※本記事は、すぱんくtheはにー「一週遅れの映画評:『映画 ゆるキャン△』バイクの光はすべて星。」を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。なお、映画『ゆるキャン△』(2022)の結末についての情報が含まれます。
文:すぱんくtheはにー
あのですね、一応こうやって毎週映画の話をするぞい! ってやってる以上、やっぱり作品を見る前には「かかってこいやぁ!」みたいな戦闘態勢になるわけですよ。120分一本勝負! チャージ3回、フリーエントリー、ノーオプションバトル! って感じで。
それなのに、それなのにですよ! いいですか、私は名古屋育ちで、しかも「バイカー」なんです。リンちゃんが上がってきた地下鉄桜通線丸の内駅の階段が「あそこじゃん、ちょっと行くとローソンあるほうの出口」って特定できるぐらいだし、「アラサー女がトライアンフ・スラクストン乗ってるのパネェな」ってのが、かなりリアルな質感を持って迫ってくるわけさ。
こんなもん弱点特攻すぎる、完全に防御力ゼロでどう戦えっていうのよ!
と、いう言い訳をしたところで本題入りまーす。
花火と富士山
えっとね、この作品全体を貫いているものが〈ずっとあるもの〉と〈なくなっちゃうもの〉の対比なんですよね。例えば冒頭、高校時代のキャンプのシーンで富士山をバックに花火が上がるじゃないですか。当然、花火っていうのは一瞬だけ美しく輝いて消えていくもので、それに対して富士山っていうのはまぁ、千年単位とかでそこにあるわけですよね。つまり、この冒頭のシーンでは〈なくなっちゃうもの〉としての花火と〈ずっとあるもの〉としての富士山が並んでいて、そういう緊張関係をはらんだまま、社会人になった5人の物語がスタートしていく。
それで、高校っていう狭い箱のなかで一緒にすごしていた5人だけど、気づけばみんなバラバラの場所で暮らしているのね。大垣千明が無理やり志摩リンに会いに来て飲んだのが3、4年ぶりとかで、きっと自分たちの関係は富士山みたいだと思っていたのに、もしかしたら花火なのかもしれねぇ……そしてこの日々もきっとそのうちなくなっちゃう、みたいな寂しさがそこにはあるわけですよ。
そこから大垣主導でキャンプ場をつくる計画が始まる。あのねぇ、たぶん寂しいのはみんな一緒なんですけど、それにいちばん自覚的なのが大垣なんですよね。リンは「自分はひとりでも大丈夫だし」って思い込んでるから寂しさに気づいてないし、イヌ子(犬山あおい)と斉藤恵那はいままさに失われようとしているのもの(勤務先の廃校、愛犬の寿命)が目の前にあるからその寂しさと混ざっちゃってる。各務原なでしこは毎日アパートのベランダから小さな富士山を眺めてるせいで、あの頃の関係も〈ずっとあるもの〉だと考えてるように見える。だから、一度東京へ行って地元に戻ってきた、戻ってきたら誰もいねぇ! みたいになった大垣だけが、その寂しさを自覚できるんです。
鳥かごのプラネタリウム
そうやってまたみんなで集まって、キャンプ場をつくることになって、その予定地に立ってる鉄骨の建造物をどうするか? って話になる。もともとそれは巨大な「鳥かご」で、いまでは金属製の骨組みが残ってるだけ。最初は「撤去するしかねぇなー」みたいな感じだったんだけど「そのまま残しておくのもいいんじゃない?」という方向に変わっていく。
この鳥かごって、要するに5人にとっての「学校」なんですよ。ここから出ていけば、もっと自由に遠くまで飛んでいけると思っていた。たしかに、卒業して大人になれば世界は広がっていくけれど、それは5人で同じ時間と空間を共有できていたこととトレードオフの関係になっている。というかそもそも、この鳥かごは網の目が粗かったせいで中の鳥が自由に出入りできて、実は最初から鳥かごの体をなしてなかったのよね。この設定って、学校の外で自由にキャンプを楽しんでたテレビシリーズの『ゆるキャン△』を明らかに意識してるわけで、すごくよく考えられてると思う。
にもかかわらず、このゆるゆるの鳥かご=学校があったから、5人は出会うことができた。一緒にキャンプをするようになって、そこに関係性が生まれた。じゃあこの鳥かごが失われてしまったら、自分たちのこの関係もいつかなくなっちゃうんじゃないの? たぶんこれが、映画『ゆるキャン△』のいちばん根本的なテーマなんですよね。
だからこそ映画では、この問いに対して「そうだけど、そうじゃねぇ」というのがちゃんと描かれるんですよ。その鳥かごの中から夜空を見上げると、田舎で明かりも少ないからめちゃくちゃ星が見える。それをリンは「プラネタリウムみたいだ」って言うんですよね。このセリフ、本物の星空を見ているはずなのに「プラネタリウム」って表現するのがすごく重要だと思うんですよ。
プラネタリウムって、言ってみれば人工の星空なわけです。それが本物の星空と大きく違うのは、そこに人間が介入できるってこと。具体的には「星座」を実線でなぞって表示できる、っていうのがいちばん大きいんじゃないかな。実際の星と星との距離なんて、それこそ何万光年も離れてたりする。だけど、プラネタリウムではそのあいだに線を引っ張って、星と星とを繫げることができるんですよね。
星って富士山なんかよりも〈ずっとあるもの〉なわけで、星座はそんな星同士を、物理的な距離を飛び越えて結びつける。これってつまり、鳥かごから解き放たれた彼女たちが、互いにどれだけ離れていても、それでもなお繫がり合える可能性を示してるんですよね。
ただ映画ではそこでもう一回、ちゃぶ台返しをされてしまう。キャンプ場予定地に縄文時代の遺跡が見つかっちゃって、計画が頓挫しそうになる。遺跡って要は、昔の人が生きていた痕跡なわけで、どれだけ頑張っても人間はいつか〈なくなっちゃうもの〉であることを暗示してる。自分がここにいたことを誰にも伝えられずに、土に埋もれていって、ただその痕跡だけが残る。それも、たまたま運良く(悪く?)見つかる程度の、儚いものとして。
「星座が繫がるみたいに、私たちも離れたって大丈夫だよね」をやったあとに「でもおまえが死んだら終わりじゃね?」みたいなメッセージを突き付けてくる。しかも、そのきっかけになった土器片を見つけたのは「リードを外された老犬」なわけですよ。繫がり(リード)を欠いた、死を間近に控えた存在……ちょっと出来すぎなくらい。
ここでリンの存在へと物語が回帰していくんです、もともとはソロ志向のめちゃくちゃ強いキャンパーだったリンへ。星座を描くためには、まずそこに星がないといけない。つまり、第一に「個(ソロ)」としての各々の存在があって、それらがあるからこそ特別な関係が生まれるんです。
「ソロ」による繫がり
リンが祖父から受け継いだトライアンフ・スラクストン、たぶん1200Rだと思うんだけど、これかなりパワフルな車体ながら、シングルシートなんですよ。えっとね、バイクって51cc以上からは2人乗りできるんですけど、排気量に加えてシートに2人乗り用の装備が必要なんです。これがないと2人乗りで車検通らないから「ひとり乗り専用」で登録するしかない。で、まぁ普通のバイクはその2人乗り用装備は標準で付いてるというか、手で摑めるベルトが1本あればいいので大した話でもないんですが、ただスラクストンは、ノーマルだと完全ひとり乗り仕様のシングルシートなので誰もうしろに乗せらんない。そういう意味でも、リンは徹底して「ソロ」の人なんですよね。
物語終盤、そのスラクストンに警告表示が出て走行できなくなる。それで、テレビシリーズで乗っていたヤマハ ビーノを出してくるんだけど、いま言ったように2人乗りができるのは51ccからなので、原付一種のビーノもやっぱりひとり乗り専用なわけです。
そのビーノでオープン初日のキャンプ場に向かって、看板を立て忘れたせいで道に迷っているお客さんを迎えにいく。前半のほうで言ったように、リンは「ひとりでも大丈夫だし」って意識がすごく強い。それはときに過度な責任感につながって、何でも自分でやろうとして徹夜仕事になっちゃうこともあるんですよね。だけど、ひとりでも大丈夫、ソロでも生きていけるっていう自己認識があるからこそ、道に迷ったお客さんと繫がって/繫げていくことができる。だからさっきも言ったように、まずは「個」があって、そしてそれぞれの「個」から放たれる輝きが星座を描くんですよ。そういう意味で、あくまでソロ志向のリンという存在が、むしろ繫がっていくための可能性の条件になっている。
これってつまり、テレビシリーズの「ソロキャンもみんなでのキャンプも、どっちもいいよね」っていう話から繫がってるんだけど、でもそれだけじゃない。学校を卒業してみんなばらばらになってしまった状態から、もう一度集まった彼女たち一人ひとりの「個」としての成長を示してるんだと思うんですよね。そこで最初からソロで輝いていたリンの存在が、実は彼女たち5人を繫げていたことを改めて認識させてくれる。
精神の継承
最後に「でもおまえが死んだら終わりじゃね?」問題に対しては、これもさっき言ったように、リンのスラクストンが祖父から受け継いだものだ、っていうのが重要なんです。ちなみに、このスラクストンはいわゆる「カフェレーサー」((公道レースを意識したバイクの設計/カスタム方針のひとつ。)) ってスタイルのバイクなのね。それで、実はリンの母親も若い頃バイクに乗っていて、それがテレビシリーズの『ゆるキャン△ SEASON2』(2021)第9話のエンドカードで出てくるんですけど、これがヤマハのSR(おそらくSR400の2型)っていう、まぁ最高といっても過言ではないバイク1 で、しかもそれが「カフェレーサー」カスタムなんですよ! つまり、祖父−娘と母親とで車種は違うけれど、いわば同じ “思想” を持ってるわけ。
ここには、関係性が水平に広がっていく「星座」とはまた別の、垂直に継承される「ソロの精神」みたいなものがある。そしてその象徴こそが、たったひとりで走るバイクなんですよ。
だから「でもおまえが死んだら終わりじゃね?」という問いには、このタテの「継承」が答えになるんです。人は誰しも〈なくなっちゃうもの〉だけど、それでも、他の誰かに引き継がれて繫がっていくものがある。たとえリンの母親のようにバイカーとしての過去を隠してたとしても、そんなことは問題じゃないくらいに。それはある意味では、縄文時代の遺跡が発見されて、展示施設がつくられることでもう一度、その存在を知られるのとも似ている。
これと同じことをキャンプの側からやろうとしてたのが、なでしこなんですよね。リンに教えてもらったキャンプの楽しさを、また別の誰かに伝えていく。キャンプ場をつくるっていうプロジェクトそのものが、たんにあの頃の水平な関係性を取り戻すだけじゃなくて、いまの彼女たちとは違う世代の人々に垂直に受け継いでもらう試みでもあるわけです。そういう意味で、たしかに「個」自体は〈なくなっちゃうもの〉だけど、それと同時に〈ずっとあるもの〉として、物質に託された精神や意志、楽しさの継承というかたちで応えている。
だからあれですよね、『ゆるキャン△』の半分はキャンプだけど、もう半分はバイクで出来てるんですよ!!!
びっくりするくらい、詭弁で、バイクを推す。BKB、ヒィーヤ。
でも「原付でどこまで行けるかな?」って企画はバイク関連メディアでコスられまくってるし、「世界一周できる」「富士山頂まで行ける」という答えがもうすでに出てる以上、それは普通にボツだと思うよ、リンちゃん。
著者
すぱんくtheはにー Spank “the Honey”
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脚註
- すぱちゃんはSRにずっと乗っていたため、かなり偏向しています。 [↩]