2024年初頭、西尾維新原作・尾石達也監督のアニメ映画『傷物語 -こよみヴァンプ-』が劇場公開された。同作は2016〜17年公開の『傷物語』三部作を一本の映画として再構成したものだが、旧三部作と新たな総集編とのあいだにはある決定的な差異が存在する。〈物語〉シリーズの代名詞とも言うべき、主人公・阿良々木暦(あららぎこよみ)の重要な台詞やモノローグがことごとく削除されているのだ。アニメ制作会社シャフトの批評誌を主宰するあにもにが、合同誌『伝承もにも〜ど』(2024)所収の論考を一部加筆・修正のうえ、『こよみヴァンプ』における“沈黙”の意義を読み解く。
文:あにもに
シーシュポスの沈黙の悦びのいっさいがここにある。かれの運命はかれの手に属しているのだ。かれの岩はかれの持ち物なのだ。同様に、不条理な人間は、みずからの責苦を凝視するとき、いっさいの偶像を沈黙させる。突然沈黙に返った宇宙のなかで、ささやかな数知れぬ感嘆の声が、大地から湧きあがる。数知れぬ無意識のひそやかな呼びかけ、ありとあらゆる相貌からの招き声、これは勝利にかならずつきまとうその裏の部分、勝利の代償だ。影を生まぬ太陽はないし、夜を知らねばならぬ。
アルベール・カミュ(清水徹訳)『シーシュポスの神話』
A PART はじめに
2016年から17年にかけて全三部作として劇場公開された映画『傷物語』は、アニメーションについてのアニメーションであった。あるいはより厳密に言うならば、『傷物語』は、アニメーションが含有するある種の政治性を浮かび上がらせる契機を内部に有している、自己言及的なアニメーションであった。

そして7年の月日が流れた。2024年に突如として公開された映画『傷物語 -こよみヴァンプ-』とは、一体何であったのか。
この問いに簡潔に答えるとすれば、『こよみヴァンプ』は旧三部作に対するいわゆる「総集編」としてひとまず位置付けられる作品である。公式のプロモーションが打ち出している宣伝文句によれば、「編集・音響・音楽等を全面的に再構築」した作品であり、また監督の尾石達也の言葉を借りるならば「決定版」として一本化したものだという。なるほど、たしかに昨今流行しているテレビアニメの総集編映画やディレクターズ・カット版にあたるような新しいバージョンを、当初は一本の映画として構想されていた『傷物語』において作ろうとする試みは至極正当かもしれない。
しかしながら、総集編あるいは再編集版と銘打たれた本作は、実際にはいびつなイメージを切り結ぶ事態に至った。なぜならば、本作は一般的に想起されうる総集編映画とはおよそ程遠い、おぼつかない形をしていたからである。三部作を一本の作品として過不足なく整頓するようなバランス感覚や、〈物語〉シリーズに触れたことがないアニメファンを作品世界に入りやすくするような気づかいとはまったく無縁の、いわば括弧付きの総集編映画として『こよみヴァンプ』は作られた。
本稿では、本作が抱えるこうした途方もない逆説について論じてみたい。総集編ないし再編集版について新しく批評が書かれるということ自体が、すでにこの映画の有するひとつのいびつさを表していると言ってもよいが、それは取りも直さず本作が旧三部作とは異なる新たなテクストを独自に形成しているからにほかならない。『傷物語』はいかにして新しく生まれ変わり、そしてそれはどのような意義を持つものなのか──これらの問いをあらためて考えることこそが本稿の目的である。
『傷物語 -こよみヴァンプ-』本豫告(2023)
© 西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト
B PART 反–総集編映画
『こよみヴァンプ』は旧三部作と何が変わったのか、あるいは何が変わらなかったのか。このことについて考えるには、旧三部作が原作小説をいかにして映画化したかという翻案をめぐる問題に立ち返る必要があるだろう。
最初に、三部作として公開された『傷物語』の基本的な制作方針について確認したい。同作には小説と比較して夥しい変更が加えられているが、その最大の違いはナラティブの形式とも言うべきものである。尾石がインタビューにて「暦に感情移入して、暦の目線で出来事を体験してもらうような作品にしたいな、とは思いました。具体的には、シナリオにあった暦のモノローグをほぼ切ったんです」1と説明している通り、西尾維新の作家としてのトレードマークであった一人称単数の語りを旧三部作では極力排している。『化物語』(2009)から一貫して物語を牽引してきたのは語り手を担ってきた主人公・阿良々木暦による言葉だったが、旧三部作はまさしくその点に注目して制作されたと言っていいだろう。
ところで、前述したように『傷物語』は当初の構想では三部作ではなく、一本の映画として企画されていた。しかしながら、その制作の過程で膨らんでいく野心、長尺化していく絵コンテ、そして度重なる延期を繰り返す終わりの見えないスケジュールに対応すべく、最終的には三部作という公開形態が選ばれた。この決定は制作上の苦肉の策であったが、とはいえ三部作となったことによって、かえって『傷物語』の持つ比類なき映画美学は汚されることなく最大限尊重されたという見方もできる。例えば旧三部作の総監督である新房昭之はこのように証言する。
一本の作品として作った方がいいのではないかとも思っていたのですが、〈I 鉄血篇〉が完成してみると、三部作という形になったこともこれはこれでよかったと思いました。一本の作品にしていたら、さきほど西尾さんがおっしゃった、冒頭のシーンは入れられなかったでしょうからね。三分割にして時間に余裕があったから、冒頭のシーンを入れることもできたわけで、そういう意味ではいろいろな要素が上手く噛み合ったような気がします。2
ここで新房が述べていることは、畢竟するに『傷物語』が一本の作品として作られていたとすれば、映画の冒頭で阿良々木が学習塾跡を歩き回り、螺旋階段を上り、屋上にて太陽を直視し、全身から発火して終わりなき死と再生を繰り返す、ただの一言も台詞らしい台詞を発しない無言の5分55秒はありえなかった、ということである。

『傷物語 -こよみヴァンプ-』より、太陽に焼かれ落下する阿良々木暦
© 西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト
この新房の見解は、常識的な映画作法に則れば特段反論の余地はないように思われる。映画にとって最も貴重と言える冒頭のシークエンスをこのように贅沢に使うことは、およそエンターテインメント作品としては考えられないことだろう。だからこそ、この冒頭の約6分間が総集編で1秒たりとも削られることなく、そのまま丸ごとすべて残されたこと自体、すでに尋常ならざる事態が進行していることの紛れもない証拠なのである。
あるいは、阿良々木が瀕死の吸血鬼に行き合うまでの一連の場面を思い起こしてみてもよい。およそ5分15秒の間、始まりから終わりまで阿良々木が台詞を発する場面はひとつもない。ただ闇雲に淫らな本を買いに走り、その帰路にて地下鉄のホームに強迫的に吸い込まれるように降りていき、そして最奥部にて四肢を切断された終わりの吸血鬼と出会う。この圧倒的に過剰で冗長さを厭わないシークエンスが、やはり『こよみヴァンプ』では1カットも取り除かれていないのである。
これらの場面が「総集編」と銘打たれた本作で1秒も削られなかったことは非常に大きな意義を持つ。総集編映画は一般的に物語を効率よく伝えるべく、台詞に頼り切った経済的な構成にならざるを得ないことが多い。このとき、映像をじっくりと見せるような長回しやアクションシーン、無人の風景ショットなどは真っ先に削られる候補の筆頭と言えよう。また都合によっては前後のシークエンスを大幅に圧縮した際に生じる齟齬を解消するために、新規で台詞を付け足して対応することも珍しくない。事実、アニメファンにとっては声優陣による「新録」が総集編映画の見所のひとつとなる。
もちろんこれは、基本的には〈物語〉シリーズにおいても同様に当てはまる。実は〈物語〉シリーズは、全100話を超える長期シリーズであるという事情を差し引いても、他のアニメ作品と比べて遥かに多くの総集編を作ってきた実績がある。『化物語』の頃に1本、同「セカンドシーズン」(2013)の頃に3本、そして『終物語』(2015)の頃には「終ワリニ向カウ物語」および「阿良々木暦ノ物語」と名付けられた2本の特別編が作られた。そのいずれにも共通するのは、新録された阿良々木のナレーションによって物語が進行するということであり、そしてそれゆえに手際良くこれまでの物語がまとめ上げられている。
〈物語〉シリーズ特別総集編「ココカラ始メル物語」(2024)。2024年7月より配信が開始された『〈物語〉シリーズ オフ&モンスターシーズン』に先駆けて、またしても新しく総集編が作られた
© 西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト
しかるに『こよみヴァンプ』が取ったアプローチは、こうした一般的な総集編の方法論とは正反対のものであったと言えるだろう。このことは削られたシークエンスを通して、いわば裏面から確認することができる。
例えば阿良々木の代名詞的な台詞であり、以後のシリーズにおいても再三言及される「人間強度」にまつわる羽川翼とのやり取りがすべて削られたことは、物語の思想的骨格に関わる決定的な改変であって、およそ通常の判断とは思えない編集である。「友達を作ると、人間強度が下がるから」という有名な台詞を入れるのに現実的に必要な時間はわずか2分にも満たないはずであり、約2時間30分にもおよぶ総尺に対する比率は微々たるものだ。編集にせよプロデュースにせよ、おそらくそれほど無茶な要求にはならないだろう。それにもかかわらず、数々の無言の場面が丸ごと残されている一方で、『傷物語』を代表するキーワードと言っても過言ではない「人間強度」にまつわる場面が総集編において最初に削られたという事実は、すでにひとつの確固たる意志がフィルムの上を駆け巡っていると評するほかない。
むろん重大な台詞がカットされたのは「人間強度」にまつわる場面だけにとどまらない。というより、台詞が重大であればあるほど優先的にカットされているとさえ言えるかもしれない。ここで『傷物語』が内包する精神性を体現している3つの台詞を取り上げてみてもよい。その台詞とは以下のものである。
「交渉? こちらとあちらの──橋渡し? こちらとはどこで──あちらとはどこだ? こちらは人間で、あちらは化物か?」
「これはもう確かに──人間じゃない。人間を捨てている」「分かっている。僕はもう、化物なのだから」
「互いに傷つけ合った僕達は、その傷を舐め合う。傷物になった僕達は、互いに互いを求め合う。お前が明日死ぬのなら僕の命は明日まででいい──お前が今日を生きてくれるなら、僕もまた今日を生きていこう」
これらの台詞はいずれも阿良々木によるものであり、旧三部作においてはそれぞれのラストシーンに置かれていたことからも、いかにこれらの台詞が作品にとって欠かせないかは十分に窺い知れるだろう。人間と吸血鬼の間で揺れ動く実存の葛藤、自らがとっくに人間失格であることを自覚する意識、地獄の春休みの最後に辿り着いた結論──そのすべてが見事に凝縮されているこれらの台詞は、しかし総集編では容赦なく削られた。
およそ省略することは不可能に近い、作品にとって核となる台詞が重点的に削られた一方で、一見すると取り除いても差し支えないと思われる冗長な場面が生かされたことは、本作の構造的逆説をこれ以上なく表している。時間の制約上削らざるを得なかったのであれば譲歩の余地はあるが、映像はそのままに台詞だけが無音に切り替えられている場面があまりにも多いのも本作の特徴のひとつである。『こよみヴァンプ』について何かを思考するとき、まずはこのアンバランスな編集について考えるところから出発しなければならない。
ことほどさように、本作からは言葉が消えた。映画は常に阿良々木による叫び、息切れ、喘ぎ、動悸、呻き、そして失血によってのみ進行していく。怪異殺しの怪異の王キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの誇り高き異名が「鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼」であるならば、絶えず目眩を起こして苦しそうに息を切らしている阿良々木はさしずめ「貧血の吸血鬼」だろう。というより、言葉を奪われたこの映画こそ「貧血の映画」と称するにふさわしい。なぜならば小説にとって、否、人間にとって、言葉とは全身を巡る血液そのものにほかならないからである。
「総集編」と銘打たれたにもかかわらず、言語という心臓が躊躇なく摘出されたという意味で極度に痩せ細った『こよみヴァンプ』は、まさに反–総集編映画であると断じてよい。
C PART 内面からの追放
たしかに尾石は旧三部作の制作にあたって原作小説にある阿良々木のモノローグを削ったが、しかし「ほぼ切った」と副詞を忘れずに付けたように、もともとは全部を一緒くたに省略したわけではなかった。映画にとって必要なモノローグは慎重に精査した上で、最低限の秩序は保たれるように残していたのである。ここには、単なる省略を超えた能動的な編集の意志が働いている。具体的には、すでに引用したものを含めて以下の11個のモノローグが旧三部作には残された。
「交渉? こちらとあちらの──橋渡し? こちらとはどこで──あちらとはどこだ? こちらは人間で、あちらは化物か?」
「……いいさ」「これで少しは──人間強度が上がっただろう」「僕は強くなった──だから。だからきっと──ドラマツルギーとの決闘も、キスショットの右脚を取り返すという課題も、問題なく遂行できるはずだ。今の僕にはそれが一番大事。心が痛いことなど問題ない」
「これはもう確かに──人間じゃない。人間を捨てている」「分かっている。僕はもう、化物なのだから」
「キスショットにとっては悪い思い出ばかりの二週間だったとしても、今になって思えば、僕にとってはそんな悪くない春休みだったのかもしれない。そんな悪くなかったのかもしれない」「屋根の上での打ち上げに続いて、送別会も開いてしまおう。そしてちゃんと別れの言葉をキスショットに告げよう」
「ずっと──食べてきたのだろう。食べ続けてきたのだろう。一人目の眷属──そして二人目。五百年生きて、血を吸った相手がその二人だけのはずもない──それ以外の人間は、全てああいう風に、ばらばらにして、肉も骨も残さずに食べてきたのだ」「それが眷属を造らない場合の、彼女の栄養補給」
「今後キスショットが人間を食べれば──食事をとれば、それは全て僕の責任だ。羽川が食われても。妹達が食われても。両親が食われても。それは全て──僕のせいだ。僕が彼女を助けた所為だ」「僕のせいで──僕のせいで、僕のせいで!」
「嫌なのに」「嫌なのに」「僕だって──吸血鬼だ」
「……ああ、そうだ」「でも、羽川には──言いたかったよな」「携帯番号もメルアドも、僕が自ら消去した。 彼女の目の前で。彼女を傷つけるために、消去した」
「ああ。そうか、そうだったのか」「僕の人生はこの日のためにあったんだ」「今日という日を体験するためだけに、阿良々木暦という人間はこの世に生まれてきたんだ」
「互いに傷つけ合った僕達は、その傷を舐め合う。傷物になった僕達は、互いに互いを求め合う。お前が明日死ぬのなら僕の命は明日まででいい──お前が今日を生きてくれるなら、僕もまた今日を生きていこう」
「そして傷物達の物語が始まる。赤く濡れて黒く乾いた、血の物語。決して癒えない──僕達の、大事な傷の物語。僕はそれを、誰にも語ることはない」
これらが実際にモノローグであるかどうかは映像を参照すれば一目瞭然だが、同時にシャフトから出版された『SHAFT creator’s works 01 尾石達也「傷物語」絵コンテ集』を紐解けば、モノローグは台詞の欄に「M」または「(M)」が併記してあるため、全890頁を隈なく読み込むだけでも判別は容易になる。
このように羅列してみたとき、いずれのモノローグも物語にとってきわめて大切な台詞であることは誰の目にも明らかだろう。人物描写にとって欠かせないばかりでなく、物語の繫がりとしても、不用意に省いてしまうと視聴者が迷子になりかねない。尾石本人が旧三部作において「モノローグを切る」という方針を掲げながらも、完全な排除に踏み切らなかったのは、それらの語りが映画的文法の中で果たす不可欠な意義を認識していたからにほかならない。
にもかかわらず、というよりだからこそ、これらの11個のモノローグが『こよみヴァンプ』においてひとつ残らず削り落とされたことは、やはり特筆に値する。
むろん、この選択は即座に物語に亀裂を引き起こしている。一例を挙げるとすれば、旧三部作〈I 鉄血篇〉のラストシーンにおいて、阿良々木が「交渉? こちらとあちらの──橋渡し? こちらとはどこで──あちらとはどこだ? こちらは人間で、あちらは化物か?」と自問自答する場面は、キスショットの眷属となった阿良々木が、吸血鬼退治の専門家たちや人間と怪異の橋渡しをすると述べる忍野メメに出会うことで、自我の揺らぎを経験する場面である。

『傷物語 〈I 鉄血篇〉』より、阿良々木暦が自問自答するシーン
© 西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト
忍野は暫定的に阿良々木を人間側と見做すが、『こよみヴァンプ』ではこのモノローグが削除されているため、一連のシークエンスの中間部分だけが不自然な形でモンタージュされている。この場面の意義がはっきりと明示されない限り、人間か吸血鬼かという実存的問題は曖昧なまま、宙吊りにされた状態で物語が進んでしまうことになり、全体の輪郭と呼びうる対立軸は浮かび上がらない。さらに言えば、忍野が提示した200万円という依頼料を阿良々木が背負うことを決意する台詞までもが取り除かれていることは、阿良々木が一体何を考えて行動しているのか、その原理がまるで意図的に隠蔽されているかのようである。
あるいは、物語の最後を締めくくる「お前が明日死ぬのなら僕の命は明日まででいい──お前が今日を生きてくれるなら、僕もまた今日を生きていこう」というモノローグを省略したことも、また同様に驚愕の判断と見做さなければ噓になる。これはキスショットを下等な存在に貶めてまで彼女を生かすことを選んだ、阿良々木が辿り着いた最終的な結論にあたる部分であり、〈物語〉シリーズ全体でも何度も反復されるテーマのひとつである。それゆえ、この総括とも言えるモノローグさえもが大胆に削り落とされたことに、強烈な違和感を覚えた観客も多いだろう。
果たしてこれらのモノローグは物語にとって不要と判断されて削られたのか。それとも、時間的な制約の中でどうしても割愛せざるを得なかったのか。様々な問いが交差するが、ここで注目に値するのは、阿良々木がキスショットの人喰いを目撃して、これまで疑いの眼差しを向けてこなかった吸血鬼の生態に絶望するシークエンスである。人間とは徹底的に相容れない、共生不可能な吸血鬼の価値観を突き付けられた阿良々木は、「嫌なのに」「嫌なのに」「僕だって──吸血鬼だ」という痛烈な自己批判と解決不可能なジレンマに陥る。

『傷物語 -こよみヴァンプ-』より、ジレンマに陥る阿良々木暦
© 西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト
例によってこのモノローグも『こよみヴァンプ』では削られているのだが、しかしこの場面は圧倒的に異色である。というのも、単純にモノローグが削られたわけではないからだ。旧三部作では自暴自棄になって体育倉庫に寝転ぶ阿良々木が描かれたセルは静止しており、その上に内言としてのモノローグが重ねられていた。ところが、総集編では口パクが新規作画され、阿良々木は「嫌なのに」「嫌なのに」「僕だって──吸血鬼だ」という独り言を実際に口にする。
この変更はいかにも奇妙だが、しかし同時に、この台詞が物語にとって重要なものであることを制作側は十分過ぎるほど自覚しているとも言える。それゆえに、台詞の内容そのものに変更はなく、また時間的な制約を守りつつ、発話の形式のみがあらためられている。モノローグがことごとく削られたことは再三述べた通りだが、ひとえに「モノローグの排除」という一点に並々ならぬ情熱を注ぐ本作の異様な使命感が読み取れるのは、やはりこのシークエンスからだろう。
これまで見てきたように、阿良々木による吸血鬼との邂逅、決意、葛藤、そして喪失と慟哭の果ての結論といったあらゆるものが『こよみヴァンプ』ではあらかじめ失われている。そしてこの消失を引き起こしているのが、旧三部作を超えるモノローグの徹底的な排除にほかならない。それはすなわち「内面からの追放」と言い換えてもよいだろう。モノローグの不在によって観客はもはや阿良々木の内面をそうやすやすと読み取ることはできないが、これはあたかも映画そのものが安易な理解を拒んでいるかのようである。
そのことは旧三部作と共通する『こよみヴァンプ』冒頭からも示唆されている。原作小説では第1章の時点で、阿良々木が物語の結論を先取りして滔々と「吸血鬼にまつわるこの物語はバッドエンドだ」「みんなが不幸になることで終わりを迎える」と語るが、映画ではなぜかフランス語に翻訳された一文がサイレント映画のインタータイトル(中間字幕)風に映像にカットインされるのだ。もちろんフランス語話者であれば解せる文ではあるものの、これは当然ながら観客の語学力を試すものではない。突如としてスクリーンにフランス語の文が脈絡なく映し出されるということ、文章を読ませる気がなく可読性がきわめて低いインサートカットであるということ、それ自体が肝要なのである。

『傷物語 -こよみヴァンプ-』より、フランス語のインタータイトル
© 西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト
物語の結論が先取りされ、さらにそれが阿良々木の一人称で語られ、かつ回想という形で綴られるこの多重構造は、幾重にも不親切である。しかし立ち止まって考えてみると、本当に読ませるつもりがないのであれば、単純に映像から取り除けばそれで済むはずだ。にもかかわらず、開始早々フランス語のインタータイトルとして挿入されるのは、単に読ませたくないのではなく、読ませる気がないということを読み取らせようとしている、と解釈すべきだろう。モノローグの削除によって阿良々木の内心があえて伏せられたように、映画そのものが観客の安易な理解を拒むかたちで、より正確には理解を拒んでいることを理解させるために周到に準備されているのである。この重要性は何度でも指摘しておかなければならない。
モノローグを排除すること、それは単なる語りの省略ではなく、内面そのものを映像から追放するという行為である。この決断は、主人公である阿良々木をいわば記号的な存在として、つまり心理的な深みを欠いた人間として描出する危険性を孕んでいる。しかし、ここで留意すべきは、そもそも阿良々木が「自己なき自己犠牲」の体現者、すなわち一貫して中心の欠落した人物として描かれてきた点である。『終物語』において、阿良々木は自身の青春を「己を犠牲にしてまで誰かを救おうと思っていた、自分を大切にしないことが他人を愛することだと信じていた、薄くて弱い陶酔に溢れた、優しい欺瞞の時代は終わりを迎えた」と総括する。ならば「優しい欺瞞」の中心点とは、この高校2年生の春休みをおいてほかにない。
『化物語』において、阿良々木はいわゆる「アホ毛」のデフォルメ表現をはじめ、まさに記号的な身体として演出されていた。それに対し、旧三部作の『傷物語』では極端にモノローグを切り詰めることで、異なる角度から空疎な身体を描き出す。総集編ではその志向性がさらに加速し、ついには完全にモノローグが廃棄されるに至る。それは阿良々木の内面を不可解なものに変え、安定した主体性を解体する試みであった。そして、その結果として残されたのは、言葉を奪われた生々しい身体にほかならない。
この生々しさは、阿良々木の肉体が持つ生理的なリアリティというよりも、むしろ「優しい欺瞞」の視覚化としてのそれである。言葉を排除し、内面を剝ぎ取り、ただ身体の動きと言葉にならない感情だけを提示することで、この映画は言語そのものの限界を露呈させる。それは単なる映像表現の選択肢ではなく、言葉と映像、記号と実在の緊張関係を暴き出すものだ。この言語論的な緊張感こそが、旧三部作を経て『こよみヴァンプ』へと結実する『傷物語』という映画の最大の特徴であると言っていい。映像の持つ記号性と物質性の間で揺らぐ阿良々木の存在そのものが、映画的思考の極点に達するのである。
D PART 声とスタイル
ここで先に挙げた『傷物語』の台詞について、言葉という側面だけではなく、実際に発話される音の形式に注目してみたい。もとより、〈物語〉シリーズにとってモノローグ、あるいはより抽象的に「声」は特権的な位置を占めるものであった。語り手の声は物語を構築し世界を生成する装置であり、それは単に情報伝達の機能にとどまらず、キャラクターの存在そのものを規定する。
語り手による特権的な声、それは西尾維新原作のアニメに慣れ親しんだ者であればすぐさまイメージできるものだろう。実際、多くのアニメファンが〈物語〉シリーズと聞いて第一に想像するものは、西尾維新の語り口やシャフトによる映像表現というよりも、声優・神谷浩史のあの唯一無二の声に違いない。これまでのシリーズのオープニング映像においても、神谷浩史のクレジットは単独で大写しにされてきた。そこには「声の出演」や「キャスト」といった説明すら存在せず、ただ「阿良々木暦」と「神谷浩史」という文字列の組み合わせのみが映像を占める。
この演出が示しているのは、語り手の権能がストーリーの構造以上に、声という表現媒体に依拠しているという事実だ。『化物語』の阿良々木をはじめ、これまで〈物語〉シリーズはストーリーに応じて語り手を自在に切り替えてきたが、その語り手の変更を視聴者に受け入れさせるのはモノローグによる声の力なのである。

左上から時計回りに『偽物語』『猫物語(黒)』『忍物語』『続・終物語』のオープニング
© 西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト
これは最新作の「オフ&モンスターシーズン」(2024)においても今なお健在であり、『愚物語』「つきひアンドゥ」では斧乃木余接、『撫物語』「なでこドロー」では千石撫子、『業物語』「あせろらボナペティ」ではデストピア・ヴィルトゥオーゾ・スーサイドマスター、そして『忍物語』「しのぶマスタード」では再び阿良々木に立ち戻り、数話ごとに物語の印象はがらりと変化する。かように語り手の変更はまずモノローグとして前景化し、これによって視聴者は物語を語り聞かせてくれる人物の特権性を承認するのだ。
ここであらためて問うべきなのは、〈物語〉シリーズにおいて「語る」とは何を意味するのか、という点である。語り手の変更が視点の移動ではなく「声」の転換として機能する以上、この作品において語ることは、単なる物語の伝達にとどまらず、主体の生成そのものと不可分に結びついている。〈物語〉シリーズにおいて「語る」という行為は、ナレーションの技法であると同時に「声」を通じた自己の確立、あるいはかつて「声」を持つことを許されなかった主体の可視化という問題へと帰結するのである。
阿良々木のモノローグが『こよみヴァンプ』において存在しないことは、言うまでもなく彼が語り手ではないということを指し示すものである。阿良々木はむしろ事件の渦中にいる当事者なのであり、時空間的ないしは心理的な距離を置いて「語る」資格を剝奪されている。おそらくそれは、尾石が旧三部作の時点で「暦に感情移入して、暦の目線で出来事を体験してもらうような作品にしたい」と述べたような効果をいささか過剰なまでに引き起こすためであろう。だが、こと〈物語〉シリーズにおいてモノローグの声が搔き消えていることは、単に語り手の特権性の喪失のみにとどまるものではなく、もう少し踏み込んで考えてみる価値がある。
映画における音の概念を論じた映画研究者ミシェル・シオンは、主著『映画にとって音とはなにか』(1985)の中で、映画における音を映像との結びつきという観点から「インの音」「フレーム外の音」「オフの音」の3つに分類してみせた。「インの音」とは最も一般的な、その場面で音源が視認できる音のことである。2つ目の「フレーム外の音」は、音源が視覚的には映し出されていないものの、音源が描かれている映像と同一の時空間にあることが想像可能な音を指す。3つ目の「オフの音」は、映像の世界とは異なる時空間にある不可視の音源によるものであり、劇伴やナレーションなどがここに分類される。
ここで重要なのは、これらの分類が視覚との関係において初めて成り立つという点である。映像という参照点を欠いたとき、その分類の枠組みもまた崩壊する。換言すれば、映画における音とは、映像との対照においてはじめて意味を獲得する相対的な存在であるということだ。音そのものが単独で映画的言語を形成するのではなく、むしろ視覚的な枠組みによって規定されるのである。こうした観点に立つならば、映画における音とは、決して映像の従属物ではないにせよ、あくまで映像との関係の中でその意味作用が生じるものと考えるべきだろう。のちにシオンはこれらの分類にさらにいくつかの領域を加え、カテゴリーのアップデートを図っている。
この分類を参考にするならば、モノローグはさしあたり「インの音」ではないだろう。とはいえ、それが「フレーム外の音」なのか、それとも「オフの音」なのかをただちに決定することはできない。これはシオン自身も認めていることであり、むしろここで重要なのは、上記の分類には相互排他的ではない不明瞭な境界が存在するということである。そしてこの分類ないし領域を操作する営みに、シオンは明確に「映画作家のスタイル」を読み取る。
映画のカット割りで、音がインなのかフレーム外の音なのかは常に問題にされることだし、ある作品、ある映画作家のスタイルは、音がこれらの相違する領域にどのように位置するか、どの領域が禁じられているか、あるいはそれらの周縁部、境界の不明瞭ないわばノーマンズランドにどのように存在するかによって性格付けることもできる。3
音をどの分類・領域に配置するかという選択は、作家のスタイルと密接に関係する。この意味において、先述した体育倉庫のシーンで内言のモノローグが独り言に変更された事例は、きわめて興味深いケースたりえている。もともと「フレーム外の音」もしくは「オフの音」の領域に囚われていたモノローグが、阿良々木の口から発声される「インの音」に切り替わったという事実は、一見すると取り立てて論じるほどのものではない、些末な事柄に思われるかもしれない。だが、これを音が位置する領域の問題として捉えるならば、本作では「音だけが聞こえる領域」が明白に禁じられ、翻ってそのことが映画を特徴づけるスタイルそのものとなっていることがわかる。そうであればこそ、ここに刻まれたフィルム上の意義を解き明かさなければならないのである。
モノローグに関するシオンの議論をもうひとつ借りれば、登場人物の「アイ・ヴォイス(I-voice)」について分析を加えたものがある。シオンは「登場人物が物語を語り聞かせる声」、ないし「視覚的に映し出された身体から分離された声」をアイ・ヴォイスと呼称した。シオンによれば、このアイ・ヴォイスを成立させるためには2つの技術的な基準がある。第一に、音源との距離を限りなく近づけて明瞭な音質で録音するクロース・マイキング。そして第二に、リバーブやディレイ等を付けずにドライな質感を観客に与えることである4。
〈物語〉シリーズの台詞と音の関係について、その発声のあり方に注目してみると、一般的なアニメとは明らかに異なる点がある。それは登場人物の発話する台詞に、極端なリバーブなどの音声加工が加えられていることだ。音響監督の鶴岡陽太によれば、アフレコで録った声優の声をそのまま使うことは絶対になく、モノローグ、ナレーション、ダイアローグといった語りの役割ごとにそれぞれ加工が施され、異なる聴取体験を生じさせるように設計しているという5。
これはシオンの議論を踏まえると実に興味深い。本来、モノローグなどのアイ・ヴォイスは主観的な声として機能し、視聴者を語り手に同一化させる効果を持つはずである。しかし、〈物語〉シリーズにおけるモノローグは異様なまでに強調された残響を伴い、その響きがむしろ語り手と聴き手の間に距離を生じさせる。語りは親密さを装いながら、その過剰さによってむしろ異化を促すのである。さらに、極限まで詰め込まれた長大な台詞を一息に捲し立てる話法、演劇的誇張を突き抜けた非人間的とも言える演技プラン6などと絡み合いながら、〈物語〉シリーズは語りの主体を不安定化させる。
なぜこうした非現実的な台詞や話法、音声加工が採用されているのかといえば、それはひとえに西尾維新の文体=スタイルを音声の上で呼び起こすためだろう。西尾維新の作品に登場するキャラクターは、日常的な言葉遣いや語彙を逸脱した、異様なまでに饒舌な会話劇を繰り広げる。この言葉の過剰性は、それ自体が現実の会話をシミュレートするものではなく、むしろ言語が独立したアクターとして振る舞うことを示唆している。これをアニメ化する上で自然な発話に直すこともできなくはないはずだが、〈物語〉シリーズのアニメはあえて不自然な音声を用いることで原作の不自然な言葉のやり取りを模倣し、これによって西尾維新のスタイルを再現しようとするのである。
したがって、この特異なモノローグを落とすということは、そのまま西尾維新のスタイルを落とすことに直結していると言ってよい。これはすでに旧三部作の時点でも認められる傾向だった。とにかく阿良々木のモノローグが少なく、またダイアローグに関しても相当数が削られていたが、総集編においては質・量ともにこの傾向に拍車がかかり、より明確な形で顕在化している。阿良々木から言葉を奪い、西尾維新からスタイルを奪い、それと引き換えに何が立ち現れているのか。この問いこそが『こよみヴァンプ』の可能性の中心である。
E PART 谺する沈黙
ここで断言すべきだろう。『こよみヴァンプ』を貫いているのは饒舌な作家・西尾維新の言葉ではなく、戦慄よりもただ深い監督・尾石達也の絶対的な沈黙にほかならない。だが、時代を画する雄弁な作家から言葉を奪った先にどのような地平が拡がっているのか。そのような問題意識に本作は彩られている。
今一度考えてみれば、『傷物語』はキスショットからその存在の力を奪う物語であった、とさしあたって要約することができるだろう。そしてそれが何によって達成されているかといえば、分かりやすく「言葉の喪失」という一点に尽きるのである。『化物語』においてキスショット=忍野忍は登場人物として劇中で描写されながらも、一言も口を利かない影の薄い存在として描かれるが、元来キスショットは活気に満ち溢れた多弁な吸血鬼であった。だが、キスショットの自殺願望に逆らって阿良々木が彼女を半ば強制的に生きながらえさせた結果、彼女は存在=言葉を奪われる。だからこそ、その象徴としてキスショットは自らの名前を失うのである。

『化物語』第1話より、弱体化し名前を失った忍野忍(キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード)
© 西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト
そして、内面から追放され、沈黙を強いられたのは何も阿良々木暦だけではない。本作に登場する3人のヴァンパイア・ハンターたち——ドラマツルギー、エピソード、ギロチンカッター——もまた、『こよみヴァンプ』では自身の存在を語る言葉をことごとく奪われている。彼らの来歴や動機を説明する場面は綺麗さっぱりと削ぎ落とされ、旧三部作においては阿良々木が彼らを通してアイデンティティを問い直す契機を与えられていたにもかかわらず、総集編ではその機会すら観客の前から消去されている。
ドラマツルギーは仕事として同族を狩る吸血鬼、エピソードは私情によって動くヴァンパイア・ハーフ、そしてギロチンカッターは聖職者として使命のもと吸血鬼を駆逐する純粋な人間——この三者は単なる敵役ではなく、吸血鬼というあり方を巡る存在論的なグラデーションを体現する者たちであった。吸血鬼、半吸血鬼、人間という三層構造の中で阿良々木は自らの立ち位置を再考し、「自分は何者なのか」という問いに向き合わざるを得なかったはずだ。
しかし、本作では彼らの個性を規定する言葉が奪われたことで、その存在は単なる正体不明の敵へと還元される。ここではもはや「敵」とは誰か、「味方」とは何かといった認識すら揺らぎ、阿良々木は未知の存在との死闘に投げ込まれる。阿良々木は沈黙のうちに戦い、観客もまた、その沈黙の中に置き去りにされる。言葉を奪われた世界において、アイデンティティは消失し、物語の秩序は崩壊し、すべては静かに、しかし確実にバッドエンドへと転がり落ちてゆくのである。
では尾石は、総集編をただ迂遠で韜晦に満ちた仄暗い物語にするためだけにこれらの改変を施したのだろうか。むろん、そのような可能性は万に一つもありえない。というのも本作に託されているのは、あらゆるものの放棄とその逆説的な内破なのだから。
ここであらためて確認しておきたいのは、阿良々木の言葉の喪失には漸進的な段階が存在するということである。言葉を発しないという意味では等しく見えるとしても、そこに至る文脈の違いによって、沈黙の性質は大きく異なっている。たとえば、四肢を切断され血まみれとなった吸血鬼キスショットを目撃し、衝撃のあまり言葉を失う阿良々木と、ラストシーンにおいて弱体化した彼女と肩を並べ、何も語らずに座る阿良々木とでは、かかる意義はまったく異なる。言うならば、言葉の喪失とは、始めに「失語」として訪れ、そして「沈黙」へと変容する運動なのである。
沈黙と失語──この2語を並べてみたとき、戦後日本を代表する詩人・石原吉郎(1915–77)の存在が否応なく想起される。石原は、敗戦後にシベリアの強制収容所ラーゲリに抑留された経験を持ち、その極限状況の中で形成された沈黙と失語の問題を生涯にわたって問い続けた詩人であった。彼の詩やエッセイには、語ることができない状況と、語ることを拒絶する態度が鋭く対置される。これは単なる個人的な経験の表現ではなく、言葉と主体の関係を根底から揺るがす問題提起であり、まさに『こよみヴァンプ』における阿良々木の変容とも響き合う。
石原は沈黙と失語という2つの概念を異なる水準に位置するものとして厳密に区別していた。失語とは目の前の過酷な現実に対して文字通り言葉を失うということであり、石原はこれを強制収容所の極限状態にて自ら体験した。「沈黙と失語」とそのものずばりの題名を冠したエッセイにおいて、詩人は「失語とは、いわゆる仮死である」7と綴る。これは失語がただの言葉の欠如ではなく、極限的な現実に押し潰され、意識がその場で停止してしまうような、精神的な死に近い状態であることを意味している。失語とは、だから阿良々木にとってはキスショットの人喰いを目撃した際に、言い換えれば目の前の現実に呑み込まれそうになるその極北にて決定的に訪れる。
翻って沈黙は失語とは異なる。失語が不意に訪れるものであるならば、沈黙はより能動的で意識的な性質を持ち合わせる。沈黙とは「喪失したものを確認し、喪失そのものを担いなおしたものがもつ表情」8であると石原は述懐する。つまり、沈黙は単なる無音ではなく、喪失を受け入れ、それを内包した上で静けさを選び取ることである。沈黙は、失語を打破し、喪失に対する新たな理解を得た先に存在する。ゆえに沈黙とは主体的に獲得するものであり、失語との分かちがたい循環構造を持ちながらも、次なる段階に静寂さを漂わせながら待ち構えているものなのである。
こうして考えてみると、ラストシーンにおける阿良々木は、無言とはいえ「失語」状態とは異なる。阿良々木はメランコリックで陰惨な容貌を見せているものの、忍野メメと問題なく喋っているし、その直前に羽川とも前向きな会話を交わしている。またキスショットにも「殺したくなったら、いつでも殺していいから」という贖罪と自罰的な意識が混在した痛切な言葉を投げかけるなど、彼自身の内面から湧き上がる声が確実に存在している。
沈黙は、だからいささかも忘却を伴ったものとしては描かれない。それは映像を見るまでもなく、本作が最後に描く希望の形そのものである。原作および旧三部作のラストでは、阿良々木のモノローグが物語を締めくくる。
「そして傷物達の物語が始まる。赤く濡れて黒く乾いた、血の物語。決して癒えない──僕達の、大事な傷の物語。僕はそれを、誰にも語ることはない」
この言葉による総括が総集編ではやはり削除され、代わりに映画はラストの1分間、無音のまま幕を下ろす。ここで重要なのは、無音が単なる音の消失というよりも、むしろ響きとして現れることである。スクリーンを満たすのは、音響のゼロ度としての静寂ではない。無音でありながら、確かな響きとしての「沈黙」が、映画の時間と空間を強烈に支配する。阿良々木の身体の存在感は、その場に響く声なき声を発する。それは沈黙するキスショットにおいても同様である。彼女の黙せる声を聞き落とすことはもはや不可能であり、映画はけたたましく谺する沈黙を最後の瞬間まで描き切ってみせる。
このことはカメラワークにも見て取れる。『こよみヴァンプ』における映像演出に関して旧三部作から最も過激に変更されたと言えるのは、ラストシーンのカメラワークをおいてほかにない。赤色のチェアに俯きながら座り込むキスショットの姿を捉えながら、旧三部作ではカメラがゆっくりと引いていき、彼女の存在は今にも儚く消えていくような希薄さを帯びていた。しかしながら本作にあっては、カメラは逆に引いた位置からじっくりと彼女に近づいていくのである。キスショットの沈黙を聞き漏らすまいと懸命に対象に迫るカメラの運動は、他のどのショットよりも艶めかしく、また映画の宿命がここに刻まれているかのような印象すら与える。

『傷物語 -こよみヴァンプ-』より、キスショットに接近するカメラ
© 西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト
この劇的な変化は、キスショットの沈黙それ自体を映し出そうとする映画的態度の表れとして理解すべきであろう。沈黙とは、単に何も語られない状態ではなく、むしろ語り得ないものが含む強度そのものである。カメラがゆっくりと彼女に接近していく運動は、その沈黙が持つ存在感を浮かび上がらせようとする試みであり、観る者は息を詰めて「聴く」ことを促される。
そしてまさにその刹那、旧三部作には存在しなかった音が到来する。キスショットがふと顔を上げるショットにおいて、〈Ⅲ 冷血篇〉にはなかった微かなブレスが新たに差し込まれている。本作では様々な台詞が新しくアフレコで録り直されているが、このワンショットにおける小さなブレスの新録は、言葉になる一歩前、声の萌芽の瞬間を捉えるために存在しているのである。
この僅かな、しかしあまりにも決定的な差異を刻みつつ、本作のラストショットは重苦しい呪縛から解放される。旧三部作も『こよみヴァンプ』も、ラストシーンは阿良々木のクロース・アップによって締めくくられるが、今述べたキスショットのブレスに応答するようにここにも新たな音が発生する。それは何度も言葉を紡ごうとして、その度に挫折する、そしてまた再び言葉を発するために息を吸い込む、動作とも呼べない小さな身振りとしてのブレスである。ひとつの定められた意味に収斂する前の、無限なる多義性を備えた言葉の始まり──阿良々木のそのような前–言語的な応答の強調こそが『傷物語』に加えられた最後の変更である。

『傷物語 -こよみヴァンプ-』より、阿良々木暦のブレスが追加されたラストショット
© 西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト
すでに明らかなように、沈黙とは単なる言葉の不在ではなく、それ自体一種の言語的な活動である。「ことばが回復され、自覚した行為としての沈黙がはじまる」9と石原が記すように、沈黙とは言葉を回復する過程において生じる意識的な振る舞いであり、自己の存在を言語的に再構築しようとする試みとも言える。阿良々木はまさに失った言葉を回復する過程にあるのだ。むろん、言葉の回復は「いたみ」なしには不可能である。言葉を取り戻すのは決して簡単なことではなく、その痛みを伴う苦闘こそが、彼の物語の根幹を成している。だからこそ、阿良々木は春休みが明けた後も、高校2年生の3月26日から4月7日のわずか2週間足らずの出来事を、自らに課せられた一生忘れられない業として背負い続けるのである。
沈黙──その声なき声、声以前の声を聴くために本作はモノローグも内面もスタイルも削ぎ落とした。そして失語から沈黙へと転じる刹那にかろうじて現れる、微細な身振りを描き出そうとする。それはまさしく映画というメディアでしか映し出せない、『こよみヴァンプ』の達成のひとつであろう。沈黙が逆説的に言葉そのものとなる瞬間を捉えることにすべてを賭したこの映画は、こうして終止符が打たれる。
F PART おわりに
これまで論じてきたように、『こよみヴァンプ』は阿良々木の言葉を奪い、内面を隠蔽し、そして沈黙へと至る瞬間を捉えることによって、極限状況からの言葉の回復過程を描くという壮絶な映画であった。沈黙は失語にあらず、黙せる雄弁な言葉である。この逆説的な洞察こそが、本作を突き動かす最大の原動力なのだ。かくして映画からは言葉が消えたが、しかし阿良々木はすでに全身をもって自らの物語を語り終えている。
最後にひとつだけ、『傷物語』の原作に登場するあるモチーフに触れておきたい。それは「植物」にまつわるものだ。旧三部作の時点で削られた阿良々木の台詞に「僕はさ。植物になりたいんだよな」というものがある。これは序盤の羽川とのやり取りの中で、彼女に「人間の小ささ」を指摘された後に阿良々木が表明する台詞だ。まさにこの言葉が、のちのギロチンカッター戦で自らの身体を植物に変身させることに繫がるのだが、興味深いのはその理由の方である。植物は「喋らなくていいから」というのだ。阿良々木は、言葉を持たない存在としての安らぎを求めている。さながら、映画冒頭において描かれる、学習塾跡の中心に忽然とそびえ立ち、世界の只中にありながら語ることなく、ただ黙してすべてを見透かす大樹のように。

『傷物語 -こよみヴァンプ-』より、物語冒頭に登場する大樹
© 西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト
阿良々木は植物を無垢・無謬の存在としてイメージしているようだが、言うまでもなく、植物は太陽がなければ生きられないし、食物連鎖の最下位と言えどもその生存は栄養の奪い合いの中で成立している。太陽なしには生長できない植物と、太陽によって死に至る吸血鬼。この対比それ自体は実に鋭く意義深いものだが、いずれにせよ、生きているかぎり「無傷」であり続けることは不可能である。羽川が「でも生物ではいたいんだね」と応答するのは、まさにその点を指摘する批評的な言辞なのだ。
〈物語〉シリーズの登場人物はみな何かしらのトラウマを心の内に抱えていることが多いが、そのきっかけとなった体験が直接描かれる機会はそう多くはない。翻って『傷物語』の特徴は、例外的にトラウマの形式で物語が進行するという点にある。原作および旧三部作のラストで阿良々木がモノローグで語り、そして『こよみヴァンプ』ではその台詞さえも削除された「決して癒えない──僕達の、大事な傷の物語」とは、まさしく口にすることが憚られる「癒えない=言えない」物語ということでもある。だからこそ「僕はそれを、誰にも語ることはない」。したがって、沈黙という主題が「総集編」と銘打たれた本作を通して描かれたのは、阿良々木の原罪を暴く上でこれ以上ないほどにふさわしい。
『傷物語 -こよみヴァンプ-』は失語に始まって、沈黙に終わる。そして〈物語〉が始まる。都市伝説、街談巷説、道聴塗説──すべての怪異譚の幕が上がる。
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脚註
- 映画『傷物語〈Ⅰ 鉄血篇〉』劇場パンフレットより。 ↩︎
- 『映画「傷物語」ビジュアルブック』、講談社BOX、2016年、59頁。 ↩︎
- ミシェル・シオン『映画にとって音とはなにか』、 川竹英克、J. ピノン訳、勁草書房、1993年、34頁。 ↩︎
- Michel Chion, The Voice in Cinema, trans. Claudia Gorbman (New York: Columbia University Press), 1999, p. 51. ↩︎
- 『化物語アニメコンプリートガイドブック』第肆巻、講談社、2010年、31頁。 ↩︎
- 『〈物語〉Febri』、一迅社、2017年、118頁。 ↩︎
- 石原吉郎「沈黙と失語」、『石原吉郎全集 第Ⅱ巻』所収、花神社、1980年、33頁。 ↩︎
- 同前、38頁。 ↩︎
- 石原吉郎「失語と沈黙のあいだ」、『石原吉郎全集 第Ⅱ巻』所収、花神社、1980年、268頁。 ↩︎