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「ギャル堕ち」の先にある自由──武田弘光から「オタクにやさしいギャル」まで|安原まひろ

武田弘光『マナタマプラス3』裏表紙より
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2024年8月11〜12日に開催される「コミックマーケット104」にて、サークル「夜話.zip」主宰のエロマンガ評論シリーズ最新号『〈エロマンガの読み方〉がわかる本 8』が頒布される。「台湾エロマンガ」「ロ◯ータ」に続き、今号では「ギャル」を特集に掲げた同誌から、エロマンガ家の武田弘光におけるギャル表象を論じた編集者/ライター・安原まひろの論考をお届けする。
The Freedom beyond “Gal-Ochi”: From Works of Hiromitsu Takeda to “Otaku-Friendly Gals”|YASUHARA Mahiro

文:安原まひろ

 現代の男性向けエロマンガに親しんでいる読者なら、おそらく誰しも「アヘ顔」や「ネトラレ」といった特徴的な表現ないしは展開に触れたことがあるはずだ。人によって好き嫌いが分かれるとはいえ、いまや定番とも言うべきこれらの要素を、キャリアの早い段階から明確に打ち出してきたエロマンガ家のひとりに武田弘光がいる。そんな武田の作品において重要な位置を占めるのが、とくに2010年代以降、エロマンガをはじめとする男性向けコンテンツで急速に影響力を増していったように見える「ギャル」という存在だ。

 本稿では武田作品に顕著に現れる「アヘ顔」「ネトラレ」表現を出発点に、それらと密接に絡み合うかたちで登場するギャル表象を取り上げ、そこに託されている逆説的な「自由」への憧れについて考えてみたい。

目次

「アヘ顔」と「ネトラレ」の作家、武田弘光

 武田弘光は「アへ顔」や「ネトラレ」といった要素を早くから前面に押し出すことで、自身の作風を確立したエロマンガ家と言える。例えば、『アイシールド21』の姉崎まもりをヒロインとするキャリア初期の二次創作同人誌『マモタマ』(2005)では、絶頂時によだれがしたたる舌を突き出し、また瞳孔が小さくなり上を向くという、いわゆる「アヘ顔」が描かれている。

 また「ネトラレ」については、初の単行本『ツンデロ』(2008)にこそ見受けられないものの、その翌年に頒布された同人誌『ドリタマM』の表紙には「寝トラレ注意」との注意書きが添えられている。これは恋愛シミュレーションゲーム『ドリームクラブ』の魅杏​​をヒロインに据えた二次創作エロマンガで、主人公と付き合っている魅杏​​が間男に寝取られるというシチュエーションが意識的に描かれており、武田のそれ以降の作品の根幹を成す要素となっていく。

 エロマンガにおける「アへ顔」「ネトラレ」といった表現の元祖を探るのは、資料収集と定義づけというふたつの点から困難がつきまとう。だが、少なくとも2010年代に入ってから「アヘ顔」も「ネトラレ」も広く浸透したことを考えれば、2000年代にこのふたつの表現を作風として明確に打ち出していた武田は、その土壌をつくることに貢献したと言っていい。

 また、武田は絵の現代性も持ち合わせていた。武田より早い「アヘ顔」の先駆者のひとりといえば、まず思い浮かぶのがA輝廃都(白液書房)だろう。2000年代前半より『美少女戦士セーラームーン』『スレイヤーズ』といった人気アニメ作品の二次創作を手がけ、それらのキャラクターにスカトロや嘔吐、野外露出といった過激な行為をさせる際にアヘ顔を多用した。当時のA輝廃都の絵は、ことぶきつかさやあらいずみるいといった、1990年代に人気のあったアニメーター/キャラクターデザイナーの画風を踏襲しており、キャラの大きな眼は顔の輪郭の外にまで広がり、頰や髪も自由で柔らかな曲線を描いている。

 A輝廃都のこうした絵柄と比べると、武田の描くキャラクターはアニメというよりも、むしろ2000年代に隆盛した美少女ゲームのイラストとの連続性が見てとれる。武田の描く立体的な髪の造形や、小さくまとまった顔面のパーツは当時としても洗練を感じさせるもので、この画風の違いは「アヘ」化した際の印象にも影響を及ぼしている。A輝廃都の場合はアヘ顔になっても通常の絵柄との連続性を感じるが、武田の絵柄は整っている分だけ「アヘ」の異化効果が高いように感じられ、清純なヒロインが快楽に溺れて別人のように変わってしまう、すなわち「堕ち」の印象が強くなるのだ。このように武田は、アヘ顔における「堕ち」感を効果的に使うことで、ネトラレ作品で存在感を示した作家と言えるだろう。

 2009年に発売されたニンテンドーDS向けのゲーム『ラブプラス』は、美少女キャラクターを「カノジョ」にする日常をコンセプトにしたゲームであり、発売直後から多くの話題を集めた。同作は告白の成功(恋愛の成就)が目的ではなく、恋人として「カノジョ」と継続的に付き合い、コミュニケーションするというゲームシステムに最大の特徴がある。それゆえにカノジョが間男に取られるというシチュエーションの想起が容易であったことから、数多くの「ネトラレ」ジャンルの二次創作を生み出した。これが2010年代におけるネトラレものの隆盛の土台になったと考えることもできるだろう。

 武田も例に漏れず、この『ラブプラス』のキャラクターのひとり、高嶺愛花を主役に据えた二次創作同人誌『マナタマプラス』シリーズを制作している。『マナタマプラス1』が2012年の夏、『マナタマプラス2』が同年の冬、そして『マナタマプラス3』が2015年の冬と3部作として頒布され、さらに2019年には3部作に描き下ろしを加えた『マナタマプラス総集編』が制作されるなど、名実ともに武田の二次創作における代表作と言える。

武田弘光『マナタマプラス3』表紙・裏表紙

 同シリーズの内容は、武田のオリジナルキャラクターである男子高校生(≒プレイヤー)と付き合っている才色兼備の高嶺愛花が、素行の悪い同級生に弱みを握られ、性的に籠絡されていくという典型的な「ネトラレ」ものだ。間男は愛花にスリングショット水着、網タイツ、豚耳といった煽情的な衣装を着せて辱め、また性に貪欲になっていく愛花もそれらを自ら進んで着用し、変態的な行為を求めるようになる。もちろん行為中には、武田が得意とする「アヘ顔」によって快楽に溺れる様子が強調され、元来は清楚だった、いまだに彼氏とは性行為さえしていない愛花が「堕ちる」さまが描かれている。

 ヒロインに卑猥な衣装を着用させることで性的な奔放さを示すという手法は、例えば『マナタマプラス』と同時期に活躍の場を広げていったエロマンガ家・水龍敬に代表される「痴女」系統の作品にも頻繁に現れる。こうした表現は「ネトラレ」と「痴女」とのあいだで、相互に影響を与え合っていたと言えるだろう。

「堕ち」の先に現れたギャル

 だが、ヒロインの「堕ち」を印象づけるための様々な衣装のなかでも、『マナタマプラス』シリーズには2点ほど異質なものがある。それが「ギャル」衣装だ。

 ひとつめは『マナタマプラス2』で愛花の部屋を訪れた彼氏が、その服装に驚くシーンだ。「BUTTERFLY」と英字ロゴがプリントされ、Vネックが深く切れ込みヘソが出るタイトなTシャツ、ショートパンツに大きな1ピンベルト、サイハイソックスという愛花の出で立ちは、全盛期の「d.i.a」に代表される “強め” のギャルブランドを想起させるファッションを踏襲している。

 この格好について愛花は「こ…こんな私はイヤ…?」と彼氏に問い、彼氏は「セクシーすぎて他の人には……」と返している。こうしたギャルファッションは間男の趣味(間男もまた金髪ロン毛でアニマル柄のタンクトップを着るなど、いわゆる「ギャル男」的な容姿で描写される)と想像され、彼女が間男に染められたことが示唆されている。しかしこの時点での愛花のギャル性は、あくまでファッションのみにとどまっていた。

武田弘光『マナタマプラス2』より、愛花
Tokyo fashion.comより
「d.i.a」を使ったコーディネート例1

 ふたつめは3部作の最後となる『マナタマプラス3』の終盤、愛花がついに身も心もギャルとなって彼氏の前に現れるシーンだ。彼女は肌を褐色に焼き、ヘアスタイルもパーマをかけたうえで明るい色に染めており、極ショート丈のキャミソールに、大ぶりのチェーンアクセサリーをつけた極端に短いスカートを合わせている。胸や太ももの露出は過度に強調されているが、しかし全体のコーディネートとしてはギャルファッションの基本を忠実になぞっている。さらに、この時点ではすでに語調もギャル風になっており、「マジ驚いた?」「イメチェンしてみたんだけどぉ」「きゃは♡」といった言葉で彼氏に話しかけてくる。一見してわかる通り、これはファッションのみならず、愛花の精神までもが完全に間男の手に「堕ちた」ことを示している。

武田弘光『マナタマプラス3』より、ギャル愛花

 しかし同時に、ここには「むしろギャルのほうがいいのではないか」という価値転換があることを見逃すべきではない。彼氏は変わってしまった愛花に対して、次のようなモノローグを発する。「変わっても…マナカは色んな意味で魅力的になって……離れることができない」。

 実際に、このラスト2ページを割いて描かれるギャル愛花は、非常に魅力的な存在として立ち現れている。愛花が卑猥な衣装を着用する描写は同シリーズの性交シーンにおいて繰り返されてきたが、それらはいずれも愛花が乱れている様を強調するため、もっと言うと読者の性的な興奮を喚起するために用意されていた。しかし、最後のギャル愛花の状態では、彼氏ならびに間男との性交シーンは描かれず、当然「アへ顔」になることもない(太ももから精液が垂れ、落書きもされているので行為後であることは示唆されるが)。作中でさんざんアヘ顔を晒し、好き放題に貶められたはずの愛花が、いつしか口調までもギャルになり、以前とは異なるアイデンティティを手に入れている。ギャル愛花に抱きつかれた彼氏が「ドキ♡」とするシーンなどは、ある意味で幸福なワンカットにも思え、まさに彼氏がモノローグで語る「色んな意味で魅力的になって」が絵として説得力を持つ。

 シリーズ全体の構造を見れば、当然ながら愛花のギャル化は「堕ち」を示している。だがそこには、例えば同じく『ラブプラス』を題材にした「ネトラレ」ものの二次創作として著名な荒井啓の『Negative Love』シリーズ(2010–14)において、AV女優として媚びるようにカメラに語りかけるヒロイン(姉ヶ崎寧々)の虚しさが強調された姿とはまた違う、たんなる「堕ち」にとどまらない高揚感がみなぎっている。この高揚感は「ギャル」という、以後2010年代を通してエロマンガのみならず、各種アニメやマンガにおいても肯定的に描かれていくヒロイン像だからこそ生まれえたのではないだろうか。

ギャルは何をもってギャルなのか?

 しかし、そもそも「ギャル」とは何だろうか。むやみに定義問題にこだわると議論が停滞してしまうが、本稿で扱う2010年代のギャルの価値転換を考えるうえでは重要な問いとなるため、あえてここで触れておきたい。

 元来「ギャル」という語は、日本語においては戦前より「若い女性」を広く指す言葉として使われていた。戦後も大きく意味を変えることなく1980年代まで一般に用いられるが、この意味での「ギャル」はあくまで男性からの視点であることに注意しよう。例えば、阿久悠が作詞した沢田研二の楽曲「OH ! ギャル」(1979)では「女は誰でもスーパースター」「女の辞書には不可能はないよ」と歌われており、男性から若い女性に向けた呼びかけとして機能している。

 こうした状況が変化し始めたのが、中尊寺ゆつこのマンガ『スイートスポット(1989–92)における「オヤジギャル」だろう。「定時上がりでボディコンを着てクラブに繰り出し、自由気ままに若さを謳歌する、奥ゆかしさとは無縁の若い女性」を指すこの言葉は流行語となったが、これはそれまでの女性に求められてきた姿とは異なる自由奔放な生き方を、当時の女性たち自身が自嘲や開き直りとともに称したものと言える。

中尊寺ゆつこ『スイートスポット』第1巻表紙

 2020年代の現在においては、その定義があまりにも揺らいでいる「ギャル」という言葉だが、それでも「ギャル」を「ギャル」たらしめるものはファッションや行動ではなく精神性である2といった語りは根強い。このように精神性が強調されるのは、1980〜90年代の若い女性たちが自身の自由な生き方をエンパワーメントするために、自発的かつ能動的に「ギャル」を自称したからだろう。

 また同時期には、より年少の女性を指す「コギャル」という語も生まれたとされている。これは、上の世代に倣って当時流行していたボディコンスーツ等に身を包み、放埒な振る舞いでディスコなどに繰り出す10代の女性を称する言葉だ。現在の「ギャル」という言葉は、そこから生まれた「コギャル」がフィードバックされることで、若い女性全体を指していた従来の意味が薄れ、より若年の女性を中心に再編成されたと言える。そのため、これ以降の時代における「ギャル」は中学生〜大学生を中心とした10代の女性文化に限定されるようになり、「ギャルサー」「ガングロギャル」「ギャル雑誌」「ギャル男」といったように、その文化に付随する語が派生していった。

 つまり「ギャル」とは、何よりも自らがギャルであることを望むという、その能動的かつ再帰的な態度に根差していると言えるだろう。さらに、既存の道徳観念に縛られない自由な自己を肯定する「ギャル」らしさは、積極性や明るさといった性格にもつながっていく3。こうした性格は、現代のギャルもののエロマンガにおいても引き継がれ、エロマンガにおけるギャルを特徴づける重要な要素となっている。

 もちろん、往時のギャル雑誌である『egg』や『Popteen』などを読めば、おもに恋愛にまつわる自省的で自傷的な「病み」もギャルのアイデンティティのひとつであったことはよくわかるし、水商売で働く女性の世界観を体現していた『小悪魔ageha』では、身を粉にしてホストにつくす献身的なギャル像が提示されてもいる。しかし、エロマンガにおいては多くの場合、こうした役割が「ギャル」に課されることはない(現代においてその役割を担っていると言える「地雷系/量産系」がギャルの範疇に含まれるのかどうかは、文化の連続性の観点において議論の余地があるが、少なくともエロマンガの文脈では区別されていることが大半であるため、本稿では考慮しない)。男性向けコンテンツでは往々にして、現実のギャルが直面する課題や困難が拭い去られるが、それはたんに男性消費者にとって都合がいいというだけではない。むしろそのことによって「ギャルの精神」がより純化され、理想化されたかたちで表象されているとも言えるのではないか。

 ギャルのこうした “陽” 的な側面は、しばしば “陰” 的な趣味として描かれるアニメ/マンガ/ゲームといったオタク文化と対比、もしくは交差させるかたちで記号的に用いられることが多かった。例えば、2008年より刊行された伏見つかさのライトノベル『俺の妹がこんなに可愛いわけがない​​』では、ヒロイン・高坂桐乃の「ギャルではあるが、アダルトゲームを中心としたオタク文化が好きなことを外には隠している妹」というキャラクター性が物語を推進する要素となっている。

伏見つかさ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』第1巻表紙
©Tsukasa Fushimi. Hiro Kanzaki

 同作には桐乃について「ライトブラウンに染めた髪の毛、両耳にはピアス、長くのばした爪には艶やかにマニキュアを塗っている」「同級生のコギャルどもときゃらきゃら遊んで」といった記述があり、また著者の伏見はインタビューで、藤沢とおるのマンガ『GTO』(1996–2002)に出てくるようなギャルを意識して造形したと語っている4。しかし、桐乃をギャルとして特徴づける具体的な描写は少なく、例えば「読者モデル」をやっている点がそれにあたるが、オタク文化の詳細な描写に比べると、ギャル文化の描写はごく表層的なものにとどまる。

 要するに桐乃の「ギャル」性は、彼女がスクールカーストの上位にいることを表すための、そしてオタク文化をはじめとする陰の存在と対照させるための、演出装置としての意味合いが強いのだ。アニメ化もされたそれなりの人気作として、当然多くの二次創作エロマンガが制作されたが、ヒロインのギャル性が性的な興奮を喚起させる要素と直接結びついているものは少ない。これは桐乃というギャル “風” ヒロインが、見た目はギャルだがじつは陰側、つまりライトノベルの読者により近く、親しみが持てる存在として描かれているためだろう。実際、桐乃は実兄(主人公)に対して恋愛感情を抱き、相手を束縛しようとするなど、ギャル的な自由とはむしろ真逆の行動原理で動いている。精神的には「ギャルではない」ということこそが、このキャラクターのアイデンティティにとっては重要だったのだ。

約束されていた「オタクにやさしいギャル」

 ここで改めて『マナタマプラス』シリーズの話に戻ろう。同作は「高嶺の花」である高嶺愛花が間男に籠絡され、最終的にギャル「堕ち」させられるという大筋を持つが、先にも述べたように、むしろそのギャル化はポジティブな読後感を残すものだった。性的には間男に依存しながらも、彼氏と別れることはなく、かえって積極的になっていくヒロインの態度は、見た目のみならず精神的にも「ギャル」となったことを示している。

 このような「ギャルの精神」を本当の意味で描写するためには、先に例に挙げた『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』といった一般向けの作品では避けざるを得ない、放埒な性描写が不可欠だ。全盛期のギャル雑誌の読者投稿欄や小特集が、ときに過激とも思える性的な赤裸々さを誇っていたように、本当の意味での奔放さや自由さはエロマンガというジャンルだからこそ現出しうる。

 武田自身はただ愛花を貶めるために、数々の変態的な衣装やアヘ顔に並ぶ意匠として「ギャル」化を用意したにすぎないのかもしれない。しかし、ここまで述べてきたような、ギャルをギャルたらしめる自由を欲望する態度によって、ギャル愛花は「堕ち」ではなく、むしろ「昇華」としての意味をまといはじめる。

 昨今「オタクにやさしいギャル」という言葉が広く流布し、ひとつのジャンルとして語られるようになった。インターネットやSNSで検索してみると、どうやら2020年前後から広く用いられるようになったようだ。「オタクにやさしいギャル」という名づけ以前にも、誰とでも分け隔てなく接するギャルにオタクがほだされるという物語類型は存在したが、なかでもエロマンガにおけるギャルの解像度の高さと、その精神面でのリアリティという両面においてこのジャンルに足跡を残したのが、幾花にいろの「寄辺(2017)だろう。

幾花にいろ「寄辺」

 「寄辺」はオタク趣味の男・杁中隼人の部屋に、コンビニバイトの同僚である原一羽がアニメという共通の話題をきっかけに上がり込むようになり、やがて性交渉を持つという筋書きの作品だ。作中ではギャルという言葉こそ使われないものの、登場時の一羽は金髪にゆるくパーマをかけ、キャップとスタジャン、ショートパンツにショートブーツを組み合わせるというコーディネートであり、これは2000年代後半ごろより流行したブランド「COCOLULU」に代表されるような、古着要素をMIXしたギャルファッションを思わせる。また、隼人にいきなり抱きつく距離の近さや、自身が優位の行為中に「よけーなこと気にしてんなっつーの」と言い放つ奔放さなど、ファッションのみならず精神性においても一羽は「ギャル」であると考えて差し支えないだろう。

『Nicky』2012年3月号より「COCOLULU」
コーディネートスナップ

 同作において一羽は、パチンコをきっかけに興味を持ったアニメという共通の話題を契機に杁中へと接近しており、また杁中の家にあるマンガやアニメのソフトを通じてオタク趣味にはまっていく。しかし重要なのは、それによって一羽のギャルとしての精神性が変化するわけではないということだ。むしろ、杁中の上にまたがりながら「お互いキモチよかったらなんでもいんだよっ」と行為をリードするその姿には、性描写を通して初めて描くことのできる、生々しいギャルのメンタリティが表れている。そこには全年齢向けの作品では描写しえないリアリティやライブ感があり、また一羽のそうした精神性に杁中が惹かれていることに強い説得力を与えてもいる。

 同作が発表された2010年代後半以降、いわゆる「オタクにやさしいギャル」を描いた作品は、一般向け・成人向けともに圧倒的に増えた。「寄辺」はこうした時代、つまりギャルが「堕ち」扱いされるのではなく、その積極的で解放的な精神性こそがエロティシズムとして広く受け入れられる時代の到来を告げる作品だったのではないだろうか。そしてこれは『マナタマプラス』シリーズの最後に現れた、たんなる記号を超えたギャル愛花の抗いがたい魅力からまっすぐにつながっているのだ。

「憧れ」としてのギャル

 最後に、いまいちど本稿の冒頭で触れたA輝廃都に話を戻したい。数々の版権作品の二次創作に取り組み、登場人物が「アヘ顔」を晒しながら変態的行為に耽る作品を描いてきたA輝廃都であるが、そのなかに『エロGALS!(2001)という同人誌がある。これは1999年から2002年にかけて『りぼん』で連載されていた『GALS!』(アニメ版は2001〜02年放送の『超GALS! 寿蘭』)を二次創作したものだ。

 『GALS!』は、渋谷最強のカリスマ女子高生・寿蘭と親友の山咲美由、星野綾​​​​の3人を主役に据えた少女マンガ作品だ。頭は悪く直情的だが正義感あふれる蘭が、友情や恋愛に関する問題を解決していく、一昔前のヤンキーマンガにも似たテイストの作品となっている。寿蘭は渋谷のギャル文化の中心的存在として位置づけられており、ギャルの精神性を物語において明確に示していた。同作に影響を受けた少女たちが、実際に2000年代中盤にかけてのギャル文化の担い手となっていった例も多い。

藤井みほな『GALS!』第1巻表紙
©藤井みほな/集英社

 A輝廃都が描いた『エロGALS!』は、主人公格の3人の少女たちが援助交際を通じて変態行為を行うというもので、これまでの作品と同様にアへ顔を晒させている。しかし、見逃せないのは同作のあとがきだ。以下に引用したい。

某所で「コギャルを前面に押し出したアニメなんてウケるはずないだろ!ヒギャル〔ママ〕はオタクの天敵なんだから!」という文章を見たとき、そんなことないよーこういうのが好きなオタもここにいるぞー!と思いつつ、世間一般に人気は無いんだなということをちょっぴり思い知りました。

 上記のテキストからは、A輝廃都がギャルの活躍を描いた『GALS!』を楽しみ、二次創作を手がけたことがはっきりとわかる。また次のような記述もある。

本文のセリフ中の俗に言う「ギャル語」の注釈を巻末にまとめようと思っていたのですが、マジで入稿まで時間が無くて書けませんでした。

 これらのあとがきを読むと、A輝廃都が原作で扱われていたギャル文化に興味を示し、用語集を作成してまでその文化を紹介しようと考えていたことがわかる。

 「アヘ顔」を通じてキャラクターを貶める喜びを二次創作として描いてきたA輝廃都が、なぜここでギャル文化への一定の理解を示しているのか。それはA輝廃都が、アヘ顔を晒し快楽に溺れるキャラクターたちを描き続けるなかで、そのアヘ顔が性的な従属の象徴であると同時に、お仕着せの制度や規範、道徳から解き放たれた「自由」をも象徴していることに気がついていたからではないだろうか。

 あとがきではさらに、自身の周囲に『GALS!』を読んだり二次創作したりしている者が少ないことへの嘆きも記されている。だが、当時のオタクの多くが見過ごしていた同作の魅力、つまりギャルの持つ解放的なポテンシャルは、早くからアヘ顔を描き続け、そこに逆説的な自由の片鱗を見出し、ときには憧れさえも滲ませていたA輝廃都だからこそ気づけたのではないか。

 A輝廃都と同じく「アヘ顔」を通じた「堕ち」を描き続けてきた武田が、ギャル愛花を「ネトラレ」の物語の最終的な帰結に据えるのも、こうした自由の感覚を共有していたからだろう。ギャルの自由な精神は、やがて内向的な男性視点での憧れをともなって広く認知されるようになり、「オタクにやさしいギャル」の時代をかたちづくっていく。しかし、エロマンガの歴史を紐解いてみれば、その萌芽は女性キャラクターを貶めようとする「アヘ顔」のなかに、ひそやかな自由への憧れとして宿っていた。いつだって、蔑みと憧れは表裏一体なのだ。

著者

安原まひろ YASUHARA Mahiro

1987年生まれ。ライター/編集。美術系メディアの編集。アニメの記事も各所で書いている。

X:@Mahir0rihaM

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脚註

  1. 画像は“Black Diamond Gyaru Suzu w/ Thirteen Japan Jacket & Suede Booties,” Tokyo fashion.com, 27 Nov. 2012. より ↩︎
  2. 例えば、博報堂の牧島夢加による昨今のギャルブーム再燃についての考察にも、精神性(マインド)が重要なトピックとして挙げられている。牧島夢加「『ウチら可愛い、生きてるだけでえらい』Z世代が今 “マインドギャル” に憧れる切実な理由」、LIFE INSIDER、2022年3月10日。 ↩︎
  3. 例えば、本出莉乃「平成ギャルの持つマインドが現代女性たちに及ぼす影響の検討──昭和レトロおよび平成レトロ流行の背景の検討とともに──(『関西学院大学社会学部紀要』141号、2023年、89–124頁)は、こうした歴史的経緯やギャル雑誌における頻出単語を確認したうえで、ギャルマインドを「基本的には女性が自信を持って自立することを後押しするもの」と位置づけている。さらに同論考では、平成レトロをはじめとした現代の若い世代のノスタルジー文脈においても、こうしたマインドが共有されていることが指摘されている。 ↩︎
  4. 2008年下半期ライトノベル界の話題作 『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』 伏見つかさ先生インタビュー(前編)」、CloseUp NetTube、2008年10月17日。 ↩︎

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