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n(えぬ)週遅れの映画評〈3〉『犬王』──どんな呪いにも、続きがある。|すぱんくtheはにー

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※本記事は、すぱんくtheはにー「一周遅れの映画評:『犬王』友有座には手を出すな!」を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。なお『犬王』(2022)の結末についての情報が含まれます。

文:すぱんくtheはにー

 もともと湯浅政明監督の作品が好きなんです、特に『ピンポン』(2014)と『DEVILMAN crybaby』(2018)が。どっちも激しいアクションシーンで身体が歪むじゃない、『ピンポン』だったら対ドラゴン戦でスマッシュした瞬間に「ぐぅん」って腕が不自然なほど伸びるし、『DEVILMAN』なんかはそもそも人間の姿から悪魔の姿へと変身するときとかに、明確な「歪む身体」が描かれている。そういうところが好きなんですよ。

エモーションの写実

 それで、なんで歪む身体が好きなのかっていうとね。「現実とフィクションとで同じくらいの強度の印象を与えるにはどうしたらいいか?」ってことを昔から考えてるんですけど、これはたしか伊集院光が言ってた喩えで、現実の野球の試合でバッターがホームラン性の長打を打ちました、そのままなら観客席に入ってホームランになるところを、外野の選手がフェンスを蹴って、三角跳びみたいなスーパープレーでボールをキャッチした。このとき私は「うわー! すっごいジャンプだー!」って思うわけですよね。

 で、それをマンガにしたとする。もちろん演出や描き方にもよるんだけど、マンガの中でフェンスを蹴って大ジャンプからのキャッチが決まったところで「わーすごいプレーだなー」とは思っても「うわー! すっごいジャンプだー!」にはなかなかならない。でもそこで、外野選手のふくらはぎがムキムキッとなって、ちょっと溜めてからのスーパージャンプ! 上空から中継していたヘリコプターのそばまで跳んでホームランボールをバシィッ!とかいってキャッチしたら「うわー! すっごいジャンプだー!」って思えるわけじゃん。まぁ『アストロ球団』的な世界観なんですけど[図1]

図1:『アストロ球団』(1972−76)より、「エモーションの写実」の例
©遠崎史朗・中島徳博

 現実で起こったらめちゃくちゃ凄いことなんだけど、フィクションの中だとそうでもない。それは現実だととても起こりえないようなことが、フィクションの中だと普通に起こりうるから。そういう非対称性に、見てるほうはどうしても影響を受けてしまう。

 そこで私は考えるわけですよ。つまり、現実に近い出来事(フェンスを蹴ってジャンプ)として描く「客観性」と、そこで喚起される情動(「すっごいジャンプだー!」)を描く「主観性」、そのどっちが正しいのか……? いや、どっちが正解でどっちが間違いとかではないので、ちゃんと言うなら「どっちが私にとって正しいのか?」、あるいはもっと単純に「どっちが好き?」ってことです、はい。

 ここで「写実性」っていう言葉をあえて使ってないのは、前者の客観的表現は「現象の写実」で、後者の主観的表現は「エモーションの写実」だと思ってるからなんですよね。つまり、どちらもその場で起きていることを正確に伝えようとはしている、ただそこで出来事を写し取ってるか、そのときの心の反応を写し取ってるかの違いだよ、という考え方。

 それでまぁ、最初に言ったように湯浅監督作品が好きで、そこで『ピンポン』を例に出してるあたり、私はその主観性の描き方というか「エモーションの写実」が好きなんですよ。これはなんというか、何かが起きたときそれを「起きた」と “認識” することで初めて私たちは見たり聞いたりできるんだから、エモーションが主で現象が従! という立場だからなんですけど。実際そこらへんの話は『アニクリ vol.6s』(2019)という同人誌に寄稿した論考 1 に書いたことがあります。

歪む身体

 それで『犬王』ね、犬王は最初から体が歪んでる。これをいまの話につなげるなら、犬王の身体はずっと私に何かを訴えかけ続けている。「歪む身体」っていうのはまさに内心を写し取ったもの、つまりは「エモーションの写実」そのものなんですよね。それは『DEVILMAN』でデーモンが本来の姿に変身することで、その内側に宿った欲望なりなんなりを表現しているのと同じだったりする。

 だから、作中では犬王のその体は呪いによるものとされながら、同時に平家の怨念が何かを伝えたいと願っている影響だとも言われるわけですよ。それは自分たちがたしかに「ここにいる」ことを……あ、ヤバい、我慢できない、だからあれですよね、彼らは平家の怨念がここにおんねんつってる……ほらもうこんなん絶対言いたくなるんだからw これ校正で削られるかどうかちょっと楽しみなんだけどw

管理人

重要な箇所なので強調しました!

 えっとなんだっけ、そうやって犬王の体には最初から「エモーションの写実」が宿っていて、その情動が昇華されることで歪みのない身体を取り戻していく。一方で友魚あるいは友一もしくは友有、彼は最終的に両の脚を砕かれ、両腕も切り落とされ、最後には首を刎ねられてしまう。そのとき画面では、河原の石に友有の怨念みたいのが取り憑いてカサカサと動き出す、それこそ物語の冒頭で出てきた平家蟹みたいに。

 このときの友有は将軍・足利義満の命によって、自分たちが拾い上げた新しい平家の歌を演奏することが禁じられている。つまりここで起きていることは、犬王がその歪んだ身体によって訴えていたことが満たされて、だんだん歪みがなくなっていくのとは反対に、友有は伝えたいこと・歌いたいことがあるのに許されない、だから手足を砕かれたり切断されたりして元の身体から歪んでいってしまう。

 犬王は最終的にすべての呪いを昇華して、最後に顔の歪みが消えた。でも友有は、そうやって自由に歌えないことの歪みがあらわになって、最後には首を刎ねられて顔を失ってしまうわけですよね。

 犬王も犬王で、友有のためと思って、新しい平家の歌では二度と舞わないことを約束してしまう。もちろんそれは不服で、だからあのラストシーンで犬王は、友有と初めて出会ったときの、ひどく歪んだ姿に戻っちゃってる。せっかく呪いを解いたのに、結局自分の好きなようには踊れなくなって、友有もいなくなって、あの歪んだ身体が回帰してくるわけ。そうやって互いに「あぁ歌いたい、伝えたい」という強い気持ちを持ち寄って、死後何百年もさまよい続けた後にようやく再会し、そこで2人楽しく奏で、踊る。肉体が滅びても、魂だけになっても、俺たちはここにいるぞ!って。

 これは決して完全無欠のハッピーエンドなんかじゃないけれど、でも悲劇でもないのですよ。犬王が猿楽能を身につけたのも、友有が琵琶法師になったのも、どちらも呪いが根底にあって、だけどそれは「伝えたい」という動機でもあるから、自分たちが真に素晴らしいと思える表現をすることができた。

 私は「人間として何か欠けてる方が創作者に向いてる」みたいなのは大嘘だと思ってるから、これを単純に「特別な呪い=ギフトがあったから」って解釈はしたくない。そうじゃなくて、人は誰しも何かを伝えたい、ひいては「自分はここにいるぞ!」って言いたいんだと思う。それは全人類が持ち合わせてる “呪い” で、完璧な肉体や精神を持って生まれてくる人なんてどこにもいない(そもそも「完璧な人間」なんて存在しない)のだから、誰もがちょっとずつ犬王なのだ──という「全人類、創作者」って話だと思いました。

 だから『ピンポン』『DEVILMAN』があって、さらに『映像研には手を出すな!』(2020)を経ての新しい湯浅監督作品として、『犬王』はきちんとその延長線上にある。誰もがみんなどうしようもなく歪んでいて、だから監督はきっとまた次の作品をつくるだろうし、私も書き続けるのだと思う。

著者

すぱんくtheはにー Spank “the Honey”

原稿依頼、いつでもお待ちしております。締切厳守、いつもにこにこ修正即応。なんでも書きます、なんでも。 ご連絡はツイッターのDMか、Eメールアドレス(spankpunk888アットマークgmail.com)までよろしくおねがいします。

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著者既刊

『あのすぱらしい愛は666:すぱんくtheはにー・2019年アーカイブ』(2020) ※18歳未満購入不可

すぱんくtheはにーが2019年に同人誌に寄稿した論考等のまとめ。『アニクリ vol.6s』所収の湯浅政明論「悪魔の囁きに耳を貸せ──変身と叫べ、我が身体」を再録。

関連リンク

脚註

  1. すぱんくtheはにー「悪魔の囁きに耳を貸せ──変身と叫べ、我が身体」、『アニクリ vol.6s アニメにおける線/湯浅政明監督総特集』、アニメクリティーク刊行会、2019年。[]

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