抽象絵画の巨匠 バーネット・ニューマン」展カタログ12を見ておどろくのは、造本構造の一部露出だ。ハードカバーの背から表紙周りの厚紙の一部をカットし、強度を上げるための寒冷紗がその部分だけ表に出ている。製本用の接着材強度に十分な自信があってのデザイン(担当:株式会社エヌ・ジー)だと思われるが、見た目の奇抜さだけの問題ではない。
バーネット・ニューマンの作品に特徴的な、画面内の垂直線ジップ(zip)は、画面を2つに分割しながら1つに結合し「単一性」を宣言する機能があるが、これをバラバラのページをまとめ上げる「製本」と重ね合わせ、その骨格を露出することで、いわばカタログの「ジップ」を出現させた、造本設計が批評的になり得るものであった。収録論文は『アンフォルム』13をロザリンド・クラウスとまとめ『マチスとピカソ』14で両者の並行関係を分析したイヴ゠アラン・ボアを筆頭に、近藤學、学芸員の前田希代子で、カタログデザインに拮抗する布陣と言える。


2010年「アメリカ抽象絵画の巨匠 バーネット・ニューマン」展カタログ
撮影=筆者
先行する2008年「モーリス・ルイス 秘密の色層」15も同じくデザインが株式会社エヌ・ジーだが、このカタログも大胆だ。ここでは徹底して作品図版と「言葉」をわけている。横長の判型をひろげると、右ページに作品図版、左に薄いグレーで作品タイトルのみがある。制作年もサイズ表記すらない。それらのデータと解説は後半にまとめられるが、このフォントも薄いグレーにされており、視認性をあえて下げている。ジョー・クルック、トム・ラーナーのテキスト「モーリス・ルイス:制作の秘密」は可読性を考慮されているがコンパクトで、論考はこの1本だけである。
横長の版型は、出品されたモーリス・ルイスの代表的な作品のフォーマットに合わせてあり、徹底した言葉と図版イメージの分離は、この展覧会の「予断を排して作品と向き合う」コンセプトの反映と言えるだろう。ここでは学芸員の研究発表という、いわば美術館学芸のパフォーマンスを逆説的に退かせて作品それ自体を前へ出すという、キュレーションに自信がなければできない構成を取っており、その意味でも注目に値した。

2008年「モーリス・ルイス 秘密の色層」展カタログ
撮影=筆者
DIC川村記念美術館の図録は他にも、展覧会カタログとして内容・印刷ともに吟味の行き届いたものが多い。展覧会は消えてなくなるが図録は残る。こういったところに同館の学芸の水準を見ることは可能だろう。今回の「ダウンサイズ&リロケーション」に付随する報道の中で、学芸部分への影響について言及はない。むしろ今回の出来事を機に人員・体制ともに強化されてもいいくらいだが、万一縮減されるようなことがあれば重大な損失だろう。
4. 文化的価値を支える制度
短期利益のみを求めるような投資と資本の論理から美術・芸術を守ること、これはどのように可能になるだろうか。ひとつは制度面である。ただ、例えば「博物館法」は、作品の売却について規制をしていない。DIC川村記念美術館は博物館法上「指定施設」だが、「指定施設」であることによって今回のような作品の売却などを法的に止めることはできない。また、同館が加盟している一般社団法人全国美術館会議は「行動指針」を制定しているが、これもあくまで指針であって強制力はない。
かといって、拙速に博物館法や全国美術館会議の行動指針に意味がない、と判断してはいけない。実際、DIC株式会社が発表した「「美術館運営」見直しの検討結果並びに今後の美術館運営に係る方針についての最終報告」においては、「3.美術品の売却について」の項目に以下のようにある。
(2)その検討にあたっては、取引の透明性と納得性、恒常的な公共性の確保、美術館運営に携わる関係者への配慮等、全国美術館会議が定める「美術館の原則と美術館関係者の行動指針」あるいは国際博物館会議(ICOM)が定める「ICOM 職業倫理規程」などに代表される美術業界における行動指針/倫理規程に十分配慮し、可能な限り沿うよう努めます。16
先に投資ファンドに対しDIC株式会社が作品・美術館の保護を図っている(したがって投資ファンドは企業ガバナンスに疑義を呈している)と書いたが、このような行動が可能になったのはなぜか。多くの署名やつめかけた来館者に代表される、株主配当に回らない「価値」について、社会的な後ろ盾として博物館法の理念や全国美術館会議の行動指針を示すことで、DIC株式会社は投資ファンドに対し抵抗することができたのだ。この意味は、きちんと認識される必要がある。
おそらく最も効果的であったろう、美術館の会社からの分離、つまり財団化が行われていれば、今回のような作品散逸や美術館の運営中止といった危機は避けられるだろうが、DIC株式会社はまさにそのような「企業ガバナンスからの美術館の独立」を避ける形で美術館運営をしてきた。いざとなれば売れますよ、という形がもし同館を形成する前提になっていたのだとすれば、これをどう捉えるかは難しい判断になる。だが、なくなってしまうなら最初からなければよかった、というのは間違いだろう。
5. 民間主導のメリットとデメリット
ここから先は、DIC川村記念美術館の具体例を離れ、こういった事態の大きな構造的特徴に焦点をあてよう。もし投資・資本の論理と美術館や作品の間に緩衝地帯を設けるならば、それは一般に国や地方自治体、大きく言って「公(おおやけ)」の仕事になる。国や自治体による作品買い上げ、もしくはそもそもの、DIC川村記念美術館を超えるコレクションの形成があれば大きな問題は解消するだろう。
そこで文化庁による「文化芸術関連データ集」(令和6年3月【令和5年度第2版】)を見てみよう。冒頭「① 近年の文化芸術関連施策の進展(予算/法制度・税制の改正状況 等)」の中に「文化予算の国際比較」の項目がある。同項目は、最初にはっきりこう書く。
日本は英、仏、独、米、韓と比較した場合、中央政府としての文化歳出予算額が最も少なく、国家予算に占める割合、国民一人あたりの額もアメリカに次いで低い。17

「文化芸術関連データ集」9頁より
推移についても、もともと予算の少ない日本は横ばいである。

「文化芸術関連データ集」10頁より
とはいえ、日本社会において、美術館が少ない、あるいは充実していないと感じる人もまた少ないだろう。日本の美術状況を作り出している力の一端が民間、つまり私企業や個人による芸術・文化への投資である。ことに近代ヨーロッパ以降の美術品コレクションについては、明らかに民間の力や私立美術館の充実によるところが大きい。
日本の国立美術館の中心的存在としての国立西洋美術館そのものが、川崎造船所(現・川崎重工業)の初代社長松方幸次郎のコレクションを核にしたものである18。そして、質や歴史性という観点から言っても、事業家大原孫三郎による大原美術館、株式会社ブリヂストン創業者の収集品に由来するアーティゾン美術館など私立館が国公立館と同等、あるいはそれ以上のプレゼンスを持っていることは否定し得ない。ポーラ美術振興財団によるポーラ美術館も相当な美術コレクションを持つし、現代美術についてもベネッセコーポレーションによるベネッセアートサイト直島の複数の施設群は圧巻とすら言える。
このような私企業牽引による文化状況は、良い面と問題点がある。良い面については企業収益が、単に経営者や株主への資金還流にとどまらず、広く一般に公開される文化ストックとして形成され、かつ、企業やコレクター個人の眼による多種多様なコレクションを形成し得る点だ。
しかし同時に、景気や企業業績の悪化によって、作品やコレクション、美術館自体の存続が危険に晒されることもあり得る。実際、類似のことは日本で繰り返された。典型的なのは1990年代に起きたバブル崩壊時の美術館閉館ラッシュだ。例として東高現代美術館が挙げられる。1988年に東高不動産が設立した現代美術専門の美術館で、荒川修作展などを開催しヴィヴィッドな活動を見せた。しかし、まさに不動産過熱を特徴とした景気動向に対し、日銀は公定歩合を引き上げる。政府も地価税の創設や不動産向け融資の総量規制を行い、地価熱を下げた。株価は1989年にピークを迎えるが1990年に暴落する。東高現代美術館はこの流れに押されるように1991年には展覧会を終えた19。
また1970年代から先進的な活動をしてきた西武美術館、後のセゾン美術館もまた、同時期の景気後退によって1999年に閉館する。コレクションは軽井沢のセゾン現代美術館に引き継がれたが、やはり私立美術館の脆弱性が露呈した。他に、斎藤記念川口現代美術館の例がある。埼玉県川口市に1994年に開館した同館は、70年代以降の国内現代美術品コレクションを中核に、開館記念の「土屋公雄-来歴-」展や「スピリチュアリズムへ・松澤宥 1954–1997」展を開催したが活動はわずか5年、1999年に閉館した20。

セゾン美術館、斎藤記念川口現代美術館カタログ
撮影=筆者
バブル崩壊後も同様の事例はある。DIC川村記念美術館自体、2013年のバーネット・ニューマン《アンナの光》に続き、2018年には長谷川等伯《烏鷺図屏風》(1605年頃)などの日本画を売却した。つまり我々は、今回の事態を初めて経験したわけではない。かつ、おそらく今後の日本の国勢を想像すると、「もっと悲惨なこと」が起こり得る。
そして、それを食い止めるような制度的歯止めは存在しない。博物館法などで、美術館がコレクションを売却することに規制や罰則を設ければ、単純に美術館登録をしてコレクションを形成しようとする私企業や民間資本の減少・撤退を招くだけだろう。財団化を推進する施策は検討すべきだが、これも最終的には美術館を持つ企業や経営者の判断によるほかはない。
6. 美術館形成の歴史的問題
このような、民間に重きが置かれる日本の美術館の状況には、歴史的な背景がある。建築家の磯崎新は、美術館を形成過程から3段階に分けた21。第1世代は18世紀末までに形作られた王侯貴族の私的コレクションを公開する目的でつくられている。ルーブル美術館などがそれである。この形の美術館はさらに19世紀の芸術概念、例えば美術アカデミーの成立とパラレルに成り立っている。
第2世代美術館がいわゆる近代美術館である。それまで宮殿や教会に固定されていた絵画や彫刻が固有の場所から切り離された結果、それらを収める美術館は抽象的な均質空間(いわゆるホワイト・キューブ)を持ち、作品はそこに浮遊するように置かれる。ニューヨークのグッゲンハイム美術館などが典型となる。
この後に磯崎は第3世代美術館を提唱する。それは第2世代の近代美術館への批判として、サイトスペシフィックな、特定の場所に特定の作品が配置される美術館である。磯崎設計の奈義町現代美術館は荒川修作+マドリン・ギンズ、岡崎和郎、宮脇愛子の作品を収める3室を中心に置き、これらの作品は固定されている。安藤忠雄による直島アートサイト内の地中美術館も同様の構造である。

磯崎新設計の奈義町現代美術館の外観
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私がここで重視するのは、磯崎の言う19世紀の芸術概念・芸術制度の成立に「遅れてきた」国がある点だ。18世紀から19世紀の芸術概念はヨーロッパで形成されたため、フランスやイギリス、ロシアといったヨーロッパ諸国で先行して第1世代美術館がつくられた。対して、この芸術概念の成立に後から参加したアメリカでは第2世代美術館、つまり近代美術館が発展する。第1世代美術館が教会などの特定の場所や植民地などの特定の土地から作品を移動させ、商品化したことを受けて、第2世代の近代美術館は作品をさらに徹底した抽象的浮遊物、流通品とした。
アメリカよりさらに遅れた日本では、美術館制度はより遅く進展する。ここで先の議論ででてきた、国家予算に占める文化芸術予算の比率を思い出せば、「金(カネ)」の問題が「世界史」に裏付けられていることが想像できるだろう。日本の文化予算が「国家予算に占める割合、国民一人あたりの額もアメリカに次いで低い」のは、ある程度「近代国家」形成の歴史的プロセスと整合する。もちろん、現代の韓国などが国策として美術館予算を大きく取っているなど例外はあるが、いわば近代的市場形成を追うように美術館が整備された日本では、必然として美術館が民間主導にならざるを得なかったと言えるだろう22。
ただし注意すべきは、これをただちに「日本特殊論」に接続するような視点である。以下で述べるように、こういった文化予算の配分は、重要ではあるものの相対性の範囲であって、本質ではない。
7.「日本の特殊性」というフィクション
北澤憲昭『眼の神殿──「美術」受容史ノート』(美術出版社、1989年)は最新の研究とは言えないが、日本における美術制度成立の歴史を見る上で見逃すわけにいかない。北澤は近代化以前の近世・江戸期において、日本各地で開かれていた物産会・薬品会といった催しが、博覧会というヨーロッパ由来のものを受け入れる文化的素地になったとした23。ここに福澤諭吉のような啓蒙運動も加わって、明治以降「博覧会」「博物館」が形成されていく。美術館に先立って形成されていく博物館の制度は、しかし最初から美術館と完全に分離していたわけではない。
以降、美術あるいは芸術という翻訳語の制度化は、ウィーン万国博覧会、シカゴ万国博覧会といった「殖産興業」の国家施策と並行して徐々に進行してゆく。こういった上からの美術・芸術制度の整備は、しかし実際の市民・国民の「眼」の「進歩」と、必ずしも一致しない。日本における博物館–美術館(ミュージアム)が、いわば江戸期の物産会・薬品会、もっといえば一種の「見世物小屋」としての性格を、尻尾のように引きずっている──つまり美術館が「興行」でしかないのではないか、という疑いは今も残存するだろう24。
美術・芸術を「興行」として(だけ)見ること。作品個々の内在的価値や、それらがまとまった時に形成される歴史的意味、あるいは人類史的位置づけではなく、「チケット代」のための「商材」として扱うこと。こういった態度は、例えば美術館の価値を動員数で測ったり、海外から借りてきた「名画」を、それがなぜ「名画」なのかを主体的に問うことなく派手な宣伝とともに消費し終えてしまう状況として過去、何度か批判を浴びてきた。こういった土壌で形成される日本の美術自体も同様である。

1875(明治8)年に東京で開かれたクジラの見世物の様子(郵便報知新聞)
月岡芳年/小林年参 ボストン美術館蔵 パブリック・ドメイン
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だが、このような近代日本美術の土壌は、逆説的ながら日本美術の特異性、つまり「商品価値」として転倒した「ニッポン・キャンペーン」の対象にもなる。「こんな遅れたニッポンで生まれた奇形的アートが面白い」というわけだ。
椹木野衣の「悪い場所」論は、基本的に戦後の日本美術の、歴史の堆積のしなさについて書かれた語彙で、実際椹木による『日本・現代・美術』(新潮社、1998年)は、こういった日本の現代美術の問題点を批判的に「暴く」書物であった25。しかし、そのような「戦後日本美術」を準備したのは「戦前日本美術」を含んだ近代日本美術全体であることは自明であり、そのような「悪さ」こそが日本の美術の特殊性=商品性であるという反転的倒錯へとつながっている。
筆者はこのような倒錯への批判をすでに別に書いたので繰り返さない26。が、こういった「日本特殊論」の虚構性は、改めて示しておいたほうがいいと思われる。欧米の美術言説・制度・美術館をイメージの中で規範化し、自律的な価値体系を持たずに自身の立場の強化に利用する行為の無限反復こそ「閉じられた円環」でしかない。
西欧美術館の起源としては古代ギリシアの神殿への奉納品などが挙げられるが、並木誠士・吉中充代・米屋優編の『現代美術館学』(昭和堂、1998年)では、ローマ時代の戦利品の公開、中世教会の祭壇画や聖者像、王侯貴族のコレクションの公開の歴史が挙げられている27。こういった西洋の美術館前史が、日本の美術館前史と並行関係を持っていることも、本書では描かれる。正倉院のようなコレクションを、14世紀の唐物趣味の時代に床の間で見せたこと、茶の湯の流行の中での鑑賞的態度の醸成、寺社のご開帳、曝涼(虫干し)といった例だ28。小島英熙『ルーブル・美と権力の物語』(丸善ライブラリー、1994年)ではルーブル美術館の前史として、ルイ15世の治世下、王室コレクションの秘密性が揶揄され、これをきっかけにリュクサンブール宮で肖像110点が展示された事例が挙げられている29。
磯崎新が規定した第1世代美術館が、王侯貴族の私的コレクションを公開する目的で作られたとして、まさにフランスでルイ王朝の「私物」が公開されたとき、それは「見世物」ではなかったのか。大英博物館の、世界中の植民地から収奪された「文物」の公開はどうだったのか30。
アメリカの美術史家、キャロル・ダンカンは、美術館が従来のような神殿・宮殿に例えられる視点以上の興味深い指摘をする。「美術館全体をひとつの舞台として見る」提案がそれである31。様々な歴史的経緯を超えて、美術の見世物性、本稿の文脈で言えば「興行性」が、洋の東西を問わず潜在している。そして、近代啓蒙主義の洗礼の中、それらが教育や研究、市民権利の場として整備されていくプロセスもまた、欧米と日本でそれぞれ進展したはずだ。このように構築されてきた制度が今、国際的に改めて問われている。
8. 失効する芸術概念と美術館の危機
ここでインターナショナルに展開した「近代」に埋め込まれている症候を見ておこう。『ヒステリーの発明 シャルコーとサルペトリエール写真図像集』(みすず書房、2014年[原著:1982年])において、ジョルジュ・ディディ゠ユベルマンは、19世紀フランスの内科医兼病理解剖学者・神経学者であったジャン゠マルタン・シャルコーが、サルペトリエール施療院で「ヒステリー」患者(しかも若く美しい女性)を「スペクタクル」、平たく言って「見世物」にしていたことを描く32。

シャルコーによる実習を描いたアンドレ・ブルイエ《サルペトリエールでの臨床講義》(1887年)
パリ第5大学蔵 パブリック・ドメイン
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なぜここで「ヒステリー」という「疾患」が関係するのだろうか? ダグラス・クリンプ「美術館の廃墟に」(1980年)にはこうある。
フーコーは監禁という近代的制度、すなわち癲狂院、病院、監獄を分析し、それぞれが固有の言説、すなわち狂気、病、犯罪のそれを形成することを示した。さて今や、フーコーの言葉づかいを借りて分析されるべき、もうひとつの監禁制度と言説領域──すなわち、美術館と美術史──が存在する。それらは、われわれが近代芸術という名で知っている言説を可能にする前提条件なのである。33
狂気、病、犯罪。それらと等置される「美術」は、近代の起源において「見世物」の性格を持ち、その尻尾の存在は、けっして日本独自のものではない。近代化を経過した、あらゆる地域、国、文化領域に構造的に存在する。先述のように、アメリカや日本で国家予算内での文化芸術への支出が少ない、といった相対的な傾向は、もちろんある。しかし、それを言うならばフランスにはフランスの、韓国には韓国の特殊性がある。
DIC川村記念美術館で起きたような事態は、日本に限らず世界中どこでも起こり得る。現に起きているし、もっと大きな、つまりもっと悲惨なことにだってなり得ている。『美術手帖』は2021年に、メトロポリタン美術館がコロナによる財政難のためにコレクション売却を検討していることを報じている34。言うまでもなくメトロポリタンは世界最大級の私立美術館である。
コロナの影響はこれに限らない。日本経済新聞(2024年7月28日付)では「「金欠」美術館、美術品を売る コロナで資金繰りに苦慮」としてアメリカ・ホイットニー美術館のエドワード・ホッパー作品の売却、スイス・ラングマット美術館のセザンヌ作品売却を報じている。
『ART NEWS Japan』が報じるところでは、第2期トランプ政権下のアメリカでは、ワシントンの美術館で多様性(DEI)プロジェクトの廃止が進んでいる35。これなどは、作品売却よりも「もっと悲惨なこと」なのではないか。ドイツの芸術祭ドクメンタでの「反ユダヤ主義」問題、ルーブル美術館の財政危機など、現在、美術・美術館を巡る問題は、国や地域を問わない。むしろ、近代・現代美術を牽引してきた欧米で顕在化しているのであって、前世紀後半からの、倒錯した「日本特殊論」などは、物販キャンペーンとしてすら完全に賞味期限が切れている。
忘れてはならないのは、今回DIC川村記念美術館で、美術コレクションの内在的価値を検討せず一方的に売却を迫ってきたのは海外(香港)の投資会社であって、問題がドメスティックなものではなくグローバル資本主義のそれであることは強調されてよい。
美術・美術館の危機は日本ローカルのものではない。根本の課題は文字通り、磯崎の記述した18世紀以後の芸術概念・芸術制度そのものの世界的無効化に表れている。DIC川村記念美術館の問題は、個別的であると同時に普遍的でもある。
まずはすでに書いたように、投資会社のような視点ではなく「価値」をロングスパンに置いた(今回、コレクションと美術館を可能なかぎり防衛する指針となった美術館行動指針のような)判断基準を強化していくことは必要だろう。文化予算の増額も可能な限り進めるべきだろう。これらは崩れつつある既存の近代芸術概念の歯止めとして必須である。が、もう片方で、新たな、つまり22世紀を見据えた芸術概念・芸術制度の再構築が求められている。
おわりに 改めてロスコ・ルームで
後ろを振り返る。入ってきた入り口の明るさが眼に入り、やや瞳孔は閉じる。2つの入り口の真ん中にある小ぶりの絵《壁画スケッチ》(1958年)は、濃い赤紫に黒ぐろとした四角が描かれる。マレーヴィチのシュプレマティスム絵画、あるいはロスコの故郷のロシア・イコンのようでもある。しかし、中央は空洞だ。左にはやはり小さめな画面に赤い四角、中央に太い縦の線。ここには空洞が2つある(《無題》 1958年)。右には、一度瞳孔が開いた眼には階調の狭い差を追わざるを得ないもうひとつの《壁画スケッチ》(1958年)がある。こちらも空洞はひとつ。画面が小さい分、この3点は何も描かれていない、空っぽのvoidが目立つ。存在が、ないこと。あるいは不在が存在すること。眼が、窓が、扉が、閉じられた。あったものが立ち去った。その後の感覚36。
私たちはひとつの美術館を失う。その不在の感覚を忘れてはならない。そして、その不在を基礎に、まったく新しい「美術–館」を建設しなければいけない。この美術–館は、単なるビルディングではない。私たちが生きていく上でその支えとなる芸術概念、数字や資本に還元できない「価値」の体系/建築=architectureである37。

撮影=筆者
著者

永瀬 恭一 NAGASE Kyoichi
1969年生まれ。画家。東京造形大学造形学部美術学科卒業。2008年から「組立」開始。主な個展「記号の森/象徴の森/主題の森」(殻々工房、2024年)、「感覚された組織化の倫理」(M-gallery、2021年)他。主なグループ展「エピクロスの空地」(東京都美術館セレクショングループ展、2017年)他。共著に『成田克彦──「もの派」の残り火と絵画への希求』(東京造形大学現代造形創造センター、2017年)、『20世紀末・日本の美術──それぞれの作家の視点から』(ART DIVER、2015年)、『土瀝青 場所が揺らす映画』(トポフィル、2014年)。
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脚註
- 「価値共創委員会による「美術館運営」に関する助言並びにそれに対する当社取締役会の協議内容と今後の対応についての中間報告」、DIC株式会社、2024年8月27日。 ↩︎
- 「DIC川村記念美術館の発表について(声明)」、千葉市近隣美術館連絡会、2024年9月17日。 ↩︎
- 「DIC川村記念美術館の佐倉市での存続を求める署名(私たちの願い)」、佐倉市、2024年9月5日。 ↩︎
- 「DIC川村記念美術館の休館開始予定の延期に関するお知らせ」、DIC株式会社、2024年9月30日。 ↩︎
- 「「美術館運営」見直しの検討結果並びに今後の美術館運営に係る方針についての最終報告」、DIC株式会社、2024年12月26日。 ↩︎
- 「DICと国際文化会館がアート・建築分野を起点とする協業に合意」、DIC株式会社、2025年3月12日。 ↩︎
- 「DIC美術品移設を非難、時価1000億円超相当の保有不適切とオアシス」、Bloomberg、2025年3月14日。 ↩︎
- 「株主の質問状に対する当社見解について」、DIC株式会社、2025年3月14日。 ↩︎
- クレメント・グリーンバーグ『グリーンバーグ批評選集』、藤枝晃雄編訳、勁草書房、2005年。 ↩︎
- マイケル・フリード「芸術と客体性」、川田都樹子・藤枝晃雄訳、『批評空間(第2期臨時増刊号)モダニズムのハード・コア──現代美術批評の地平』、太田出版、1995年。 ↩︎
- 主著として以下がある。ロザリンド・クラウス『アヴァンギャルドのオリジナリティ──モダニズムの神話』、谷川渥・小西信之訳、月曜社、2021年。 ↩︎
- 前田希代子編『アメリカ抽象絵画の巨匠 バーネット・ニューマン』、川村記念美術館、2010年。 ↩︎
- イヴ゠アラン・ボワ、ロザリンド・E・クラウス『アンフォルム:無形なものの事典』、加治屋健司・近藤學・高桑和巳訳、月曜社、2011年。 ↩︎
- イヴ゠アラン・ボワ『マチスとピカソ』、宮下規久朗監訳、関直子・田平麻子訳、日本経済新聞社、2000年。 ↩︎
- 前田希代子・赤松祐樹編『モーリス・ルイス 秘密の色層』、川村記念美術館、2008年。 ↩︎
- 「「美術館運営」見直しの検討結果並びに今後の美術館運営に係る方針についての最終報告」、DIC株式会社、2024年12月26日。 ↩︎
- 文化庁「文化芸術関連データ集」(令和6年3月【令和5年度第2版】)、9頁。 ↩︎
- 国立西洋美術館「美術館の歴史」を参照。なお、同館は現在も川崎重工業とオフィシャルパートナー契約を締結している。このことに付随して、アーティストの飯山由貴らは2024年3月、同館での「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?──国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」展に際し、川崎重工がガザでの残虐行為を続けるイスラエルからの武器輸入を取りやめ、国立西洋美術館も同じ要求をするよう訴えるアクションを行った。 ↩︎
- 暮沢剛巳「現代美術用語辞典 1.0 東高現代美術館」、artscape、2009年1月15日。 ↩︎
- セゾン美術館も斎藤記念川口現代美術館も単純に撤退したのではなく、事後に一定の人的リソースを残して規模を縮小しつつ活動をした。そこには経営の論理だけに還元できない文化的な情熱や使命感があったことは記憶すべきだろう。 ↩︎
- 磯崎新「美術館」、『造物主義論:デミウルゴモルフィスム』、鹿島出版会、1996年、39頁。 ↩︎
- 1872年に湯島聖堂で「博覧会」が開かれ、1881年に第2回内国勧業博覧会のための建物(ジョサイア・コンドル設計)が開設、後に帝国博物館となる。ここでのミュージアムは博物館・美術館の分離が明確ではない。1902年開館の大倉集古館はここまでの議論を補強するように、実業家の大倉喜八郎による私立美術館であった。公立では東京府美術館が1926(大正15)年の開館だが、この施設はコレクションを持たない事実上のギャラリーである(後に東京都美術館になってからコレクションを開始する)。やはり私立の大原美術館開館が1930年。日本初の公立近代美術館は戦後、1951年の神奈川県立美術館(後の神奈川県立近代美術館鎌倉館)を待たなければならない。 ↩︎
- 北澤憲昭『眼の神殿──「美術」受容史ノート』、ちくま学芸文庫、2020年、134頁。 ↩︎
- 以下の参考文献を挙げておく。木下直之『美術という見世物』、平凡社、1993年。同書「パノラマ」の章では小山正太郎《日清戦争平壌攻撃図》、つまり戦争画を設置した「日本パノラマ館」について記述している。近代日本絵画における「戦争画」の位置は、2006年の「生誕120年 藤田嗣治展:パリを魅了した異邦人」(東京国立近代美術館)での藤田による《アッツ島玉砕》(1943年)再評価以後、政治的シリアスさの下に見られているように思われるが、その底にある「見世物」性を、同書は想起させるだろう。 ↩︎
- 椹木野衣『日本・現代・美術』、新潮社、1998年、11頁。 ↩︎
- 永瀬恭一「美術賞の亀裂」、『アートコレクターズ』2024年10月号、32頁。 ↩︎
- 並木誠士・吉中充代・米屋優編『現代美術館学』(昭和堂、1998年)の「1. 欧米における美術館の誕生」(14頁)を参照。 ↩︎
- 同書「2. 近代日本と美術館」(26頁)を参照。 ↩︎
- 小島英熙『ルーブル・美と権力の物語』、丸善ライブラリー、1994年、123頁。 ↩︎
- 日本での近代化の遅れは本文中で指摘したが、しかし帝国主義的な植民地からの文化財の収奪があったことは、十分認識しておく必要がある。荒井信一『コロニアリズムと文化財──近代日本と朝鮮から考える』(岩波新書、2012年)を参照のこと。学術調査を口実とした収奪は、例えば北海道におけるアイヌについても同様だろう。 ↩︎
- キャロル・ダンカン『美術館という幻想』、川口幸也訳、水声社、2011年、16頁。 ↩︎
- ジョルジュ・ディディ゠ユベルマン『ヒステリーの発明 シャルコーとサルペトリエール写真図像集(上)(下)』、谷川多佳子・和田ゆりえ訳、みすず書房、2014年の全体が該当する。が、特に下巻「第7章 反復、演出」の中に「過去の見世物師」(101頁)の項目がある。 ↩︎
- ダグラス・クリンプ「美術館の廃墟に」、ハル・フォスター編『反美学』、室井尚・吉岡洋訳、勁草書房、1987年、85頁。 ↩︎
- 「メトロポリタン美術館がコレクション売却を検討。コロナによる財政難のため」、美術手帖、2021年2月10日。 ↩︎
- 「トランプ大統領令によりワシントンの美術館が多様性(DEI)プロジェクトを廃止。他の芸術機関の対応は」、ART NEWS Japan、2025年1月27日。 ↩︎
- 画家の及川聡子氏の「ロスコは神がいなくなった後を描いている」という発言に、本稿は多大な影響を受けている。Art traceでの連続対談シリーズ「私的占領、絵画の論理」第五回「絵画における人のかたちと外部」(2021年11月20日)会場での発話であった。感謝します。 ↩︎
- 私は既存の美術概念や美術制度の崩壊する現在を「ブロークン・モダンの時代」と規定した上で、新たな美術・絵画史を提案するテキストを準備しているが、これについては稿を改める。 ↩︎