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n(えぬ)週遅れの映画評〈9〉『母性』──隣の席に、娘がいる。

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※本記事は、すぱんくtheはにー「一週遅れの映画評:『母性』私と見知らぬ彼女の。」を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。なお『母性』(2022)の結末についての情報が含まれます。

文:すぱんくtheはにー

 「映画館に行く意味」みたいなものって、最近はとかく見失いがちなんですよね。コロナは怖いし、すぐ配信で見られるし(なかには劇場公開と同時に有料配信なんてのもある!)。決してマナーのいいお客さんばかりじゃないところに、わざわざ時間を合わせて、交通費まで払って行く必要がどれだけあるんだ? と思うことは少なくないわけですよ。

 だけどね、今回は「映画館に行って良かったな」と久々に思えました。でかいスクリーンが〜とか、音響が〜とかじゃなくて、他の人がいることによって。

 というのは、映画のラストあたりで、主人公のひとりである母親があるセリフを言うのね。それを聞いたとき、私は「ひいっ」って息をのんでしまうほど、その言葉が恐ろしかったんですよ。だけど同じ劇場の結構近い席に座ってる女の人がすんすん泣いてて……たぶん感動してるっぽい泣き方だったのね。

 最初は「え!? なんでここで泣けるの!?」ってびっくりしたんですよ。だって同じものを見てるとは思えないリアクションの差じゃない?

 でもちょっと考えたところで、この違いがそのまま『母性』っていう映画の縮図なんだって気がついて……これはね、なかなか得がたい経験をしたな、と。私のなかでMVPは、そのすんすん泣いてた見知らぬ女になったんです。

母にとっての「理想の娘」

 この映画の主人公は一組の母と娘なんですけど、お話はその娘が生まれる前、母親が結婚する以前から始まるのね。作中で母になるこの女性は、そもそも自分のお母さん(生まれてくる娘にとっては祖母)が大好きなのよ。というか、大好きを通り越して「信奉」しているっていうレベル。とにかく「母にとっての理想の娘になりたい」ってずっと思っていて、あれね、超自我が大きすぎて自我がかき消えてるような感じなの。

 この親子はもう両方とも絵に描いたような、幸せで満たされた母娘を演じ続けている[図1]。しかも本人たちには「演じている」なんて自意識はまったくなくて、心の底から「愛にあふれた素敵な母親」と「その愛を全身で受け止めるかわいい娘」っていう “役” を遂行していくのよ。

図1:主人公のルミ子(戸田恵梨香、右)とその母(大地真央)
©2022映画「母性」製作委員会

 それで、この「理想の娘」がある男性と出会って結婚することになるんだけど、その男性と付き合い始める、というか好きになる理由が「母がその人の描いた絵を褒めていたから」なの。自分は本当はむしろその絵がちょっと嫌いなのに、にもかかわらず「母と違う感情を持つ自分」が受け入れられなくて、だからこそ明らかに反動でその男性を好きになってる。もっと正確にいうと、その男性が好きだという役を選び取ってるわけですよ。

 もう怖いじゃん、そんなの。それで男性の両親に挨拶に行くんだけどさ、義理のお母さんがかなり気難しいらしいって聞かされる。そこで主人公の女性は「だけど、それほど心配はしていなかった。私を嫌いになる “大人” なんて、いままでひとりもいなかったからだ」って独白するのね。

 そりゃあ「母にとっての理想の娘」をやり続けてれば、自然と大人から好かれる子供にはなるわけですよ。だけどね、この人はもう結婚するぐらいの年齢なわけ。そんな年齢になってまで自己評価が「大人に好かれる」って、子供っぽいを通り越してもはや不気味でしょ。そもそもおまえが大人のはずじゃん、っていう。「成熟」とかどこ行っちゃったの?

 それでまぁ、結婚したら妊娠するわけですよね、「理想の娘」としては。だけど妊娠が発覚したところで、娘はパニックを起こしてしまう。「怖い! 怖い!」とか言って。妊娠・出産は精神的にはどうあれ、肉体的には「強制成熟イベント」だから、成熟の「せ」の字もない女にしてみれば、「母にとっての理想の娘=子供」っていう自身の存在意義をめちゃくちゃに破壊してくる出来事なんですよね。今度は自分が「母」になっちゃうわけだから。

 そうやって恐慌状態に陥ってる自分の娘に向かって、その母親は「大丈夫。怖くない、怖くないのよ」って語りかける。子供が生まれる喜びを説くんですよ。ここも微妙に説得のポイントがずれてて気持ち悪いのに、母がそう言うなら、って持ち直す娘も娘なんですよね。

娘を抱き゠絞める

 そして子供が生まれる。ここからは、これまで「母/娘」として話してたのが一世代スライドして「祖母/母/娘←new!」になります。こう言っておかないとすげぇわかりにくいからね。

 ただ結局、子供を産んでも母は精神的には「成熟」せず、いつまでも祖母の望む通りにふるまおうとする。そのせいで新しく生まれてきた娘は「母を喜ばせるために、祖母が喜ぶようなことをする」っていう、めちゃくちゃ複雑な役を背負わされるんですよ。

 ところがある日、家が火事になって祖母が死んでしまう。悲しみに暮れる母なんだけど、それはそれとして行くところがないから旦那の実家に住むことになるんですよ。でもそこの義理の母(娘にとっては父方の祖母)がまぁ相当な因業ババアで……母はゴリッゴリに詰められるんだけど、何年経ってもその家から出て行こうとしないのね。

 なぜなら、母は「年上の女性=大人にかわいがられる」以外の生き方を知らないから。つまり、彼女が生きるためには義理の母(娘の父方の祖母)が不可欠なんです。だけどこっちの祖母はめちゃくちゃにいびってくるから、どれだけ尽くしてもかわいがってくれない。まぁ、ありていに言って「地獄かな?」みたいな環境なわけですよ。

 そんなギスギスハウスに嫌気がさした旦那は浮気する。それが娘にバレる。

 ここのねぇ、父 vs. 娘 vs. 浮気相手のレスバトルがめちゃくちゃ強烈で、もうお互いに相手のクリティカルポイントをザクザク刺しまくる。わりと邦画って、こういう言葉の応酬が鮮烈な作品はいくつもあるんだけど、そのなかでも短い尺でまとまりつつ質の高いやりとりが描かれていて、「2022年 邦画レスバトル大賞」はこの作品に決定!って感じ。もうね、このシーンだけでも見に行って損はないぐらい。

 ジャッジとしては、高校生という年齢ながら、父と浮気相手のウィークポイントを的確に突いた娘の勝利! かと思いきや、最後に彼女だけが知らなかった「ある真相」が開示される。それによって娘は戦意喪失してしまうのね。それがどういう真相なのかは、劇場で確かめてほしいんだけど。

 娘は真相を知ったことで、取り返しがつかないくらい母を傷つけていたことに気づいてしまう。そこで泣きながら謝る娘に近づいた母は……というところで、物語が「母の記憶」ルートと「娘の記憶」ルートに分岐するんですよ。

 母の記憶だと「私は娘を抱きしめた」になって、娘の記憶だと「母は私の首を絞めた」になる。たぶん母はここで「きっと祖母ならこうすることを望むに違いない」って考えて、自分は「娘を抱きしめた」と思っている。だけどおそらく実際には、娘に対する苛立ちと憎しみが、彼女の首へと手を伸ばさせている[図2]

図2:母のルミ子に首を絞められる娘・清佳(永野芽郁)
©2022 映画「母性」製作委員会

 このズレを引き起こしているのって、どこまで行ってもこの母は精神的には「理想の娘」のままで、それなのに肉体的には「成熟した母」になっている。しかも「娘」であることを認めてほしい義理の母からは受け入れられていない。そういった衝突というかコンフリクトが、この母親の認知を歪めてるんだと思うのね。

「大丈夫、怖くない」

 それから10年近い歳月が流れて、成人した娘は親元を離れて暮らしている。因業ババアは認知症ですっかりおとなしくなって、そんな因業ババアを「死んだ祖母の代わり」として世話する母は満たされている。ひどくいびつながらも、絶妙にバランスの取れた生活に落ち着くのね。

 そしてある日、娘が妊娠する。それを母親に電話で報告すると、母は「大丈夫。怖くない、怖くないのよ」って言うの。

 ここがね、私が「ひいっ」ってなって、近くの席の見知らぬ女がすんすん泣いてた、問題のシーンなのよ。いや、だって「ひいっ」じゃん、こんなの……。そもそも母と違って、娘は別に妊娠していることを怖がってない、まぁ内心まではわからないけど、少なくとも自分の母親にはそんな様子を見せてないのよ。それなのにこの母は「大丈夫。怖くない、怖くないのよ」って、つまりは自分が祖母から言われたことをそのまま言うの。

 結局、母は変わらず「理想の娘」を演じることに固執している。その一方で、娘は母を傷つけたことを涙ながらに謝った、つまり「母と娘」という本来の関係を再構築しようとした。そのときにこの母が「首を絞めた」のは、ある意味では祖母の理想を裏切って自分の娘と正面から向き合う、精神的な成熟への最後のチャンスでもあったわけです。そこで自分のやったことをちゃんと認識できていたら、もしかしたら「理想の娘」から「母」へと移行できたかもしれない。だけど、母親はその記憶を改ざんして「娘を抱きしめた」ことにしてしまって……「母(祖母)にとっての理想の娘」のままでいることをやめられなかった[図3]。あの「大丈夫、怖くない」っていうセリフで、それがまざまざと明かされるわけです。いや、あんたが怖いよ!

図3:娘の清佳を抱きしめるルミ子
©2022 映画「母性」製作委員会

 だけど、これは見ようによっては「母と娘は和解し、妊娠した娘に対してかつて自分が言われてうれしかったセリフを言う」っていう、感動シーンにもなりうるわけさ。すんすん泣いてた人は、きっとそっちの解釈なんだと思う。

 それでね、大人になった娘が友人と話してる最中に、こんなことを言うのよ。「女はどちらかなの……母か、娘か」って。

 たぶんだけど、あのすんすん泣いてた人は「娘」だったんじゃないかな? 大人(=母)から許されて、かわいがられて、優しい言葉をかけてもらえる。そのことがうれしくて、感動できる。もっと言うと「愛される」ことに喜びを見いだす人。

 そうなると、私は逆に「母」なんだな、って思うわけ。どんな母親も、かつては「娘」だったわけじゃない? ただどこかのタイミングで「母」になる。それは実際に子供を出産したとか年をとったとかじゃなくて、たぶん「(誰かの期待に応えて)愛される」ことを諦めた時点でそうなるのよ。そういう意味で私にとっては、いつまでも「理想の娘」ではいられないことを知るのが「母」になるってこと、つまりは「母性」なのね。だからこそ、いつまでも「理想の娘」でいようとする母親に「ひいっ」ってなっちゃうんだけど……そうじゃない人もいる。というか、近くの席にいたわ。

 あの半径3メートルの空間。私と知らない彼女の関係こそが、この『母性』という作品そのものだったんじゃないかと、そう思います。

 少なくとも映画館っていう「見知らぬ人と一緒に見る」環境じゃなかったら、ここまでこの作品を批評できたかはわからないな、と。いや〜映画(館)って、本当にいいものですね。

著者

すぱんくtheはにー Spank “the Honey”

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