※本記事には、タイザン5『タコピーの原罪』(2022)の結末についての情報が含まれます。
文:きゃくの
はじめに
2022年上半期最大の話題作のひとつ、タイザン5の『タコピーの原罪』の最終話は、ここまでこの作品の行く末を追いかけていた読者を大いに驚かせるものでした。
全編にわたって愛憎渦巻く人間関係を丹念に描き続け、ひとが誰かを好きになり、あるいは嫌悪するに至るには何が求められるか、その過程をリアリスティックに示そうとしたこの作品が、連載中からSNSを中心に大きな反響を巻き起こしてきたことはいまだ記憶に新しいでしょう。そんな同作が物語をいよいよ終結させるにあたって、幾度となく時間を遡行しても殺し合いになってしまう、困難な隘路にはまり込んだ久世しずかと雲母坂まりなの関係を結び直すために導入したもの──それは経済的支援でも医学的治療でもなく、「おはなし」でした1。
この唐突な結末の評価を巡って、すでに多くの批評的言説が蓄積されています。この論考の執筆者もそのなかのいくつかを読み、多くのことを学びましたけれど、なお十分に問われていないことがらが残っているように思われます。それは東直樹という登場人物が、この物語において果たす役割です。
直樹はメインキャラクターのひとりでありながら「おはなし」の場面には立ち会っていません。彼はどこに消えたのか。そしてなぜ消えてしまったのか。本稿の目的は、東直樹という人間が『タコピーの原罪』において担っている役割を明らかにすることで、「おはなし」の意味を問い直すことです。
東直樹とは何者なのか ① ──問題の所在
まずは、そもそも東直樹とはどのような人物だったのかを確認するところから始めましょう。というのも、おそらくふつう『タコピーの原罪』は、久世しずかと雲母坂まりなを中心とした物語として理解されているはずだからです。
煩を厭わずに、作品のあらすじを語り直しておきます。『タコピーの原罪』の物語は、宇宙全体にハッピーを広めるためにハッピー星からやってきたものの地球で遭難してしまったひとりの「ハッピー星人」が、たまたま出逢った小学生女子「久世しずか」に助けられ、お礼に彼女の手助けをしようとする、という場面から始まります。なお「タコピー」という名前は、しずかがこのハッピー星人に与えたものです(第1話)。
しずかは同級生の「雲母坂まりな」から執拗ないじめを受けていました。「いじめ」という悪意を理解できないタコピーは何とかしずかとまりなを「仲直り」させようとするのですが、何をやっても事態は解決せず、まりなの策略に嵌められて愛犬のチャッピーを失ったしずかが絶望するという結末に終わります(第2話、第3話)。
タコピーはこの未来を変えるべく、ハッピー星から持ち出してきた「ハッピー道具」を用いて時間遡行を繰り返すのですが、なかなか結末は変わらず、ようやく変わったと思ったら、今度は反対にまりなをハッピー道具で撲殺してしまいます(第4話)。
まりなの死体を目撃した同級生男子「東直樹」を言葉巧みに共犯に引きずり込み、まりなの死を隠し通そうと画策し始めるところから、しずかの、そしてタコピーの運命はグロテスクにねじれていきます(第5話)。
しかし終盤で明かされるように、実はタコピーと初めに出逢ったのはしずかではなく、まりな、それも高校生のまりなでした。小学生のしずかとの出逢いは、この高校生のまりなと出逢った時点からなされた、時間遡行によるものだったのです。まりなは金銭的には比較的裕福な家庭に生まれたのですが、父親が外に愛人をつくって家を出ていってしまい、精神疾患に苦しむ母親とふたりで暮らしています。その父親の愛人がしずかの母親であるため、しずかは──もちろん彼女自身には何の落ち度もないにもかかわらず──まりなの憎悪の対象になっていました(第12話)。
明確に描写されているわけではないのですが、おそらくこの時点でのまりなは、小学生のときにしずかをいじめ抜くことでついに自殺未遂に追い込み、彼女を町から追い出すことに成功したものの、それにもかかわらず父と母の仲が戻ることはなく、むしろかえって父親は家を離れてしまった、という状況にあるようです2。子どもだったまりなは、しずかがいわば諸悪の根源であり、彼女を町から追い出せば家族は元通りになると思っていたのですが、事態はそのようには進みませんでした。
いよいよ人生の行き詰まりを感じるまりなは、ある日偶然ハッピー星人に出逢い、そしてこれもひょんなことから小学生のときの同級生だった東直樹に再会し、彼と恋人関係になります。母親に直樹のことを報告したところとても喜び、生活にわずかな希望が見出せるようになった……というところで、高校生になったしずかが町に戻ってきます。小学生のときからしずかに惹かれていた直樹は、おそらく当時の罪悪感も相まって「久世さんには僕しかいないんだ」3と言ってまりなに別れを告げます。ことの次第をまりなから報告された母親は、パニック状態に陥ります。
摑み合いの末にはずみで母親を殺してしまったまりなは「小4のときにちゃんと殺さなきゃだった/久世しずかを……」4と呟き、その願いにハッピー星人が応答します。ハッピー道具での時間遡行とは異なり、ハッピー星にある「大ハッピー時計」によって大幅な時間遡行を試みたこのハッピー星人は、しかし時間遡行の代償によって記憶と、それからハッピー星に戻るすべを失ってしまい、そうして物語の冒頭に戻るのです(第13話)。
この節のはじめにも申し上げたとおり、やはり『タコピーの原罪』における展開の一切が、まりなとしずかの宿命的な二者関係を中心に展開していることは明らかです。とはいえ彼女たちの未来を「宿命」と呼びたくなるほど困難なものにしているのは、何も超自然的な力ではなく、きわめて具体的な、機能不全に陥った家庭の影響です。親たちの混乱の影響が、まだ弱く他に頼るあてもない子どもに強くもたらされるという不条理は、現存の世界になお深く根を張っている未解決の問題です。したがって、この作品が現代の機能不全家族という社会問題をえぐり出しているという読解は、やはりこの物語の重要な一側面を指摘していると思います。
しかしわたしが注目したいのは、その点ではありません。むしろ本稿において重要だと思われるのは、「まりなとその家族」「しずかとその家族」というふたつの血縁集団からは逸脱してしまう、東直樹という登場人物についてです。
繰り返すように(高校生の)直樹がしずかに夢中になってしまったことが、この壮大な事件のきっかけのひとつです。しかし最終話における少女たちの和解と前後して、直樹は両者とまったくかかわらなくなります。つまり、しずかとまりなの和解という大団円の裏で、直樹というピースが置かれている位置が大きく変わっているのです。
さて、わたしたちはこのことの意味をどう捉えるべきでしょうか。東直樹がしずかたちに介入するのをやめたことと「おはなし」との間に、いったいどのような関係があるのでしょうか。これがわたしたちの次の問いです。
東直樹とは何者なのか ② ──『ヒーローコンプレックス』を補助線に
東直樹のプロフィールについて、簡単に紹介しておきます。直樹は真面目なことだけが取り柄の、医者の次男です。学業成績はそれなりに優秀であるものの、とりわけ母から、直樹に輪をかけて優秀な兄・潤也と比較されて、大きなプレッシャーとコンプレックスを感じています。
母親に認められたい、母親に愛されたいという気持ちは、直樹のメンタリティに大きな影響を与えています。母によく似たしずかからまりなの死体遺棄をお願いされると、直樹はつい従ってしまいます。しずかの要求はその後もエスカレートし、いよいよ彼女は罪を被ってひとりで自首するように直樹に頼むのですが、彼はそれさえも断り切れません。
血がべっとりと付着したハッピー道具を抱え、覚悟を決めて警察に向かおうとしたところで潤也に呼び止められ、土壇場で彼に助けを乞うことができました。
直樹と潤也の兄弟関係は『タコピーの原罪』でも重要な要素のひとつですが、作者のタイザン5にはこの作品以前にも、兄弟を扱った『ヒーローコンプレックス』(2021)という短編があります。この物語は売れっ子の漫画家である弟・明に対する平凡なサラリーマンの兄・景のコンプレックスを描いた作品です。現在のふたりの社会的地位の違いに加え、過去からの変化、つまり彼らが子どもの頃は「陸上競技で活躍する兄」と「漫画だけが取り柄の弟」という関係だったにもかかわらず、大人になって明だけが成功を手にしたため、力関係が逆転したということ──もっとも明のほうは必ずしもそのような認識を持っていないのですが──が余計に景のコンプレックスを根深いものにしています。
物語は景の視点で進み、弟にコンプレックスを抱える彼が、再び弟にとって頼れるヒーローになることができる、という結末を迎えます。コンプレックスを抱く側が『タコピーの原罪』では弟であるのに対して『ヒーローコンプレックス』では兄であるという点をはじめ、異なっている点もむろんありますけれど、コンプレックスも含んだ兄弟間の強い結びつきという基本的なモチーフは、どちらの作品にも共通しています。例えば批評家の石岡良治が、これらに「BL的」とも形容できる特別な関係が存在することを指摘する5理由は、その意味ではよく分かるものです。
しかし両者が似ているからこそ、決定的な違いも目立つように思います。それは『タコピーの原罪』の兄弟関係が、兄弟という二者関係を微妙なかたちで逸脱するという点です。
それぞれの作品の具体的な場面を比較してみます。例えば『ヒーローコンプレックス』のストーリー上の山場は、景が明の忘れ物を届けるべきか否か……と葛藤する場面です。景は、忘れ物が原因で明が困れば、多少は自分の溜飲も下がるだろうかと一瞬思いつつも、しかし最終的には邪念を断ち切り、忘れ物をもって弟のもとへと走ります。ここではコンプレックスを抱いている側の人間が、それでも自力でそのコンプレックスを乗り越え、兄弟の仲を修復する様子が描かれます。
対して『タコピーの原罪』の直樹は、自分から主体的に行動しているようにはあまり思われません。なるほど確かに、彼もまた潤也に促され、しずかの死体遺棄を手伝ったことを白状します。しかし直樹の場合、それはあくまで潤也の問いかけに対して素直になった、つまりは兄から差し伸べられた手を摑んだ、ということに過ぎないように見えます。
そのことを暗に示すのが、直樹がかけていた眼鏡を替える場面です。それまでの直樹の眼鏡は母親に買ってもらったものなのですが、それは母親が直樹の人生を支配していることの隠喩になっていました。しかし第14話で、直樹の眼鏡は潤也に買ってもらったものに変わっています。
この場面は、直樹が母親の呪縛から解放されていることを示す場面としてしばしば解釈されていますけれども、しかしそれは事態の半面でしかないのではないでしょうか。もし眼鏡が、直樹を支配し導くことの隠喩であるとするならば、素朴に考えて、直樹が相変わらず眼鏡をかけているという点で、その力強い表情とは裏腹に、結局のところ彼は自分で自分の未来を決定する主体ではいまだなく、母に代わって兄に導かれるようになっただけであるように思われます。
さらに違う角度からも検討してみます。第14話のタイトル「直樹くんの介在」は第5話の「東くんの介在」と対比させられているわけですが、このふたつのエピソードを比較すると、第5話ではひとりで、しかも直接しずかに介入していた直樹が、第14話では兄の力を借りて、しかもタコピーを介して、間接的にしずかに介入していることが分かります。話数を経ることでしずかと直樹は近づくどころか、むしろ遠ざかり、ふたりの間にある溝が浮き彫りになっているのです。『ヒーローコンプレックス』では景が自力でコンプレックスを乗り越えて明との関係を立て直したのに対し、『タコピーの原罪』では直樹が潤也に守られたまま、しかしその状態でしずかという、兄ではない人間に働きかけるのです。このように直樹の人間関係というものは、密着と疎隔が絡み合った複雑なものであることが分かります。
さて、ここまでの話を整理すると、この物語には大きく分けてふたつのグループがあるといえます。まずひとつめに、まりなとしずかを中心としたグループがあります。まりなとしずかの切っても切れない因縁を軸とした、ふたつの家庭からなるグループです。そしてふたつめに、直樹を中心としたグループがあります。こちらもこちらで一筋縄ではいかない、潤也と直樹の関係が軸になっています。そして本来であれば接点がないこれらふたつのグループを、タコピーが関係づけています。
二次創作を楽しむオタクであれば、例えばはじめのグループにのみ注目して「しずまり」を組み立てることができます。あるいは反対側に目を転じて「潤直」でもいいでしょう。
ただし『タコピーの原罪』のストーリー全体は、その両者を媒介し、かき回すことで成立しています。では、それによって何が問われているのでしょうか。これが次の問いになります。
『タコピーの原罪』の政治性──『同人政治』を補助線に
前節では『ヒーローコンプレックス』を取り上げて『タコピーの原罪』と比較し、タイザン5作品におけるBL的な関係というテーマにふれましたが、ここでさらに、同じ作者が明示的にBLに取り組んでいる作品を取り上げてみます。『同人政治』(2020)という作品がそれなのですが、興味深いことに、この作品ではBLと「政治」の関係が問題とされています。
ストーリーとしては、若者に政治への興味を持ってもらいたい大学生・宝島が、総理大臣と閣僚の二次創作BLを描くことを趣味としている後輩・森に目をつけて、森に夏コミに向けた作品を描いてもらう、というものです。
興味深いのは、宝島は森に特定の政治的主張を含めたプロパガンダ漫画を描かせるわけではなく、あくまでこれまでどおり、森の欲望の赴くままに漫画を描くよう求めるということです。宝島は次のように述べます。
俺はお前のように安田総理大臣と麻川次郎のBLに性的興奮を覚える性癖はない/だが/お前の漫画を面白いと思ったのは本当だ6
宝島は「面白さ」と「性癖」を区別します。つまり、森は自分自身の性的興奮のために政治の二次創作BLを描くのですが、しかし森の作品には、必ずしも彼の「性癖」を共有しないひとにも伝わる普遍的な「面白さ」が宿っていて、それが人々の関心を政治へと向かわせる可能性がある、ということです。
ニッチな「性癖」を共有しないで「面白さ」だけを共有しようとする宝島の態度はいささか危なっかしく思えるため、わたし個人としては、なぜ森が宝島に協力しようと思ったのかという点についてまだ十分に理解が及んでいません。しかしいずれにせよ、この物語の作者が、BLに宿る私的な欲望が高められたとき、それが個人という枠を飛び越えて他者に影響を及ぼすほどのエネルギーを生み出すことがある、という事態に敏感であることは明らかです。そしてこのことは、直樹とタコピーの対話を解釈するうえでも重要な意味を持ちます。
例えば直樹が14話で眼鏡を替えていることにはすでにふれましたが、これには少し補足が必要です。実は直樹が潤也に買ってもらった眼鏡を装着するのは、このエピソードの最後だけです。最初にしずかについてタコピーと話すときは眼鏡を外していて、ようやく立ち去ろうとする間際、潤也について話すときに眼鏡をかけるのです。ただし、しずかについて話すときに眼鏡を外しているからといって、そこで直樹が自立していると解釈するのは、先ほども指摘したようにおそらく拙速です。
重要なのは、視力の低い直樹が物を裸眼で見るとき、それは十分な現実認識にはならず、ぼんやりとした像しか結ばないということです。それでもあえて裸眼でしずかについて語るということは、それは一方では事態を自分自身の目で見る、つまり正面から向かい合うということをあらわしていますが、しかし他方ではその力は弱く、現状を変えるには不十分なものだということをも意味しています。一生懸命自力で向かい合うものの、それはひどく非力である──裸眼という形象に隠喩的に込められたこの二面性を踏まえれば、次のような直樹の言葉も、うまく解釈できるように思われます。
一人よがりで/久世さんを助けようとして/結局何もできなかった/きっと/助けてあげようなんて思うのが違ったんだ/僕はそれしかできなかったけど──…7
直樹は、自分がしずかを助けなければならないという気持ちを抱いていたことはまったくの「一人よがり」であり、間違いであったことを認めます。他方で、彼の認識が「友人関係は対等なのだから互いに助け合わなければならない」などという、口当たりの良い一般論には回収されないことにも注意しなければなりません。直樹は自分のやったことが間違いだと認める一方で、それ以外にどうしようもなかったとも言っています。まったく言葉どおり「僕はそれしかできなかった」のです。
直樹が裸眼で不格好にタコピーと向かい合う姿は、『同人政治』で見られた、同性間の関係を媒介として個人の欲望が他者に伝わっていくという構図と類比的です。なぜならば、ここでの直樹は潤也の兄弟愛もしくは庇護のもとで、タコピー(としずか)という他者にはじめて正面から向かい合うことができているからです。より一般的なかたちで言い直せば、直樹は潤也に肩を押されて、しずかと決別することができたのです。
しかし、この景色が『タコピーの原罪』の「政治」であるとすれば、それはあまりに寂しいものではないでしょうか。直樹がその身をもって語ったことは、自分では結局しずかを助けることができず、ただ助けようとすることしかできなかった、というきわめて消極的な諦念だからです。「自分の運命と無力を受け止めるべきだ」というペシミスティックな説教を組織することが、この作品の最終的な狙いだったのでしょうか。
いいえ、わたしたちはそうではないことを知っています。直樹の一言がタコピーに影響を与え、そうして最終話の「おはなし」につながることを知っています。
こうしてわたしたちはようやく、最初の問いにふたたび巡り合います。『タコピーの原罪』において「おはなし」とは何なのか。直樹の言葉をたどり直し、単なる撤退や諦念には還元されない、この表現に込められた意味を明らかにしていきたいと思います。
「おはなし」というユートピア
ここまで繰り返し述べたように、直樹は優秀な兄・潤也との関係においてコンプレックスを抱いており、母親に認められたいという気持ちをこじらせています。はじめの時間軸でタコピーに出逢わないまま高校生になっている直樹は、小学生のときに母に似た少女であるところのしずかを救うことができず、また兄との関係にケリをつけることもできず、自分の生きる意味を明らかにすることができない状態で、ぼんやりと生きていました。
そのような状況の直樹にとって、かつて母に似た少女を自死の手前まで追い込み、そして傷跡を顔に残してあらわれたまりなは、医師として完璧であることを求める母親から愛されない、落ちこぼれの自分にはお似合いの人間だと思われたのでしょう。
だから、やはり高校生のまりなと直樹の関係は、はじめからいびつなのです。そのようななかでしずかが帰ってきたことで、直樹はまた自分の人生のすべてをやり直すことができるのではないかと考えました。しかし彼のその巨大な願望は、少女たちの生き方を大きく変えることになります。
タコピーが高校生としての直樹たちの記憶を取り戻したあと、もちろんそのような未来は知るよしもない直樹はタコピーに、しかしそれでも高校生のときの自分自身を乗り越えるかのように、良いときも悪いときもあるのが人間だ、と語ります。
そりゃそうだろ/そりゃいいとこも悪いとこもあるだろ/そんなこともわからないのかこのタコ8
直樹が「そんなこともわからないのか」と述べているとおり、ここで言われていることそのものはトリヴィアルな事実でしかありません。しかし他方で、これは直樹が十分に意識していなかったことですが、彼自身もまたこの単純な事実を理解していなかったように思われます。どういうことでしょうか。
わたしたちは単なる常識としては、世界中のどこにも絶対的な悪人や絶対的な善人が実在しないことを知っています。わたしたちは多かれ少なかれ善人であると同時に悪人でもあるという、グラデーションのなかで生きています。しかし他方で、わたしたちは時にそのことを忘れ、あいつが諸悪の根源であり、あいつさえいなくなればすべてが解決するのだという、極端な観念を抱くことがあります。
まりなやしずか、タコピー、そして直樹が陥っていたのは、そのような状況にほかなりません。まりなはしずかさえいなくなれば父親は帰ってくると考えているし、しずかは誰かの腹をかっさばけば愛犬のチャッピーが戻ってくると考えています。またタコピーはしずかとまりなのいずれかが悪人で、いずれかが善人だと思っています。そして直樹にとって、しずかは直樹の人生全体に意味を与えてくれる、いわば女神のような存在でした。
むろん、こうした戯画的なまでの思い込みは、時にひとがこの過酷な人生をサバイヴするための、ぎりぎりの技法でもあります。何かにすべての原因を押し付けてもどうにもならないことはよく分かっている。それでも「えっ/じゃあどうすればよかったの?」「ねえ/全部/全部ぜんぶ/一体どうすればよかったって/お前言ってんだよ!!」9。
しかしそれでも、そのやり方では間違っていると言わなければ、事態は進みません。では、その思い込みは間違いだと指摘したあとに、いったいいかなる希望が残っているのか──このことが問われなければならないのです。そして私見によれば、ヒントは直樹の発言にすでにあらわれています。「ありがとう」10です。
タコピーは一度、高校生のまりなからも「ありがと」11という言葉を受けています。しかしそのときは、自分が手伝った結果としてまりなが順当に「ハッピー」になったのだと考えているだけです。それに対して直樹からの「ありがとう」は、タコピーの手伝いがむしろ裏目に出ていて、直樹にとってタコピーは「バカ」な存在であるにもかかわらず、感謝の気持ちとして伝えられている言葉です。自分は役に立たなかったのに、それでも感謝の言葉をかけられたからこそ、タコピーは人間を一方的に助けてあげるだけでは生まれない、別の「ハッピー」がこの世界に存在していることを知ることができました。
タコピーは第11話で、しずかに殴られて失神している間にほとんどのハッピー道具を奪われてしまったため、道具を使って誰かを手伝い、助けてあげることができなくなってしまいます。それにもかかわらず、タコピーはしずかの前にあらわれ、自分に何ができるのかをふたたび考え直します。そして自らの身体を構成している「ハッピー力」、つまり自分の命を犠牲にして、ハッピー道具を用いた時間遡行を一度だけ行い、そして最終話で「ありがとう」と言います。
ここでわたしたちは「ありがとう」と時間遡行、そして「おはなし」という、三者の関係を改めて捉え直す必要があります。
まずは時間遡行と「おはなし」の関係を見てみましょう。すでにふれたように、高校生のまりなに出逢ったタコピーは、大ハッピー時計によって時間を遡り、その代償によって記憶を失ってしまいます。大ハッピー時計の前で、タコピーに「ママ」と呼ばれているひときわ大きなハッピー星人は、タコピーを叱責します。
あなたは一人でここへ来た/ハッピー星の/最も大切な掟を破ったのです/二度と星に戻ることは許されない…/だからこそ生まれ変わるのです/すべてを忘れて───12
SFが好きな読者はこのママの発言に注目し、次のように解釈するでしょう。曰く、ハッピー星人は宇宙征服をたくらむ宇宙人で、他の星の住民をハッピー星に連れてきてハッピー星人にしてしまうのだが、タコピーはその任務に失敗したため、記憶を奪われ、作り変えられようとしている……。
しかしわたしの理解では、ことがらはもう少し単純です。ハッピー力と引き換えに行われた時間遡行のあとでタコピーが述べた、次の一節を検討してみます。
「おはなしが/ハッピーをうむんだっピ」/そうそうそれが/いちばん大切なこと/ぼくが忘れてしまっていた/いちばん大切なやくそく/ごめんねママ/最後におはなしできなくて13
ここでは明らかに「いちばん大切なやくそく」は「おはなし」に関するものとして語られています。つまり、ハッピー星にひとりで帰ってきたことではなく、「おはなし」をしなかったことが掟破りなのです。言い換えれば、ハッピー星にひとりで戻ったことは「おはなし」をしなかったことの結果に過ぎない、ということです。
そしてそのように考えると、確かにタコピーは、高校生のまりなに事情を十分に尋ねることなく、ある意味ではまりなと同様に「しずかさえ殺せばすべてが解決する」と思い込んでハッピー星に戻ってきていました。ママが批判したのは、まさにタコピーのそうした態度ではないでしょうか14。
おそらくママは、正当な理由があるならば、大ハッピー時計によって世界をやり直すことも喜んで認めるでしょう。したがってハッピー星人とはおそらく、世界が最善であるように絶えず介入し、その誤りや歪みを正そうとする存在なのだと思われます。そしてここで最善なるものの基準として働いているのが「おはなし」なのです。
ただしこれだけでは、やはりなお空虚であり、単に当たり前のことを繰り返しているに過ぎないようにも思われます。だから、この関係にもう少し実質を与えるためには「ありがとう」の意義について考える必要があります。
興味深いことに『タコピーの原罪』のなかで「ありがとう」と発言した直樹とタコピーは、同じようなかたちで物語から退場しています。ふたりは「ありがとう」のあとに「バイバイ」と続け、まりなとしずかの物語から痕跡さえ──「ありがとう」という発言そのものの痕跡さえ──ほとんど残さず消え去ります。
こうした消失するコミュニケーションは、この作品における「おはなし」のひとつの臨界点を示しています。つまり、わたしたちが『タコピーの原罪』で描かれているような「おはなし」をすることは、決して簡単なことではないのです。「おはなし」はまさに直樹やタコピーにおいてそうであったように、自分自身がそこから立ち去り、その「おはなし」そのものが消えることが世界にとって最善であると明かすことさえあります。そのときでさえ、わたしたちはその事実を受け入れ、笑顔で「ありがとう」と言い、その場から去らなくてはありません。
こうした希望のありかたは一見すると、確かに過酷なものにも思われます。ただし重要なのは、こうした経験があくまで当人にとって内的なものとして起こるのであって、外圧によるものではない、ということです。まりなとしずかのことを思い出してください。彼女たちは自分の外側に何かしら自分の困窮の原因があると考え、それを取り除こうとしました。しかし「ありがとう」と言い、そして物語から自分を立ち去らせることを決めたのは、タコピーと直樹自身です。他者に「強く触れ」、他者のかたちを無理やり変えようとするのではなく、あくまで自分自身のなかに自ずから立ち現れてくるものに気がつく、という事態がここでは起こっています。
なお、しばしばジェンダー批評の観点から、直樹がまりなとしずかに介入しなくなることを「アンチ異性愛」の象徴として解釈する向きもあるようです。確かにそうした側面もあるでしょうが、そうした読解は「ありがとう」と言って消えたのは直樹だけではなくタコピーもである、という単純な事実にうまく答えられていないように思われます。ここで問われているのはその人、あるいは人でなくとも構いませんが、ともかくそれがそこに在るという意味における「存在」そのものです。じっさい、そのものがそこにかつて存在していたという痕跡さえ拭い去り、タコピーは消えてしまいます。
「おはなし」は決して内容空疎な張りぼてなどではありません。そこでは自分の存在そのものが深く内省され、問い直されることになります。他者との関係において自分自身を問い直すことで自分の本当のありかたに気がつき、自分自身を世界へと開いていく──そうした存在たちで満たされた場所は、さまざまな悪の可能性を内に含んで展開し、他者との差異や摩擦に苦しむ現世の人間からすれば、どこまでも遠く眩しいユートピアに見えることでしょう。
おわりに
わたしたちはここまで『タコピーの原罪』の世界を渡り歩き、ハッピー力が世界のいたるところに充満している、はるかなユートピアにたどり着きました。そこでは風がそよぎ、木々は歌い、太陽は光を惜しまず、われわれに恵みを贈ってくれます。この世界では無さえもが愛を分泌し、世界という奇跡を言祝いでいます。
こうしたハッピーな世界を「美しい」と思うか「気色悪い」と思うかは、ひとまず趣味の問題といたしましょう。しかし、このユートピアの景色が単に美しいだけではないことは改めて確認しておきたいと思います。つまりすでにふれたように、まずそれは自分の存在を必ずしも肯定してくれるものとは限りません。そして次に「おはなし」とは、単なる対話への手放しの賞賛ではありません。前節とは別の例をとれば、例えばまりなとしずかに顕著に見られるように、「おはなし」はむしろ対話のような単純な言語的コミュニケーションの形態をとらず、神秘的な直観の共有に近くなるのかもしれません。したがって「おはなし」とは、他者と善い関係を結ぶことができるという希望の符丁のひとつとして解釈すべきだと思います。確かにこうした希望のアイデアそのものは陳腐であり、やや観念的でさえありますけれども、とはいえ単に間違ったものとも言えないはずです。
ただしわたしたちにとっては、それでもやはり、気味の悪さが拭いきれないかもしれません。いったい、世界から自分を喜んで退場させるなどということが本当にあり得るのだろうか。それは利害関心を異にする人びと同士の対話や交渉、それによる妥結といった現実に欠かせない政治的な営みそのものを抹消する振る舞いではないのか。
こうした疑念に応えるために、最後に「おはなし」がユートピア的であることを再び強調しておきたいと思います。タコピーがまさにそうであったように、「おはなし」が「おはなし」の存在そのものを消してしまうことさえあるとしたら、つまりは自分で自分の基盤を掘り崩してしまうのだとしたら、原理的に言えば、今あるこの世界が「おはなし」によってつくられたハッピーな世界かそうでないのか、よく分からないことになります。
例えば、最終話のまりなとしずかは和解しますが、それでもなお、ばらばらになった彼女たちの家庭は元には戻りません。彼女たちは苦しい日々を、どうにかこうにか生き延びているという状態です。他方で、やや極端な例を引きますが、自殺未遂をするも一命を取り留め、高校生になって再び故郷の町に帰ってきた第12話のしずかも、また直樹という友人(?)に慕われ、日々を生きています。さて、直樹と共にいるしずかの生き方と、まりなと和解したしずかの生き方は、どちらがハッピーなのでしょうか。そしてそれを判断する根拠は、どこにあるのでしょうか。
もちろんわたしは作品世界の外にいる読者ですから、おそらく最終話のしずかの人生の方がハッピーだろう、と冷静に判断できます。しかし作品内の登場人物たちは、自分の人生がハッピーかどうか、いったいどのように判断するのでしょう。
繰り返すように「おはなし」とは、時にその「おはなし」の存在さえも消してしまうものです。だからわたしたちは、この世界が最善なのかそうでないのか、確たる証拠を摑むことはできません。あるのはせいぜい、ハッピーだと思うわたしの、あるいはあなたの信念だけです。だからこそわたしは、『タコピーの原罪』において「おはなし」とはユートピア的なものであり、そのような意味で最善の世界とは決して確定することのできない場所、すなわちユートピアなのだと言いたいと思います。
さて最後になりましたが、わたし個人としては、わたしのこの拙い文章が「おはなし」であれば、とてもうれしいと思います。もしそれが叶うのであれば、必要に応じて「ありがとう」と言ってここで消えてしまったとしても、まったく本望であるほどに、そう思っています。とはいえ、その言葉を発する機会はまだ先のことであるようにも何となく感じられますので、せいぜいしかるべきタイミングまで、自分のできることを続けていきたいと思います。
すべてはハッピーのために。わたしの文章をここまで読んでいただいたことに、心から感謝いたします。
著者
きゃくの kyakuno
オタク。『青春ヘラ』(大阪大学感傷マゾ研究会)などに寄稿しています。『青春絶対つぶすマンな俺に救いはいらない。』(ガガガ文庫)の新刊が出たことに驚きと喜びを隠せない今日この頃です。
Twitter:@kyakunon60
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脚註
- タイザン5『タコピーの原罪 下』最終話、集英社、2022年、188頁。 ↩︎
- まりなが小学生の時点では、彼女の父親は外泊こそ繰り返していますが、家にはたまに帰っています。他方、高校生時点での父親は完全に別居しており、離婚調停に応じるよう、まりなとまりなの母親に働きかけているのですが、彼女たちはそれを無視しています。 ↩︎
- タイザン5、前掲書、第13話、113頁。 ↩︎
- 同書、第13話、119頁。 ↩︎
- 石岡良治、宇野常寛、成馬零一、吉田尚記「批評座談会〈タコピーの原罪〉」 ↩︎
- [政治漫画賞 佳作]「同人政治」 タイザン5、39頁。 ↩︎
- タイザン5、前掲書、第14話、143頁。 ↩︎
- 同書、第14話、140頁。 ↩︎
- 同書、第15話、158−159頁。 ↩︎
- 同書、第14話、142頁。 ↩︎
- 同書、第12話、108頁。 ↩︎
- 同書、第13話、125頁。 ↩︎
- 同書、最終話、188頁。 ↩︎
- じっさい、ママの制止を振り切ってタコピーが大ハッピー時計を使ったあと、ママは「どうしてそんなに強く触るの…/ちゃんとおはなしして教えてっピ…」と言い、「おはなし」の重要性にふれています。 ↩︎